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こうはら本店

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

株式会社こうはら本店( - ほんてん)は、大阪府大阪市東住吉区に本店を置く昆布専門店。表記名称は『こうはら本店養宜館』。

天然酵母で仕込んだ塩昆布『舞昆』(まいこん)で知られる。

歴史

初代鴻原正一は、淡路島から15歳の時に丁稚奉公で修行し「こうはら本店」を創業した。

正一は、細川師氏を祖として遡ることができる。

室町幕府に淡路守護職として任命された細川師氏を開祖とし 平成元年以来屋号に「養宜館」を付けるようになった養宜館は暦応三年細川師氏が居城とした(1340年室町時代)

屋号に付している養宜館とは淡路島八木にあったお城「養宜屋形」のこと。

源の細川師氏(みなもとのほそかわもろうじ)は、足利尊氏が北朝方に味方し挙兵、室町幕府を開幕した際に手柄を立てた細川三兄弟の末っ子。

淡路島の守護職として祖細川師氏末裔は八代まで栄えた。

沼島水軍

師氏は淡路島の守護として、瀬戸内領域の海賊を次々を降参させ強力な水軍を組織した。 師氏の水軍の代表格は沼島水軍である。

沼島水軍は、室町時代以前は倭寇として瀬戸内の小島の海賊を組織した総大将がいた。

管領家細川

1379年(天授5年/康暦元年)、義満は反頼之派の守護大名である斯波義将や土岐頼康らに。

頼之に対して追討令が下るが翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰している。

罷免復帰のエピソード

室町幕府の管領家である細川頼之は義満の小さいときからの育ての親で口うるさい教育係であった。

義満は斯波義将や土岐頼康に邸を包囲され頼之の罷免を求められ、頼之は罷免された(康暦の政変)。

ところが政治が不安定になり、義満は頼之の暇を解いて復帰させることを考えた。

どすれば戻ってくれるか、思案した挙句、京より高松の居城まで義満自身が単身で迎えに行くのが誠意が伝わると考え、頼春を連れ戻しにゆく旅が始まった。

それを聞いた頼之は感激し、弟の淡路師氏の水軍に義満の瀬戸内海の渡航を護衛するよう指示した。

さっそく義満が海を渡ろううとしていた港に100艘の瀬戸内水軍を組織し、高松まで100艘の船で義満を取り囲み見つからないようほどほどの距離を保ちながら延々護衛をさせた。

高松がもうすぐ見えるやのところで、海賊船が近づき義満の船に火矢を放った。

頼之は待ちきれず師氏の水軍の船にのり、高松沖の海の上で、偶然にも義満が海賊に襲われているところに差し掛かり、義満を助ける形で涙の対面を果たした。

頼之には追討令が出ていたにもかかわらず、義満を助けた功労で京に復帰することができたのだが、大掛かりなお芝居と云われる。

交易

師氏は、海賊上がりの水軍を組織していたことから、政商としてアイヌと交易を通じて海産物を独占していた。アイヌの海産物交易の中でも特に乾物の昆布・ニシン・鮑を商材としていた。黒潮親潮を巧みに渡り北海道の交易を続け師氏の財政を支えていた。

アイヌに伝わる三角オールは、沼島水軍から伝わったものである。淡路島の高田屋嘉兵衛が、松前から択捉航路を発見したときに使っていたものである。もちろん沼島水軍の航海技術が花開かせた歴史の因縁である。

士族「師氏」は八代まで栄え、応仁の乱以降、姓を「鴻原」と改めた。

淡路守護細川家の没落

応仁の乱がはじまり淡路島は三好氏に攻められ、居城養宜館は焼き尽くされ、一族は討ち死にしたと歴史に記されている。応仁の乱は、細川三兄弟から150年を経て、末裔が兄弟喧嘩をした乱である。

6歳になった八代の千代丸は城をでて松林に逃げ込み乳母は樹木の腐った穴を見つけ、八代目を隠した。

乱以降、姓を改め「鴻原」と名乗り、海産物商として、昆布商初代鴻原正一が丁稚奉公のあと、独立し「こうはら本店」の創始となる。

昭和後期の大阪は、をぐら屋系列の汐吹き昆布とこうはら本店系列の椎茸昆布佃煮の塩昆布の2大昆布商が競い合っていた。

店舗

本社・田辺店
南田辺総本店
  • 大阪府大阪市東住吉区南田辺1-10-17
船場店
大正店
  • 大阪府大阪市大正区三軒家西1-26-6
天下茶屋店

関連項目

外部リンク

 
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