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アイヌ

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
Wikipedia画像へのリンク(平取町立二風谷アイヌ文化博物館の外の復元チセ(住宅)の写真。二風谷、北海道)
Wikipedia画像へのリンク(砂澤ビッキが1973年にデザインしたアイヌ民族旗。北海道の空の青を背景に、白い雪の大地と赤い矢の絵柄を象徴的に表現したもの)

アイヌ民族( - みんぞく)は、日本ロシアにまたがる北方先住民族で、歴史的には本州東北部から北海道千島列島樺太サハリン)を生活圏としていた。現代においては北海道を中心に関東ほか都市部で生活を営んでいる。ウタリはアイヌ語で同胞、仲間を意味し名称などで使用されるが、民族呼称ではない。

千島のアイヌは1875年樺太千島交換条約後、その殆どが当地を領有した日本政府によって色丹島へ強制移住させられた。樺太アイヌ(エンチュー)は第二次世界大戦後にその殆どが当地を占領したソビエト連邦政府によって強制的に退去させられた。彼らの一部は日本(網走等)に移住したが、現在も少数が樺太に住む。

歴史

文化

呼称

アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない。アイヌの社会では、アイヌという言葉は本当に行いの良い人にだけ使われた。丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言う。

これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、日本人(シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増えてきた17世紀末から18世紀初めにかけてだとされている。理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ/えみし)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ(アイヌ)」と呼ぶように求めたとされているが、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことである。

民族的出自

コーカソイド説

中世以降、日本人はアイヌを蝦夷、北海道を蝦夷地と称してきた。北方の民族からはクギなどと呼ばれてきた。朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあり、アイヌを東北地方以北の全土に住んでいた原日本人の一つとする説もある。これまで起源論や日本人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学医学言語学などからアプローチされてきたが、近年DNA解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきた。

しかし明治以来、アイヌは他のモンゴロイドに比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴を根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いと言う説が広く行き渡っていた時期があった。20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言える金田一京助も、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。アイヌ=縄文人近似説が主流になるまで、アイヌ=ヨーロッパ人近似説には日本の学会において強い影響力があった日独伊三国軍事同盟が締結された時もこの説はナチスによって利用された。すなわち「アイヌ人はアーリア人であり、日本人はアイヌ人の子孫である。だから日本人はアーリア人である」というのである(ナチス人種学者のハンス・ギュンターの説(アーリアン学説))。もちろん「アイヌ=ヨーロッパ人近似」説の全盛期においても、この説は「アイヌ=縄文人近似」説とは矛盾するものであり、片方が正しければ片方が間違っているという性質のものであり、その両説を併せた「日本人=アーリア人」説は、荒唐無稽以外の何ものでもない。。このような認識はまた、日本政府の様々な政策(同化政策、ロシア国境地帯からの強制移住など)にも色濃く反映された。

現在の学説

彼らの祖先は日本人の主体となっているいわゆる和人と同じように縄文人の一部を形成し、おおまかには続縄文文化擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったことが明らかになっている。しかし、その詳細な過程、縄文人集団から和人集団とアイヌ集団への分化過程については不明な点が多く、かろうじて各地の地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(マタギ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いことが推定されている。特に擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しい。

近年の遺伝子研究では日本人(大和アイヌ沖縄人)の遺伝子はほぼ同じで、北アジアを起源に持つことが明らかにされ、従来定説化されてきた縄文人(アイヌ含)を南方系・弥生人を北方系とする埴原和郎の「二重構造説」は否定されている根井正利ペンシルバニア州立大学教授「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993京都)にて日本人(アイヌ・沖縄人含)は約3万年前から北東アジアから渡来し、弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはほんのわずかな影響しか与えていない、という研究結果を出している。松本 秀雄 『日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く』

江戸時代には松前藩がおもにアイヌの人々と交易を行っていた。当時、アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していた。シサムは隣人という意味のアイヌ語で、シャモはその変化形の蔑称または「和人」のアイヌ読みともいわれる。

和人との混血

明治以降は和人との通婚も増え、アイヌの血を100%引いているわけではない人物も増えている。しかしながらそうした人々の中にも、著名なエカシの一人である浦川治造のように、アイヌ文化の保存と発展に尽力する者は少なくない。また浦河町の細川一人エカシは和人の両親から生まれた人物であるが幼少時に父親と死別し、その後エカシが14歳の時に母親がアイヌ族の男性と再婚した為にアイヌ文化を身につけたという珍しい存在であるさとうち藍『アイヌ式エコロジー生活:治造エカシに学ぶ、自然の知恵』小学館、2008年、130ページ

地理学

北海道、樺太、千島列島、北東北に住んでいた。

1897年のロシアの国勢調査ではアイヌ語を母語とする人間1,446人がロシア領に居住していたことがわかっているRussianRussian

1945年にロシアは日本に宣戦布告し、南樺太と千島列島を占拠、居住していたアイヌは本国である日本に送還された。1989年の東京在住ウタリ実態調査報告書では東京周辺だけでも北海道在住アイヌの一割を超えると推測されている。

北海道においては、アイヌ居留地などは存在しないが、北海道の平取町二風谷に多数が居住するほか、白老阿寒では観光名所としてコタンが存在。人口は23,000人ほどとなる。支庁別にみた場合胆振日高支庁に多い。

脚注

参考文献

  • 『アイヌ民族抵抗史』三一新書 1977年 ISBN 438072011X

関連項目

外部リンク

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