読み込み中...国籍を取得する上において、他のイタリア人と同じ言語を用い、同じ民族的価値観を有する事が有利であるのは事実であるが、必ずしも必要という訳ではない。困難ではあるが、そうした用件を満たさずとも国籍を取得し「国民としてのイタリア人」という立場を得る事は可能なのである(帰化)。
ただそうした間口の広さ故に、後述する「民族としてのイタリア人」からは外国人として排撃運動の対象にされる事も少なくない。
この場合の「イタリア人」は自らが「イタリア民族」に属していると自認する人々、つまり自らの民族的ルーツが「イタリア民族」にあると考える人々を指す。
後の世において同盟市戦争として知られるこの大反乱は、執政官ルキウス・ユリウス・カエサルがイタリア全居住者にローマ国籍を付与し、全イタリア人をローマ民族に統合する事で終息した。この戦いの後、目的を終えた「イタリア」は解体されるが、上述の全イタリア人への国籍付与によってそれまで都市民族の枠に留まっていたローマ民族はイタリア居住者全体を統合する地域民族へと発展を遂げ、以降、帝政ローマ後期にカラカラ帝が全ローマ領民へ国籍を付与し、地中海世界の居住者全てを統合・代表する世界民族へ更に発展するまでの長きに渡って「イタリア居住者を統合する民族」であり続けた。故に近世以降、イタリア・ナショナリズムが勃興すると、イタリアの民族主義者達は共和制中期から帝政中期まで(論者によってはアントニヌス勅令後も含む)ローマ民族が古代における実質的な「イタリア民族」であったと考え、ローマ文明に自民族の根源的ルーツを求めた者(ジュゼッペ・マッツィーニの青年イタリア党にもその端緒が伺える)が多かった。
上述のカラカラ帝による全領土住民への国籍付与によってローマ民族は地域民族から世界民族へと飛躍を遂げたが、それは同時にローマ民族が「イタリアの民族」という意味合いを大きく失う事を意味していた。更に統一ローマの分裂と、イタリア地方が属した西ローマ帝国の崩壊がそうしたイタリア居住者のアイデンティティの喪失に拍車を掛けた。
西ローマ崩壊後、ゲルマニア地方出身の諸民族(敢えて本項ではゲルマン民族とは呼称しない)が豊かな土地を求めてイタリア半島へ侵入を試みて来た。西ローマを滅ぼした傭兵隊長オドアケルを倒しイタリアを征服した東ゴート民族の王は、オドアケルの西ローマ皇帝位返還によってローマの統一帝としての地位を得ていた中世ローマ皇帝よりイタリア総督の地位を与えられ、東ゴート王国を開いた。この際入り込んできたゴート人の数は約30万程度と言われ、原住のイタリア居住者からすれば圧倒的に人数が少なかった事もあって権力基盤は弱く、東ゴートの王は「イタリア人の王(rex Italiae)」と名乗らず、単に「rex(王)」と名乗った。東ゴート人の統治が短命に終わった事あり、殆どのイタリア居住者は従来通りローマ民族に属していると考えていた。
中世ローマ帝国との戦争で滅んだ東ゴートに次いでイタリアを征服したのはランゴバルド民族であり、彼らはゴート人同様数十万人程度の数で原住者達に比べ圧倒的に数は少なかった為、積極的にローマ時代の文化や法律を吸収し、自らの言語を捨ててラテン語とイタリア語を用い、混血を奨励する事で自らローマ民族への同化を図った。結果、ゴート王国に比べ同民族による統治は安定し、フランク王国によってランゴバルド王国が滅ぼされるまで支配は続いた。
フランク王国による支配はランゴバルド王国に脅威を抱いたローマ教皇の要請によって、ランゴバルド王国が滅ぼされた後に始る。自らの庇護を求めたローマ教皇はカール大帝に独断で西ローマ帝位を与え(なお明らかな越権行為であるこの戴冠をローマ教皇は「西ローマ帝国はコンスタンティヌス帝の代に贖罪として教会に寄進された。故に戴冠権も教会にある」とした。しかしその証拠として提示されていたコンスタンティヌスの寄進状は現在では教会による偽書と判明している。)、これによってフランク・ローマ帝国の領土として統治される。フランクによる支配は各地方の有力者に爵位を与えての地方分権的な方法であった事、フランク帝国自身がローマ帝国の後継を自負した事などから、従来通りローマ民族に属すると考えるイタリア居住者が殆どであった。
フランク帝国が崩壊しイタリアが政治的空白に陥ると、北部は王位を争う貴族の領土が林立し、中部は教会の私有地と化し、南部は教会の後ろ盾を得たヴァイキングがアラブ人を追い払い王政国家が築かれた。これ以降、サルデーニャ王国による統一に至るまでの長きに渡って、多少の勢力変動は有りつつもイタリアは政治的分裂の渦中で彷徨い続ける事となり、イタリアに居住する人々も次第により小さな集団、即ち郷土愛に立脚した地方民族主義へと傾斜していった。