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クレオパトラ7世

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

クレオパトラ7世フィロパトル紀元前70年12月または紀元前69年1月紀元前30年8月12日)は、古代エジプトプトレマイオス朝最後の女王である。父はプトレマイオス12世アウレテス、母はクレオパトラ5世であり、兄弟はベレニケ4世(姉)、アルシノエ4世(妹)、プトレマイオス13世プトレマイオス14世(共に弟)が知られる。「クレオパトラ」の名はギリシャ語で「父の栄光」を意味する。

略歴

混乱と骨肉の争い

クレオパトラの誕生以前よりプトレマイオス朝は権力を巡る骨肉の争いが常態化しており、実際に紀元前55年(クレオパトラ14歳)には父(プトレマイオス12世)と姉(ベレニケ4世)が王位を巡って争い、ローマの支援も得て勝利した父王がベレニケを処刑したようにエジプト国内は安定には程遠い情勢であった。

紀元前51年、クレオパトラが18歳の時にプトレマイオス12世は死去したが、父王の遺言及びプトレマイオス朝の慣例に則って、兄弟で最も年長であったクレオパトラが弟・プトレマイオス13世と結婚し、共同で王位(ファラオ)に就いた。

弟王との共同統治は弟王の側近の介入もあって当初より齟齬が生じたことから、クレオパトラはグナエウス・ポンペイウスに協力を要請し、その見返りに、ユリウス・カエサルとの内戦の只中にあったポンペイウスに対し兵員及び食料を提供した。この際に小ポンペイウス情交関係を持ったプルタルコス「英雄伝」アントニウス伝

しかし紀元前48年の春、これらクレオパトラの動きに不信を募らせたプトレマイオス派はアレクサンドリア住民がクレオパトラに対して起した反乱に乗じてクーデターを実行し、クレオパトラをパレスティナへと追いやった。

カエサルとの出会い

Wikipedia画像へのリンク(絨毯の中からカエサルの前へ現れるクレオパトラ
ジャン=レオン=ジェローム 1866年)

紀元前48年9月、ポンペイウス追討のためエジプトへ入ったカエサルは、アレクサンドリアで両共同統治者を招集した。プルタルコスによると、クレオパトラは自らを寝具袋にくるませ、カエサルのもとへ贈り物として届けさせたという(なお、絨毯に包んで届けさせたと説明されることが多いが、歴史資料では確認できない)。こうしてクレオパトラはカエサルの愛人となったものの、この時点で、カエサルは両者の和解に尽力していた。カッシウス・ディオによると、プトレマイオスはクレオパトラがカエサルの愛人になったと知ると「怒り心頭に発し、王冠をはずし、地面に叩きつけた」といわれている。プトレマイオス13世側がカエサル軍を攻撃したので、カエサルはちょうど到着したローマの援軍によって、紀元前47年のナイルの戦いでプトレマイオス派を制圧し、プトレマイオスをナイル川に溺死させた。プトレマイオス13世と結託し、クレオパトラと敵対していたアルシノエ4世は、ローマ軍に捕らえられ、のちにカエサルの凱旋式で引き回されることになった。

プトレマイオス13世敗死後、クレオパトラ7世はもう一人の弟プトレマイオス14世と結婚して共同統治を再開した。紀元前47年、女王はカエサルの子カエサリオンをもうけたとされている(カエサル父親説については異論もある)。プトレマイオス14世との共同統治は、カエサルの後ろ盾を得て成立しており、実際には、クレオパトラ7世が単独で統治し、カエサルの傀儡であったとも言える。

紀元前46年、カエサルが10年間の独裁官に任命され、凱旋式を挙行したころ、クレオパトラ7世はカエサリオンをつれてローマを訪れた(アルシノエが市中を引き回されるのを見物したかもしれない)。クレオパトラ7世は、カエサルの庇護のもと目立たない形でローマに滞在していたが、紀元前44年カエサルが暗殺されると、カエサリオンを連れてエジプトに帰った。

カエサル死後

クレオパトラ7世は、嫡子のいないカエサルの後継者にカエサリオンを望んでいたと思われるが、カエサルは、庶子に当たるカエサリオンを後継者に指名しなかった。紀元前46年、既にカエサルは遠縁の養子ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスを後継者と定め、遺言書を遺していた。

クレオパトラ7世のエジプト帰国前後、名目上の共同統治者であったプトレマイオス14世が死亡すると(死因不明、クレオパトラによる毒殺説もある)、クレオパトラは、幼いカエサリオンを共同統治者に指名した(プトレマイオス15世)。

紀元前42年フィリッピの戦いでは、三頭政治側ではなく、マルクス・ユニウス・ブルートゥスら共和派を支援した。共和派が敗北したため、三頭政治側のマルクス・アントニウスはクレオパトラに出頭を命じた。これに対して、クレオパトラはアプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくって出頭した。逆にアントニウスを自らの宴席へ招待するなどして、瞬く間にアントニウスを魅惑したといわれるプルタルコス「英雄伝」アントニウス伝。アントニウスはエジプトに近接するシリアなどの東方地域に勢力を維持しており、クレオパトラと良い関係を作ることは、アントニウスにとって好都合であったことは事実である。

また、クレオパトラは、小アジアエフェソスにあるアルテミス神殿に聖域逃避していたアルシノエを、アントニウスに頼んで殺害させた。

その後、2人の間には紀元前39年に双子の男女のアレクサンドロス・ヘリオスと、クレオパトラ・セレネ紀元前36年には、もう一人の男の子プトレマイオス・フィラデルフォスが誕生した。エジプトと同盟したアントニウスはパルティア遠征で惨敗を喫したあと、政略結婚していたオクタウィアヌスの姉オクタウィアと離婚した。クレオパトラとアントニウスは結婚したのかもしれない。アントニウスは、再度東方遠征を試み、アルメニア遠征で勝利を収めたあと帰還して、エジプトのアレクサンドリアで凱旋式を挙行した。さらに、エジプトに埋葬されることを望むなど(アントニウスが書いたとされる遺言状をオクタウィアヌスが元老院で読みあげたもので、真偽は定かではない)、ローマを見捨てたかのように振舞うアントニウスにローマ市民は失望し、アントニウスとの決戦を望んでいたオクタウィアヌスを強く支持するようになった。最終的にオクタウィアヌスがアントニウスに宣戦布告したとき、それは私闘ではなく「ローマ対エジプト」の構図になっていた。

アクティウム海戦・自殺

Wikipedia画像へのリンク(クレオパトラの死
レジナルド・アーサー 1892年)

紀元前31年、クレオパトラ・アントニウス連合軍とオクタヴィアヌスが率いるローマ軍が、ギリシャ西岸のアクティウムで激突した(アクティウムの海戦)。この海戦の最中にクレオパトラ7世は戦場を離脱し、アントニウスもクレオパトラ7世の船を追って逃亡し、ともにアレキサンドリアへ戻った。結局、アントニウスの連合軍は敗北を喫した。アントニウスは部下を置き去りにし、女を追って戦場を後にしたと嘲笑された。

クレオパトラ死去の誤報に接したアントニウスは、自殺を図った。アントニウスは瀕死の状態でクレオパトラ7世のところにつれてこられ、息を引き取る。クレオパトラ7世自身はオクタヴィアヌスに屈することを拒み自殺した。贈答品のイチジクに忍ばせていたコブラに身体を噛ませて自殺したとも伝えられている。さすがのオクタヴィアヌスも彼女の「アントニウスと共に葬られたい」と言う遺言だけは聞き入れたようである。

エジプトを征服したオクタヴィアヌスは、紀元前30年、「カエサルの後継者」となる可能性があるカエサリオンを殺害してプトレマイオス朝を滅ぼし、エジプトをローマに編入して、皇帝直轄地(アエギュプトゥス)とした。ちなみにクレオパトラがアントニウスともうけていた他の子供達はアントニウスの前妻であるオクタウィアに預けられた。

人物

  • 歴史家プルタルコスは、クレオパトラ7世を、複数の外国語(メディア語エチオピア語シリア語パルティア語アラビア語ヘブライ語など)に通じた、知的な女性と伝えている。ちなみに、容貌については「彼女の美貌そのものはけっして比類なき者ではなく、見る人をはっとさせるものでもないと言われていた」と評している。彼女は魅力的であったが、それは雰囲気や優雅で穏やかな話し方によるものであったと言われる。美の基準は人、地域、時代などによって異なるので注意が必要だが、少なくともプルタルコスの評価では、絶世の美女ではなかったようだ。冒頭に掲げられている女王の頭像(ベルリン博物館蔵)はこの事実を裏書していると思われる。
  • キケロティトゥス・ポンポニウス・アッティクスへの書簡(紀元前44年6月付)の中でクレオパトラについて「女王は嫌いだ、こんな連中と関りたくない」と記した。ローマ市民のクレオパトラへの印象が窺える文章といえる。
  • フランス哲学者ブレーズ・パスカルによれば、クレオパトラ7世がその美貌と色香でカエサルやアントニウスを翻弄したとして、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら(※正確には、短かったら 参照)歴史が変わっていた」と評した。ただし、これは誤解に基づくものである。(最も、パスカルはこの話を単に例えとして記述しているに過ぎない。「人間とは、またその存在が紡ぎ出す歴史とは、何か少しを変えてしまうだけで何もかもが変わってしまう。それほど、それらは絶対的指針を持たぬ流動的で儚いものなのだ」という思想を体現する形で、『クレオパトラの鼻の例え』が用いられた。)
  • パスカルに限らず、後世の多くの人から世界で最も美しい女性であったと認識されている人物である(ハリウッド映画などでも名うての美人女優が演じる役と決まっている)。そのため、「実は美人ではなかった」という見解が、たびたび研究者によって発表されている。近年も、イギリスのBBCニュースで話題になったBBCニュース
  • 映画や挿絵などでエジプト人のような姿で描かれることがあるが、プトレマイオス朝はギリシア人の家系であり、クレオパトラもギリシア人風の姿である事が多かったようである。むろん、エジプトの女王であった事から、エジプト風の格好をすることもあったようである。同時代のクレオパトラの肖像としては、ギリシア風の巻き毛スタイルと、エジプト風のオカッパスタイルの、両方が残っている。なお、オカッパスタイルの髪型は、カツラであると思われる(古来エジプト人は髪を短く切っていたため、女性のオカッパの長髪はカツラによるものである)。

クレオパトラが登場する作品

実写映画

小説

 曲 

  • D.ベルッティ「クレオパトラの変貌と死」(マンドリンオーケストラ)

戯曲

舞台

漫画・アニメ

コンピュータゲーム

脚注

参考

  • プルタルコス 『英雄伝』
  • クリスティアン=ジョルジュ・シュエンツェル 『クレオパトラ』 白水社
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