読み込み中...グレート・ゲーム(英語:The Great Game)は、中央アジアの覇権を巡る大英帝国とロシア帝国の敵対関係と戦略的抗争を指す。アーサー・コノリーが命名した言葉といわれる。この言葉は後にイギリスの作家ラドヤード・キップリングの小説キムにより広く使われるようになった。
狭義のグレート・ゲームはアフガニスタンを巡る英露抗争を指す概念で、一進一退の経緯を辿った19世紀のアフガニスタン争奪をチェスに見立て、イギリス人好みのフィクションとして仕立てたもので、実際の英露抗争は極東においてより激しく争われた点を意図的に無視した空論であり、これをして国家間抗争の実態を理解しようとするのは、血液型占いの如き似非学問であるところのマハンが唱えた海洋国家・大陸国家論で地政学を論じるのと同レベルの愚考である。
広義のグレート・ゲームは、英・露(ソ)に加えて日・米・中や多数の周辺諸国がプレーヤーとして参加しており、途中からは米ソ両超大国の争いへ継承され、現代においても多数のプレーヤーが参加するという経緯を辿った諸国間の抗争を指す概念である。
第?期のグレート・ゲームは、一般にほぼ1813年から1907年の英露協商までの期間を指し、狭義のグレート・ゲームは専らこの時期の英露によるアフガニスタンを巡る抗争に限定して定義している。 広義のグレート・ゲームにおいては、この時期の英露抗争は中央アジアからインド洋を目指すロシアの南下と、インドの征服事業を進めたイギリスとの間で争奪ポイントとなったアフガニスタンにおいてと、香港・上海に拠点を得て海上から中国を侵食したイギリスと、シベリアに鉄道を敷設して満洲から中国を侵食し始めたロシアとの競争が、中国・朝鮮・日本といった現地の各勢力を巻き込んで争われた極東においての二地点で進行したと規定する。 3番目の抗争地点として、中央アジア・新疆(東トルキスタン)・モンゴル経由でチベットを目指したロシアと、ネパールを駒としてチベットに侵攻したイギリスの間で抗争が発生する気配があったが、チベット自体の利用価値が低くイギリスはそれ以上の関与を放棄し、英露協商においてチベットへの清国の宗主権を英露が尊重する事で抗争は終結した。その後の1913年にロシア勢力下で清国からの独立を目指したモンゴルとチベットの間で蒙蔵条約が締結されたが、ロシア・ソ連ともに中国との関係をより重視していたため、それ以上のチベットへの関与は為されず、第?期になるとソ連は中国のチベット再征服を支援した。第?期の抗争が頂点に達したのは日露戦争であり、この戦争はロシアの国内体制を動揺させて革命を惹起し、双方は英露協商によってゲームを一時中断した。
第?期のグレート・ゲームは、狭義のグレート・ゲームにおいては1917年の2番目のロシア革命から第二次世界大戦の勃発による英露協調までと規定するが、広義のグレート・ゲームにおいては、1917年のロシア革命からベトナム戦争の終結までの長い期間を規定しており、第二次大戦を挟んでイギリスがプレーヤーを降りて米国がその座を占めた。
ロシアがソ連に変わり、中央アジアではそれほど激しい抗争が発生しない時期が続いたが、極東においては英国の地位簒奪を狙う米国の介入と、当初はイギリスが用意した駒に過ぎなかった日本が勝手に暴走し始めた事によって、激しい変動が続いた。
ゲームの駒からプレーヤーになった日本にとって、英国の衰退が決定的となる1930年代まで、グレート・ゲームは外交政策策定における大前提だったが、その思考を固定化してしまったために、ソ連の出現と米国の台頭により複雑になってゆく状況に適合できないまま、東南アジアの英領植民地奪取という“反則行為”によって、英国がゲームを続けられなくなるきっかけを作ってしまい、日本自らはイギリスに替わってゲームに参加した米国によって“出場停止”処分となってしまった。
また、この時期は帝国主義という商法が終焉を迎えた時期、および米ソ超大国の抗争の時期と重なり、中国・朝鮮・東南アジア・南アジアで激戦が続いた。
第?期・第?期のゲームは、狭義のグレート・ゲームを都合よく引用した評論家から新グレート・ゲームと呼ばれていた時期があった。特に一部の大衆メディアはアフガニスタンの多国籍軍とターリバーンとの戦いが、狭義のグレート・ゲームの継承と主張しているが、低レベルな欧米人の読者を喜ばせるために、米国を正義とし介入を正当化する単純な善悪二元の視点にアフガニスタンの状況を矮小化するための方便として、狭義のグレート・ゲーム概念を無理やり当て嵌めているに過ぎず、まともな考証には値しない。
19世紀初めにイギリス領インド帝国と、帝政ロシアの外延部を隔てる境界線が2000マイルにわたって引かれていた。その多くは地図上に引かれたものではなかった。ブハラ、ヒヴァ、メルブ遺跡、タシュケントという都市は、事実上外部からはどちらのものか分からなかった。帝政ロシアの拡張は、インド亜大陸を占領し優勢を誇るイギリスと衝突する脅威になったので、中央アジア全体で両大帝国は探検、情報活動、帝国主義的外交の微妙なゲームを行った。紛争は常に脅威となったが、両国が直接戦争を行うことにならなかった。この活動の中心はアフガニスタンにあった。
イギリスは、ロシアの拡張が大英帝国の「王冠の宝石」と呼ばれていたイギリス領インド帝国を破壊する脅威になると恐れていた。ツァーリの軍が、あるハーンの領地を侵略し始めたので、イギリスはアフガニスタンがロシアのインド侵攻の拠点になることを恐れた。1838年にイギリスは第一次アングロ・アフガニスタン戦争を始め、シュジャー・シャーの下で傀儡政権を打ち立てようとした。しかし、その統治期間は短命に終わり、英軍の支援が無ければ続かなかった。1842年までに暴徒がカーブルの通りでイギリス人を襲撃していて、イギリスの駐屯部隊は、通行の安全を保証されてカーブルからの撤退に同意した。イギリスには不幸なことに、この保証は反故にされた。撤退するイギリス軍の縦隊は、約4500人の軍人と女性や子供を含めて12000人がいた。非情な攻撃の連続で、数十人を除いて全員が、インドへの撤退中に殺害された。
イギリスはカーブルからの屈辱的な撤退の後、アフガニスタンへの野心を抑えていた。1857年のインド大反乱の後、イギリスの政権はいずれもアフガニスタンを緩衝国と見なしていた。しかし、ロシアは1865年までにアフガニスタンに向けて着実に南進を続け、タシュケントが正式に併合された。サマルカンドは3年後にロシア帝国領になり、ブハラの独立は、事実上同年の平和条約で失われた。ロシアの支配は、今やアムダリヤ川の北岸まで拡大していた。ロシアが1878年にカーブルに在外公館を置いたことで再び緊張が高まった。イギリスはアフガニスタンを統治するシール・アリーが、イギリスの在外公館を受け入れるよう要求した。公館は設置できず、その報復として4万の軍が国境に送られ、第二次アングロ・アフガニスタン戦争が始まった。この第二次戦争はイギリスにとって殆ど第一次の戦争と同じく悲惨なものであった。シール・アリーの打倒には成功したものの、各地で部族の反乱が相次ぎ、損害が拡大した。
イギリスは1879年、王への即位の条件としてムハマッド・ヤアクーブにガンダマスク条約を結ばせ、アフガニスタンを保護国化した。次いで即位したアブドゥッラフマーン・ハーンにもこれを認めさせると、イギリスは1881年までにカーブルから撤退した。ハーンは自分の地位を強化する一方でイギリスにアフガニスタンの外交政策を維持させることを了承した。何とか非情な手法で国内の暴徒を鎮圧し、中央集権に移行させることができた。
1884年、ロシアのアムダリヤ川北部、メルブ遺跡のオアシスへの侵攻に起因して、新たな危機が生じた。ロシアは全部嘗ての支配者の領域だと主張し、Panjdehのオアシスを巡ってアフガニスタンと戦った。両強国の戦争の瀬戸際でイギリスはロシアが領有することを受け入れることを決定した。アフガニスタンの頭越しに英露国境画定委員会は双方が譲歩して更に領域を手に入れることは放棄したが、Panjdehの問題は残った。アフガニスタンは広大な領域特にPanjdeh周辺を失ってアムダリヤ川を北の国境線とする合意が形成された。
一方、極東ではイギリスの撒いた種が着実に成長していた。イギリスは中国への進出のついでに、かつてイギリス東インド会社を通商から締め出し、ライバルのオランダ東インド会社に欧州との交易を独占させた徳川幕府が支配する日本を、中国同様の強圧的手段で言いなりにできると考えていた。しかし、この考えが間違っていた事にイギリスは間もなく気付かされる。きっかけは大名行列を横切ったイギリス人達が惨殺された生麦事件だった。その報復のために差し向けた7隻の軍艦が薩英戦争で予想外の大損害を受けたのだった。
これ以降、フランスに傾斜する幕府にかわる友好勢力としてイギリスは薩摩藩に新鋭兵器を提供し、徳川幕府を転覆させる事に成功する。この関係は薩摩藩とその友藩が日本の支配権を確立すると一層深まり、イギリスは極東の日本に近代海軍を建設する大事業に関与して行く。しかし海軍、それもロシアの有する海軍(イギリスの基準からすれば“沿岸警備隊”程度だったとはいえ...)と拮抗できるだけの海軍を、日本に自力で保有させるには、近代的な鉱工業と造船技術に加え、最低でも数十年の外洋での経験が必要だと思われた。
イギリスの目的は、1880年頃に計画され始めたシベリア鉄道が完成を迎える20世紀までに、この鉄道が軍事的空白地帯である満洲と朝鮮に流し込むであろう大量の兵士と軍需物資を、日本が撃退できるだけの戦力を準備させる事にあった。
日本の新しい政府を構成した武士達は、もともとが攘夷論を信奉していたのであり、その目的を達成するために世界でも例を見ない急速な欧化政策と欧州崇拝ともいうべき信仰に取り憑かれていた。強固な国防体制を築く事だけを政治的目標とし、そのために民生を犠牲にしても構わなかったし、驚くべき事に国民もそれを支持していた。
イギリスが彼らに協力する事で、その方向をロシアとの対決に誘導するのは簡単な事だった。なによりロシアから見れば、日本の近代的軍備はロシアとの一戦のために準備されているようにしか見えないのだから、ロシアの取り得る選択肢は日本を懐柔するか、まだ貧弱な軍備しか持たない内に叩くか、そのどちらかしかない。
イギリスにとって幸いだったのは、日本人が欧州諸国から最良の相手を選んで学ぶ賢明さを有していた事で、1865年に幕府がロシアに派遣した留学生は公式に失敗だったと見なされるなど、多くの点で欧州の中で後進的地位にあったロシアから日本人が積極的になにかを学びたいと望む事はなく、ロシアが日本に与えられる餌は何もなかった。
日本が最初に行った軍事的冒険は、朝鮮の宗主権を巡っての清朝最強の軍である北洋軍・北洋艦隊への挑戦だった。既に日本陸軍は台湾・朝鮮に小規模な出兵を繰り返しており、イギリスが育成した日本海軍は北洋艦隊を首尾よく黄海に葬って見せ、戦費に相当する賠償金と台湾島を清国からせしめた。この戦争でイギリスが日本に対して行った支援は、治外法権を撤廃した日英通商航海条約の締結だけだった。
かくして英露間のゲームに、曲がりなりにも独立国である清国と属領と認識されていた満洲・朝鮮を巡る、新興国家である日本の生死をかけた戦い、という新しい盤面とプレーヤーが加わった。
しかし、西太后の強権統治で緩慢な死を迎えつつあった清国が、断末魔のような北清事変で重要な主権の多くを喪失すると、満洲の覇権は北清事変で火事場泥棒のように振舞ったロシア軍に握られ、日本が清国から得ていた朝鮮での優位性は風前の灯となった。
ロシアを強気にさせていたのは1901年に開通したシベリア鉄道と露清密約であり、ロシアは日本に対して外交的な無条件降伏を迫っていた。日本がロシアに屈すれば、その次に来るのは長城線を越えたコサック騎兵達が、北京・天津を一蹴し、イギリスが握る上海まで一挙に南下して来る、という展開であろう。熊は獲物を前にしても、動くと決めるまでは慎重だが、動き始めるとその動きは素早く、相当の犠牲を払わなければ止められない。その事は、ゲームの相手であるイギリスが一番良く理解していた。
ここでイギリスが日本に与えた支援は再び条約だけであった。イギリスも植民地経済が産み出す富の限界にぶつかり、一方で近代戦の質的変化により気軽に手を出した南アでの征服戦争で国庫が傾くほどの支出を強いられるようになった事態に、世界帝国という商法の黄昏を感じ取っていた。実際のところ既にイギリスは、世界規模でのゲーム当事者としては体力の限界を迎えつつあり、その座を虎視眈々と狙っているのが新大陸の灰色熊だった。
しかし、日本はイギリスが栄光ある孤立を放棄してまで極東の小国に与えてくれた日英同盟を、国を挙げての悲願だった“列強”の座に加えてもらえる招待状と考え、自ら膨大な額の外債を発行し、ロシアとの戦争準備を独力で進めた。そしてこの債権を大量に引き受けたのは、旧大陸での“大熊 vs 猿”の戦争を大衆紙の扇情的な報道でエンタテイメントとして楽しんでいた米国社会だった。
ロシアにはアジア人全体に対する予断(中央アジアでの経験則)があった。開戦前に日本の軍事力を視察したロシア軍の将官達は、本国に対して適切な警告を送っていたが、ロシア政府にも軍にも、そのような急速な軍事的発展を遂げる“アジア人”国家の存在が信じられなかった。
一方の日本には、旅順要塞の防御力への予断(日清戦争での成功体験)があった。ロシアは旅順にセヴァストポリ並みの要塞を建設し、他ならぬイギリス人がボーア戦争で陣地防衛用に使用した機関銃と鉄条網を、ロシア人らしい嗅覚で導入していたが、日本軍にはこれを突破できる装備も知識もなかった。
ロシアは欧州の国家として初めてアジア人の国家に敗れるという屈辱を味わったが、犠牲は最小限に喰い止められた。しかし、このショックがロシアの対外進出への積極性を失わせた。
萎縮したロシアが選択した1907年の英露協商は、ペルシア・アフガニスタン・チベットにおける英露の角逐を終了させ、第?期グレート・ゲームの終焉をもたらした。
ロシアはイギリスがアフガニスタンの体制を変更しないと保証する限り、イギリスが統治することを受け入れた。ロシアはアフガニスタンとの全ての政治関係が、イギリスを通じて構築されることに合意した。イギリスは現行の国境を維持し、アフガニスタンにロシア領域に侵攻させないよう積極的に行動することを受け入れた。
極東におけるロシアの勢力拡張は、すでに日本によって頓挫させられており、その関心は既にバルカン半島へ向けられており、イギリスにとって危険な敵は、欧州においてイギリスと軍拡競争を続け、オスマン帝国と結んで中東への進出を図るドイツ帝国であり、ロシア・フランスとの協調には、より多くの利益が見出されていた。
新たに発足したボルシェヴィキ政権は既存の協定・債務を全て無効と宣言したばかりか、テロで英国王ジョージ5世の従兄弟であるニコライ2世の一家を皆殺しにし、外務委員となったトロツキーがロシア外務省に保存されていた機密文書の束を調べ上げ、共有されていた外交上の秘密を、修飾していたプロトコルを知性の刃で剥ぎ落としながら遠慮の無い毒舌に塗して暴露し始めた。
このような異質な敵の出現はイギリス人にとってセポイの乱以来“文明”の普及で久しく味わう事のなかった恐怖であり、しかも敵は未開の野蛮国ではなく、理性と科学に基づいて革命を指導したと主張しているタタール人とユダヤ人のコンビに支配された欧州の大国だった。
その結果、第?期のグレート・ゲームが始まった。1919年の第三次イギリス・アフガニスタン戦争は、時の支配者ハビブッラー・ハーン暗殺により勃発した。息子で王位継承者のアマーヌッラー・ハーンは、完全な独立を宣言し、イギリス領インド帝国の北の国境を攻撃した。軍事的な成果は殆どなかったが、膠着状態は1919年のラワルピンディ協定で決着できた。アフガニスタンは再び自主的な外交ができるようになった。1921年5月、アフガニスタンとロシア・ソビエト連邦社会主義共和国は、友好条約に調印した。ソ連はアマヌッラーに現金、技術、軍備の形で援助を与えた。アフガニスタンにおけるイギリスの影響は衰えたが、アフガニスタンとロシアの関係は、多くのアフガニスタン人が、メルブ遺跡やPanjdehの編入を願いながら、曖昧なままだった。ソ連はこの点についてはアマヌッラーの考えるよりも多くを友好条約から引き出そうとしていた。
イギリスは、アマーヌッラーが自分達の影響範囲を逸脱することを恐れ、そしてアフガニスタン政府の政策がデュラン線の両側でパシュトゥン語を話す人々全てを支配しようとしていると考え、この条約に応答する形で小規模な制裁を課し、外交上の侮蔑を行った。1923年、アマーヌッラーはその称号をアミールからパドシャー(王)と変え、さらにソ連から逃亡したムスリムと英領インドから亡命したインド人民族主義者を受け入れることで、イギリスに応えた。
しかし、アマヌッラーの改革計画は、迅速に十分軍を強化するには不十分で、1928年に圧力を受けて退位し、王位を継承した兄イナーヤトゥッラー・シャーも3日で退位した。この危機から台頭したのは、ムハンマド・ナーディル国王であり、1929年から1933年まで統治した。ソ連とイギリスは、優勢に状況を進めたが、イギリスがアフガニスタンに4万人の職業軍人による軍を創設する一方で、それは1930年から1931年にウズベク人の暴徒と合意を図るよう援助した。
第二次世界大戦が始まるとイギリスとソ連の関係は一時的に提携関係が見られた。1940年両政府はアフガニスタンに、ドイツの非外交組織を追い出すよう圧力をかけ、そうした団体は、両国の情報組織により壊滅した。初めのうちは抵抗を受けた。ソ連とイギリスが協力する時代に入ると、両強国間のグレート・ゲームは終わりを迎えた。
カンボジアを巡る抗争は国連の介入によって1992年に終結したが、アフガンを巡る抗争は、ゲームの負担でソ連が崩壊して、プレーヤーがロシアと独立した中央アジア諸国へ細分化したおかげで盤面が変わってしまい、ゲームの“駒”であったところのイスラム原理主義とパシュトゥン人の結合、各民族の重武装化と軍閥化によって“ゲーム”として単純化できる世界ではなくなってしまった事もあり、一時的にゲームは“強制終了”させられた。
2001年の911事件を契機とする米国の直接介入によって、再建されたアフガニスタン政権と、一度は崩壊しながらも復活を目指すタリバン勢力(旧アフガニスタン・イスラーム首長国)、対テロ戦争の名目で参加させられたNATO諸国、日米同盟の証として再参加させられた日本などが加わって、第?期のゲームが開始されているが、こちらは現在進行形である。
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