読み込み中...ケ号作戦(ケごうさくせん)は第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)2月1日から7日にかけて行われた、日本軍のガダルカナル島撤退作戦。作戦名の由来は捲土重来による。作戦は3回に分けて行われ、沈没艦は駆逐艦1隻のみで日本軍の撤退は成功した。撤退により救出された日本軍は1万名余りだったが、ラバウルやブーゲンビル島の兵站施設に収容された後、栄養失調からの回復治療中に過食などにより命を落とすものも多かった。
なお、キスカ島からの撤退作戦もケ号作戦(作戦名の由来は乾坤一擲より)というが、これについてはキスカ島撤退作戦を参照。1942年(昭和17年)8月7日の連合軍上陸から5ヶ月を経過し2度の総攻撃を行ったもののヘンダーソン飛行場基地の奪回は成らず、糧秣弾薬の補給が輸送船の沈没や駆逐艦の大量消耗により継続できなくなり、日本軍は同年12月31日の異例の御前会議でガダルカナル島からの撤退を決めた。撤退は翌1943年(昭和18年)2月に行われることとなったが、これを隠すため航空攻撃や物資輸送は続けられた。そのため、米軍は日本軍の撤退作戦完了後も、撤退の事実を知らず逆にガダルカナル島への新たな日本軍増強のための駆逐艦輸送と考えていた。
またこの撤退に際しての企画は、以下のようなものであった。
こうした一連の動きにより、アメリカ軍に対し再び日本軍によるガ島総攻撃があると思わせるのが 日本軍の意図であった。
1942年(昭和17年)12月11日のドラム缶輸送の失敗から駆逐艦による輸送を中止していた。しかし、撤退までの軍の消耗を防ぎ、体力を回復させるために翌年1月2日よりドラム缶輸送を再開した。また1月14日から3回に渡り増援部隊を揚陸させた。さらに12月9日から中止していた潜水艦による輸送も12月26日より再開し、ほぼ毎晩行われた。
同時にコロンバンガラ、ムンダ、レカタ、パラレ、ショートランド、ブカの各地に増援部隊を輸送、ムンダ等の各地の飛行場整備を急いだ。
もし駆逐艦による撤退が不成功に終わった場合には大発によってラッセル諸島まで移動し、そこから駆逐艦で撤退することが考えられた。また逆にアメリカ軍の占領を防ぎ、増援に見せかける意図もあった。そこで1月28日に時津風、黒潮、白雪の3隻を警戒隊、また浦風、浜風、江風の3隻を輸送隊として陸軍約300名、高射機銃小隊28名をラッセル諸島へ輸送した。途中航空機の攻撃を受けたが零戦の直援もあり、艦艇に大きな被害はなく輸送は成功した。
基地航空隊は1月15日からガダルカナル島への夜間攻撃を強化を企画、天候が回復した19日より撤収作戦終了までほぼ連夜に渡りガダルカナル島飛行場の爆撃を行った。またポートモレスビーとラビへの夜間爆撃も同時に実施した。1月25日からは航空機撃滅のために零戦54機などをガダルカナル島上空へ派遣したが敵の反撃が少なく、期待した成果は上がらなかった。
1月15日に利根、伊8、802空、東通、4通、6通をもって東方牽制隊を編成、利根は1月25日よりカントン島西に進出し偽電を発信、同様の作戦を2月3日からも行った。伊8潜は1月23日、1月31日にカントン島を夜間砲撃した。また802空はカントン島方面で哨戒任務を行った。通信部隊は偽電を発信したと思われるが記録が無く不明。これらにより日本軍が攻勢をかけると思わせるような工作を行った。成果は不明。
また支援隊(熊野、鳥海、川内)がカビエンに警戒停泊していたが、両隊とも戦闘参加の機会は無く終わった。
アメリカ軍は日本海軍駆逐艦20隻に対しF4F戦闘機17機、SBD17機、TBF7機を発進させたが1隻(巻波)を航行不能とさせるに留まった。また改造駆逐艦が機雷300個を敷設、この機雷に巻雲が触雷した。また魚雷艇11隻を出勤させたが2隻が砲撃により沈没、1隻が爆撃により沈没、他に座礁で1隻を喪失し日本軍の行動を阻止できなかった。
3回の撤収により海軍832名、陸軍12,198名、合計1万名以上の兵員を収容した。それに対し損害は駆逐艦1隻沈没、3隻の損傷のみであった。日本側は駆逐艦の損失を参加艦艇の1/4、損傷1/4、収容人数は約半分を想定していたが予想以上の成果を収めた。
アメリカ軍は日本軍が増強をしていると判断していた。8日朝に舟艇が放棄されているのが発見され、初めて撤退の事実に気が付いた。
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