読み込み中...ゲルハルト・ベルガー(Gerhard Berger、1959年8月27日 - )は、オーストリア(チロル州ヴェルグル(Wörgl))出身の元F1ドライバー。血液型はRh-O型。「ゲーハート・バーガー」等と表記されることもある。
明るい性格で知られ、多くの友人を持つ。友人が少ないことで知られていたアイルトン・セナとも最大の親友とされる。
通算10勝はF1の通史で見れば多い方の数字であるが、超一流のドライバーと比較すれば劣る。しかしその多くが記憶に残る状況で挙げられたことから、「記録よりも記憶に残るドライバー」としてよく名前が挙がる。かつては「Rの付く月にしか勝てないドライバー」などの異名もあった。
また、ベルガーの通算210戦グランプリ出走は2008年末現在、ルーベンス・バリチェロ、リカルド・パトレーゼ、ミハエル・シューマッハ、デビッド・クルサード、ジャンカルロ・フィジケラについで歴代6位の記録である。
現役時代はプレイボーイとしても知られ、女性のファンも多かった。
チロル地方出身で、学生時代はオーストリアのアルペンスキー強化選手としても活躍した。
「F1でドライブした中で最低のマシン」と評している。
1986年にはこれまたBMWエンジンを積むベネトンに移籍し、メキシコGPでタイヤ無交換作戦が当たり初優勝。これはベネトンチームにとってもF1における初優勝であった。この時、多くの他チームが使用していたグッドイヤータイヤは磨耗が激しく複数回の交換を余儀なくされたため、他のドライバーがそのロスタイムで大きく遅れを取ったのに対し、ベネトンが使用していたピレリタイヤは磨耗が少なくタイヤ無交換が可能だったという点もベルガーには幸いした。
1987年にはフェラーリに移籍。結果的にエンツォ・フェラーリの存命中にフェラーリに加入した最後のドライバーとなった。実績あるエースのミケーレ・アルボレートに伍して戦い、次第に新エースの評価を高める。とりわけ、ホンダの地元鈴鹿サーキットでの初開催となった日本GPで、ポール・トゥ・ウィンを飾るなど、終盤戦2連勝。低迷していたフェラーリ復活の旗手として期待された。
翌1988年はマクラーレン・ホンダがシーズン16戦15勝と圧倒的な強さを見せる中、マクラーレンが唯一落としたイタリアGPを制して一矢を報いる。このGPはエンツォ・フェラーリが死去してすぐのいわば「弔い合戦」であり、トップを快走していたセナが終盤に周回遅れのジャン=ルイ・シュレッサー(このGPだけのナイジェル・マンセルの代役)と接触してリタイヤし、最後の最後でチームメイトのアルボレートとワンツーフィニッシュを飾るという一際記憶に残る勝利となった。この年、誕生日に何が欲しいとジャーナリストに聞かれ、「ホンダエンジン」と答えた。
1989年も引き続きフェラーリに在籍するが、サンマリノGPのレース中、高速コーナーのタンブレロ(後にセナもこのコーナーでクラッシュし死亡する)においてトラブルのためクラッシュしマシンが炎上。しかしコースマーシャルの迅速な消火作業により、ベルガーは顔や手に火傷を負いながらも奇跡的に生還した。この年はこれを含め、参戦した15戦中12回のリタイヤだったが、完走した3戦ではすべて表彰台にのぼり、ポルトガルGPでは優勝を果たした。しかし、チーム内の主導権をナイジェル・マンセルに奪われ、フェラーリとの関係に一旦ピリオドを打つことになった。 この炎上事故が発生したことで、燃料タンクの搭載位置に関するレギュレーションが変更された。
1990年にはアラン・プロストと入れ替わる形でマクラーレンに移籍。移籍初戦でポールポジションを獲得してみせたが、決勝ではペダルに足が挟まってクラッシュし、リタイア。その後も時折速さを見せるものの、小柄なセナにあわせて作られたマシンに苦しみ続け、この年は5年ぶりに未勝利に終わる。
1991年もマクラーレンに在籍するが、この年から実践投入したホンダV12エンジンのトラブルが、ベルガー車に偏って多発。セナの1回に対し7回のリタイア、そのうち6回はエンジントラブルという内容だった。ベルガーのエンジンばかりが壊れた一説としては、「エンジンがオーバーレブに弱かったのでは」という、「セナと比較すると、ベルガーはオーバーレブが多い」ということに注目したものもある。またベルガーはセナに比べマシンのエンジニアリング面に対する関心が薄く、きちんとエンジニアの説明を聞いていないことが多かったことも影響していたのではないかという意見もある(一例として、1992年にホンダがミスファイアリングシステムを実戦投入した際、ベルガーは事前に説明を受けていたにも関わらず「エンジンがミスファイアしている。これは故障に違いない」と主張して同システムをオフにさせたことが挙げられる)。
第15戦日本GPでは予選で1分34秒700を叩き出してポールポジションを獲得(このレコードは2001年にミハエル・シューマッハによって破られるまで10年あまり鈴鹿サーキットのコースレコードだった)。決勝では終盤エキゾーストパイプが割れるトラブルがあったもののポール・トゥー・ウィンを飾り、ようやく移籍後の初勝利を挙げる。しかしこれは最終ラップの最終コーナーで、チャンピオンを決めたセナが露骨に譲るという結果によるものであり、メディアやファンの間では賛否両論を生んだ。両ドライバーとオーナーのロン・デニスの3名も、決勝後には夜まで激論を交わしたという。
この件に関して、プライドの高いベルガー本人は不快感を示しており、後に「(セナの急激なペースダウンを見て)トラブルが発生したと思っていたが、もし最後に先行させようとしていると分かっていたら、自分もアクセルを踏むのをやめていただろう」と語ったこともある。ドライバー間では、レース前に「序盤にトップに立った者が優勝する」という約束が取り交わされていたが、レース中にセナが一度ベルガーを抜いて突き放し、最後に再び前に出した経緯が、問題を複雑化させる結果となった。
1992年には、ウィリアムズが圧倒的な強さを見せ、ベルガーはセナともども不本意なシーズンを送ることとなったが、そんな中でも第7戦カナダGP、最終戦オーストラリアGPで優勝。特にオーストラリアGPでの優勝は、「第2期ホンダ最後のレースでの優勝」として注目された。このレースでは、終盤に燃費の関係で大きくペースを落とす羽目になり、ゴール時には2位のシューマッハがすぐ背後にまで迫っている状態であった。
1993年には、低迷期にあえぐフェラーリに4年ぶりに復帰。1年目は特筆すべき成績は残せなかったが、チーム再建に尽力する。
翌1994年は悪夢の年となる。サンマリノGPの土曜日に同郷のローランド・ラッツェンバーガー、続いて決勝日ではかつての僚友セナが相次いでコース上のアクシデントにより事故死する惨事が立て続けに起きた。ベルガーにとっては、片や同胞、片や無二の親友を同時に失うという、まさに暗黒の週末となる。2週間後のモナコGPではやはり同郷のカール・ヴェンドリンガーがクラッシュにより重傷を負ってしまう。度重なるアクシデントによりF1界は大いに動揺し、ベルガー自身も精神的ショックから引退が噂された。
だが、ベルガーはここで立ち上がり、それまで有名無実化していたドライバーによる組合GPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション)を復活させ、その会長として、安全面についてFIAとの間にドライバー側からも積極的に話し合いを持つことを提唱、半ば立ちすくんでいたかに見えたF1界に毅然として今後の道筋を説き実践した。
このようにこの年はコース外での活動が人々の耳目を集め、コース上では目立つことも少なかったが、ドイツGPでは快走を見せ、低迷していたフェラーリに4年ぶりの優勝をもたらし、フェラーリを2度復活させた男として再び人々の記憶に刻まれることとなる(この年以降、フェラーリは毎年必ず1勝以上しており、2008年現在も継続中)。
1995年は開幕戦ブラジルGPでは、一旦1位のシューマッハと2位のデビッド・クルサードが失格とされ、3位に入ったベルガーが優勝とされたが、その後取り消し。結局この年は未勝利に終わった。
シーズン終了後、当時フェラーリでチームメイトだったジャン・アレジと二人一緒にベネトンに移籍。この時ベネトンからミハエル・シューマッハが入れ替わりでフェラーリに移籍したため「2対1の交換トレード」として話題になった。
ベネトンに移った1996年は「シューマッハ・スペシャル」と呼ばれるマシン特性に苦労し、シーズン序盤から調子が上がらず、ようやくベルガーが表彰台に立ったのはイギリスGPであった。ドイツGPでは最終盤までレースをリードするが、残り3周というところでエンジンブローが起きリタイア(この時、レースを制したのは3年前にやはり同じく残り3周というところでドイツGPを落としたことのあるデイモン・ヒルだった)。結局この年はこのレースがハイライトとなる。
翌1997年、慢性蓄膿症のためカナダGPから3戦を欠場。この間、父親を飛行機の墜落事故で亡くすなどの不幸が重なったこともあり、引退がささやかれる中で復帰戦ドイツGPに臨んだ。このレースでベルガーはポールポジション、ファステストラップ、そして優勝を全て独占する完勝劇を演じてみせ、関係者とファンを驚嘆と感動の渦に包んだ。一方、1987年を最後に途絶えていた地元オーストリアGPの開催に尽力・10年ぶりにオーストリアGPの開催にこぎつけるものの、このレースでベネトンはマシンバランスに苦しみ、ベルガーも10位完走が精一杯であった。
結局、この年のドイツGPが最後の優勝ということとなり、同年のシーズン終了間際にF1からの引退を発表。この際、本人は「休養」と表現した。
ドライバー引退後は1999年からBMWのF1参戦にモータースポーツディレクターとして関与し、エンジン供給先のウィリアムズとの仲介役を務めた。2003年9月に家業である運送会社(ベルガー運送)の再建を手伝うためとして同職を辞任。
2006年2月、自身が所有する運送会社の株式50%をレッドブル社に譲渡し、合弁会社を設立。これにあわせ、F1チームのスクーデリア・トロ・ロッソの株式50%をレッドブル社との交換により取得し、共同オーナーとなる。それと同時に、レッドブル・レーシングも含め、レッドブルのF1活動全般についてのアドバイザーという形で、再びF1の世界に戻った。2008年11月25日にベルガーが所有するトロ・ロッソの株式をディートリッヒ・マテシッツに売却することを発表した。それに伴うベルガーの去就は未定。
ベルガーの速さの魅力として、高速コーナーでの天性のスピード感覚が挙げられる。これはチ−ムメイトのセナも認めた部分であり、実際にメキシコのロドリゲス・サーキット、イタリアのモンツァ、ドイツのホッケンハイムなどの高速コースで勝利を飾っている。反面、低速コースはやや苦手にしており、一時期「多角形コーナリング」にトライしたこともあったが、その効果は実証される程ではなかった。F1ドライバーともなると、一度クラッシュしたコーナーであっても次にトライする際には同じスピードで突入できるといわれるが、ベルガーの場合はそのコーナーでもう一度クラッシュした上、ヘラヘラとピットへ帰って来るという度胸の良さも持ち合わせていた。もちろんトップレベルの実力者ではあったが、コンスタントに速さを発揮できるタイプではなかった。
また、マクラーレン移籍時には自身の長身がハンディとなった。セナに合わせて作られたコクピットはベルガーには狭すぎ、移籍初戦のアメリカGPでは2位走行中ペダルに足が挟まり単独クラッシュしている。
また、勝てる位置につけながらミスや不運で逸したレースが幾度かあり、1987年のポルトガルGPではトップ走行中に単独スピンし、プロストに当時の通算最多勝新記録更新(28勝)を贈っている(スピンの原因については、後方から接近するプロストのプレッシャーに屈したとの見方があるが、本人は特にコメントしていない)。1990年のカナダGPでは、マクラーレン移籍後初の快走を見せトップでチェッカーを受けたもののフライングが発覚・決勝タイムに1分加算されるペナルティを受け優勝を逃した。同年の日本GPでは、セナとプロストがスタート直後の第1コーナーで絡んで両者リタイアした後、次の周の1〜2コーナーで、単独スピンコースアウトしリタイヤ。ベルガーは、ピットに帰らず、ホテルに直帰したという。地元レースとなるホンダ陣営は、スタート後わずか数分でレースを終える羽目になった。1995年のイタリアGPでは、同僚アレジの背後に着けワンツー走行中、アレジ車から落下した車載カメラが直撃してリタイアという信じられない出来事もあった。
F1の組織化・商業化が進み、ドライバーの没個性が嘆かれる時代に、かつての大らかなレーサー気質を受け継いだ存在として、その悪ガキぶりは(女性関係者からの不評を別とすれば)チームやメディア関係者に愛され大目に見られていた。
読み込み中...