読み込み中...ゲルマン人(ゲルマンじん、German)は、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンジナビア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ系を祖先としインド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派に属する言語を話す諸集団(≠民族)の事を指す。
ゲルマン人という用語を広めたのはユリウス・カエサルであると考えられているが、カエサルはこの言葉を「ゲルマニアに居住する非ケルト系の民族」「ガリア北東部に住む系統不明の民族集団」という二つの定義で用いた。後者の定義による集団は今日でもケルトかゲルマンか判然とせず、また前者の定義はゲルマニアにはゲルマン系だけでなく、ケルト系の民族も存在していた事を示している。このような複雑な経緯から、ゲルマニアに住んでいた諸民族の系統については現在も考古学の分野で議論が続けられている。
因みに今日的な狭義としてドイツ人(オーストリア人、ドイツ語圏スイス人をふくめる)の意で用いることもある。ゲルマン人の一分派であるイングランド人が英語でドイツをGermanyと呼ぶのはこの狭義解釈に基づいているが、前述の通り必ずしも実態に見合っている訳ではない。
元来はローマ帝国によるゲルマニア地方に居住する諸部族に対する他称である。彼ら自身は、同じコーカソイド人種に属し、用いる言葉(ゲルマン語派)や文化面において一定の共通性が存在したものの、同時代のスラヴ人やケルト人と同様ゲルマン人としての同族意識を持つ民族共同体を形成していたわけではない。後述する通りアングロ・サクソン人やゴート人という部族名こそがいわゆる民族名であり)、ゲルマン人というのはそれらゲルマニア地方出身の諸民族を総称する際に用いられた用語に過ぎなかった。しかしナチス時代にドイツ古代の時点で「ゲルマン民族」という統一された民族共同体が存在していたという説が盛んに宣伝されるようになりナチスの人種政策の根幹を成した。詳細はアーリアン学説、ドイツナショナリズムを参照のこと。
元々は言語面の類似性による区分けに過ぎなかったインド・ヨーロッパ語族を、ドイツ人学者のマックス・ミュラーが同属意識を持つ民族共同体であると主張した事に始る。ミュラーは己の考えるその民族に、インド・ヨーロッパ語族の一派でイラン高原とインド亜大陸に侵入し、諸文明を築いたとされる集団の自称「アーリア」(「高貴な者」の意)の名を冠してアーリア人と名付けた。
上述のドイツナショナリズム勃興期の指導者達は自民族の優等性を主張する一環として、インド・ヨーロッパ語族に属する諸民族の中で最も優秀なゲルマン民族こそがアーリア人であり、従ってゲルマン人の正統な末裔たる自分達こそが名乗るにふさわしい民族名であると唱えた。こうした「ゲルマン人=アーリア人」的思想の影響を受けた者はゲルマン人をアーリア人と呼称したが、それを客観的に証明する根拠は乏しく、またアーリアン学説そのものの信憑性を疑われている今日では殆ど死に絶えた概念と言える。
「ゲルマン系」ないし「ゲルマン人」とは民族的な概念であるため、直接的に生物学的な特徴は関連しない。しかしながらナチスドイツの政策などの例があるように人種と民族はしばしば混同され(また実際には人種という概念も幾分か宗教などの文化的偏見を含んでいる)、ゲルマン人の場合は所謂「北方人種の白人」と結び付けられる。しかし「ゲルマニア」と呼ばれた土地のうち、中部・南部ドイツはむしろアルプス人種や東ヨーロッパ人種などの影響が指摘されていて、遺伝子的にも北欧よりイタリアやフランス、スペインなど南欧との親和性が強い。反面、北部ドイツの住人は北欧人と近く、特にバルト海に面する地域は極めて近似しているが、内陸部ではやはり東ヨーロッパとの近隣性は無視できない。
ドイツのアドルフ・ヒトラーはこうしたドイツ居住者の人種的な差を東欧からの移民や、東欧への殖民(東方十字軍)によって形成されたプロイセン帝国によるドイツ統一など、スラブ系諸民族への敵愾心(当然ながらスラブ系と東ヨーロッパ人種などとの因果関係も余り存在しない)と結びつけていた。彼は自著で度々三十年戦争による人口激減によってスラブ系移民が入り込み、それでゲルマン・北方系の血筋が穢れたという主旨の発言をしており、「ドイツ民族の血統を改良する」事を目的に北方人種と思われる他国人を次々とドイツ領内に移住させるという奇妙な政策を行っていた。民族主義の観点からいえばむしろ侮蔑的な行為であるが、人種と民族を同一視していたナチスにとっては正統な理屈であった。
外見上のステレオタイプ的なイメージとしては、長身、金髪、青色の目、白色の肌、角ばった頬、毛深い等が想像されることが多い。いわゆる北方人種という概念はこうしたイメージに合致する人々を指したものだが、必ずしも「ゲルマン系」とされる地域全てが含まれている訳ではない。
古来からの様々なイメージからゲルマニア出身者は金髪を持つ者が多いと言われているが、黒髪や茶髪も多いと言われている(コーカソイドの項を参考)。これは同じく金髪が多いと言われるスラヴ人と同様であり、一種のステレオタイプともいえる。
生物学的にも「ゲルマン人」の本拠と言える北欧やバルト海沿岸部を除けば、それ以外の地域(ゲルマニアも含まれる)は基本的に後から移民した経緯を持つ為、異なった含有率を有している。またそもそも人種と民族は異なる概念の為、ゲルマン系の文化を持つかどうかと外見が関係するとは考えられていない。
その存在は古くは古代ローマ時代のガリア戦記・ゲルマニアに著されている。ゲルマン人は傭兵や同盟兵としてラテン人の古代ローマと関係を持ったが、ケルト人とは違い一定の距離を保ちローマと同化しなかったとされる。古代末期にローマが衰退するとゲルマン人達は大移動を繰り返し欧州各地に進出、現在のゲルマン系民族の伝播に寄与し、中世ヨーロッパ世界の形成に影響を与えた。
言語により東ゲルマン、北ゲルマン、西ゲルマンの三つに分類される。東ゲルマン語はすでに死滅している。→ ゲルマン語派参照。しかしこうした分類は近年の事であり、昔は全く異なる分類がなされている。
古代ギリシャ時代にはゲルマンという概念はそもそも存在せず、スキタイ諸族とケルト諸族に大別されていた。後のローマ時代には概ねオーデル・ヴィストゥラ諸族、ライン諸族、エルベ諸族、ジュトランド・デニッシュ諸族の四つに分類された。オーデル・ヴィストゥラ諸族は今日、東方ゲルマンと呼ばれるグループに相当し、残りの三族が西方ゲルマンと呼ばれるもので、移住せずにスカンジナビアに残った人々を北方ゲルマンとしている。またタキトゥスはバルト海沿岸部の諸民族が共通した文化を持つスエビ諸族であると主張したが、タキトゥスは「スエビ」が具体的にどのような共通文化を持つのか明言しておらず、実際に文化の連続性があったのか疑問が持たれている。歴史学者のアーサー・ポメロイは「(タキトゥスが)スエビとした複数の集団には全く共通性がない訳ではないが、それ以上に文化や言語で明確に異なる部分がある」と指摘しており、現代の歴史学および考古学ではバルト海沿岸部の住人は複数の民族に分かれるとする見解が一般的である。
古代から中世への過渡期には多数の蛮族がそれまで未開とされていた地域からローマへと侵入を開始した為、ローマ側の混乱や蛮族側の離合集散の中で一層に分類は乱れた。今日では明確に東方系の民族とされているアラン人がゲルマン人とされていた事がこれを物語っている。
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