読み込み中...ゲンリフ・グリゴリエヴィチ・ヤゴーダ(ゲーンリフ・グリゴーリエヴィチ・ヤゴーダ;ロシア語:ギェーンリフ・グリゴーリイェヴィチュ・イゴーダ、1891年 - 1938年3月15日)はソビエト連邦の政治家。1934年から1936年まで内務人民委員部長(NKVD)。国家保安総委員(1937年1月に予備役編入)。彼はスターリンの命令無しに動く事はけっして無く、「コウモリ」とあだ名されていた。
なお、姓は日本語文献内ではヤゴダあるいはヤーゴダと書かれることもあるが、ヤーゴダは誤った転写である。また、名前に関してもドイツ語を意識してゲンリヒと書かれることがあるが、ロシア語に沿った表記ではゲンリフとなる。
ヤゴーダは1891年、ロシア帝国の支配下にあったポーランドのウッジにユダヤ人薬剤師の息子として生まれる。彼も薬剤師として働いていたが、1907年には15歳にしてボリシェビキに所属。1911年、モスクワに上京したが、1912年に逮捕されシンビルスクに追放。1913年、「統計問題」誌で働き、1914年にイーデ・アヴェルバフと結婚。第一次世界大戦時、第5軍団第20狙撃連隊所属で出征、前線で負傷。
1917年、ロシア革命が勃発するとボリシェヴィキ党のペトログラード軍事委員となり、「ソルダーツカヤ・プラウダ」(兵士のプラウダ)紙の発行に携わり、十月革命に参加、その後、「クレスチヤンスカヤ・ベドノター」(貧農)紙の編集長を務め、1918年〜1919年、労農赤軍最高軍事監察局総務局。
1920年からレーニンの創設した秘密警察チェーカーに所属し、その長官であったヴャチェスラフ・メンジンスキーの片腕として、グラーグ(ГУЛАГ;Главное управление лагерейの略称。収容所総局)の監督にあたり、次第に頭角を現す。
1934年7月、フェリックス・ジェルジンスキーとメンジンスキーの不可解な死後(公式には二人とも心臓性疾患とされる)、チェーカーの後継機関のGPUと統合した内務人民委員部の初代長官に就任する。スターリンの大粛清の執行者は、賭博と漁色にふける退廃的な悪徳の持ち主として名高い。
殺人に熟練した人物と見做され、前任者であるメンジンスキーの毒殺と、大粛清の契機となった1934年のセルゲイ・キーロフ暗殺事件に関与したとも言われる。1936年、ヤゴーダは大粛清の第一段階を指揮しスターリン反対派の摘発に当たった。
しかし、その取調べや拷問が生ぬるく、古参ボルシェヴィキを相手には“共犯者”の“自白”もままならなかったため、なかなか粛清を拡大させることができず、次第にスターリンに失望されていった。そして1936年9月、ヤゴーダ自身もニコライ・エジョフに取って代わられ内務人民委員を解任され、通信人民委員に左遷される。
1937年3月の中央委員会総会中にヤゴーダは後任のエジョフからソビエト全土の秘密警察の仕事ぶりを調査するよう依頼され、部下と共に列車で目的地まで護送される予定であった。しかし、彼らは次の停車駅で列車に乗り込んできたNKVDに逮捕された。過酷な尋問が行われヤゴーダは「ドイツのスパイ行為」を働いたと自白した。1938年3月13日、ブハーリン・ルイコフらとともに第三次モスクワ裁判にかけられ、反逆や共謀など21件について有罪となり、15日に処刑された。死の直前、彼は「この世に神は存在する」と述べたと言われている。ヤゴーダの家族も全員が逮捕され処刑された。大粛清の例に漏れず、彼の下で働いていた秘密警察の職員など彼と関わりがあったとされる者も全員粛清された。
ちなみに、ヤゴーダは名誉回復されていない。
「チェーカー・GPU名誉職員」記章2個、赤旗勲章2個、労働赤旗勲章、レーニン勲章を受章。
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