読み込み中...コンスタンティン・フォン・ノイラート(Konstantin Hermann Karl Freiherr von Neurath 、1873年2月2日 - 1956年8月14日)は、ドイツの外交官、政治家。男爵。ドイツ外相(1932年-1938年)、ベーメン・メーレン保護領総督 (1939年-1941年)を歴任した。第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判で戦争犯罪人として懲役15年の判決を受けた。
ヴュルテンベルク王国の荘園領主の出身。チュービンゲン大学とベルリン大学で法学を学び博士号を取得。故郷ヴュルテンベルクの法務官僚となるが、1901年に外務省へ入省。同年結婚して二児をもうける。駐ロンドン大使館副領事、駐イスタンブール大使館参事官として奉職する。この間1916年に第一次世界大戦に予備役将校として従軍し、鉄十字勲章を受章。1917年から翌年までヴュルテンベルク王ヴィルヘルム2世に仕え、宮宰の称号を得た。
戦後外務省に復し、デンマーク公使、イタリア大使を歴任。イタリア大使在任中にベニート・ムッソリーニのファシズムに感銘を受けている。1930年に駐英大使に就任。貴族出身のノイラートはヒンデンブルク大統領のお気に入りで、1929年にグスタフ・シュトレーゼマン外相が急死したときはその後任に取りざたされたが、議会の支持を得られず沙汰やみとなった。1932年に「男爵内閣」と呼ばれたフランツ・フォン・パーペン内閣で外務大臣に就任、続くクルト・フォン・シュライヒャー内閣、更にはアドルフ・ヒトラー内閣でも留任し、1933年の国際連盟脱退や1935年の英独海軍協定締結・ラインラント進駐に外交面から関わる。
貴族出身かつ国際的知名度の高かったノイラートは、実務経験の乏しいヒトラー内閣に威信を与える役割を担っていたが、次第にヒトラーの私的外交顧問であるヨアヒム・フォン・リッベントロップが頭角を現し、1936年頃からノイラートの外交活動は制限を受けるようになった。1937年にはナチスに入党した。だがその後ヒトラーの戦争計画に反対し、1938年2月4日に外相を解任。無任所大臣として閣内に留まったものの、外交政策は後任の外相であるリッベントロップが取り仕切り完全に蚊帳の外に置かれてしまった。
翌1939年にベーメン・メーレン保護領総督に就任し、第二次世界大戦中はチェコ人のレジスタンス鎮圧などにあたったが、次第に副総督のラインハルト・ハイドリッヒに実権を奪われ、1943年に辞職した。同時に名誉親衛隊大将の階級を与えられた。
終戦時にフランス軍に逮捕され、ニュルンベルク裁判で戦犯として起訴された。平和に対する罪、侵略戦争の企図、戦争犯罪、人道に対する罪といった罪状で禁錮15年の判決を受け、シュパンダウ戦犯刑務所に服役するが、1953年に健康面での悪化に伴い仮釈放される。しかし、その3年後に隠棲先の故郷で心臓発作のため死去した。
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