読み込み中...ゴート族(ゴート語:14px14px14px14px14px14px、独語:Gothe(またはGoteとも)と呼ぶ)は、ゲルマン系の民族で、東ゲルマン系に分類されるドイツ平原の古民族。バルト海南部から黒海沿岸部に移動した後、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」によってイタリア半島やイベリア半島に王国を築いた。ローマ帝国の軍勢と戦い、壊滅的打撃を与えたこともある精強な軍を持った民族である。また、ゲルマン系のなかでは早くからローマ帝国の文化を取り入れて独自のルーン文字を残したほか、ローマ軍に傭兵として雇われるなど、後期のローマ帝国の歴史において大きな役割を担った。
ゴートに纏わる言葉として、ルネサンス時代に野蛮なという意味で用いられ始めた「ゴシック(ゴート風の)」がある。また、スウェーデンの地名にはゴートが訛った「イェーテボリ」(Göteborg)がある。なおスウェーデンでは、ゴート族(ヴァンダル族を含む)がヨーロッパ、アジア、アフリカを支配したという伝承があり、スウェーデン人がゴート族の末裔であると言う、「ゴート起源説」が、16世紀(1555年)に唱えられ、17世紀のスウェーデンによるドイツ三十年戦争介入の動機となった。550年頃に、アリウス派僧侶でゴート人の歴史家であるヨルダネスが、東ゴート王国の学者カシオドロスの著書を要約して著した史書『ゴート人の事跡(De rebus Geticis)』によれば、ゴート族はスカンディナヴィア島スカンディナヴィア半島は10世紀まで島であると考えられていた。スカンディナヴィア南部は、特にゴートランド(イェータランド)と呼ばれる。を発祥とする民族で、ベーリヒ王の治世にバルト海を渡り、当時ルギ族が住んでいたビスワ川一帯に到達。その土地をゴティスカンツァ(現ポーランドのグダニスク)と呼び、ヴァンダル族を平定したと記述されているJordanes『De rebus Geticis』?.25-26。 。
ゴート族の起原は19世紀から議論されているが、ヨルダネスの伝えるスカンディナヴィア起原については否定的な説が提唱されている。スカンディナヴィア南部はゴートランド(イェータランド)と呼ばれてはいるが、スカンディナヴィア半島でゴート族と結びつけられる痕跡は、ゴート族を含むゲルマン系民族がポーランド一帯に遺したストーンサークルと類似するものがスカンディナヴィアで発掘されているという程度にすぎないストーンサークルは、ヴィェルバルク文化初期(B1b期・1世紀中期)の墓地では形成されておらず、2世紀初期(B2期)から一定期間にのみ認められる。スカンディナヴィアでストーンサークルが発生したのであれば、初期の段階から認められなければ矛盾が生じる。P.ヘーサー『The Goths』p25。。また、クラウディオス・プトレマイオスが著した『ゲオグラフィア』によれば、スカンディナヴィアにゴート族の名称によく似るゴータイ(Goutai)が住むことが確認されるが、『ゲオグラフィア』に記載されている彼らの居留域とストーンサークルの分布は一致しない。このように、スカンディナヴィア起原は考古学的立証が難しく、さらにランゴバルト族のような他のゲルマン系民族にも同じ伝説があることから、ゴート族のスカンディナヴィア起原は疑問視されている。
恐らく1世紀末期(97年から98年頃)に成立したと思われるタキトゥスの『ゲルマーニア』には、リュギイ族の土地より北方にゴート族(ゴートネス)が居留するとの記載が見られ、王制のもとにまとまっていることも知られているタキトゥス『ゲルマーニア』(岩波文庫)p219-p210。。ヨルダネスの記述によれば、彼らはガダリックの子、フィリメル王(ベーリッヒ王から数えて5代目の王)の時代にゴティスカンツァを離れ、黒海沿岸部のスキティアにたどりついたJordanes『De rebus Geticis』?.26-27。 。ゴート族のビスワ川から黒海一帯への移動については、1945年以降、ポーランドの北部のヴィェルバルク文化と黒海北方のチェルニャコフ文化が発見され、その歴史をある程度追跡できるようになった。両文化ともにゴート族だけのものではなく、ゲルマン系諸派が残したものであろうが、ゴート族(およびゲピーダエ族)の文化も装飾品の類似性からそこに含まれていると考えられる。
ヴィェルバルク文化は、ポメラニアからビスワ川下流域で1世紀中期にはすでに形成されていた文化で、成立当初は現在のポモージェ県、ヴァルミア・マズールィ県西部一帯において見られる。150年頃、ポーランド一帯では考古学的にこの文化の著しい変化が認められており、ヴィェルバルク文化は元来ヴァンダル族の定住地であったポーランド南部に領域を拡大している。このような動きはその後も1世紀ほど続き、220年頃までにはマゾフシェ県、ルブリン県 、ポトカルパチェ県一帯とウクライナ北部に到達した。300年頃にはウクライナ南部にまで拡大するが、一方でビスワ川下流域では出土品の減少から、人口がかなり減少したと考えられている。この頃、ゴート族によるローマ帝国への最初の攻撃238年のドナウ川河口に位置するヒストリアに対するもの。が知られている。以後、彼らはダキア、モエシアに幾度となく侵攻を繰り返し、241年にはマルキアノポリスに現れて保証金をせしめることに成功しているが、皇帝フィリップス・アラブスによって撃退されている。しかし、251年、ニコポリスを包囲していたゴート族は、撃退にあたった皇帝デキウス率いるローマ軍を壊滅させると、フィリッポポリスを陥落させ、さらに迎撃にあたったデキウス帝をアブリットゥスの戦いで敗死させるなど、ローマ帝国を苦しめることもあった。ゴート族の南下と定住は、クラウディウス・ゴティクス帝の攻撃と、271年にアウレリアヌス帝が属州ダキアを割譲することによって停止するが、それまでに黒海東岸のピテュス、トラペズス、ビザンティウム、ニコメディア、エフェソス、テッサロニキ、ロドス島、キプロス島などの諸都市を攻撃している P.ヘーサー『The Goths』p41-p42。。
これらのことから、ゴート族がポーランド一帯から黒海沿岸部へ移動したことは、ほぼ確実である。しかし、ヨルダネスの記述にあるように一王の世代で成されたものではなく、また、ゴート族のほか、いくつかの部族が混じって行われたものらしい。ただ、なぜ彼らが移動したのかという理由については、はっきりしていない。
チェルニャコフ文化は農耕に専念していたようだが、黒海北方はかつてギリシア人の穀倉地帯であったことからもわかるように、肥沃な土地であった。良質な陶器が作成されており、ローマ帝国と大規模な商取引も行っていた。遺跡からは、ローマの貨幣が大量に見つかることもあるうえ、ローマから輸入された品も見つかっている。チェルニャコフ文化もゴート族固有のものではないと考えられるが、少なくともゴート族はその中でも際だった存在だったことは確実で、ローマ帝国に近い西部では、ギリシア文字とラテン文字に影響を受けて独自のルーン文字(ゴート語)を完成させ、340年頃には司教ウルフィラによってゴート語訳聖書が著されている。
ヨルダネスによれば、カルパティア山脈からドン川に至る南ロシア一帯に居留したゴート族は、エルマナリク王の代に王国を築いた。エルマナリクは、後に東ゴート王国を興すアマル家の祖と言われているが、この当時のゴート族の王国については、記録が少ないために判然としない。ただ、ローマ帝国のような国家機構があったわけでも、国境というものの意識もなかったようである。ヨルダネスによれば、このときすでにドニエストル川からドン川の平原を占有していたグルツンギ・アウストロゴティとカルパティア山脈からドニエプル川一帯にかけて居留したテルヴィンギ・ウィシゴティに分裂していたことが伺える。それぞれ東ゴート族、西ゴート族とされるが、これらが直接的に後の東ゴート王国、西ゴート王国を打ち立てたグループに分かれたわけではないようである。例えば、詩人クラウディアヌスはフリギアに侵入したゴート族について、「グルツンギを含んだ東ゴート族」と説明し、グルツンギと東ゴート族をはっきり違うものと認識している。このうちテルヴィンギ・ウィシゴティとして2つのグループが糾合し、その他の他はグルツンギ・アウストロゴティとして、ゴート族以外の民族も含め、エルマナリクを王とするゆる連合勢力を形成していたと考えられる。ただし、エルマナリクは、ヨルダネスが述べているような全ゴート族の王、というわけではない。考古学的には、チャルニャコフ文化には、少なくとも6つの大きな集落が発掘されており、それぞれに王ないしはそれに近い権力者がいたと考えられる。エルマナリクはその幾つかの集団の中で特に強力な人物であったか、あるいは実際にかなりの集団を制していたのかも知れない。
マルケリヌスによれば、東方から襲来したフン族は、370年前後にカスピ海からドン川に至る地域に住んでいたアラニ族を粉砕し、東ゴート族の支配領域に到達した。ヨルダネスによれば、バラミールまたはバランベルと呼ばれる王に率いられたフン族の襲来によって、東ゴートの王エルマナリクは自殺してしまったとされる。東ゴートの王権を継いだウィティメルは、兵士を再編成してフン族の先鋒となったアラニ族に抵抗したが、エラク川のほとりで敗死。彼の遺児ウィデリックはバラミールに屈服し、東ゴート族は大部分がフン族の勢力に併合された。
東ゴート族の瓦解を目の当たりにした西ゴート族の王アタナリックは、民族を西方に移動させることを決意した。西ゴート族は2つの勢力に分かれ、一部はフリティゲルンとアラヴィヴスに率いられてローマ帝国の庇護を求めるためにドナウ川国境線に向かった。他方、アタナリックに率いられた西ゴート族はトランシルヴァニアに後退するためドニエストル川の陣営に駐屯した。彼はフン族哨戒のためにムンデリック率いる分遣隊をドニエストル川東部に派遣させたが、フン族はこれを包囲するとともに、アタナリック率いる本隊を攻撃し、これを崩壊させた。このため、アタナリック指揮下の西ゴート族も多くがローマ帝国領内へ避難するためドナウ川に退避した。
フン族によるゴート族への攻撃は、チャルニャコフ文化の痕跡にも見ることができる。その侵略は凄まじく、建物はほとんどが火に焼かており、以後、社会生活が一掃されているところを見ると、土着民族を徹底的に殺戮もしくは奴隷化したと考えられる。彼らが通ったあとに残った町はまったくないと言って良い状況であり、これについては5世紀初期の歴史家エウナピオスも、ゴート族はフン族に死滅させられ、残ったものも類のない残虐な方法で処刑されたと述べている。
フン族によって西方に追いやられた西ゴート族は、376年夏、ローマ帝国の北東の国境線であるドナウ川を渡り、ローマの保護を求めた。西ゴート族はフリティゲルンの勢力に組み込まれ、2年にわたってローマ領(バルカン半島北部)に居留したが、ローマ帝国のゴート族の扱いはひどいものであったため、ゴート族は反乱を起こした。
378年8月9日、ゴート族はハドリアノポリス近郊でローマ帝国の正帝ウァレンスを破り(ハドリアノポリスの戦い)、殺害。ローマ軍の2/3を殲滅した。テミスティウスはこれについて「ローマ軍は影の如く消えた」と述べている。この戦いの後、東西ローマ帝国は蛮族の侵入や反乱に悩まされた。カッパドキアの教会史家フィロストルギオスやアルメニアの歴史家バル・ヘブラエウスが、侵入したフン族によってシリア、キリキアが壊滅したことを述べている。また、彼らの侵略は、サーサーン朝ペルシャ領内のほか、パレスティナやエジプト一帯にも及んだようである。
しかし、異民族の侵入に悩まされていた東西ローマ帝国は、フン族の傭兵を積極的に雇い入れ、反乱や他民族の鎮圧にあたった。これはある程度の成功を収めており、西ローマ帝国の宰相ルフィヌスや軍司令官スティリコは、彼らを身辺警護に使ったほか、蛮族を排除する軍隊として動員した。ローマ帝国と不安定ながら良好な関係を形成したフン族は、410年頃までにドナウ川中流部にまで勢力圏を拡大させた。このため、これに押されるかたちで西ゴート族も西に移動し、ドナウ川を渡ってアルプスを越え、イタリア半島に侵入した。
アラリック1世率いる西ゴート族は、401年、イタリアの西ローマ帝国軍と激突し、ヴァンダル族出身の将軍スティリコに破れるが、その配下のラダガイス率いる西ゴート族の一派が、406年に再びイタリアに侵入、8月23日、フィレンツェ近郊のフィエーゾレ付近で、スティリコに仕えたフン族の王ウルディンに殲滅させられている。408年11月にも、今度はアタウルフス率いる西ゴート族が侵入、西ローマ帝国の首相オリンピウス率いるフン族混成部隊に撃破された。しかし、ゲルマン民族の侵入により西ローマ帝国は弱体化、さらに将軍スティリコが謀殺されたため、410年、遂にアラリック1世はローマにまで進軍し、これを陥落させた。
この動きによって、ドナウ川のローマ守備隊は手薄になり、ブルグント族、アラマン族、スエビ族など、他のゲルマン民族も、フン族の支配を逃れて一斉にドナウ川を渡り始めた。
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