読み込み中...シュリーフェン・プラン(Schlieffen-Plan)は、19世紀後期のドイツ帝国の軍人アルフレート・フォン・シュリーフェンによって立案された、西部戦線におけるドイツ軍の対フランス侵攻作戦計画である。
ドイツ帝国宰相ビスマルクの外交政策はフランスを孤立に追い込むことを目的としていたが、1890年にビスマルクが失脚すると、その外交政策の中軸であったロシアとの独露再保障条約は延長されなかった。さらに1894年、フランスとロシアは露仏同盟を締結し、ドイツが対フランス・ロシアの二正面作戦に直面する可能性は高まった。
ドイツ参謀総長シュリーフェンは、二正面戦争解決の手段として、フランスを全力で攻撃して対仏戦争を早期に終結させ、その後反転してロシアを全力で叩こうと考えた。こうして立案された「シュリーフェン・プラン」は、フランス軍が主力を置く独仏国境地帯を直接攻撃するのを避け、ドイツ軍の主力が中立国ベルギーに侵攻し、イギリス海峡に近いアミアンを通過。その後は反時計回りにフランス北部を制圧していき、独仏国境の仏軍主力を背後から包囲し殲滅するというものであった。作戦の所要時間は1か月半とされた。
1906年にシュリーフェンの後を継いで参謀総長に就任した小モルトケは、シュリーフェンの案に修正を加えた。シュリーフェンの案の問題点は、最右翼を進撃するドイツ第1軍の行軍距離があまりにも長く、補給が追いつかなくなる可能性が大きいことであった。小モルトケの案では、第1軍はイギリス海峡に至る手前で南方へ旋回し、パリ近郊のマルヌ川を目指すとされた。またシュリーフェンの案では攻勢正面を広く取るためにマーストリヒトでオランダの中立を侵犯するとされていたが、小モルトケの案では中立侵犯は避けるとされた。第一次世界大戦緒戦におけるドイツ軍のフランス侵攻作戦は、この小モルトケの案に沿って実施された。
シュリーフェン・プランの問題点は、戦争遂行のために純軍事技術的な側面を徹底的に追及し、そのために政治的側面をそれに従属させている点にあった。その意味において、かつてカール・フォン・クラウゼヴィッツが述べた「戦争とは、他の手段をもってする政治の延長である」という言葉と全く逆の性質を持っていた。ベルギーの中立侵犯を、イギリスの対独宣戦や国際的汚名を被ることを無視して、軍事的要請から押し通したことはその最も典型的な例である。
また、「小モルトケによってシュリーフェン・プランが「改悪」され、その結果ドイツが敗北に至った」という説は1920-50年代ごろによく述べられた説であるが、現在では軍事技術や補給の問題からシュリーフェンの原案の現実性も否定されている。第一次世界大戦では、マルヌ川に到達した時点でドイツ軍は疲労しきっていた。もし原案に沿って作戦を進めていたら、セーヌ川のはるか以前でドイツ軍は停止せざるをえない状況に至っていただろうマーチン・ファン・クレフェルト(著), 佐藤佐三郎(訳), 『補給戦―何が勝敗を決定するのか』, 中公文庫BIBLIO (2006/5), ISBN 4122046904。
「短期決戦でフランスを降伏させた後にロシアを迎え撃つ」というシュリーフェン・プランの基本構想は、「ロシアはフランスよりも総動員完了まではるかに時間がかかるため、ドイツがフランスを降伏させるまでの間は積極的攻勢に出られない」ことを前提としていた。しかし第一次世界大戦の勃発当時には、鉄道を始めとするロシアの交通インフラはそれなりに整備されていたため、ロシアは早期に総動員を完了してフランスと交戦中のドイツに攻勢をかけることが可能となっていた。事実、ロシアは7月31日に総動員を開始したドイツはこれに抗議するがロシアは総動員解除に応じなかったため、8月2日ロシアに宣戦を布告する。17日後の8月17日には東プロイセンへの侵攻を開始している詳細は:en:Russian invasion of East Prussia (1914)を参照ため、ロシアの総動員にかかる時間が大幅に短縮された時点で、シュリーフェン・プランはその有効性を失っていたとも言える。
独ソ不可侵条約の締結によって当初はソ連との二正面作戦を強いられる危険が無かった第二次世界大戦においても、マジノ線の建設によってフランス領内への直接侵攻が困難となったこともあり、ドイツのフランス侵攻作戦は原則としてシュリーフェン・プランが踏襲される予定ただし、作戦の規模およびその目標は大幅に縮小され、一種の攻勢防御作戦になっていた。だった。しかし作戦計画書を持った士官の飛行機がベルギー領内に不時着するという事故によって作戦計画が連合国側に漏れてしまい、作戦の練り直しが迫られることになった。
検討の結果、ヒトラーの後押しでマンシュタインの作戦計画が採用された。それは「主力はベルギーから攻め込み、イギリス海峡に達する」という点ではシュリーフェン・プランを踏襲したものであったが、攻勢正面はベルギー北部の平野部ではなく、南部からルクセンブルクにかけてのアルデンヌ森林地帯である点が異なっていた。戦車や重砲などの重装備の迅速大量な通過は不可能と考えられていた森林地帯を抜ければ連合軍に対して完全に奇襲となり、より容易に作戦が進むと考えられたのである。その後のフランス侵攻では実際の戦局はその通りに展開し、フランスは約6週間でドイツに降伏した。
近年の研究では、上記のような「シュリーフェン・プラン」像を見直す見方も出てきている。冷戦終結後のテレンス・ツーバーによる新史料の発掘によって、従来「シュリーフェン・プラン」の決定稿と思われてきた覚書が必ずしもドイツの二正面戦争克服の唯一の手段として提案されてきたものではなく、軍備予算獲得のための口実として提示されていたことが明らかとなった。二正面作戦解決の唯一の処方箋としての「シュリーフェン・プラン」像は「作られた」ものであるか否かが現在論争中である石津朋之「『シュリーフェン計画』論争をめぐる問題点」『戦史研究年報』第9号(2006年3月), 防衛研究所。ただひとつ明らかなのは、シュリーフェンが作成した計画と小モルトケが作成した計画がまったく異なるものである、ということが現在の研究では定説となっているということである。
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