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シュレジェン

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Wikipedia画像へのリンク(シレジアの位置)
Wikipedia画像へのリンク(現在のシレジア。黄色い線の中は1871年のドイツ帝国におけるシレジア、青い宣の中は1740年のプロイセンによる併合前のシレジアの範囲)

シレジアは現在のポーランド南西部からチェコ北東部(プロイセン王国時代の行政区画も含めればドイツ東部のごく一部も)に属する地域の歴史的名称。支配者は様々に変化してきた。シレジアは英語ではサイレジア(Silesia)、ドイツ語シュレージエン (Schlesien) 、ポーランド語シロンスク (Śląsk) 、チェコ語スレスコ (Slezsko) 、ハンガリー語シレージア (Szilézia) となる。

歴史

中世には、シレジアの住民の大多数はスラヴ系の民族であった。シレジアはまずモラヴィア王国に属し、その後10世紀頃からポーランド王家であるピャスト家のいくつかの分家の諸侯領として支配された。諸侯たちは農民や都市民、坑夫としてドイツ人移民を誘致した。13世紀以降は移民の入植がさらにさかんになり、文化的にもドイツの影響を受けるようになった。14世紀初めにボヘミア王国に帰属し、神聖ローマ帝国の領邦となった。神聖ローマ皇帝にもなったボヘミア王カレル1世(皇帝カール4世)は、「聖ヴァーツラフの王冠諸邦」としてシレジアをボヘミア王国の中に明確に統合した。一方でドイツ人移民は増え続け、大半の住民がドイツ人に同化していった。16世紀にハプスブルク家がボヘミア王位を獲得すると、シレジアもハプスブルク君主国に組み入れられることとなり、さらにドイツ化が進んだ。

Wikipedia画像へのリンク(シレジアの地図(1905年) 現在のチェコ北東部のわずかな領域を除くと、大部分がポーランド南西部に広がる。地図中央に中心都市ヴロツワフが見える)

1740年ハプスブルク家の家督をマリア・テレジアが継承すると、プロイセンフリードリヒ2世は継承を承認する見返りに、ボヘミア王国の領邦としてハプスブルク家が領有していたシュレージエンの割譲をマリア・テレジアに要求した。マリア・テレジアはこれを受け入れなかったので、プロイセンは宣戦布告もせずにシュレージエンの大部分を占領した(この時占領されずにハプスブルク領として残ったのが、現在チェコ領のスレスコ地方である)。オーストリア継承戦争の始まりである。ザクセンバイエルンフランスも領土分割を求めて敵に回ったため、プロイセンとはシュレージエンの領有を認めた上で講和せざるを得なかった。シュレージエンを奪われたマリア・テレジアは非常に憤り、フリードリヒをシュレージエン泥棒と罵った上でプロイセンへの復讐を誓った。マリア・テレジアは当時犬猿の仲とされていたフランスと同盟を締結(外交革命)、シュレージエンの奪回をかけて1756年、プロイセンとの戦争を再開した。これが七年戦争である。結局この戦争でもシュレージエンの奪回には成功せず、シュレージエンのプロイセンによる領有が決定した。

シュレージエンはハプスブルク領だった時代にも独立性のあった地域で、ハプスブルク家による再カトリック化の努力にも拘らず、住民の大半がプロテスタント教徒となっていた。そのため、プロイセン軍はハプスブルク家のカトリック支配からの解放軍としてシュレージエンのプロテスタント系住民から歓迎され、プロイセンによる領有が恒久化する一因となった。

ハプスブルク時代までに、シュレージエンの住民の半分以上はドイツ人となっていたが、プロイセン領となってからは徹底したドイツ化政策がとられた。また農民の入植、鉱業の発展にも努力した。その結果、人口も大幅に増加したが、スラヴ系住民の増加はドイツ系住民を上回るものであった。しかし、ドイツ語を母語としないにも関わらずドイツへの帰属意識を持つ住民も少なくなかった。第一次世界大戦後にポーランド共和国が成立すると、わずかに最東部のカトヴィツェ周辺のみがポーランド領となったが、その際に行なわれた住民投票では、ドイツ領にとどまるべきという意見が半数を超えていた。シュレージエンの他の地域はヴァイマル共和国の時代もドイツ領にとどまった。

1945年ナチス・ドイツ敗北後、戦前ポーランド領であったガリツィア地方を占領したソ連は、そこに住んでいたポーランド人をドイツ領の東プロイセンやシュレージエンに移住させることにし、以後ここはポーランド領とされた。この為今度は800万といわれるドイツ人たちが戦後の東西ドイツへ追放されていくことになった。こうしてポーランド・ドイツ間の新しい国境はオーデル・ナイセ線に置かれることになったのである。

地誌

Wikipedia画像へのリンク(チェコにおけるシレジアの位置)

地形と所産

南はズデーテン山地・ベスキト山地によってボヘミアモラヴィアと接し、西はクラクフ・チェンストホヴァ高地を境にガリツィアと接している。

中央を貫流するオドラ川がこの地を特徴づけ、川を下れば、かつてのカシューブ人のポモジェ公国の港町・シュチェチンに出ることが出来る。

チェコに属するオドラ川上流部を遡行すれば、モラヴァ川オロモウツを初めとするモラヴィアの諸都市に抜けることができ、モラヴィア門と呼ばれている。古代からシレジア・モラヴィアは琥珀街道の一環をなし、ヨーロッパの南北を結ぶ、通商を初めとした交通上の要衝であった。琥珀街道の主要な地点としては、オーストリアカルヌントゥムブルゲンラント州スロヴェニア、西部ルートではロマンティック街道などがある。

産業面では、歴史的に両国にとって、経済、特に工業の大中心地。しかしこの地の豊富な資源と大繁栄は、ポーランドドイツプロイセン、ボヘミア、オーストリアなどの争奪戦の対象となってきた。

シュレージエン炭田

文化

建築物その他に、いまだドイツの影響が残る。

ポーランドの前衛的現代音楽を牽引したジェネレーション51は、シレジア楽派と呼ばれることもある(ポーランド楽派参照)。

行政と、主な市町村

関連項目

mdf:Силезия szl:Ślůnsk
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