読み込み中...ジャイアント馬場(ジャイアントばば、本名:馬場 正平(ばば しょうへい)、1938年1月23日 - 1999年1月31日)は、新潟県三条市出身のプロレスラー。全日本プロレス元代表取締役社長・会長、NWA第一副会長。
プロレスラーに転向する以前は、読売ジャイアンツのプロ野球選手であった(そのため、日本プロレスのエース時代、TV中継でアナウンサーが意図的に「ジャイアンツ馬場」と呼んでいた事がある)。
第49・55・57代NWA世界ヘビー級王者(日本人としては初の世界タイトル奪取)。全日本プロレス創立者。血液型O型。身長209cm(読売ジャイアンツ時代の発表は203cm)、体重135kg(全盛期は145kg)。リングネームは、初渡米武者修行中の1961年、ニューヨークの大プロモーターであったビンス・マクマホン・シニアが「ババ・ザ・ジャイアント」と命名したことに由来する。1999年1月31日、生涯現役のまま逝去した(逝去後に引退セレモニーが執り行われた)。
日本のプロレス界では力道山、アントニオ猪木と並ぶビッグネーム。日本プロレス史上最大の巨体を持ち、CMやテレビ番組などでも人気を博した。
恵まれた体躯を生かし、主に、相手のロープの反動を利用したカウンターキックである「十六文キック」をはじめ、「空手チョップ」「河津落とし」「ココナッツクラッシュ」など、長身からの落差と重力、相手の力や体重を利用した技を得意技とした。
上記の他、脇固めなど寝技やスロートクロー(タイガー・ジェット・シンのコブラクローに酷似)などの「拷問技」も得意とした。4の字固め、サイドスープレックス、スモールパッケージホールドなどの技も使っているほか、1965年頃にはジャーマン・スープレックスやパワースラムを使ったこともある。晩年は流行技やライバル・弟子の得意技をまねて用いることも多く、およそ馬場の技は外見上なんら変わりがなくとも冠に「ジャイアント」と付いて独自の必殺技としてファン・マスコミに認識された。「ジャイアントラリアット」「ジャイアントDDT」などはその典型例である。また、スタン・ハンセンとのタッグ時のみ限定で、十六文キックとウエスタン・ラリアートを組み合わせた「ジャイアント・コンビネーション(後述)」も披露した。アンドレ・ザ・ジャイアントと組んだ時は十六文からアンドレのエルボードロップ、ラッシャー木村と組んだ場合は十六文と木村のラッシングラリアットというコンビネーション(通称・十六文ラリアット)になった。
■その他のツープラトン技高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)は馬場について、試合の組み立て、運動能力、スタミナ、スピードなど全てを兼ね備えた万能のプロレスラーであり、「プロレスラーとしては最高」「猪木さんと馬場さんでは差があったよ。モノが違った」と語っていて『Gスピリッツ』No.9、辰巳出版、2008年、13ページ、またシュート(真剣勝負)でも強かったとも回想している同上。
歴史小説が好きな読書家で、年間200冊以上の本を読み、柴田錬三郎、司馬遼太郎のファンだった。他にも絵画などを趣味に持つ。「引退したら(当時別荘を持っていた)ハワイで絵を描く生活がしたい」と語っていたが、それが現実になることはなかった。『水戸黄門』の大ファンで、欠かさず見ていたという。アイドルとして人気絶頂だった松田聖子に初めて会った時、「テレビは『水戸黄門』しか見ないから知らない」と言ったという話や、初代水戸黄門役の東野英治郎と初めて面会した時は、直立不動の姿勢となり、思わず頭を下げてしまったと回想している。また、初代風車の弥七役の中谷一郎と会った時には「おう、弥七」と声をかけ、うっかり八兵衛役の高橋元太郎と会った際にも「八兵衛」と声をかけたと言う。『水戸黄門』に忍者などのキャラクターが出るようになると「突飛な事はやらない方がいい」と苦言を呈していた。東野時代のような典型的な勧善懲悪ものを好んだ。また、逆に高倉健に会った時にはファンの人かと思い「はい、どうも」と座ったまま握手をした。
ハワイを非常に気に入っていて、オフはよくハワイの別荘で過ごしていた。ハワイマット界にもかかわりが深く、全日本プロレスのタイトル認定機関であるPWFの初代会長ロード・ブレアースはハワイのプロモーターであった。日本プロレス時代の人生設計では、「38歳で日本のプロレス界からは引退し、その後はハワイに引っ越して気楽な隠居暮らしに入る」というつもりだったという。
キャピトル東急ホテルを東京ヒルトン時代から定宿としていたことはよく知られており、馬場〜三沢時代の全日本プロレスの記者会見は殆どキャピトル東急で行われた。また馬場は、関東での大会の後はキャピトル東急のコーヒーハウスである「オリガミ」で食事をしていた。お付きの和田や仲田、番記者の小佐野景浩らはこの「オリガミ」で馬場から食事作法を学んだという(週刊ゴングの増刊号にて、キャピトル東急ホテルの閉館により閉店となる直前のオリガミにて、鈴木みのるが「馬場さんの味を食す」という特集を組んだほど、ジャイアント馬場=キャピトル東急というイメージがプロレス界では定着している)。
大変健康に気を遣うと言われているが、後楽園ホールのロビーでも常に葉巻を吹かしていた。また1990年の骨折入院までは健啖家で、酒に強く(曰く「いくら飲んでも酔わないので酒は面白くない」)、甘党であったが(あずきの缶詰を常に携帯しており、食事の締めとして餅に付けて食べるのが好きだった)、この事が糖尿病の遠因になった。骨折後は足腰の鍛錬により専心するようになり、毎日恵比寿の自宅から(マンションのエレベーターも使わなかった)六本木にあった全日本プロレスの本社までウォーキングするのが日課だった。若手時代は汗っかきだったが、糖尿病を患って以降は汗をかかない体質になってしまい、以来サウナ好きでもあった。
甘いもの、特にあんこが好きと述べていた。テレビ番組「ニュースステーション」の企画である「最後の晩餐」でも人生最後に食べたいものを大福と答えている。
負傷のためプロ野球選手の道を断念せざるをえなかったが、プロレスチャンピオンになって年収が3億円を超えたと話す(給料袋が縦に立ったという)。当時のプロ野球界の最高峰であった巨人の「ON(長嶋茂雄や王貞治)が『年俸3千万円、4千万円』などといっていたのを見て、おかしくて笑いが出てしまった」という逸話を晩年に語っていた。ただし、経営者として節税出来たことから、新聞で発表される長者番付の馬場の順位は下位であった。本人のコメントによるとアメリカ時代には1試合で5、6百万稼いでいた。
1本数万円(途中からは1本10ドルのカナダ産)の葉巻を愛用し、キャピトル東急ホテル内「オリガミ」で出される1個2500円のチーズバーガーを食べ、三沢に1個1万円のメロンを潰して作ったメロンジュースを振舞い、新婚旅行の費用をポケットマネーで出すなど、お金の使い振りは豪快なところがあったが、所属選手の年俸は新日本プロレスよりはるかに安かった。また、選手に対する契約に保険や負傷欠場時の給与補填などを制度として行わなかったため、馬場の死後の選手大量離脱の要因となった(馬場死後の新体制はそれを導入する方向だったが、オーナーである元子夫人が「馬場さんの時代にはなかった」と拒否した)。なお、その遺産は、渋谷税務署に8億7千万円と公示された。死後、永源遙は週刊プロレスのインタビューで「猪木さんは金を使うことが好きな人、馬場さんは金を使うことを忘れた人だった」と話している。また、猪木が参院議員に当選後に借金14億円と報道されたのを聞き、「俺との差は30億円ある」と言ったとザ・グレート・カブキが後に述懐している(また「俺ならキャッシュで払える」とも語ったという)。
力道山からは特別可愛がられた。これは馬場に「元巨人軍投手」という肩書きがあったことと、2mを超える身長に力道山が惚れ込んでおり「これはワシをも凌ぐスターになるかもしれん」と思ったからである。アントニオ猪木はいわば叩き上げであり、従順でなかった猪木を力道山はあまり好んでいなかったとされ、ちょっとしたミスで殴られたり蹴られたりが当たり前だった中、馬場は一度も殴られたことが無いというエピソードがある。また、馬場は入門当初から付き人を経験しておらず、すぐにアメリカ遠征に出され、給料も出ていたなど完全な特別扱いであった。
新日本プロレスを旗揚げしてからの猪木の挑発には「何度もはらわたが煮えくり返る思いがした」と自伝に書いているが、猪木には基本的に「同じ釜の飯を食った男」という気持ちがあり、憎しみの感情はみられなかった(馬場が後期の猪木に一貫して持っていた感情は不信感だった)。猪木も同様で、表向きの発言と実際に馬場に会う時の態度は全くと言っていい程違っていた。
本当に馬場を憎んでいたのは上田馬之助で、日本プロレスを退団した馬場と、力道山の作り上げた日本プロレスに最後までこだわっていた上田の感情的なしこりは、日本プロレス崩壊後大木金太郎らと全日本プロレスに移籍する際、上田が仲介者の対等合併の言葉を本気にした事(実際は吸収合併だった)と、馬場が大木・上田ら移籍組を冷遇した(馬場曰く「全日本創立に奔走した仲間と、新日本とうちを両天秤に掛けたような元同僚を同格に扱う事は出来ない」という理由)ことで決定的になったという。「猪木追放事件」も、一般には「猪木・馬場らによるクーデター計画の存在を上田が上層部に密告した」ことが原因とされているが、上田は近年になって「実は最初に密告したのは馬場である」と語っており(詳しくは上田馬之助の項を参照のこと)、このことも上田と馬場の関係悪化に大きく影響していたと思われる。ただ、竹内宏介によると「上田が『猪木が会社乗っ取りと馬場の追い落としを企んでいる』と馬場に話して、それを馬場が上層部に話した」という。
プロレスのプロモーター(興行主)としても、NWAに加盟し第一副会長までのし上がったことで世界的に有名であった。ギャラの約束を必ず守り、大物選手はファーストクラスで来日させるなど丁重に扱ったことで外国人レスラー間の評判が高かった。当時は「名外国人を本場アメリカから呼ぶことに団体の意義・名誉のあった時代」であり、日本人レスラーへの給与形態などはやや違ったのである。ズル休みなどは大物外国人でも絶対できなかったという。また力が衰えてきてもそれなりのポジションで来日させ続けた。アブドーラ・ザ・ブッチャーやドリー・ファンク・ジュニアなどは1990年代中盤まで回数は減ったものの来日し続けている。
NWA副会長であり、WWWF(現WWE)発足の頃すでに大スターだったことから、ビンス・マクマホン・ジュニアも、馬場に対しては頭が上がらなかった。マクマホンがWWFとして日本マット界を傘下に治めようと奮闘していたとき、馬場はNWA第一副会長として一喝したことがある。後に馬場は「マディソン・スクエア・ガーデンで世界王座に挑戦したときにほんの子供だったこんな小僧に翻弄されてたまるか」と述懐している。
外人頂上決戦創立1年強の1974年1月には早くもジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス、ドリー・ファンク・ジュニアとNWAの現・前・元王者を招聘し、日本陣営の馬場本人や鶴田、ザ・デストロイヤーとの組み合わせが展開された。またタッグマッチではザ・ファンクス対地上最凶悪コンビ(ブッチャー&シーク)、ファンクス対超獣コンビ、ハンセン、ジョニー・エース(もしくはダニー・スパイビー)組対殺人魚雷コンビ(テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス)のカードが見られた。1985年には、NWA王者リック・フレアー対AWA王者リック・マーテルという本場米国でもなかったNWA・AWA両世界王者のダブルタイトル戦も実現させた。
付き人だった大仁田厚を特別可愛がり、一時は本気で養子縁組を考えたこともある。大仁田が馬場の付き人をしていた頃、興行に馬場の赤いパンツを持って行くのを忘れたことがあった。困った大仁田は、同じ会場に赤いパンツを履く身長2mの外国人選手がいたため、この選手の控室に忍び込んでパンツを盗んだ。馬場はそのパンツで試合に勝ったものの、何かおかしいと気づき、「このパンツ俺の?」と大仁田に聞いた。大仁田は「外国人選手から借りてきました」とウソをついたが、馬場はこの嘘を即座に見破り「馬鹿野郎、貸すわけないだろ!」と怒鳴って張り手タイプの空手チョップを食らわせた。そして洗濯して返すようにと命じ、3日間口をきかなかったという。その後、別の興行で大仁田はまたしても馬場のスーツのズボンを忘れたが、素直に謝ったところ、馬場は何も言わず興業中の約1ヶ月間、スーツに赤ジャージのズボン姿で通した。
1987年11月、所属選手のハル園田(マジック・ドラゴン)が、全日本プロレスから派遣されて南アフリカ共和国のプロレス興行に参戦する際に、結婚したばかりの園田夫妻にポケットマネーを提供して、興業後の新婚旅行を奨めた。ところが、南アフリカに向かう飛行機がインド洋上で南アフリカ航空295便墜落事故によって墜落。ハル・園田とその夫人が事故死することとなった。馬場は生涯、園田の派遣と新婚旅行を奨めた事を悔やんでいたという。リング上で弔辞を読んでいる時に号泣した。
世界中のプロレス界を股にかけた大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントが最後に選んだリングは、天龍一派の大量離脱で黄昏時を迎えていた馬場全日本だった。二人がコンビを組んでいた頃「馬場とアンドレが天の川で流しソーメンを食べていた」などという伝説が流れた事もある。実際二人は、大変仲がよく、話し相手に困らないようにと、アンドレの若手時代からの親友であるマイティ井上を話し相手として帯同させ、アンドレ参戦時の外国人用移動バスの冷蔵庫には、アンドレ好みのワインが常に置かれていたという。
彼の体の大きさはよく芸能人のネタにされた。
馬場のキャラクター・人柄はCMやプロレス中継以外のテレビ番組を通じて、幅広い人気を集めた。中でも1988年〜1996年まで放送された日本テレビ系クイズ番組「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」に出演、様々な珍解答で視聴者の笑いを誘った。「何を作っているのでしょうか?クイズ」で、終了5秒前にボタンを押したが、正解が「ボクシンググローブ」であるところを「赤べこ」と答え、逸見を始めとする出演者全員を悶絶させたこともある。逸見はこの馬場の発言で笑い転げ、しばらく起き上がれなかったほどであった。
特番では、代表者になるもののボタンを押さず、業を煮やして高田純次がボタンを押したこともあった。さらに、その時の正解は「トゥーシューズ」だったために高田がバレリーナを真似て正解を伝えたが、本人は「オッパイにあてるやつ」と答え、周りを悶絶させたこともあった。
早押しボタンを押さないことは週刊少年ジャンプの読者ネタにもされるほどであった。早押しボタンのすぐそばにコーヒーを置いていたため、隣に座っていた川合俊一に「馬場さん、早押しボタンの上にコーヒーを置いたら押せないでしょ」と突っ込まれていた。サブ司会の渡辺正行に「押す意志無いじゃないですか」と突っ込まれた。
同番組の特番では、パネラー席の早押しボタンが付くかのテストが行われたが、馬場は思いっ切りデスクを叩き、パネラー席を破壊してしまったことがある。山城新伍は、「(演出として)スタッフと相談して、馬場さんに内緒でデスクボードに細工をして落ちやすくしていたが、馬場さんはそれを察していて、知らんふりしてボードを叩き落してくれた」と語っている。
番組初期の頃は右から三番目の解答者席に座っていたこともあったが、基本的には一番左端の席が定着しており番組内では「馬場さんの席」の通称まで付いた程であった。番組の晩年は右端の席になることもあった。
しかし、クイズ自体の解答率は悪くなく何度もトップ賞を取っていた。なお当番組第1回目のトップ賞を取ったのも馬場であった。
山城は逸見の追悼スペシャルにて、逸見が胃癌の闘病生活に入ることを告白してから、逸見の早期回復を祈って願を懸けるために、馬場は大好きな葉巻を断ったエピソードも紹介し、馬場の人柄を讃えた。逸見が亡くなってから、自らのトレードマークだった葉巻を口にすることは生涯無かった。
野沢直子からはこの番組限定で「ジャイヤント」と呼ばれていた。
四択問題ではフリップに十字の線を引いて四分割し、正解と思われる場所に円を付けていた。正解が違うとこっそりフリップの向きを変えて正解であるかのように見せていた(当然無効であり、逸見らに「不正解ですから」と突っ込まれていた)。
最終回スペシャルも自身の試合が終わってからその足でスタジオへ駆け付け、馬場の名場面特集も組まれた。
当初は、タレントなどにものまねされることに対し不快感を示していたが、徐々にそういったおふざけを容認するようになり、そのキャラクターや風貌から、多くのバラエティ番組やCMに起用されることとなる。また、全日本プロレスでの自らを主役とした、ギャグタッチのアニメビデオをリリースされるまでに至った。
早くから馬場をものまねのレパートリーにしていた関根勤には、初対面の際「ぼくはアッポーなんて言ってないよ」と文句を言ったが、「指で汗をぬぐい大きく息をつく動作なんです」と実演して見せたところ「それは似てる」と、それ以来関根に本人公認のお墨付きを与えたというエピソードもある。また、「笑っていいとも!」に出演したとき、突然関根にババチョップを打ち込むと、関根は機転を利かせて馬場のものまねで膝をついた。
馬場自身が「私は力道山に一度も殴られた事が無い」と発言していたが、それは理不尽な暴力を受けた事は無いという意味で、自伝によると力道山から空手チョップの手ほどきを受けた際、皮膚を鍛える為に特殊な農具で手を何度も思い切り叩かれたという。叩かれている間力道山に「どうだ痛いか」と聞かれたが、「痛くないと言えば余計に力を加えるし、痛いと言えばそのうち痛くなくなると言って叩くのをやめないので、黙って耐えるしかなかった」と述懐している。
力道山には弟子に酒の一気飲みを強要する癖もあったが、馬場も何度も大量に飲まされたという(馬場自身は酒嫌いだった)。実際、師匠である力道山はスポンサーの前で「プロレスラーの頑強さ」を見せることをしていた。デビュー前の馬場は、スポンサーの前で力道山に「ジョニ黒」を一気飲みさせられ、目の前に「火花が散った」という。一息ついた馬場が水を飲もうとしたところ、チェイサーに差し出されたのは「ビール」だったという。
野球上がりで腕が細かったため(当時のピッチャーは腕を痛めるといけないという理由で腕立て伏せもしなかった)、巡業で津軽海峡を渡る際、青函連絡船で力道山の指示でいつも到着するまでバーベルを持たされていた。馬場は北海道に行くたびにあの時の事を思い出すと語っていた。
練習生の中で馬場が唯一給料を貰っていたが、「練習生はジムに住み込み、基本的にノーギャラ」というのを知らなかった馬場は、力道山に「(給料は)幾らですか?」と単刀直入に聞き、「巨人時代は幾ら貰ってたんだ?」「5万です」「よし5万だ」で話はまとまった。もっとも、翌月には「試合もしてねえのに5万は高すぎる。3万だ」と値切られた。
若手時代の海外遠征では、プロモーターの意志に従い、アメリカの都心でも着流しに草履という格好で通した。しかしまだ有名になる前、テキサス州の田舎街のレストランにその格好で入ろうとした際、店の用心棒から「東洋人のくるところじゃない」と一喝され、足元にピストルで射撃されたこともあるという。
また、馬場は飲み屋に出かけると、ジュークボックスの中に唯一入っていた日本の楽曲、坂本九の「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」を流していたという。後年、全日本プロレスの試合会場で、全試合終了後に同曲が流されるようになったのはこれに由来する。またニューヨークには、当時珍しかった日本人が営業しているカレー屋があり、馬場はそこを訪れては、カレーをご馳走になったり、店主と遊びに行ったりしていたという。
修行時代のヒンズースクワットで、床に垂れた汗で水溜りができたという伝説も残っている(これに負けじと、アントニオ猪木も一緒にスクワットをし、汗の水溜りが出来たという)。当時は脚力も強く、逆エビ固めをかけようとする相手レスラーを、膝を伸ばす力だけで跳ね返した。
新人時代には、アントニオ猪木と16回対戦したが、馬場の16勝0敗。また、馬場は、猪木との戦歴を自ら話そうとはしなかった(決まり手は猪木よりも身長が高いことを利用したフルネルソンが多い)。アメリカ武者修行時代に築いた人脈により多くのレスラーの招聘をし、タイトルマッチを日本で行った。
1998年12月初頭、地方巡業先で、微熱が下がらないなど体調不良を訴えた。結果、巡業先での試合出場を取りやめ、秘書の仲田と共に帰郷。病院で検査を受けた結果、精密検査を勧められ、年末恒例の海外旅行をキャンセルした(この年は、例年訪れていた別荘のあるハワイではなく、WWF社長のビンス・マクマホン・ジュニアの招待でカナダを訪れ、WWFの大会を視察することになっていた)。
しかし精密検査の結果、大腸癌の末期で、他の臓器にも転移が見られることが判明。このことは以後しばらく、元子夫人にしか知らされておらず、看病をしていた仲田や和田京平らにも告げられなかった。馬場には告知されることは無かった。元子夫人の意向で手術を行ったもののもはや手遅れの状態で絶望的な処置しか施せず、年明けには集中治療室に入り、意識も次第に無くなっていったという。
マスコミやファンには病名を一切公表せず、「風邪をこじらせただけで生命に別状は無い」としていた。全日本プロレス中継では「ジャイアント馬場順調に回復、脅威の生命力」と報じられていた。鶴田や三沢、ジョー樋口ら、全日本の主要役員も見舞う為に病院に何度も足を運んだものの、元子夫人の意向で「感染するといけないから」と、面会をかたくなに拒んでいた。
1月29日、既に意識が無くなった馬場の余命があと数時間しか無いことが主治医から元子夫人に告げられた。ここで初めて、看病を続けていた和田と仲田に病名が伝えられた(とはいえ、2人とも、薄々本当の病名は感づいていたという)。わずかな延命措置を取るか、そのまま死を迎えるかの判断が迫られたが、馬場は病院の特別室から集中治療室に移された頃、「特別室に帰りたい」と望んでいたこともあり、仲田の提案で、集中治療室から特別室に馬場を移し、延命措置を取りやめた。馬場はそこから2日間生き続けたが、1月31日、帰らぬ人となった。
馬場の最期に立ち会ったのは、元子夫人や馬場の家族のほかには、秘書の仲田龍と運転手の和田京平だけであった。和田と仲田は、当時若手選手だった志賀賢太郎や丸藤正道、橋誠らに電話をかけ、「社長が退院してくるから、マンションで待機していてくれ」と、馬場の死を隠して呼び出している。これも元子夫人の意向である。そのまま恵比寿の自宅マンションで、鶴田や三沢ら全日本の関係者が集まり、密葬となったが、その頃、馬場の死がマスコミに漏れ、マンション前には多くの報道陣が詰め掛けていた。和田京平の著書によると、病院関係者によるネット掲示板への書き込みが原因であるという。なかなか正式な発表が出ない中、フリーのプロレス記者・評論家で馬場とも親交が深かった菊池孝が元子夫人と連絡を取ったところ、元子夫人はマスコミが大挙駆けつけたことに対して「葬儀が終わってから発表するつもりだった。まさかこんな大事になるとは思ってもみなかった」と語り、馬場の社会的ステータスに対する夫人のあまりの鈍感さに菊池は驚いたと後に語っている。
結果、馬場の死はマスコミによって大々的に報じられ、特別番組も多く組まれた。事実が漏れることを嫌がっていた元子夫人も、報道カメラに向かって一礼している。
生涯現役を貫いた馬場の業績を称え、1999年5月の東京ドーム大会(没後興行)は「ジャイアント馬場引退記念興行」と銘打たれた。「引退試合」にはスタン・ハンセンを先導にかつてのライバルや盟友が登場。マッチメイクはジャイアント馬場・ザ・デストロイヤー組vsブルーノ・サンマルチノ・ジン・キニスキーの時間無制限一本勝負。サンマルチノは「あなたは体だけでなく心もジャイアントだった」と称えた。またパートナーのデストロイヤーは日本語で「社長、長い間お疲れさまでした」と深々と頭を下げ、会場中の涙を誘った。このとき、リング中央に置かれた愛用のシューズをデストロイヤーがつかんだ瞬間に「今、デストロイヤーと固く握手いたしました」と、平川健太郎アナウンサーがコメントした。
日本プロレス時代、実況アナウンサーの清水一郎は、1970年頃までは馬場を「ジャイアンツ馬場選手」(巨人軍に在籍していたためか?)と実況では呼称していたが、その後は「ジャイアント馬場選手」と実況するようになった。
馬場はまた、1975年から1978年頃の一時期、髪を伸ばしていたこともある。この時、「パーマをかけている」と言われたが、実際は癖毛なのでそう見えるだけだったという。
1995年1月、元子夫人の明石の実家が阪神大震災の被害に遭い、和田・仲田らと家の片付けに向かったが、関西地区の被害を目の当たりにした馬場は、自費でガスコンロや生活用品を買い集め、関西地区に住んでいる全日本のファンクラブ「キングスロード」の会員の家の名簿を取り寄せ、一軒一軒に馬場自らが出向き、生活用品を差し入れて回ったという。
晩年に巨人のOB会に出席した時に、先輩の千葉茂に「おーい、馬場!」と手招きされた際、大喜びで後ろから抱きつき、馬場がおんぶされるような格好で甘えるという珍しい構図になった。目上から呼び捨てにされる機会がほとんど無くなり、久しぶりの事だったのでとても嬉しかったという。
プロレス興行では大会場での試合、地方での売り興行関係なく入場口近くの売店の椅子に座り、グッズを購入したファンにサインを書いていた。馬場の死後の全日本プロレスでは、馬場が座れるようにと、馬場が座っていた場所に椅子が置かれている。
もごもごしたしゃべり方や、こもった低音の声質がものまねのネタになりやすかった。故郷・新潟の風景を題材にした「砂山」を歌うのが好きだったという。
元子夫人との間に子供はいない。馬場は巨人症(下垂体腫瘍肥大)であり、それが遺伝することを恐れて子作りをしなかったといわれている(実際には巨人症が遺伝することはほとんどない)。
巨人軍時代、下垂体腫瘍により視神経が圧迫されて視力障害を引き起こしたため、開頭手術をしたことがある。当時の技術では成功率が非常に低く、医者から「失明する可能性が高いので、見える内にマッサージ師の勉強をしておきなさい」と勧められた程だったが、手術は成功した。
ジャイアント馬場の代名詞「16文」(約38.4cm)は、日本に合う靴がほとんどなかったため、アメリカ遠征の際入手した靴にアメリカ規格の「16」(約34cm)とあるのを見たプロレスマスコミが16文と誤認して、そのまま定着したものである。一部では「16文ではなく16インチ(約40.6cm)」という更に誤った説もあった。
全日本を旗揚げした当初から年8回のシリーズと全国巡業をモットーとし最後の最後まで常設会場は持たなかった。アントニオ猪木率いる新日本が異種格闘技戦など斬新な企画を次々と打ち出しても、馬場は年8回のシリーズと全国巡業という型を続けていた。
読み込み中...