読み込み中...セレッソ大阪(セレッソおおさか、Cerezo Osaka)は、日本の大阪府大阪市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。新聞などの略記では、C大阪、セ大阪と記される(大阪を冠したJリーグクラブに「ガンバ大阪」が存在するため。こちらはG大阪・ガ大阪と略記される)。
ホームタウンは大阪府大阪市。ホームスタジアムは大阪市長居陸上競技場(長居スタジアム)と隣接する長居第2陸上競技場。練習は南津守さくら公園スポーツ広場と舞洲スポーツアイランドのセレッソ大阪グラウンド、尼崎市ヤンマーグラウンドが使用される。普段は南津守さくら公園スポーツ広場が練習やサテライトリーグで使用される。チーム名の「セレッソ(Cerezo)」はスペイン語で桜の意味。桜は大阪市の花でもある。マスコットは狼で愛称はロビー。ロビーの本名はノブレ・バリエンテ・アッチェ・ロビート・デ・セレッソ。高貴で勇敢な、由緒あるセレッソ家の"オオカミの息子"という意味。
前身はヤンマーディーゼルサッカー部。1957年に創部し、JSLの創設とともに関西代表として参加した名門。JSL時代には、釜本邦茂やネルソン吉村らを擁したチームはリーグ4回、JSLカップ2回、天皇杯3回を獲得し関西の雄として輝いた。
前年度までの脆弱な守備力の強化と、大久保嘉人の海外移籍に伴う攻撃力の低下を補うべく即戦力主体の積極的な補強を実施、GKにガンバ大阪から吉田宗弘を完全移籍で獲得、DFには2003年のユニバーシアード大邱大会優勝メンバーの江添建次郎を7クラブに及ぶ争奪戦の末に獲得に成功、テスト生出身の前田和哉も入団した。FWには京都パープルサンガのエース黒部光昭をレンタル移籍で獲得、MFに東京ヴェルディ1969から廣山望をレンタル移籍で獲得した。外国人選手も数年続いた東欧路線から一変して、ブルーノ・クアドロス、ファビーニョ、ゼ・カルロスのブラジル勢を獲得した。当初9位を目標とし、開幕こそは例によって3連敗と出遅れたが、新加入の吉田、ブルーノ・クアドロス、江添が開幕からスタメンに定着、江添が第3節の大宮アルディージャ戦で右ひざじん帯断裂の重傷を負ったが、その穴を前田がしっかりと埋め、ボランチのファビーニョや下村東美とともに守備の建て直しに成功、森島寛晃・西澤明訓・古橋達弥・黒部光昭といった当時のJ1屈指の攻撃陣と攻守の歯車がかみ合いだし、第4節の名古屋グランパスエイト戦で初勝利を挙げると第11節の清水エスパルス戦まで8試合負けなしと好調を維持、前半戦を6勝5分け6敗で折り返した。後半戦は18節のガンバ大阪戦に敗れたものの、その後は負けなしの快進撃を続けてガンバ大阪や鹿島アントラーズ、浦和レッズなどの上位チームがもたつく間に順位を上げ、第32節の大分トリニータ戦を幸運なドローで乗り切って勝ち点57で首位に並ぶと、第33節でガンバ大阪を抜いて首位に立った。勝てば優勝が決まり負け又は引き分けで自力優勝が消えるという状況で迎えた最終節、FC東京戦で1点リードしたまま試合終盤を迎え、ロスタイムを乗り越えれば優勝が決まるという状況でコーナーキックでの競り合いのこぼれ球を今野泰幸に決められ、またも優勝を逃してしまった。翌朝の朝日新聞には「長居の悲劇」との見出しが掲載された。最終順位は5位だったが、後半戦(第18節〜最終節)に限れば10勝1敗6分け、Jリーグ無敗最長記録となる16試合負け知らずという好調ぶりだった。天皇杯も含めれば、準決勝で清水エスパルスに敗れるまで20試合負けなしだった。また、この年は優勝争いをしたこともあり、過去最高の1試合あたり17,648人の平均観客動員数を集めた。
シーズン終了後、ファビーニョが家庭の事情により退団。この他にもベテランの布部陽功と久藤清一を放出(ともにアビスパ福岡に移籍)したほか、黒部光昭と廣山望のレンタル移籍契約を更新しない(黒部は浦和レッズへ再度レンタル移籍、廣山は東京ヴェルディ1969に復帰)など、チームの世代交代を図るためにベテラン選手に対して大なたを振るった。
昨年の快進撃を受け、優勝を目標にしてシーズンを迎えることとなった。戦力補強の面では、東京ヴェルディ1969から山田卓也を完全移籍で、河村崇大をジュビロ磐田からレンタル移籍で獲得、新外国人選手ではピンゴが入団するなど、即戦力では中盤中心の補強を行い、新加入選手では強化指定選手となっていた森島康仁が入団したのをはじめ、大学選抜で活躍した小松塁や高校生ながら素質を見込まれてプロ契約を結んだ香川真司が入団するなど、将来を見越した有望な若手の獲得を進めた。
ところが、開幕4節すべて3失点以上で負けるなど出だしでつまづき、8節終了後、1勝6敗1分と波に乗り切れないチームは小林伸二監督を成績不振を理由に4月18日付で解任、後任に塚田雄二が就任し巻き返しを図った。 しかし、直後の4月22日、サンフレッチェ広島戦(アウェイ)ではかつてセレッソに在籍していた佐藤寿人に、J新記録となる試合開始からわずか8秒でのゴールを決められる(Jリーグ最速得点・失点記録)など、改善のきざしを見ることは出来なかった。6月15日にはRCDマヨルカにレンタル移籍していた大久保がチームに復帰するも勝ち星に恵まれず。8月13日にはジュビロ磐田で出場機会に恵まれていなかった名波浩をレンタル移籍で獲得したことで、チームは徐々に勝ち星を重ねるようになった。11月26日、大宮アルディージャ戦で期待の若手柿谷曜一朗が16歳10ヵ月でプロデビュー。チーム最年少出場記録を更新し、久々に明るい話題を提供した。一時は入れ替え戦進出となる16位をキープしていたが、12月2日のJ1最終戦で川崎フロンターレに敗れ、自力での入れ替え戦進出はなくなった。アビスパ福岡と勝ち点は並んだものの、得失点差で年間17位となり5シーズンぶりにJ2に転落。監督の塚田は降格の責任をとり辞任した。後任は前東京ヴェルディ1969ヘッドコーチの都並敏史を就任させたが、大久保嘉人(ヴィッセル神戸へ)、西澤明訓(清水エスパルスへ)、名波浩(レンタル復帰後、東京ヴェルディ1969へ)、下村東美(ジェフユナイテッド市原・千葉へ)、ブルーノ・クアドロス(退団後、コンサドーレ札幌へ)と攻守の軸となっていたベテラン選手達が次々と退団し、戦力の大幅低下は否めない状態となった。
ヤンマーサッカー部発足50周年という節目の年をJ2で過ごす事になる。前年の主力が抜けた穴を埋めるべく、東京ヴェルディ1969から柳沢将之を、レンタル移籍で鹿島アントラーズから羽田憲司、ヴィッセル神戸から丹羽竜平を獲得、逆にセレッソからレンタル移籍でサガン鳥栖に出していた濱田武とコンサドーレ札幌に出していた千葉貴仁、九州社会人リーグのV・ファーレン長崎に出していた小松塁を復帰させ、新人では立命館大学から阪田章裕が加入し、外国人選手ではブラジルからアレー、韓国ユニバーシアード代表の金信泳を獲得して戦力の建て直しを図り、1年でのJ1復帰を目指すが、またもや開幕三連敗と出遅れた。第4節の京都サンガF.C.戦でようやく初勝利を挙げ、第12節のザスパ草津戦では柿谷曜一朗がJ2最年少記録となるゴール(17歳3ヶ月)を決めるが、森島寛晃が原因不明の首痛で戦列を離脱したことや、一気に若返った選手の適性を見極めるために戦力を使い回して戦っていたために思うように勝ち星が延びず、第14節終了時点で4勝3分け6敗とJ2の9位という成績であったため、5月7日付で都並敏史監督、藤川孝幸コーチ、西村昭宏ゼネラルマネージャーを解任、後任の監督には1997年シーズンに指揮を執ったレヴィル・クルピが復帰した。
就任当初は1勝3敗と負けが先行したが、第19節の試合なし期間を活用した淡路島ミニキャンプで戦術を浸透させ、メンバーも小松塁をFWのスタメンに抜擢、香川真司をサイドに、ゼ・カルロスと柳沢将之を左右のSBに固定するなど、それまでの使い回しから一変した選手起用を実施。これが功を奏して第20節からは4連勝、一時は絶望視されていたJ1昇格争いへの道が開けた。第2クール終了後には、比較的戦力に余裕のあったFW陣から金信泳をサガン鳥栖へレンタル移籍、この移籍で空きができた外国人枠を活用して、ボランチを強化するためにレヴィル・クルピ監督の肝いりでジェルマーノを獲得した。その後第3クールでは9勝3敗のリーグ1位の成績を残し、第4クールでも好調を維持したことからJ1復帰に近づいたように見えたが、開幕の出遅れと、京都サンガF.C.(2勝2分け)以外のJ1昇格争いを繰り広げた上位チームに大きく負け越した(コンサドーレ札幌とベガルタ仙台には1勝3敗、東京ヴェルディ1969と湘南ベルマーレには1分け3敗)ことが最後まで響き、5位でシーズンを終了した。
本シーズンは追撃が今一歩及ばず昇格を逃したものの、FWに抜擢されて12ゴールを挙げた小松塁をはじめ、前田和哉、江添建次郎、濱田武の若手から中堅に差しかかる世代が計算できる戦力に成長したほか、香川真司・森島康仁・柿谷曜一朗が各世代の代表選手に選出されて国際大会で活躍、実力の片鱗を現した。しかし、国際大会で活躍した森島(康)や柿谷クラスの選手でも簡単にレギュラーの座を獲得できず、彼らより先にU-23代表にも選出され、当初スタメンで出場していた苔口卓也が、若手台頭の影でシーズン途中からベンチ入りする機会すらほとんどなくなってしまうなど、チーム内競争も激しさを増した。
また、本シーズンは8月末から9月初めにかけて長居スタジアムで開催された世界陸上選手権大会開催とそれに伴う諸準備があり、7月末の第31節までは隣接する第2スタジアムを本拠地にしていたほか、世界陸上開催前後はその第2スタジアムすら使用できず、テクノポート福井スタジアムや兵庫県立三木総合防災公園陸上競技場といった地方での開催を余儀なくされたため、結局長居スタジアムが試合数全体の3分の1程度しか使用できなかった。そのうち平日の試合が4試合あったことから、平日専用の割引チケットの発売など集客に工夫を凝らしたものの、J2降格の影響もあり、1試合あたりの観客動員数も過去最低の6,627人にとどまった。ちなみに1試合あたりの平均観客動員数で過去最高を記録したのは2005年の17,648人であったことから、2年間でおよそ4割に減少したことになる。
シーズンオフは戦力の流出が懸念されたが、主力では吉田宗弘がアビスパ福岡に完全移籍、苔口卓也がジェフユナイテッド千葉・市原にレンタル移籍したものの、香川真司・森島康仁・柿谷曜一朗らの若手をはじめ、去就が注目されていた古橋達弥も残留した。補強の面ではGKに川崎フロンターレから相澤貴志をレンタル移籍で獲得、退団したゼ・カルロスの後任となる左SBに湘南ベルマーレから尾亦弘友希を完全移籍で獲得、FWにカレカをレンタル移籍で獲得して、戦力の底上げを図った。今シーズンは新キャプテンに前田和哉を任命、若手の香川真司・小松塁らがさらに成長し、中堅・主力とともに巻き返しを図る。
開幕は水戸ホーリーホックに勝利し、久々の開幕戦勝利を納める(ただしこの後2連敗を喫している)。最初のうちは波に乗り切れずにいたが、4月末の愛媛FC戦から、5月は負けなしの7連勝を飾り2位に踊り出る。しかし、6月の初戦である水戸ホーリーホック戦に敗れると、怪我人と出場停止選手が続出。6月は1勝1分4敗と不調に陥るなど苦しみ、7月も1勝2敗1分と勝ち点を伸ばせなかったが、8月は2勝2敗1分とようやく浮上の兆しが見えてきた。
また、香川真司が3月の日本五輪代表に選ばれたアンゴラA代表との試合において、芸術的なプレーでアンゴラゴールを脅かしたことが、日本代表監督である岡田武史監督の目に留まり、香川は平成生まれとしては初の日本代表に選ばれた。これは、セレッソからは大久保嘉人以来4年ぶりの代表選出である。香川はキリンカップコートジボワール代表戦でデビューを果たし、ワールドカップ3次予選には2試合に出場した。香川は8月に行われる北京オリンピック日本代表にも選ばれている。
シーズン中には、名古屋グランパスから青山隼、横浜Fマリノスから乾貴士というように、新人の白谷建人を含めて将来有望で世代別の日本代表の経験がある選手を多く獲得している。これはクルピ監督の方針で、『セレッソに移籍して、さらに成長する可能性のある選手』を獲得する傾向にある。一方でチームにフィットしなかったカレカを解雇したり、出場機会が激減した森島康仁をレンタル移籍で大分トリニータに放出するなどしている。
9月、本間勇輔がスタジアムマスターに就任した。
| 年度 | 所属 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 順位 | 監督 |
| 1994年 | 旧JFL | |30 | ― | 26 | 4 | ― | 優勝 | パウロ・エミリオ |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1995年 | J・サントリー | 26 | 41 | 13 | 13 | ― | 9位 | |
| J・ニコス | 26 | 37 | 12 | 14 | ― | 10位 | ||
| 1996年 | J | 30 | 30 | 10 | 20 | ― | 13位 | パウロ・エミリオ/楚輪博 |
| 1997年 | J・1st | 16 | 19 | 7 | 9 | ― | 11位 | レヴィル・クルピ |
| J・2nd | 16 | 24 | 9 | 7 | ― | 8位 | ||
| 1998年 | J・1st | 17 | 23 | 8 | 9 | ― | 9位 | 松木安太郎 |
| J・2nd | 17 | 21 | 7 | 10 | ― | 13位 | ||
| 1999年 | J1・1st | 15 | 29 | 10 | 5 | 0 | 5位 | レネ・デザイェレ |
| J1・2nd | 15 | 24 | 9 | 6 | 0 | 5位 | ||
| 2000年 | J1・1st | 15 | 29 | 10 | 5 | 0 | 2位 | 副島博志 |
| J1・2nd | 15 | 19 | 7 | 8 | 0 | 9位 | ||
| 2001年 | J1・1st | 15 | 11 | 3 | 10 | 2 | 14位 | |
| J1・2nd | 15 | 12 | 5 | 10 | 0 | 16位 | 副島博志/ジョアン・カルロス/西村昭宏 | |
| 2002年 | J2 | 44 | 87 | 25 | 7 | 12 | 2位 | 西村昭宏 |
| 2003年 | J1・1st | 15 | 25 | 8 | 6 | 1 | 5位 | |
| J1・2nd | 15 | 15 | 4 | 8 | 3 | 12位 | 西村昭宏/塚田雄二 | |
| 2004年 | J1・1st | 15 | 10 | 2 | 9 | 4 | 16位 | ナドベザ・ペーター※/フアド・ムズロビッチ/アルベルト・ポボル |
| J1・2nd | 15 | 16 | 4 | 7 | 4 | 12位 | 小林伸二 | |
| 2005年 | J1 | 34 | 59 | 16 | 7 | 11 | 5位 | |
| 2006年 | 34 | 27 | 6 | 19 | 9 | 17位 | 小林伸二/塚田雄二 | |
| 2007年 | J2 | 48 | 80 | 24 | 8 | 16 | 5位 | 都並敏史/レヴィル・クルピ |
| 2008年 | 45 | ― | ― | ― | ― | -位 | レヴィル・クルピ |
※ナドベザ・ペーターは心臓病で来日せず。
但し1996年度はリーグ戦とカップ戦で別々のデザインのユニフォームを着用した。
| 年度 | 胸 | 袖 | 背 | パンツ | サプライヤー |
| 1994年 | CAPCOM/Nippon Ham | ヤンマー | Nippon Ham/CAPCOM | ? | Mizuno |
| 1995年 | Nippon Ham | ヤンマー | CAPCOM | ? | Mizuno |
| 1996年 | NIPPON HAM | ヤンマー | CAPCOM | ? | Mizuno |
| 1997年 | NIPPON HAM | 2008大阪オリンピック招致ロゴ | Yanmar | ? | Mizuno |
| 1998年 | NIPPON HAM | 2008大阪オリンピック招致ロゴ | Yanmar | ? | Mizuno |
| 1999年 | NIPPON HAM | - | Yanmar | ? | Mizuno |
| 2000年 | NIPPON HAM | タマノイ酢 | Yanmar | ? | Mizuno |
| 2001年 | NIPPON HAM | タマノイ酢 | Yanmar | ? | Mizuno |
| 2002年 | NIPPON HAM | タマノイ酢 | Yanmar | 大装ハウス | MIzuno |
| 2003年 | NIPPON HAM | タマノイ酢 | Yanmar | 大装 | Mizuno |
| 2004年 | NIPPON HAM | タマノイ酢 | Yanmar | SPORTS DEPO | Mizuno |
| 2005年 | NIPPON HAM | タマノイ酢 | Yanmar | SPORTS DEPO | Mizuno |
| 2006年 | YANMAR | H2O | NIPPON HAM | SPORTS DEPO | Mizuno |
| 2007年 | YANMAR | OSAKA PiTaPa | NIPPON HAM | SPORTS DEPO | Mizuno |
| 2008年 | YANMAR | OSAKA PiTaPa | NIPPON HAM | SPORTS DEPO | Mizuno |
| 年度 | 曲名 | アーティスト名 | DJ |
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| 2006年 | Dark Chest of Wonders | ナイトウィッシュ | 西川大介 |
| 2007年 | Dark Chest of Wonders | ナイトウィッシュ | 西川大介 |
| 2008年 | Dark Chest of Wonders | ナイトウィッシュ | 西川大介 |
| 年度 | 曲名 | アーティスト名 |
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| |saturate | ケミカル・ブラザーズ |
各スポンサーの詳細は公式サイトのセレッソ大阪スポンサー一覧ならびにセレッソ大阪サポーティングカンパニーからのリンク先を参照の事。
※その他に「サポーティングカンパニー」制度によるスポンサーがある。