読み込み中...

セレッソ大阪

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

セレッソ大阪(セレッソおおさか、Cerezo Osaka)は、日本大阪府大阪市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。新聞などの略記では、C大阪セ大阪と記される(大阪を冠したJリーグクラブに「ガンバ大阪」が存在するため。こちらはG大阪・ガ大阪と略記される)。

クラブの概要

ホームタウン大阪府大阪市。ホームスタジアムは大阪市長居陸上競技場(長居スタジアム)と隣接する長居第2陸上競技場。練習は南津守さくら公園スポーツ広場と舞洲スポーツアイランドのセレッソ大阪グラウンド、尼崎市ヤンマーグラウンドが使用される。普段は南津守さくら公園スポーツ広場が練習やサテライトリーグで使用される。チーム名の「セレッソ(Cerezo)」はスペイン語の意味。桜は大阪市の花でもある。マスコット愛称はロビー。ロビーの本名はノブレ・バリエンテ・アッチェ・ロビート・デ・セレッソ。高貴で勇敢な、由緒あるセレッソ家の"オオカミの息子"という意味。

クラブの歴史

前身

前身はヤンマーディーゼルサッカー部1957年に創部し、JSLの創設とともに関西代表として参加した名門。JSL時代には、釜本邦茂ネルソン吉村らを擁したチームはリーグ4回、JSLカップ2回、天皇杯3回を獲得し関西の雄として輝いた。

セレッソ大阪立ち上げからJリーグ参戦まで

  • 1993年 - ヤンマーディーゼルサッカー部を母体としてセレッソ大阪を立ち上げる。
  • * 12月6日 - 大阪・中之島のリーガロイヤルホテルにてヤンマーディーゼル(現・ヤンマー)日本ハムカプコンなどの共同出資による新運営会社「大阪サッカークラブ株式会社(英語表記:OSAKA FOOTBALL CLUB CO.,LTD)」の設立と公募により決定したチーム名「セレッソ大阪」を発表。大阪サッカークラブ株式会社の初代社長にはプロ化推進室長だった鬼武健二が就任。
  • 1994年 - 早期Jリーグ昇格を見据え選手の大幅補強とブラジルからパウロ・エミリオをセレッソ大阪初代監督として迎える。JFLで優勝。天皇杯ではJFL所属ながらも当時のJリーグ王者であったヴェルディ川崎を破る大番狂わせを演じたほか、浦和レッズ横浜マリノスらJリーグ勢を次々と破り決勝進出。タイトルを狙うもベルマーレ平塚に 0-2 で敗れ準優勝に終った。Jリーグ開幕後、Jリーグのトップリーグに所属していないチームの天皇杯決勝進出は現時点でセレッソのみである。1995年からJリーグ昇格。
  • *当時のメインスタジアムは長居陸上競技場に隣接した長居第2競技場だった。これは長居競技場が1997年国民体育大会(なみはや国体)開催に伴う全面改修工事を行ったため。しかし、Jリーグの開催基準に適合しないため、1994年夏季から改修工事を施し、この年の後半戦にバックスタンドを座席に変更。1995年の開幕時にナイター照明塔と電光掲示板を設置し改修を完了させている
  • * 3月8日 - 神戸市立中央球技場(現・御崎公園球技場)にウルグアイの名門ペニャロールを迎えてセレッソ大阪としての旗揚げ戦を行う。結果は 0-0 の引き分け。
  • * 10月20日 - 最終節前、台風の影響で延期になっていた藤枝(現・アビスパ福岡)との試合を尼崎市記念公園陸上競技場にて戦う。セレッソはこの試合前時点で単独首位。勝てばJリーグ昇格圏の2位以内はほぼ確定だったが、同時に負ければ自力昇格を失う試合でもあった。試合は90分をスコアレスドローで終える緊張感高まる展開になったが延長後半12分、見崎充洋による決勝ゴールで事実上のJリーグ昇格が決まった。
  • * 10月23日 - JFLの最終節、コスモ石油四日市戦を勝利し柏レイソルを抑えてJFL優勝。Jリーグ昇格に花を添える。

Jリーグ参戦

  • 1995年 - Jリーグ加盟。
  • * 森島寛晃がJリーグのベストイレブンを獲得。
  • 1996年 - 成績不振によりエミリオが監督が辞任。後任はコーチだった楚輪博が監督に昇格。
  • * 7月3日 - ナビスコカップのアビスパ福岡戦で8得点。チーム最多得点記録
  • * 7月27日 - 長居スタジアムが改修終了。それにともないセレッソ大阪のホームスタジアムも長居第2競技場から長居スタジアムへと変更。こけら落しとしてブラジルの名門ボタフォゴを招き国際親善試合を行う。結果は 1-3 でセレッソの敗戦。
  • * 5月11日から10月2日 - リーグ戦で5ヶ月間10試合に及ぶ連敗を記録。チーム連敗最長記録
  • 1997年 - 監督に当時ブラジルの若手有望監督だったレヴィル・クルピを迎える。カプコンが出資から撤退。
  • 1998年 - 松木安太郎が監督に就任。リーグ戦では 34試合中 13試合が 3失点以上という異様な失点のシーズンとなった。韓国代表選手の黄善洪が入団。
  • * 4月15日 - 長居でのジュビロ磐田戦で 1-9 の敗戦。Jリーグ最多失点・得点記録
  • * 8月8日 - 長居での柏レイソル戦で 5-7 の敗戦。試合あたりのJリーグ最多得点記録
  • 1999年 - レネ・デザイェレが監督に就任。
  • * 5月8日 - 長居スタジアム・長居第2陸上競技場ともに「国際グランプリ陸上・大阪大会」に使用するために使えず、対名古屋グランパスエイト戦は、会場を近鉄花園ラグビー場に変えて行った。これには当時関西にJリーグの公式戦基準のサッカー専用グラウンドがなかった(神戸中央球技場が改修工事中だった)ことから、関西のファンに球技専用グラウンドでサッカーを楽しんでもらいたいという趣旨があるといわれている。
  • * 黄善洪がJリーグの得点王ベストイレブンを獲得。
  • * 12月 - 天皇杯を前にレネ監督が辞任。辞任の理由はレネ監督のプライベートなトラブルといわれている。後任は戦術面を担当していた副島コーチが監督代行としてチームを指揮。

逃した栄光と初のJ2降格

  • 2001年 - 1stステージの成績不振から強化部・監督が相次いで辞任し、その影響からシーズン途中に契約し1ヶ月も経っていない外国人選手を次々と登録抹消して新たな外国人選手と契約するなどチームが大混乱をきたす。J1で年間成績最下位となりJ2降格した。天皇杯で二度目の決勝進出も清水エスパルスに延長の末2-3で敗れ、またもや準優勝に終わる。
  • * 7月27日 - 強化担当だった大西忠生副社長が成績不振を理由に辞任退職。
  • * 8月20日 - 監督の副島博志が成績不振を理由に辞任。後任はジョアン・カルロスが就任。
  • * 11月3日 - 対FC東京戦の敗戦によりJ2降格が決定。監督のジョアン・カルロスがこれを受けて辞任。後任にはコーチだった西村昭宏が監督に昇格。
  • * しかし、J2降格が決定してから天皇杯の決勝に進出するまでは7連勝であった(この中には天皇杯の準々決勝でこの年のJリーグ王者であった鹿島アントラーズを下した試合もあった)。

1年でJ1復帰

  • 2002年 - J2で2位となり1年でのJ1復帰を果たした。この年はワールドカップシーズンだったが J2では試合日程の編成に日本代表の強化試合や合宿に対する配慮がまったく行われず、森島寛晃・西澤明訓・尹晶煥ら各国の代表選手不在という苦しいチーム編成で日程をこなす事となった。ただし代表選手不在により大久保嘉人の出場機会が増え、彼の大きな成長を促すシーズンともなった。
  • * 2月25日 - 未明に大阪ミナミで眞中靖夫が暴漢に襲われ頭蓋骨前頭部にひびの入る重症を負う。
  • * 3月21日 - 昼間に長居第2競技場でJ2のセレッソ大阪と川崎フロンターレとの試合が行われたが、夜には隣接する長居スタジアムで日本代表ウクライナ代表との試合が行われたため、セレッソとしては選手・ホームスタジアム・関心など全て日本代表に奪い取られる最悪の日程となった。
  • * 11月16日 - 最終節の一つ手前の43節でJ1昇格を争い、そのシーズンで一度もセレッソが勝てなかったアルビレックス新潟との直接対決。1994年Jリーグ昇格の藤枝戦と同じく勝てばJ1昇格が決定だが負ければ自力昇格が無くなる試合にセレッソが3-0と勝利しJ1昇格を決めた。

迷走する監督人選とチーム作り

  • 2003年 - 1stステージは健闘。しかし、2ndステージに入ると勝てなくなり、2001年にJ2降格が決まってから指揮を執っていた西村昭宏監督はシーズン途中で解任となった。そしてここから監督交替のオンパレードとなる(詳しくは「歴代監督」の項を参照のこと)。また三度目の天皇杯決勝進出となるも、ジュビロ磐田に0-1で敗れ、またしても準優勝に終わる。
  • 2004年 -1stステージは相次ぐ監督交替もあって最下位に終わる。 2ndステージからは大分トリニータで監督を務めた小林伸二が監督に就任し、西村から数えてわずか9ヶ月ほどで6人が監督を務める異常事態となった。そんな中、一丸となったチームは12位で終え、年間順位でも最終節で柏レイソルを逆転し15位となんとか残留に成功した。シーズン終了後、大久保嘉人がRCDマジョルカにレンタル移籍。

再び逃した栄光と2度目のJ2降格

前年度までの脆弱な守備力の強化と、大久保嘉人の海外移籍に伴う攻撃力の低下を補うべく即戦力主体の積極的な補強を実施、GKにガンバ大阪から吉田宗弘を完全移籍で獲得、DFには2003年のユニバーシアード大邱大会優勝メンバーの江添建次郎を7クラブに及ぶ争奪戦の末に獲得に成功、テスト生出身の前田和哉も入団した。FWには京都パープルサンガのエース黒部光昭をレンタル移籍で獲得、MFに東京ヴェルディ1969から廣山望をレンタル移籍で獲得した。外国人選手も数年続いた東欧路線から一変して、ブルーノ・クアドロスファビーニョゼ・カルロスのブラジル勢を獲得した。当初9位を目標とし、開幕こそは例によって3連敗と出遅れたが、新加入の吉田、ブルーノ・クアドロス、江添が開幕からスタメンに定着、江添が第3節の大宮アルディージャ戦で右ひざじん帯断裂の重傷を負ったが、その穴を前田がしっかりと埋め、ボランチのファビーニョや下村東美とともに守備の建て直しに成功、森島寛晃・西澤明訓・古橋達弥・黒部光昭といった当時のJ1屈指の攻撃陣と攻守の歯車がかみ合いだし、第4節の名古屋グランパスエイト戦で初勝利を挙げると第11節の清水エスパルス戦まで8試合負けなしと好調を維持、前半戦を6勝5分け6敗で折り返した。後半戦は18節のガンバ大阪戦に敗れたものの、その後は負けなしの快進撃を続けてガンバ大阪や鹿島アントラーズ浦和レッズなどの上位チームがもたつく間に順位を上げ、第32節の大分トリニータ戦を幸運なドローで乗り切って勝ち点57で首位に並ぶと、第33節でガンバ大阪を抜いて首位に立った。勝てば優勝が決まり負け又は引き分けで自力優勝が消えるという状況で迎えた最終節、FC東京戦で1点リードしたまま試合終盤を迎え、ロスタイムを乗り越えれば優勝が決まるという状況でコーナーキックでの競り合いのこぼれ球を今野泰幸に決められ、またも優勝を逃してしまった。翌朝の朝日新聞には「長居の悲劇」との見出しが掲載された。最終順位は5位だったが、後半戦(第18節〜最終節)に限れば10勝1敗6分け、Jリーグ無敗最長記録となる16試合負け知らずという好調ぶりだった。天皇杯も含めれば、準決勝で清水エスパルスに敗れるまで20試合負けなしだった。また、この年は優勝争いをしたこともあり、過去最高の1試合あたり17,648人の平均観客動員数を集めた。

シーズン終了後、ファビーニョが家庭の事情により退団。この他にもベテランの布部陽功久藤清一を放出(ともにアビスパ福岡に移籍)したほか、黒部光昭と廣山望のレンタル移籍契約を更新しない(黒部は浦和レッズへ再度レンタル移籍、廣山は東京ヴェルディ1969に復帰)など、チームの世代交代を図るためにベテラン選手に対して大なたを振るった。

  • *吉田と古橋がJリーグのベストイレブンに選ばれたほか、前田が優秀新人賞を獲得した。

昨年の快進撃を受け、優勝を目標にしてシーズンを迎えることとなった。戦力補強の面では、東京ヴェルディ1969から山田卓也を完全移籍で、河村崇大ジュビロ磐田からレンタル移籍で獲得、新外国人選手ではピンゴが入団するなど、即戦力では中盤中心の補強を行い、新加入選手では強化指定選手となっていた森島康仁が入団したのをはじめ、大学選抜で活躍した小松塁や高校生ながら素質を見込まれてプロ契約を結んだ香川真司が入団するなど、将来を見越した有望な若手の獲得を進めた。

ところが、開幕4節すべて3失点以上で負けるなど出だしでつまづき、8節終了後、1勝6敗1分と波に乗り切れないチームは小林伸二監督を成績不振を理由に4月18日付で解任、後任に塚田雄二が就任し巻き返しを図った。 しかし、直後の4月22日サンフレッチェ広島戦(アウェイ)ではかつてセレッソに在籍していた佐藤寿人に、J新記録となる試合開始からわずか8秒でのゴールを決められる(Jリーグ最速得点・失点記録)など、改善のきざしを見ることは出来なかった。6月15日にはRCDマヨルカにレンタル移籍していた大久保がチームに復帰するも勝ち星に恵まれず。8月13日にはジュビロ磐田で出場機会に恵まれていなかった名波浩レンタル移籍で獲得したことで、チームは徐々に勝ち星を重ねるようになった。11月26日大宮アルディージャ戦で期待の若手柿谷曜一朗が16歳10ヵ月でプロデビュー。チーム最年少出場記録を更新し、久々に明るい話題を提供した。

一時は入れ替え戦進出となる16位をキープしていたが、12月2日のJ1最終戦で川崎フロンターレに敗れ、自力での入れ替え戦進出はなくなった。アビスパ福岡と勝ち点は並んだものの、得失点差で年間17位となり5シーズンぶりにJ2に転落。監督の塚田は降格の責任をとり辞任した。後任は前東京ヴェルディ1969ヘッドコーチの都並敏史を就任させたが、大久保嘉人(ヴィッセル神戸へ)、西澤明訓(清水エスパルスへ)、名波浩(レンタル復帰後、東京ヴェルディ1969へ)、下村東美(ジェフユナイテッド市原・千葉へ)、ブルーノ・クアドロス(退団後、コンサドーレ札幌へ)と攻守の軸となっていたベテラン選手達が次々と退団し、戦力の大幅低下は否めない状態となった。

2度目のJ2

ヤンマーサッカー部発足50周年という節目の年をJ2で過ごす事になる。前年の主力が抜けた穴を埋めるべく、東京ヴェルディ1969から柳沢将之を、レンタル移籍で鹿島アントラーズから羽田憲司ヴィッセル神戸から丹羽竜平を獲得、逆にセレッソからレンタル移籍でサガン鳥栖に出していた濱田武コンサドーレ札幌に出していた千葉貴仁九州社会人リーグV・ファーレン長崎に出していた小松塁を復帰させ、新人では立命館大学から阪田章裕が加入し、外国人選手ではブラジルからアレー、韓国ユニバーシアード代表の金信泳を獲得して戦力の建て直しを図り、1年でのJ1復帰を目指すが、またもや開幕三連敗と出遅れた。第4節の京都サンガF.C.戦でようやく初勝利を挙げ、第12節のザスパ草津戦では柿谷曜一朗がJ2最年少記録となるゴール(17歳3ヶ月)を決めるが、森島寛晃が原因不明の首痛で戦列を離脱したことや、一気に若返った選手の適性を見極めるために戦力を使い回して戦っていたために思うように勝ち星が延びず、第14節終了時点で4勝3分け6敗とJ2の9位という成績であったため、5月7日付で都並敏史監督、藤川孝幸コーチ、西村昭宏ゼネラルマネージャーを解任、後任の監督には1997年シーズンに指揮を執ったレヴィル・クルピが復帰した。

就任当初は1勝3敗と負けが先行したが、第19節の試合なし期間を活用した淡路島ミニキャンプで戦術を浸透させ、メンバーも小松塁をFWのスタメンに抜擢、香川真司をサイドに、ゼ・カルロスと柳沢将之を左右のSBに固定するなど、それまでの使い回しから一変した選手起用を実施。これが功を奏して第20節からは4連勝、一時は絶望視されていたJ1昇格争いへの道が開けた。第2クール終了後には、比較的戦力に余裕のあったFW陣から金信泳をサガン鳥栖へレンタル移籍、この移籍で空きができた外国人枠を活用して、ボランチを強化するためにレヴィル・クルピ監督の肝いりでジェルマーノを獲得した。その後第3クールでは9勝3敗のリーグ1位の成績を残し、第4クールでも好調を維持したことからJ1復帰に近づいたように見えたが、開幕の出遅れと、京都サンガF.C.(2勝2分け)以外のJ1昇格争いを繰り広げた上位チームに大きく負け越した(コンサドーレ札幌とベガルタ仙台には1勝3敗、東京ヴェルディ1969と湘南ベルマーレには1分け3敗)ことが最後まで響き、5位でシーズンを終了した。

本シーズンは追撃が今一歩及ばず昇格を逃したものの、FWに抜擢されて12ゴールを挙げた小松塁をはじめ、前田和哉、江添建次郎、濱田武の若手から中堅に差しかかる世代が計算できる戦力に成長したほか、香川真司・森島康仁・柿谷曜一朗が各世代の代表選手に選出されて国際大会で活躍、実力の片鱗を現した。しかし、国際大会で活躍した森島(康)や柿谷クラスの選手でも簡単にレギュラーの座を獲得できず、彼らより先にU-23代表にも選出され、当初スタメンで出場していた苔口卓也が、若手台頭の影でシーズン途中からベンチ入りする機会すらほとんどなくなってしまうなど、チーム内競争も激しさを増した。

また、本シーズンは8月末から9月初めにかけて長居スタジアムで開催された世界陸上選手権大会開催とそれに伴う諸準備があり、7月末の第31節までは隣接する第2スタジアムを本拠地にしていたほか、世界陸上開催前後はその第2スタジアムすら使用できず、テクノポート福井スタジアム兵庫県立三木総合防災公園陸上競技場といった地方での開催を余儀なくされたため、結局長居スタジアムが試合数全体の3分の1程度しか使用できなかった。そのうち平日の試合が4試合あったことから、平日専用の割引チケットの発売など集客に工夫を凝らしたものの、J2降格の影響もあり、1試合あたりの観客動員数も過去最低の6,627人にとどまった。ちなみに1試合あたりの平均観客動員数で過去最高を記録したのは2005年の17,648人であったことから、2年間でおよそ4割に減少したことになる。

シーズンオフは戦力の流出が懸念されたが、主力では吉田宗弘がアビスパ福岡に完全移籍、苔口卓也がジェフユナイテッド千葉・市原にレンタル移籍したものの、香川真司・森島康仁・柿谷曜一朗らの若手をはじめ、去就が注目されていた古橋達弥も残留した。補強の面ではGKに川崎フロンターレから相澤貴志をレンタル移籍で獲得、退団したゼ・カルロスの後任となる左SBに湘南ベルマーレから尾亦弘友希を完全移籍で獲得、FWにカレカをレンタル移籍で獲得して、戦力の底上げを図った。今シーズンは新キャプテンに前田和哉を任命、若手の香川真司・小松塁らがさらに成長し、中堅・主力とともに巻き返しを図る。

開幕は水戸ホーリーホックに勝利し、久々の開幕戦勝利を納める(ただしこの後2連敗を喫している)。最初のうちは波に乗り切れずにいたが、4月末の愛媛FC戦から、5月は負けなしの7連勝を飾り2位に踊り出る。しかし、6月の初戦である水戸ホーリーホック戦に敗れると、怪我人と出場停止選手が続出。6月は1勝1分4敗と不調に陥るなど苦しみ、7月も1勝2敗1分と勝ち点を伸ばせなかったが、8月は2勝2敗1分とようやく浮上の兆しが見えてきた。

また、香川真司が3月の日本五輪代表に選ばれたアンゴラA代表との試合において、芸術的なプレーでアンゴラゴールを脅かしたことが、日本代表監督である岡田武史監督の目に留まり、香川は平成生まれとしては初の日本代表に選ばれた。これは、セレッソからは大久保嘉人以来4年ぶりの代表選出である。香川はキリンカップコートジボワール代表戦でデビューを果たし、ワールドカップ3次予選には2試合に出場した。香川は8月に行われる北京オリンピック日本代表にも選ばれている。

シーズン中には、名古屋グランパスから青山隼横浜Fマリノスから乾貴士というように、新人の白谷建人を含めて将来有望で世代別の日本代表の経験がある選手を多く獲得している。これはクルピ監督の方針で、『セレッソに移籍して、さらに成長する可能性のある選手』を獲得する傾向にある。一方でチームにフィットしなかったカレカを解雇したり、出場機会が激減した森島康仁をレンタル移籍で大分トリニータに放出するなどしている。

9月、本間勇輔がスタジアムマスターに就任した。

成績表

年度 所属 試合 勝点 勝利 敗戦 引分 順位 監督
1994年 旧JFL |30 26 4 優勝 パウロ・エミリオ
1995年 J・サントリー 26 41 13 13 9位
J・ニコス 26 37 12 14 10位
1996年 J 30 30 10 20 13位 パウロ・エミリオ/楚輪博
1997年 J・1st 16 19 7 9 11位 レヴィル・クルピ
J・2nd 16 24 9 7 8位
1998年 J・1st 17 23 8 9 9位 松木安太郎
J・2nd 17 21 7 10 13位
1999年 J1・1st 15 29 10 5 0 5位 レネ・デザイェレ
J1・2nd 15 24 9 6 0 5位
2000年 J1・1st 15 29 10 5 0 2位 副島博志
J1・2nd 15 19 7 8 0 9位
2001年 J1・1st 15 11 3 10 2 14位
J1・2nd 15 12 5 10 0 16位副島博志/ジョアン・カルロス西村昭宏
2002年 J2 44 87 25 7 12 2位 西村昭宏
2003年 J1・1st 15 25 8 6 1 5位
J1・2nd 15 15 4 8 3 12位 西村昭宏/塚田雄二
2004年 J1・1st 15 10 2 9 4 16位 ナドベザ・ペーター※/フアド・ムズロビッチアルベルト・ポボル
J1・2nd 15 16 4 7 4 12位 小林伸二
2005年 J134 59 16 7 11 5位
2006年 34 27 6 19 9 17位 小林伸二/塚田雄二
2007年 J248 80 24 8 16 5位 都並敏史/レヴィル・クルピ
2008年 45 -位 レヴィル・クルピ

※ナドベザ・ペーターは心臓病で来日せず。

チームの傾向

Jリーグ加入当時は守備に重点をおいたチーム作りで中位に位置することができた。しかし、1996年以降に攻撃的なチーム作りへとシフトした結果、守備に不安のあるチームとなってしまい、一時、下位のシーズンが続いた。1999年に年間総合6位になってからは、Jリーグ屈指の攻撃力、得点力を誇った。しかし、その分守備力の難は変わらず、大量得点・大量失点の試合が多かった。2005年には小林伸二監督により、守備を重視し、1点を守りきる堅守速攻の戦術に変化した。また何故かトーナメント戦には強く、天皇杯で3度ファイナルまで進み、2度のリーグ優勝のチャンスをつかむ等、一旦流れに乗ると、勝ち続けるチームではある。しかし、2001年、2006年と優勝争いの翌年に必ず低迷し、J2降格を喫するなど、浮き沈みが激しく、しばしばジェットコースターと形容される。ちなみに、リーグ優勝を逃した時の年間順位は共に5位である。またタイトル11冠の鹿島アントラーズが通算成績で勝ち越していない(対戦成績10勝10敗4分)数少ないチームでもある。鹿島が他に勝ち越していないのは清水エスパルス(16勝18敗2分)、横浜フリューゲルス(9勝9敗)のみである(鹿島との対戦が少ないチームは除く)。ここ数年は開幕でつまづく傾向にあり、2004年から2007年まで4年連続開幕3連敗を喫しており、2003年から2007年までは開幕戦で勝利を挙げられずにいたが、2008年の水戸ホーリーホックとの開幕戦で久しぶりの勝利をおさめた。(但し、この後2連敗を喫している。)

獲得タイトル

国内タイトル

  • 1994年 旧JFL優勝
  • *1995年までに参入したチームで、公式のタイトル(Jリーグ(ステージ優勝も含む)、ナビスコ杯天皇杯)を獲得してないのはセレッソのみとなった(1996年参入まで含めるとアビスパ福岡も加わる)。また、JSL優勝経験を持つ後身クラブとしては唯一。セレッソは天皇杯でも3度決勝まで進出、リーグ戦では前述の通り2度最終節前まで首位でありながら優勝を逃すなど、あと1歩のところでタイトルが獲得出来ずにいる。その上低迷も多いので「無冠の帝王」とも言い難い。タイトルを懸けたその試合の内、3回の対戦相手は既にタイトル獲得を経験したチームだった。2000年1stステージの横浜Fマリノス、2001年天皇杯の清水エスパルス、2003年天皇杯のジュビロ磐田がそれらに該当する。

個人別タイトル

ベストイレブン
Jリーグ得点王

歴代監督

チームカラー

  • チームカラーは、桜をイメージしたピンク色と水都大阪の川をイメージした紺色

ユニフォームスポンサー

過去のユニフォームスポンサー

ユニフォームサプライの遍歴

  • 1994年(Jリーグ準会員時代)- リーグ戦・カップ戦ともミズノ

但し1996年度はリーグ戦とカップ戦で別々のデザインのユニフォームを着用した。

歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 パンツ サプライヤー
1994年CAPCOM/Nippon HamヤンマーNippon Ham/CAPCOM?Mizuno
1995年Nippon HamヤンマーCAPCOM?Mizuno
1996年NIPPON HAMヤンマーCAPCOM?Mizuno
1997年NIPPON HAM2008大阪オリンピック招致ロゴYanmar?Mizuno
1998年NIPPON HAM2008大阪オリンピック招致ロゴYanmar?Mizuno
1999年NIPPON HAM-Yanmar?Mizuno
2000年NIPPON HAMタマノイ酢Yanmar?Mizuno
2001年NIPPON HAMタマノイ酢Yanmar?Mizuno
2002年NIPPON HAMタマノイ酢Yanmar大装ハウスMIzuno
2003年NIPPON HAMタマノイ酢Yanmar大装Mizuno
2004年NIPPON HAMタマノイ酢YanmarSPORTS DEPOMizuno
2005年NIPPON HAMタマノイ酢YanmarSPORTS DEPOMizuno
2006年YANMARH2ONIPPON HAMSPORTS DEPOMizuno
2007年YANMAROSAKA PiTaPaNIPPON HAMSPORTS DEPOMizuno
2008年YANMAROSAKA PiTaPaNIPPON HAMSPORTS DEPOMizuno

歴代選手紹介BGM

年度 曲名 アーティスト名 DJ
|--
|--
|--
|--
|--
|--
|--
|--
|--
|--
|--
|--
2006年Dark Chest of Wondersナイトウィッシュ西川大介
2007年Dark Chest of Wondersナイトウィッシュ西川大介
2008年Dark Chest of Wondersナイトウィッシュ西川大介

歴代選手入場BGM

年度 曲名 アーティスト名
|--
|--
|--
|--
|--
|--
|--
|--
|--
|--
|--
|--
|--
|--
|saturateケミカル・ブラザーズ

協賛企業(※2008年8月現在)

各スポンサーの詳細は公式サイトのセレッソ大阪スポンサー一覧ならびにセレッソ大阪サポーティングカンパニーからのリンク先を参照の事。

サポーティングカンパニー

オフィシャルスポンサー

オフィシャルサプライヤー

メディカルアシストパートナー

サッカースクールスポンサー

※その他に「サポーティングカンパニー」制度によるスポンサーがある。

関連項目

外部リンク

セレッソ大阪の関連ワード
 読み込み中...

ブログレシピコミュニティお小遣いふくびき壁紙写真

Copyright(C)2008 GMO Media, Inc. All Rights Reserved.