読み込み中...タモリ(本名:森田 一義(もりた かずよし)、1945年(昭和20年)8月22日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者、俳優、歌手、声優、ラジオパーソナリティー、作詞家、実業家、日本坂道学会(副会長)。福岡県福岡市南区出身、現在は東京都目黒区八雲在住。身長は161cm「ジャングルTVタモリの法則」による測定。。株式会社田辺エージェンシー所属。女優の伊佐山ひろ子とは遠戚。
地元の福岡県で保険外交員、喫茶店従業員、ボウリング場支配人など様々な職を経て、山下洋輔と出会った事などをきっかけに東京へ上京、30歳で芸能界入りをした。
1980年代後半以降、ビートたけし、明石家さんまと共に、日本のお笑い芸人『ビッグ3』の1人として認められている。ビートたけしを「たけちゃん」と呼び、明石家さんまには呼び捨てか「さんちゃん」「さんまちゃん」「師匠」と呼んでいる。
1970年代後半頃までは、萩本欽一、ビートたけしと共に、日本のお笑い芸人『ビッグ3』であった。
現在では司会業が中心で、中には20年以上続く番組がある。司会者ながら、聞き手に回りながらも、相手の何気ない一言を即席の持ちネタにし、話の節目やオチで効果的に連呼し使用する特徴がある。自ら、「省エネ司会」エコ司会者と言っている。特に『いいとも(森田一義アワー 笑っていいとも!)』の司会者として知られ、同じ司会者による最長寿テレビ番組としてギネスブックに登録されており、2009年現在においても記録を更新している。特定の師匠や修行経歴を持たず、素人芸を極めて一家を成した。また料理、船舶、鉄道等と多芸・多趣味で知られる。
「森田一義アワー 笑っていいとも!」、「笑っていいとも!増刊号」、「笑っていいとも!特大号」、「笑っていいとも!春・秋の祭典スペシャル」では本名の『森田一義』を用い、他の番組では芸名の『タモリ』で活動している。(芸名の由来は芸名(愛称)の項参照の事。)また、母親についても幼少の頃に両親が離婚したために、肉親としての母親の実感や記憶がないという。現在では1年に一度ほどは母親と面会している模様。『エチカの鏡』(フジテレビ、2009年2月1日)。
幼少時代は大人びており、「偽善」と言う言葉を知っていたと『いいとも!』で語っている。「ギンギンギラギラ夕日が沈む」を両手を回転しながらおゆうぎしている園児達を見て、おゆうぎが嫌だったために幼稚園入園を拒否し、小学校入学に至るまで、毎日、一日中坂道に立って人間観察を行っていた。自身は「5歳が俺の精神的ピークだったんだから」と冗談めかしく語っている。『とんねるずのみなさんのおかげでした』(食わず嫌い王決定戦)2007年10月4日放送分)前掲書 『タモリのTOKYO坂道美学入門』。。このため坂道好きとなり、後に「日本坂道学会」を設立する遠因となっている。この頃に、両親が離婚している。2008年11月23日放送、エチカの鏡での発言より小学5年生の時、予餞会(卒業生を送る会)で「喜劇カラス天狗」の台本を書き披露したが受けなかった。だが最近になって、現在は脚本家として活躍している同級生と再会した際、「面白かった」との評を受けた。
料理を始めたきっかけは、小学生の時であり、タモリのおばあさんが、「今の内から男も料理をするようにならないと、後々奥さんがいざと言う時に困るでしょ」と「私が料理をしている姿を見ていなさい」と言われ、その時、タモリは料理が嫌いではなく、小学生時代は、学校から帰ると暇でテレビゲームもなければ、習い事もなく、毎日、おばあさんが作る料理の支度姿を見ていたと言う。そして、大学生時代に余り金銭面にも余裕がなく友人らと料理を作ろうとするとタモリ1人が全部の事が身に付いていて、何を食べたいかだいだいの料理は出来て、だしの取り方まで全部覚えていたと語っている。
中学時代から4年間、近所のバプテスト派のキリスト教会に通ったという。本人曰く「牧師を芸人のように見ていた。」とのこと平岡正明『タモリだよ!』P.181。船が好きで、良く地元の港に行って船をずっと見ていた。そこで、どこの船なのかを全部知っていたと話している。
高校時代には、吹奏楽部でトランペット兼司会を担当。アマチュア無線クラブにも入っていて、船の無線通信士にもあこがれた。さらに居合道場にも通い、二段を取得した『ザ・ヒーローズ2 宝島ロング・インタビュー集』(JICC出版局 1983年)。
福岡市立高宮中学校、福岡県立筑紫丘高等学校を卒業後、1年間の浪人生活を送る。大学浪人中はしばしば押入に潜り込み、韓国や中国からのラジオ放送を長時間聴いていた。これが藤村有弘以来と言われた「インチキ外国語芸」へとつながった。また、座禅を組んでトリップ状態を経験したこともある平岡正明『タモリだよ!』P.182。
1965年に早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学。その後学費未納のため抹籍処分となる早稲田大学学生部編「第800号記念」『早稲田ウィークリー』、早稲田大学学生部、1997年4月17日。。
早稲田大学在学中はモダン・ジャズ研究会に在籍し、トランペットを演奏。同期に増尾好秋、1年先輩には鈴木良雄らがいた。「マイルス・デイヴィスのラッパは泣いているが、お前のラッパは笑っている」などの批評を受け、主にマネージャー・MCを担当することになった。このことは、後の話芸の基礎ともなった。この時期、学生バンドの司会としてTBS番組「大学対抗バンド合戦」に出演し、MCの大橋巨泉からその才を認められている。
早稲田大学を去った理由は、2年次の5月の連休、友人2人と旅行を計画し、学費用に仕送りされた資金を旅行用に一旦充てたが返済されず、自分の授業料が払えなくなったためである。学費未納のため抹籍という処分となった。ただし、モダン・ジャズ研究会のマネージャー役は続行し、かなりの収入を得ていた。
1968年に帰郷。保険外交員(朝日生命)時代は営業成績がトップクラスであり、表彰されたこともある。この時期に同僚の女性と結婚した。また、喫茶店の雇われマスターだった頃には、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。
30歳まではタモリ自身何をやってもいいだろうと思っていたが、30歳からはちゃんとした事をやっていかなければならないと思ったタモリは何が向いているだろうと思い、自分はお笑いの道に向いていると確信し芸能界入りを果たした。
きっかけは、ジャズ・ピアニストの山下洋輔との出会い。1972年、タモリが大分県日田市のボウリング場支配人だった時に始まる。当時の山下は、ライブ後ホテルで乱痴気騒ぎをすることを常としており、渡辺貞夫のツアーメンバーの1人として福岡を訪れた際も同様であった。
サックス奏者(資料によってはドラムス奏者とする場合もあるがこれは間違い)の中村誠一が部屋にあったゴミ箱を頭にかぶり、メンバーで歌舞伎の踊りや狂言など虚無僧ごっこをして遊んでいた。タモリは渡辺貞夫のマネージャーと学生時代の友人同士であったために同じホテルで飲んでいたところ、廊下まで響くその騒ぎを聞きつけ、鍵の開いていた部屋へと乱入し、ゴミ箱を取り上げて自ら歌舞伎踊り始めた。中村はその非礼をインチキ朝鮮語でなじったところ、タモリがそれより上手なインチキ中国語で返答したために双方が意気投合したという。後日、「この男はジャズ・ファンに違いない」と確信した山下らジャズメンが博多のジャズバーに片っ端から問い合わせた結果、とあるジャズバーで発見されたただし、山下がこの時点でタモリが誰かを知らなかったというのは、山下が意図的に作った「伝説」で、実際はタモリは昼間行われた山下らのライブを聞きにきており、そこで知人から紹介されていたという。タモリはホテルの扉を開けなければ、芸能界に入っていないかもしれなかったと言い、「人生の扉である」と上手くまとめている。ちなみに「人生の扉である」とはここ数年前に思いついたらしい。
平岡正明『タモリだよ!』P.184参照。。その後、新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」の常連(奥成達、高信太郎、長谷邦夫、山下洋輔、森山威男、坂田明、三上寛、長谷川法世、南伸坊ら)で結成された「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」のカンパによって、1975年6月に上京を果たす。開かれた独演会では「四ヶ国語麻雀」や、「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」などのリクエストを含めた即興芸を披露し、筒井康隆、唐十郎、山下洋輔ら臨席した全員を感動させる。また、タモリの芸は奥成達から「密室芸」と命名された。
臨席したうちの1人である漫画家の赤塚不二夫は、「この男を博多に帰してはいけない」と引き留め、自らの家に居候させた。また、のちにプロデューサー的にタモリを売り出し、しばしば一緒に仕事をした高平哲郎にも、しばらくして「ジャックの豆の木」で芸を見せ、意気投合している。また作家の阿佐田哲也は、タモリと赤塚不二夫が裸で抱き合っているバカ騒ぎの場面に出くわし、その様子を自分の小説の中で描写した。初期の真ん中分けの頭にアイパッチという姿は、カメラマンの浅井慎平が「(サイレント映画の大スター、ルドルフ・バレンチノ風にしよう」とスタイリングされたもの。
バーでの一件の直後、赤塚不二夫自身が出演する生放送にそのまま連れて行ってインチキ牧師などのパフォーマンスを演じさせたところ、黒柳徹子からその夜のうちに照会があったそうで、彼女の感性の鋭さに感心したと赤塚不二夫がコメントしている。
タモリが赤塚不二夫宅での居候生活は、住居は家賃17万円で4LDKのマンションであり、車はベンツのスポーツが乗り放題、赤塚からは月に20万円の小遣いが渡されるというものだった。赤塚本人は下落合の仕事場のロッカーを倒し、布団を敷いて寝ていた。赤塚以外ではこんな関係は成り立たなかっただろうとタモリも認め、大恩人だと語っている。ちなみに赤塚は自書の漫画で、「これだけ一緒に暮らしているんだから愛し合うことも出来るんじゃないか」と、2人で同性愛に挑戦して抱き合ったが、全く興奮せず、何もなかったと描いており、タモリも同様の趣旨の発言をしている。タモリが考える居候の秘訣は「卑屈になるな」。
1975年、30歳で芸能界入りする。東京12チャンネル(現:テレビ東京)の深夜番組『空飛ぶモンティ・パイソン』でデビュー。その後、日本テレビの棚次隆プロデューサーの目に留まり、『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系列)でレギュラーの座を獲得し、『オールナイトニッポン』で人気を不動のものとする。
「戦後最大の素人芸人」を自称していたデビュー当時は常にアイパッチを使用していた。お笑いタレントでありながら愛想笑いやヨイショ芸をせず、どこかインテリ風で何を考えているか分からないという革命的な芸風だった。サブカルチャー好きの若年層には好評を博すが、中高年層には強い印象を与えつつも「薄気味が悪い」と不評だった。「恐怖の密室芸人」という評も与えられていた。
『ザ・ベストテン』に臨時司会者として出演したことがあり、この際に当時アイドルであった田原俊彦をネタにしたことでファンからの抗議が殺到した。ただし『ザ・ベストテン』の司会者の1人であった黒柳徹子とは親交が深く、トーク番組『徹子の部屋』では、年末にタモリがゲスト出演し、黒柳に新作モノマネを披露するのが恒例になっている。
当初自分の独特の芸風が壊されるという理由で師匠につかず事務所に入らずの方針で活動していたが田邊昭知が芸風は自由にやらせるという条件付で自ら直々に口説き落としたという。1977年には赤塚不二夫、滝大作、高平哲郎らと「面白グループ」を結成する。週3回以上の宴会を催し、その成果を何らかの方法で発表することを目的にした団体である。坂田明、内藤陳、小松政夫、団しん也、たこ八郎、三上寛、研ナオコ、柄本明、所ジョージ、大ブレイク前のアルフィーや、劇団東京ヴォードヴィルショーのメンバーも参加。一時はビートたけしも参加していた(ただし、当時のたけしは、タモリの芸風を嫌って、すぐに脱退した)。1979年には『ケンタッキー・フライド・ムービー』の日本版として作られた、山本晋也監督のコメディ映画『下落合焼とりムービー』に所ジョージやアルフィーらと共に出演した。同1979年、渋谷公会堂で「第一回いたいけ祭り」という、タモリや赤塚の「宴会芸」を見せるイベントを行う。また、面白グループ名義で、当時ヒットしていた女子大生二人が執筆した書籍『ANO・ANO(アノアノ)』のパロディ本、『SONO・SONO(ソノソノ)』を刊行。ベストセラーになった。
1976年10月から1983年9月までラジオ番組『タモリのオールナイトニッポン』(水曜1部)に出演し、当時人気だったオフコースや、フォーク歌手のさだまさしとアリス、名古屋及び名古屋人、作家の五木寛之などに対しての批評を行い、ファンとの対立を起こした。オフコースについては「軟弱なフォーク、根暗なヤツが聞く音楽」、さだまさしは「女々しい、わざとらしい、歌よりトークが長い」アリスは当時行なわれたハンド・イン・ハンド運動を「もてない根暗ファンの自己満足」、そして名古屋と名古屋人は「東京と大阪に挟まれ独特のコンプレックスがある、田舎なのに都会ぶる、人間がずうずうしい、エビフライをごちそうだと思っている、名古屋弁は響きが汚い」、五木寛之は「文化人づらをして、自分が書いた作品に出演する女優をくどいてばかりいる」等とそれぞれに対して評した。その他、特産物や観光地が少ない埼玉県をダ埼玉と発言したり、『いいとも』では明石家さんまと共に佐賀県をこき下ろす発言を繰り返したりした。
また、番組内で「根暗」という言葉を発明。タモリは「こう見えて、オレは根が暗いから」等と「表面的に明るいが、根は暗い人」という意味で使用していたが、世間的には「根っから暗い人」という意味で、「ネアカ」「ネクラ」と対比されて、悪口として流行した。
1982年10月4日からフジテレビ系列の平日お昼の生放送バラエティ番組『笑っていいとも!』の総合司会者に就任。この番組で人あしらいのうまさと知性を買われるようになる。以降は各種バラエティー番組の司会者としての活動が主となり、1980年代初頭までの個人芸をテレビ番組で見る機会は少なくなる。
『いいとも』におけるタモリの起用理由については、プロデューサーの横澤彪が「夜の顔だったタモリをあえて昼にもってきて意表をついた」と語っている。そのため当初は視聴者にとって違和感のある人選だったが、番組はヒット。1986年に4周年を迎え放送1000回を、1990年に8周年を迎え放送2000回を、1994年に12周年を迎え放送3000回を、1998年に16周年を迎え放送4000回を、2002年に20周年を迎え放送5000回を、2006年には24周年を迎え放送6000回を達成した。
1983年12月31日にはデビュー8年目にして『第34回NHK紅白歌合戦』の紅白総合司会を務める。2009年現在に至るまで、現役・元アナウンサー以外の紅白総合司会者はタモリのみである。
総合司会を担当した際、『いいとも』風に観客に呼びかけた(詳細は「第34回NHK紅白歌合戦」参照)。また終盤で白組キャプテンの鈴木健二が持っていた優勝旗がタモリの顔を隠し、タモリは振っている手の先しか映らない状態になった。この時の事をタモリは「『気くばりのすすめ』を書いた人の素晴らしい気くばりでした」と皮肉っている。2008年12月26日、徹子の部屋(テレビ朝日系)にてお笑いBIG3は、FNSの日であった『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』、『タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀のゴルフマッチ』などの番組も終了し、日本のお笑いタレントとしてのビッグ3を使用することは、(昔よりは)少なくなっている(2009年現在は「BIG3」を冠したお笑い番組はない)。
そのため、日本のお笑いタレントとしてのビッグ3を知らない世代、お笑い好きも増えつつある。しかし、業界人の間では今でもしっかりと根付いており、テレビ局等での扱いにも他のお笑いタレントとは明確な差があり、例えば笑福亭鶴瓶が番組内で「BIG3になりたい(入りたい!)」と語っており、若手芸人の場合はBIG3との共演の有無がお笑い芸人としての一種の格付け要素となっていて実際にギャラに影響するほか、「ミドル3」という呼び方が間接的に使用されることもあるなど、完全に消えたわけではない。
この3人がBIG3という概念はフジテレビ自身が生み出したもので、日本テレビにとってはたけし・さんまに、長らく出演の無いタモリではなく所ジョージを加えた3人がBIG3であるが、番組スタッフがフジテレビのBIG3のファンであったため、タモリ・たけし・さんまの3人の出演を望みこのような形になったことを明かしている。またスケジュールを調整して3人の共演も企画していたが、それぞれが3人が多忙のため実現しないことも明らかにした。
ラジオにおける活動は、『いいとも』出演以降も行われている。『オールナイトニッポン』のパーソナリティを務めた過去から、ナイターオフシーズンにはニッポン放送にレギュラー番組を持つ。2005年に起きたライブドアによる一連のニッポン放送に関する騒動に対し、「仮にニッポン放送がライブドアに買収された場合は、ニッポン放送への出演を取りやめる」と所属事務所を通じて公言していたが、この事件が解決したことで、同年秋からはブリタモリ大百科事典に出演した。この番組以降、2009年現在は毎年、冬季に放送されていたラジオのレギュラー番組は持っていない。
大地真央には大地が宝塚歌劇団の頃に、タモリが作詞・作曲家を手掛けた。曲名は「タモリさんが作った歌」であり、編曲は小笠原寛。CD「この愛よ永遠に〜TAKARAZUKA FOREVER〜」の1曲に入っている。
2008年8月2日、タモリのコメディアンとしての才能を見抜き、地元・福岡から上京させて、自宅マンションに居候までさせた赤塚不二夫が亡くなった。
死去の2日後に事務所を通じて追悼のコメントを発表し、「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉も載せた。
また、同年8月6日の赤塚の通夜、及び8月7日の葬儀・告別式に参列し、告別式では「私もあなたの数多くの作品の一つです。」との弔辞を読み上げた。この弔辞は7分56秒にも及ぶものであり、手にしていた紙を何度も見ながら読んでいたが、実際には紙は白紙だったとの報道が一部でなされた。
なお、横澤彪によると、後日行われたいいともスタッフの通夜でタモリと会っており、横澤が尋ねるとこの事実を認め、前夜に書こうとしたが面倒になったので勧進帳のギャグをやる事にしたとのこと。ちなみにオチは「自分のマネージャの名前がトガシ」だから(詳細は勧進帳、および原作の安宅の項をそれぞれ参照)だそうである。
座右の銘は「適当」、「現状維持」、「やる気のある者は去れ」など。
タモリの知識(ウンチク)は多彩で世間で知られ、哲学・写真・建物・建築・文学・歴史・アングラ・絵画・骨董・書道・地理・地名・産業・詩吟・俳句・落語・能・歌舞伎・宝塚・文学・ミュージカル・芸能・食・道路・政治・経済など幅広い。
番組内で良く冗談事を言う。例えば、俺は昔(歌手、外国籍、モデル、ラッパー、子役、ZOO、アイドル など)だった。また、特徴のある芸能人、一般人をすぐにものまねをしてすぐに公表する。他には、特徴のある芸能人、一般人の顔をフリップなどに似顔絵を良く描く。
芸名である『タモリ』は、本名の「森田」の前後を入れ替えたもので、元々は学生時代の愛称である。通常『タモリさん』、『タモさん』と言われ、和田アキ子、愛川欽也、おすぎとピーコといった親しい芸能人からは『タモちゃん』、トリビアの泉で品評会会長に就任以降、高橋克実、八嶋智人、ビビる大木の3人からは「会長」と呼ばれている。生前の丹波哲郎からは「座長」と呼ばれていた。80年代前半までの映画作品では、『タモリ一義』という名前で出演したことがある。
また、とんねるずの石橋貴明が矢島美容室でいいとも!やミュージックステーションに出演した際、『リモタ』と呼んでいた。他には「お昼の顔」や「夜の顔」、「大物司会者」、お笑い界の「大御所」とも呼ばれたりしている。
小柄であり、「年を取ってくると背が縮むんだよ」と良く言っている。身長を上に上にとサバを読む事が良くあり、他のタレントと背を比較する時には「俺が182cmあるから」などと良くウソをつく。また、笑顔になると前歯がすきっ歯である。髪型はデビュー当時、真ん中分けにしていた。いいとも!開始時から7:3に分け、1990年7月末の事故をきっかけに現在のオールバックに至っている。
デビュー当時の芸は、「中洲産業大学芸術学部西洋音楽理論教授」や「タモリ教授」、「森田一義助教授」といった架空の肩書きをしばしば名乗り、「ハナモゲラ語」、「イグアナのモノマネ」、「4カ国親善麻雀」などを披露するというものだった。当時はあまりモノマネの対象とされていなかった朝鮮語(北朝鮮のアナウンサー)やベトナム語も取り上げている。特に評価の高いモノマネに「寺山修司」がある。これはしゃべり方や身振りの模写のみならず、話す内容自体はタモリ自身が考えたものでありながら「いかにも寺山修司が語りそうな物言い」をするという点(寺山自身が生前「喋る内容や論理の組み立て方が(自分と)同じである」と語っていたhttp://www.flickr.com/photos/32252476@N04/sets/72157611706808436/)で画期的であり、それ以前の政治家のモノマネや歌手の歌真似を中心とする「声帯模写」芸とは題材やアイデアの面で一線を画し、後の「モノマネ」に多大な影響を与えた。こうした芸は「思想模写」と称され、レパートリーとして「野坂昭如」や「竹村健一」などがあった。他では田中角栄、大橋巨泉、永六輔、横井庄一、浦辺粂子、久米明(ナレーション)など。
最近のモノマネでは、麻生太郎(内閣総理大臣)、森山周一郎(声マネ)、滝口順平(声マネ)、笑福亭鶴瓶、石原良純、おすぎ&ピーコ、DAIGO、ボビー・オロゴン、生まれたての子馬、ハゲタカの着地、携帯電話のバイブ、ジャングルにいるオランウータン、毛玉が喉に詰まった猫、童謡の女性の歌い方、トロを食う男など、多彩なレパートリーがある。
1986年には、タモリの半生を描いた『歌と笑いの41年 戦後タモリ史』という番組が放送された。
また、2007年10月4日放送『とんねるずのみなさんのおかげでした春スペシャル』では、タモリが初登場で、新食わず嫌い王座決定戦で松田聖子と対決をして、1回目、タモリはさんまの塩焼き、松田はチキンの照り焼きを実食したが引き分け。2回目、タモリはピータン、松田はししゃもで実食しタモリが負けてしまい罰ゲームとして久々にコンドルの着地を披露し、また、罰ゲームでは言わなかったイグアナを松田の赤いスィートピーにのせてイグアナを披露した。
『サユリスト(吉永小百合愛好家)』の1人として有名。早稲田大学においては吉永小百合と在学時期が重なっており、学生食堂で吉永と遭遇した際、彼女が食事を済ませ立ち去った後に食べ残した食パンの端を見つけ、食べたい衝動に駆られ理性と欲望の狭間で暫し様子を窺ったが、勇気が無くて結局諦めたという。現在に至るまでサユリストを貫いている。「いいとも!」のテレフォンゲスト綾小路きみまろに吉永から花が届くと「何で?」と訝しげになり「花を持って帰る」と言い出す。また笑福亭鶴瓶が映画「おとうと」で吉永と競演しており、鶴瓶が出演する木曜日は決まって自慢話を聞かされる。竹中直人もテレフォンゲストで登場した時に、吉永と映画で共演した自慢話をしていた。 タモリ自身は「今夜は最高!」などの番組で共演した事がある。
桜田淳子もタモリが好みの人物であり、『いいとも!』の第1回目の生放送時の「テレフォンショッキング」1人目のゲストとして、タモリが指名してから現在へと『友達の輪』が繋がっている。
デビュー当時は、眼帯(アイパッチ)を着用をしてテレビ番組やCDのジャケットなどに出演していたが、『いいとも!』が始まった以降は、主にレイバンサングラスを使用し、2009年現在に至るまでタモリのトレードマークとなっている。昼の帯番組ではイメージが良くないという配慮からサングラスのみを使用した。このサングラスは、昼番組と夜番組を併せて1982年の番組開始2週目、1990年7月、1991年、1996年、2002年の5回変わっている。『いいとも!』開始当初から1990年までと1991年から1996年までの頃は「昼の番組で真っ黒なサングラスはいかがなものか?」という理由から目元がほぼ見える薄茶色のサングラスを着用していた。『いいとも』以外の番組では黒色のサングラスを着用しており、1996年から2009年現在の『いいとも』を含む全番組出演時は黒色に統一されているが、同型でレンズカラーの違うスペアサングラスを所持しているようだ。また現在着用している黒い色のサングラスは俳優の内藤剛志からのプレゼントである。
また、1995年4月12日・4月13日放送分と2008年4月3日放送分の『いいとも』ではその当時のいつものサングラスとは違うサングラスをかけており、当時話題となった。
デビュー当初はディップ(整髪料)で固めて、頭の真ん中分けで、中州産業大学教授を演じる時のみボサボサとした髪型にしていた。その後、「いいとも!」開始時でも、ディップで固めた7:3分けで数々の番組に出演していた。これは、当時の第二次アイビーブームの流行に沿った物だったのか、分け目の髪の毛の薄さが誰の目にも明らかであった。 自らが所有するプレジャーボートに乗り移ろうとして東京湾の岸壁から転落し、「頭部に裂傷を負った」と1990年8月頃から髪型を現在のオールバックに変更。それまでの整髪料で固めたヘアスタイルとは明らかに異なるボリューム感が出ており、各メディアなどからカツラ疑惑が持たれるようになった。事実、カツラではない。
だが、明石家さんまがカツラ疑惑が当時、流れた時にタモリがいいとも!本番中に「髪引っ張ってみてよ」と言ったが、さんまが本当にカツラだったらどうしようと迷った結果、引っ張らずに遠慮したため、また、世間に広まってしまったと言うエピソードがある。
また、頭髪自体はやや薄くなってきており、「薄くなってきた」、「被ってる」、「カツラ」などの言葉には敏感である。
タモリは安産祈願の神様と言われている。何人もの逆子を直したり、出産を間近にしている著名人や一般人に色紙等に書いている場面がテレビなどで観受けられる(ただし描かれている図形そのものは女性器を簡素化した放送禁止のものであるため、電波に乗ることはない)。その際、安産祈願と称して「安産!スッポン!」なる呪文めいた言葉を口にすることも少なくない。安産祈願第1号は坂東三津五郎の長女である。過去に4人の逆子を治した事があると言っている。タモリ自身は安産祈願の成功率は90%だと主張している。
ミュージカルが苦手で知られ、良くいいとも!で「脈絡もなくいきなり歌いだすのが不自然」、「何で歌うのかが分からない」と語っている。海外作品を日本で上演する際には「どうみてもアジア顔の奴が『スティーブ』だの『ジャクリーン』だの言い合ってるのをみると寒気がする」といった趣旨の発言をたびたび行っている。最近はミュージカルに関心を持ってきているようだ。
40代頃まで喫煙をしていたが、健康維持をきっかけに禁煙した。現在でもお酒は良く飲み「タモリ倶楽部」の飲み企画でビールや焼酎を良く飲んでいる。自宅にはワインセラーがあり、ワインやウィスキーも飲んでいる。タモリは「お酒は毎晩欠かさず飲むよ」と言っている。1日1万歩を目標に必ず散歩に行くと言う。最近、散歩の際には他の人が住んでいる家を正面から眺めるのが好きだと言っている。昭和の感じの家が好きらしい。
平日は、朝・昼食はしっかり食事をするが、昼食をする時間が『いいとも!』終了後で14時頃になるから、夕食は食べない。14時頃に食事をしたら、夜になってもお腹は空かないと言っている。休日は3食必ず食べている。
数年前から花粉症で悩まされている1人である。数年も前から春になると目が痒い、鼻水や鼻声になると言い、花粉症の話題を必ず『いいとも!』などでする。
タレント活動とは別に、実業家として、静岡県伊豆には海鮮もんじゃ屋の経営をしている。週に1回はその店に顔を出している。他には毎年、正月には伊豆に行っている。
「森田一義アワー 笑っていいとも!」(放送開始27年)、「笑っていいとも!増刊号」(放送開始27年)、「笑っていいとも!特大号」(放送開始27年)、「タモリ倶楽部」(放送開始27年)、「ミュージックステーション」(放送開始23年)、「ミュージックステーションスーパーライブ」(放送開始17年)、「世にも奇妙な物語」(放送開始19年)と言ったタモリが持つレギュラー番組は、現在も続く長寿番組である。
番組を長く続ける秘訣は「自分の番組を好きでいなければいけない」、「一々、反省はしない」、「自分が出演しているテレビは一切観ない」と言っている。
また、タモリと言えばマイクを「森田一義アワー 笑っていいとも!」、「タモリ倶楽部」、「ミュージックステーション」と言ったタモリが持つレギュラー番組には、必ずと言っていい程、マイクを司会で使用している。タモリは「俺はいつも欠かさずマイクは何処に行くにしろ持ってるからねぇ」と言っている。
上記は1980 - 1990年代当時のレギュラー番組であるが、このうちNTV、TBS、CX全ての番組の視聴率が10 - 20%をマークした。その他、テレビ番組以外にも歌手としてのCD・レコードリリースとライブ活動なども行っていた。この頃により、ビートたけし・明石家さんまとともに、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。
タモリはバラエティ番組で活躍しているタレントとして有名だが、ドラマ出演も数多くこなしている1人でもある。ドラマ初出演作品はNHK『ドラマ人間模様「詐欺師」』であった。このドラマは連続ドラマであり、大谷直子とのベッドシーンやキスシーンもあった。他には、日本テレビ系列『月曜スター劇場なぜか、ドラキュラ』、『今夜は営業中!』、TBS系列『代議士秘書の犯罪』、『不連続爆破事件』、『ミセスとぼくとセニョールと!』、『月曜ドラマスペシャル『自主退学』、フジテレビ系列『世にも奇妙な物語』、『X'smap〜虎とライオンと五人の男〜』など、主人公役が多数あった。
タモリの交友関係は幅広く、芸能界はもちろん、アーティスト、外国人タレントなど。井上陽水、福山雅治とはメル友仲間で、特に井上とは旧知の仲である。お正月にはSMAPの草彅剛、香取慎吾がタモリ宅にやってくる。また、2009年のお正月には稲垣吾郎が初めて訪れ、タモリ宅でのサルサパーティーでは茫然としていた。
気の合う著名人などは、一緒に外食に行ったり、タモリ宅に来てタモリが作った食事を食べに来る芸能人も数多くいる。だが、タモリはキッチンでずっと料理を作っているため、その輪の中には入らずに料理に没頭していると言う。(明石家さんまなどが証言。)黒柳徹子とは、タモリとの交友関係も深く、黒柳はタモリの知名度を上げるきっかけを作った人物の1人でもある。タモリがデビュー後に赤塚不二夫のテレビ番組に出演しているタモリを見て、放送終了後に黒柳が「(タモリに)この人誰なの?とても面白い。今度、徹子の部屋に出演してほしい」と赤塚に電話をしたらしい。そして、黒柳との交友関係が広まって行き、毎年、最後の徹子の部屋にゲスト出演をしている。
1984年3月14日生放送分の『笑っていいとも!』の名物コーナー「テレフォンショッキング」に生出演した際に、43分間しゃべり続ける(長話)と言う伝説を残した。そのために、放送時間が無くなり、「テレフォンショッキング」の後に予定されていたコーナー2つのうち1つを無くさなければならない事態となり、双方の司会担当者がじゃんけんをして、潰す方を決めた。そして、2005年12月16日 生放送分に21年ぶりに登場し、またも放送時間内で39分間しゃべり続けた。この為か「テレフォンショッキング」での出来事のためか1998年までフジテレビの番組には殆ど出演せず、それ以降も5回程度しかフジテレビに出演はしていない。
徹子の部屋の年間最終の放送のゲストは1978年から毎年、必ずタモリ(初出演は1977年8月11日)が出演し、2009年の出演で33回目を数える。また最近はタモリ司会の『ミュージックステーションスーパーライブ』が放送される金曜日が年間最終放送日となることが多い。タモリとの付き合いは、タモリが当時のNET(現テレビ朝日)の「赤塚不二夫の世界」というお昼の生番組でインチキ牧師役でTVデビューした時に、余りの面白さに黒柳が「今の人、誰?すごいじゃない」と直接TV局の赤塚へ電話を掛けてからだという。これが芸能人からの最初の「面白い!」の電話だったと言う。放送では今ではテレビでほとんど見られなくなったなんらかの「密室芸」の披露をしているが、1980年代の放送では「マヨネーズ石狩鍋」や「たくあんのとぎ汁で作ったクリームソーダ」など、通常では考えられないゲテモノ料理を2人で作って食べるのが恒例となっていた。
和田アキ子とは、現在では「いいとも!」の人気コーナーである「テレフォンショッキング」で共演する程度であるが、「金曜10時!うわさのチャンネル!!」で和田と最初に共演した番組でもある。
とんねるずとは素人時代にお笑いスター誕生に出演した際、あまりに突飛なネタで他の審査員からの評価は芳しくなかったが、審査員の1人であったタモリは「お前らなんだかわからねえけど面白い」と評価したことからとんねるずは好印象を抱いている。この当時、とんねるずを評価していたのはタモリとその世話人であった赤塚不二夫だけであった。これは、タモリもまた特定の師匠に付かずに素人芸を極めて芸人となった経緯を持ち、特定のカテゴリーに収まりきれない芸風だったことによる理解が大きい。
タモリに誘われて「タモリのオールナイトニッポン」の見学にとんねるずの2人が行った際、このままお笑い芸人として本格的に活動するべきかどうかタモリに相談を持ちかけて、「やりたかったらやってみればいい」というタモリの言葉に後押しされて本格的にプロの道に進む決心をしたと言う逸話もある。(2007年10月4日放送の「とんねるずのみなさんのおかげでした」より、新・食わず嫌い王決定戦でタモリと共演した際に)とんねるずは、「タモさんがお笑いスター誕生の審査員じゃなかったら僕たちはこの世に出てなかった」と語っている。また、その話を聞いたタモリは、『(ここまで伸びるとは思わなかったから)あの時つぶしとけばよかった』『この番組も20年も続くとは思わなかった。こんなに続いてもらうと困る。』と話している。その後、木梨は2008年に「オールナイトニッポン40周年SPのタモリのオールナイトニッポン」の復活特番にゲスト出演をしている。
タモリとたけしの2人だけの共演が少ないことと、逆にたけしとさんまの2人だけの共演が多いこともあって、BIG3が一堂に会したときはタモリとたけし・さんまという2対1の構図(さんまがたけし側にくっつく)ができてしまい、タモリは「2対1にするな!」「川端くんと一緒に行動する!」と発言していた。一方タモリもたけしと共謀し、さんまをはめたことも多々ある。(レンジローバー車庫入れ事件など)初代『いいとも!』プロデューサー横澤彪は、タモリを「これほど、芸人として我のないやつに会ったことない」と語っていた。
所ジョージのメジャーデビューを後押し、面白グループを通じて行動を共にすることも多く、私的にも披露宴で仲人を務めるほど深い関係にあったが、所が「いいとも!」のレギュラーを外れてからは、テレビなどで競演することは、たけし、さんまとの競演に比べても少ない。
2009年5月17日、頼近美津子が亡くなり、頼近がNHKアナウンサー時代に『ばらえてい テレビファソラシド』で共演していた。タモリは頼近の事を「キャサリン(本名のミドルネーム)」と呼んでいた。この番組では、ホームドラマのコント内でタモリが父親役、頼近が娘役を演じていた。
コピーライターである糸井重里(通称「darling(ダーリン)」)が主宰している、ほぼ日刊イトイ新聞には毎年、インタビュー出演をしている。
タモリの趣味は多岐にわたる。ジャズをはじめとした音楽以外にも、鉄道、料理、坂道、BCL、アマチュア無線、武道、オーディオ、ダム、男色、熟女、船舶、ゴルフ、古地図、腕時計、サングラス、家電製品、お酒などに造詣が深い。「日本坂道学会」副会長、(会長と合わせて2人)、「日本変態協会(略してNHK)」会長、「おっぱい星人」などの肩書きも自称している。
音楽は主にジャズを好む。後述の早稲田大学第二文学部在学中における実績があるほか、植草甚一の死後、遺品整理をしていた高平哲郎の仲介で、植草のレコードコレクション約2000枚を約100万円で買い取っている太陽 1995年 No.409 特集・植草甚一(平凡社)P.76 タモリの談話。自身も森田一義名義で早稲田大学応援歌「ザ・チャンス」の作詞を担当したり、トム・O・リーの名でトランペット演奏のレコードを出す他、THE SQUAREのアルバムのレコーディングに参加するなどの音楽活動も行っている。マイルス・デイビスに雑誌のインタビュー企画で会い、終わった際にマイルスから「いいインタビューだった」と褒められ、トランペットにサインをしてもらったことを非常に喜んで語っている。また、マンハッタン・トランスファーの日本ツアーで司会のオファーが来たことがあったが、当時「笑っていいとも!」等で多忙を極めていた為、マネージャーがスケジュールが押さえられないことを理由に断った事があると「タモリ倶楽部」のコーナー「空耳アワー」で語った事がある。
世界的ジャズシンガー:サリナ・ジョーンズとは20年以上の付き合いがある。出会いはタモリがメインパーソナリティーを勤めていたタモリのオールナイトニッポン(ニッポン放送)。ゲスト出演をしたサリナは、アルバムのプロモーションで簡単なインタビューで終わるつもりだったが、予定時間を過ぎても終わらず、サリナとタモリはサリナの歌を大熱唱し意気投合していた。
「ミュージックフェア」、「今夜は最高!」、「ミュージックステーション」と言った番組でタモリがトランペットの演奏など腕前を披露していた。マイルス・デイビスがタモリの番組でインタビューした際、タモリ自身がトランペットの演奏した際、「お前のトランペット演奏は笑っているんだ」と言われたらしい。
鉄道ファンとしての分野は、線路そのものが連なるさまや分岐器の複雑な造形、またそれらを列車が通過する際の音を好む「線路マニア」であると称している(一部では「鉄道の事情通」とも言われる)。線路マニアになったきっかけは、幼少時に見た、薬院駅南側で西鉄大牟田線と西鉄福岡市内線城南線が平面交差しデッドセクションとなっているところだったという「タモリ倶楽部」での自身の発言。なお平面交差およびデッドセクションは福岡市内線廃止により消滅。。かつては国鉄のCMにも出演経験がある(「食堂車に窓を設けました」「新幹線はますます良くなっております」など)。自身が司会を行う『いいとも!』の楽屋にも、いつも時刻表と地図が置かれているという。自身が司会を担当する『タモリ倶楽部』でしばしば鉄道関係の企画を行っており、「タモリ電車クラブ」を主催し自ら会長を務める。雑誌「ブルータス」のインタビューでは、京浜急行電鉄のファンであることを語っており、後にタモリ倶楽部にて特別専用列車による特番&ツアーが組まれる事となる。ゲームソフト『電車でGO!』の腕前は、自他共に認めるハイレベルである。
また船舶にも造詣が深く、一級小型船舶操縦士免許を所有(試験日が平日だったため、タモリはその日の『いいとも』を休んでいる。船を静岡県伊豆に持っており、その船は3000万円で購入した。まれに「趣味のために休んだ」ことを突っ込まれることがある)するほか、船舶が映る画面を凝視するシーンがしばしば目撃されている。映画「タイタニック」では(恋愛映画が嫌いなため)「登場人物のシーンを飛ばして船の出てくるシーンだけを見る」とたびたび語っている。休日には、静岡県伊豆近辺で船舶に乗り過ごしている。
料理はプロ級の腕前であると評される。「テレフォンショッキング」でゲストが料理や食材の話をすると、美味しい食べ方や隠し味などを披露したりする光景が頻繁に見受けられる。共演したタレントを自宅に誘って食事会を開くことも多いが、タモリ自身はキッチンにこもって料理に没頭するため、番組と違ってトークで盛り上がることは稀であるらしい。なお、当人は和食以外一切食べない和食党である。ある日、料理屋でマグロを焼いたものを食べてから「何でも熱通した方が旨い」というのが持論である。食べ物は何でも軽く炙った方美味しいと言っている。自宅のキッチンでは「お酒を飲みながらそこで、食事をしている」と言っていた。タモリ倶楽部の酒呑み企画で何度もそのような様子が放映されている。
テレビ番組での料理の腕前は、2006年4月24日「SMAP×SMAP春の特大号」でタモリ VS SMAPのビストロ対決が実現した。前週に、ビストロにゲスト出演したタモリが、木村・稲垣ペアの作った料理の敗因を述べた後、中居にそれじゃあ自分は作れるのかと突っ込まれたのがきっかけ。タモリは「すいません。言い過ぎました」と謝った後、今度は自分が作ると宣言した。そして、この日に、木村・稲垣ペアとタモリ・中居ペアで料理対決実現となった。タモリ・中居ペアは「冷や汁」、木村・稲垣ペアは「ブラック&ブラックカレー」を作り、草彅・香取の判定の結果、タモリ・中居ペアが勝利した。また、「いいとも!」の放送終了後の増刊号の企画や「ジャングルTV 〜タモリの法則〜」のジャングルクッキングの料理コーナーでも料理の腕前を見せていた。ありあわせの材料を使い、番組で用意したレシピとは別の料理を即興で追加することも少なくなかった。
料理とは、他の事を何も考えないで料理だけに集中出来て、面白いし、頭の体操にもなり気分転換になると言っている。
タモリが東京に初めて来た際、なんと坂の多い場所なんだと驚いたらしい。坂道については、幼少のころからの趣味(後述も参照)であり、2000年には山野勝と「日本坂道学会」を結成し副会長を自称する。同会副会長として、休日には、好みの坂を歩き周り、坂道の写真を撮る。過去には「TOKYO1週間」誌上に『TOKYO坂道美学デートNAVI入門』を連載し、2004年にはその活動が書籍『タモリのTOKYO坂道美学入門』としてまとめられた。
テレビ朝日の番組『全力坂』の大ファンで、DVDも所有している2009年1月31日放送『50時間テレビ SMAPがんばりますっ!!』出演時に発言。
タモリが坂道を見る鑑賞の点は、 :1、勾配の具合を自分の目で確かめる。 :2、湾曲の行き方(角度・傾斜)はどうなっているか。 :3、周囲に江戸などの歴史、景色、風情を出す物があるかどうか。 :4、坂道の名前の由来など由緒を自ら調べ感じとれるか。と言った事を自ら述べている。
「タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀のゴルフマッチ」では過去10回放送の内、8回優勝している腕前だ。ちなみに、たけしは2回優勝、さんまは優勝0回。タモリは毎年、優勝するなどプロの腕前を持っている。ここ最近では、ゴルフを止めてしまったと言う事が長年噂とされていたが、ついにこれに関しては8年以上の沈黙を破りタモリ本人が、「2001年に起きた事故で怖くなってやめたんだよ」と言っていた。タモリは「人にゴルフ教える事に関しては俺はうまいよ」と言っている。タモリが思うゴルフの観点は、プロから教わるんじゃなくて、プロは天才すぎて幼少の頃から身に着いて逆に教えられないと言い、何年も経験を積んできたアマチュアに教えてもらうとすぐに上達すると言っている。
「日本変態協会」(NHK)会長を名乗り、「創作は全て変態である」という「創作変態論」を唱えている。また、バストが大きい女性が好きであると公言し、「俺はおっぱい星人」と発言している。
アマチュア無線では、過去にコールサイン「JA6CSH」を取得したこともあり(現在は失効)、ラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)でBCL番組を担当していた実績も持つ。
武道にも造詣が深く、高校時代に柳生新陰流居合二段を取得している中村孝司「タモリ年譜」『クイック・ジャパン vol.41』、太田出版、2002年。。
NHKで『ブラタモリ』として番組化されるほど、古地図と、それに基づいた街歩きには造詣が深い。同番組での本人談によれば、個人的に最も面白かったのは、「『市中引廻し』はどこを引廻すのか」をたどった時(=タモリ倶楽部での企画)とか。
静岡県伊豆に別荘を構える。また、芸能人仲間らの証言によれば、自宅では緑色のビキニブリーフ1枚になりイグアナの生態のまねをし、週末は沼津のマンションに泊まり、釣りを楽しんでいるという(※『いいとも』のトークで「釣りは好きではない」とも公言している)。
好きなプロ野球チームについては、『いいとも』で藤井フミヤが出演した際、「福岡ソフトバンクを応援しましょう」と言われ「元々は(福岡に本拠地を置いていた)西鉄ファンだったが、西鉄が身売りしてからはどこのファンでもない」と言っていた。
なお、上記の口癖のうち、一部はあまり使わなくなっている。原因は不明だが、近年コージー富田などがものまねのセリフとして多用したことが影響していると見られる。
| タイトル | 形態・発売日 | 品番・発売元 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|
| 1st | タモリ | LP:1977年03月20日 | ETP-72227(東芝EMI/Alfa) | 毛沢東風中国人・マッカーサー風アメリカ人・ヒトラー風ドイツ人・寺山修司風日本人のモノマネによる「四カ国親善麻雀」が収録されているが、元々は寺山修司ではなく昭和天皇のモノマネだった。発売になったのは修正版。 |
| LP:1980年(再発) | ALR-4013(アルファ) | |||
| CD:1995年06年16日(初CD化) | ALCA-9159(アルファ) | |||
| CD:2007年12年20日(CD再発) | ※初回のみ紙ジャケ仕様MHCL-1238(Sony Music Direct) | |||
| 2nd | タモリ2 | LP:1978年12月20日 | ETP-80060(東芝EMI/Alfa) | 講師として中州産業大学芸術学部西洋音楽理論の森田一義助教授の音源が収録されている。 |
| LP:1980年(再発) | ALR-4007(アルファ) | |||
| CD:1995年06年16日(初CD化) | ALCA-9160(アルファ) | |||
| CD:2007年12年20日(CD再発) | ※初回のみ紙ジャケ仕様MHCL-1239(Sony Music Direct) | |||
| 3rd | タモリ3 | -戦後日本歌謡史-LP:1981年9月 | TAMORI-3(アルファ) | 実際には『タモリ2』以前に録音されており、当初はこの内容が『タモリ2』になるはずだった。戦後の名曲をパロディーにしているため著作権上の疑義が指摘され、初回プレス分の3万5000枚だけを新星堂で限定発売し直ちに絶版という運命をたどる。未CD化。 |
| 4th | ラジカル・ヒステリー・ツアー | LP:1981年05月01日 | 27AH-1237(CBS/SONY) | サザンオールスターズの桑田佳祐が楽曲を提供。CD化の際にシングル「タモリのワーク・ソング」AB面を追加収録。 |
| CD:2007年12年20日(初CD化) | ※初回のみ紙ジャケ仕様MHCL-1240(Sony Music Direct) | |||
| 5th | HOW ABOUT THIS | LP:1986年09月21日 | VIH-28272(ビクター) | 大マジなジャズ・アルバム。LPとCDで一部収録曲が異なる。 |
| CD:1986年09月21日 | VDR-1276(ビクター) |
:過去に交友社より雑誌『鉄道ファン』への登場依頼があったが、スケジュールの関係で実現できなかった。