読み込み中...ブリットポップ(Britpop)またはブリットポップ・ムーヴメント(Britpop Movement)は1990年代にロンドンやマンチェスターを中心に発生したイギリスのポピュラー音楽ムーヴメント。ビートルズなど往年のブリティッシュ・ロックからの影響が濃く、多くの場合ブラーやオアシス、パルプらが中心となった90年代半ばのムーブメントを指す。
このムーブメントは一旦は海外にも広まる兆しを見せ、他のポップカルチャーも巻き込んだ「クール・ブリタニア」などの狂騒を生んだが、ブラーのフロントマン、デーモン・アルバーンによる「ブリットポップは死んだ」と言う発言によって、1997年頃に一応の終止符が打たれた。事実この頃デビューした多くのバンドは、一部を除いて2000年頃までにその多くが姿を消した。そんな中、1994年4月5日、ニルヴァーナのフロントマンであり、ロック界におけるカリスマ的存在であったカート・コバーンが自殺し、グランジ・ブームは一気に影を潜めることになる。
突然の出来事にショックを隠しきれなかったファンやリスナー達であったが、このグランジ・ブームの終わりによって開いた穴を埋める形となり、他でもないブリットポップという言葉を生み出すきっかけとなったブラーの3rdアルバム「パークライフ」の大ヒットと、オアシスの鮮烈なデビューによって、イギリスの音楽シーンは大きな変貌を遂げることになるのであった。カート・コバーンの死後、それまでアメリカ中心だった音楽シーンに反抗するかのように、国民誰もが本来のイギリスらしいロックの原点回帰を望んでいた中で登場し、脚光を浴びたブラーとオアシス。
機知と皮肉に溢れた歌詞に、どこか能天気でポップなサウンドが特徴な中流階級出身のブラーと、対照的に、荒々しくも疾走感があり壮大なメロディーを奏でる労働者階級出身のオアシス。両バンドにおけるこういった音楽性、階級の違いをマスメディアは大きく取り上げ、いつしか「ブリットポップ」なる言葉が誕生することとなった。
ブラーはイギリス人の日常生活を独特の視点で取り上げたことが共感を呼び、オアシスはアルバムを発売する前から様々な事件や騒動を引き起こしたことによる話題性も手伝って、1stアルバム『オアシス』が当時のデビューアルバム最速売り上げ記録を更新する(現在はレオナ・ルイス)程のヒットを記録。こうして互いに一躍国民的人気バンドへと上り詰めていくことになるのであった。
多くのレコード会社はこの時が来るのを待っていたかのように新人バンドを次々とデビューさせた。それが翌年のブリットポップ・ブームの本格的な到来へと繋がっていくことになっていったのであった。
ブリットポップ・ブームは社会現象と化し、ミュージシャン達がバラエティ番組への出演や新聞に載るなど身近なものへと浸透していった。更には業界の枠を超え、モデルとなってファッション雑誌にイギリス国旗をあしらった衣類を着て登場するなどの変わった一面も見せていた。
メディアは音楽のみならず、ファッション、芸術などイギリスのポップカルチャーの特集を組み、「クール・ブリタニア」と呼ばれるこれらの状況を指す用語が登場し、広く用いられるようになった。
それを象徴するかのように1996年、ユアン・マクレガー主演の青春映画「トレインスポッティング」が公開される。劇中で使われている楽曲にブリットポップ系バンドが多数参加した効果もあって、映画はロングラン・ヒットを記録。まさにイギリスのエンターテイメント界は絶頂と言える時期を迎えたのであった。
ブリットポップブームの中で最も注目を浴びたのが、オアシスとブラーのシングル同日発売である。
以前から仲が悪く、階級、音楽性の違い、出身地など全てにおいて対照的で、ライバル関係にあり、人気を二分していた両者。特にオアシスはメディアが自分達よりもブラーのアルバムに賞賛を送っていたことが気に入らずに日頃からブラーを罵っていた。
そして1995年、そういった緊迫したムードの中、対決の日が訪れる。オアシスはニューシングル「ロール・ウィズ・イット」を8月14日に発売すると発表。それに対し、ブラー側が発売日を合わせニューシングル「カントリー・ハウス」を同じ8月14日に発売すると発表した。
どちらがチャート1位を獲得するかメディアはこの騒ぎを煽り立て、イギリス中がこのシングル対決に大注目した。さらにはBBCの6時のニュースでもこの模様が「ビートルズ対ローリング・ストーンズの再現」と報道されるなど普通では考えられない出来事が起こった。
大方の予想はブラーやや有利と見ていたがその予想通り結果はブラーの勝利に終わった。ちなみに、これに怒ったノエルが「ブラーのデーモンとアレックスはエイズにでもかかって死ねばいい」 とコメントし、当時大問題となった。しかしシングル対決こそ敗れはしたものの、アルバムではオアシスの2nd『モーニング・グローリー』がイギリスのみならず、全世界で1800万枚を売り上げるヒットを記録(アメリカでは最高位4位を記録)し、ブラーの『ザ・グレート・エスケープ』 から大勝利を収める。対決に勝利したオアシスは、11月にはロンドンのアールズ・コートで、ヨーロッパの屋内ライブとしてはギネス記録である、2日間4万人を動員するライブを開催。さらに翌年の1996年、MTVアウォーズ(EURO)でベストグループ賞を受賞し、8月にはロンドン郊外のネプワース公演にて2日間で25万人を集めるなど、まさにバンドとして絶頂を極め、ブリットポップの雄となったのであった。
また1996年に入っても、ブリットポップムーブメントは衰えることなく、次々と実力派の新人バンドがデビューしていった。青く繊細な楽曲で人気を集め、オアシスの『モーニング・グローリー』を蹴落として、デビューアルバム『エクスペクティング・トゥ・フライ』が全英1位に輝いたブルートーンズ、平均年齢十代にしてメジャーデビューアルバム『1977』を全英一位に送り込んだアイルランド出身のアッシュ、インド志向を打ち出し、デビューアルバム『K』がオアシス以来の最速売り上げを記録したクーラ・シェイカーなどが代表的である。
一方、一時低迷していたベテラン勢の復活も多く見られた。スウェードは、新メンバーの加入後に発表した3rdアルバム『カミング・アップ』を全英1位、また5枚ものトップ10シングルを送り込むなど、再びロックのメインストリームに返り咲いた。またマニック・ストリート・プリーチャーズも、リッチー・ジェームスの失踪後、初のアルバム『エヴリシング・マスト・ゴー』が大ヒットを記録し、国民的バンドとしての地位を確立した。またオーシャン・カラー・シーンは、レーベル移籍のトラブルなどで4年もの空白期間を置いて発表した2ndアルバム『モーズリー・ショールズ』が大ヒットを記録した。
しかしその一方で、メンズウェアを始めとして、ノーザン・アップロアー、ナイロン・ボンバーズ、オクトパスなどブームに便乗したと思しき、明らかに実力不足のバンドも数多くもてはやされるようになり(いわゆるハイプ)、このころになると人々もその狂騒にも飽き始めていた。
またブラーはそのあまりにポップなサウンドが批評家達から辛口の評価を受け、アメリカでのツアーも失敗に終わった。大衆からも厳しい目を向けられる羽目となり、バンドは脆弱な状態に陥っていった。そうした中でブラーのデーモン・アルバーンは周囲の批判と中身の無いブームの現状にうっとうしさを感じるようになっていたが、そんな混濁した中でも彼は既に違う方向へ目が向いていた。そんな中ブラーは、1997年1月、セルフタイトルアルバム『ブラー』をリリースした。その内容はブリットポップ的なものと相反する、極めてアメリカ志向の強いオルタナティブ・ミュージックに接近を図ったものであり、ブリットポップのバンドとしては逸脱したものであったが評論家から絶賛の賛美を送られブラー最大の成功を収めた。さらにデーモン・アルバーンは「ブリットポップは死んだ」と発言し、波紋を広げた。
さらにこの年の8月、オアシスがアルバム『ビィ・ヒア・ナウ』リリース。イギリスで1位、アメリカで2位を獲得したが、アルバムの内容には大きな失望の声が上がり、前作と比べると大きく売り上げを落とした。またパルプのアルバム『ディス・イズ・ハードコア』も暗い内容で期待したほど売れず、3rdアルバム『アーバン・ヒムス』がビッグヒットを記録したザ・ヴァーヴもメンバー間の軋轢が取り立たされ、後に解散するなど、結果これらがブリットポップ・ブームの終焉の象徴となっていった。
その後、多くのブリットポップのバンドが姿を消していくこととなり、ブームも沈静化していく。
ブリットポップ・バンドを失ったイギリスの音楽業界では、マッシヴ・アタックなどのトリップポップ系とアンダーワールド、ケミカル・ブラザーズ、ファットボーイ・スリムなどのダンス系を中心にクラブ・ミュージック・シーンが全盛を迎え、それとは別にロビー・ウィリアムズやS Club 7などのポップス・アイドル路線が再びもてはやされるようになった。一方のロックシーンでは、レディオヘッドやプライマル・スクリームといったブリットポップ・ブームを経て前衛的・先鋭的なサウンドを展開し始めていたバンドや、オアシス路線のロックから内省的な音楽性へと大きな変貌を遂げたトラヴィスなどが台頭し、さらに同じ英国でもマニック・ストリート・プリーチャーズ、ステレオフォニックスの2バンドを筆頭に、スーパー・ファーリー・アニマルズやフィーダーらウェールズ勢が躍進した。またそれと並行してレッド・ホット・チリ・ペッパーズやエミネムなどといったアメリカ勢も主流になっていった。
しかし、アッシュやオーシャン・カラー・シーン、ブルートーンズも現在まで着実にキャリアを積んでいるほか、ブラーのデーモン・アルバーンはソロ・プロジェクトのゴリラズやザ・グッド、ザ・バッド&ザ・クイーンなどで世界的な評価と成功を獲得し、パルプのジャーヴィス・コッカーも近年ソロアルバムをリリースし好成績を収めた。またスウェードのブレット・アンダーソンはソロとして活動を続け、同じくバーナード・バトラーは関係を修復したブレットと結成したザ・ティアーズの活動を経て、現在は様々なバンドのレコーディングを手掛ける売れっ子プロデューサーとして活躍している。
また2006年以降、クーラ・シェイカーやザ・ヴァーヴ、シェッド・セヴン、ドッジー、マリオン、ノーザン・アップロアーなど多くのブリットポップ・バンドが再結成を果たしている。ちなみに、ブラーにもオリジナルメンバー4人での活動再開の噂が後を絶たないが、今のところその予定はないという。
2000年代に入ってからは、ブリットポップ当時10代で、少なからずブリットポップの影響を受けている多くのイギリスの若手バンドがデビューし、再びシーンが活気を見せていることなど、単純に陳腐なブームだったとはとても言い難いほどの影響を及ぼしているといえる。
2004年には、ブリットポップが1994年に誕生したという考えから、ちょうど10年ということで、記録映画「LIVE FOREVER」が公開された。この映画では、デーモン・アルバーンやオアシスのギャラガー兄弟、パルプのジャーヴィス・コッカーといった多くの関係者がブーム当時を振り返っている。