読み込み中...ベルナルト・ヴィクトール・アロイジウス・(ベルト)・レーリンク(Bernard Victor Aloysius (Bert) Röling、1906年 ? 1985年3月16日)は、オランダの法学者、裁判官。日本においては、東京裁判において判事を務めた。
デン・ボスにある裕福なカトリック信者の家庭に生まれる。幼い頃から自我が強く、「既存の社会秩序に憤りを覚えて、反抗してやろうと思った」という考えの持ち主だったという。大学の法学部の教授だった叔父の勧めから法律を学ぶ事に決め、特に社会と犯罪、刑罰の関連に関心があった事から、刑法に興味を持った。
ナイメーヘン・カトリック大学に進学し、1931年に卒業したものの、少年期に教会を離れ、刑法を批判的に見る傾向が強かった同大学は、レーリンクにとって居心地の良い場所ではなく、在学中には大学側から追放されかけた事もあった。その様な中でも、刑法学界の権威と呼ばれていたW・P・J・ポンペ同大学教授のサポートもあって、レーリンクは一時マーブルク大学で学びながら、ヨーロッパにおける刑務所制度の研究に取り組んだ。そして、同制度の研究結果はフローニンゲン大学から賞を与えられ、オランダ刑法学界から注目を集めるようになった。1933年にはポンペ教授の下で、「いわゆる職業犯、常習犯に対する立法」と題した博士論文を提出し、学位を取得した。
1933年には、ユトレヒト大学法学部のチューター兼刑罰学の講師となり、翌年にはポンペ教授とともに、刑法学研究所を設立した。1936年には、ユトレヒト裁判所の裁判官代理に就任し、司法の仕事に携わる事となった。この事に対して、レーリンクに去られては困ると慌てた大学側は、レーリンクに国際法の後任教授のポストを準備した。これに伴い、レーリンクは国際法の勉強を開始したが、「つまらない、うんざりする」、「退屈で保守的」として、このポストを拒否した。
ナチス・ドイツの占領下では、ユトレヒト裁判所の裁判官であったが、ドイツ当局が推し進めた一方的な法改定に対して背く内容の判決を出した事から、当局側はオランダ法務省に対してレーリンクを逮捕する様求めた。これに対して、法務省はレーリンクを地位の低いミッデルブルフの裁判所に異動させる事によって、当局の圧力をかわした。
第二次世界大戦終結後に、ユトレヒト裁判所に復帰したレーリンクは、ユトレヒト大学においてオランダ領東インド刑法を担当する客員教授を兼任するようになった。時を同じくして、オランダ政府は東京裁判に派遣するオランダ代表の人選を進めており、戦時中に対独協力の前歴が無く、英語に堪能であるレーリンクは、ユトレヒト大学のJ・P・サイリング教授の推薦もあって、政府から東京裁判の判事に任命される事となった。後にレーリンクは、これらの2つの出来事が、かつて蔑んでいた国際法と、後述する平和問題に関する研究の道へ誘うきっかけになった、と述懐している1983年5月に日本で開催された『東京裁判国際シンポジウム』においての発言。。
レーリンクは、判事の中でも最も早く東京に到着した人物の一人であり、来日後すぐにアメリカ側が企画したツアー旅行に参加し、京都と広島を見学した。
東京裁判における判事の中でレーリンクは最年少であったが、最も意欲的に活動した人物の一人とされており、審理に出席した回数も、カナダのE・スチュワート・マクドゥガル判事と並んで最も多かった。ウィリアム・ウェブ裁判長も「欠けてならない判事がいるとすれば、それはレーリンク唯一人だ。何しろ全ての書類に目を通したのは、彼だけなのだから」と述べている。その一方で、国際法に関しては元々専門外だった事もあり、政治的現実との妥協を強いられる事もしばしばあったレーリンク自身、後に東京裁判当時は国際法に関してはまだ素人同然だった事実を認めたうえで、当時ユトレヒト大学でオランダ領東インドの刑法について教えていたので、アジアの事を多少は知っているだろう、といった理由だけで選ばれた、と述懐している。。
2年半東京に滞在した後に帰国して、大学教授に復職し、刑法及び国際法を教えた。更に、国際社会の法的関係に関する研究が戦後世界をよりよく理解する一助になると考えたレーリンクは、外交分野に活躍の場を移し、オランダ代表の一人として国連総会の多数のセッションに参加する様になった。しかし、1958年にニューヨークから帰国する途中、西ニューギニアの独立を認めるべきとした論文を発表した事が、植民地の全面的な維持を主張していた当時の外務大臣を激怒させ、国連のオランダ代表リストから名前を削除される事となった。
国連代表から追放された後には、平和研究の為の国際研究所を設立し、自ら所長に就任した。また、スウェーデン政府の招請に応じて、ストックホルム国際平和研究所の設立にも尽力した。
レーリンクは当初、他の判事と変わらないいわゆる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたが、インドから来たラダ・ビノード・パール判事の「公平さ」を訴える考え方に徐々に影響を受けるようになり、共鳴するようになっていった。1948年7月6日、彼は友人の外交官に手紙を送っている。『多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です。』とニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようとする判事たちへの反発が書かれている2007年8月14日NHKスペシャル『パール判事は何を問いかけたのか』。
レーリンクは、当時の国際法から見て「平和に対する罪」によって死刑を適用すべきではないと主張した。他にも、 #東京裁判は太平洋戦争に限定すべきである。 #共同謀議の認定方法には異議がある。 #「通例の戦争犯罪」では、嶋田繁太郎、岡敬純、佐藤賢了も死刑が相当である判決後は、広田以外に死刑判決を受けた被告達に関しても、「他の死刑因も減刑せよ。ドイツのナチスの処刑に比して重すぎる」をいった見解を示している。。 #広田弘毅は「通例の戦争犯罪」では無罪であり、「平和に対する罪」では有罪だが死刑にはすべきでない。として、広田以外にも木戸幸一、重光葵、東郷茂徳、軍人被告では畑俊六を無罪としている。特に畑の無罪に関しては、政府の政策を実行しただけの軍人を罰することは出来ない事を理由として挙げている。他にも、無罪判決を下した重光に関しては、彼の人柄を評価したうえで、判事団の最後の決定会議において「この人は数年後には、日本の外務大臣になるだろう」と述べている事実、判決から約6年後の1954年に成立した鳩山内閣において、重光は外務大臣に就任する事となる。。
また、晩年に認めた著書においては、「我々は日本にいる間、東京や横浜をはじめとする都市に対する爆撃によって、市民を大量に焼殺したことが、念頭から離れなかった。我々は戦争法規を擁護する為に裁判をしている筈だったのに、連合国が戦争法規を徹底的に踏みにじった事を、毎日見せつけられていたのだから、それは酷いものだった。勿論、勝者と敗者を一緒に裁く事は不可能だった。東條が東京裁判は勝者による復警劇だと言ったのは、まさに正しかった」と述懐している。
加えて、日本の行為を“侵略戦争”と断じた事に触れたうえで、パール判事と同様に「次の戦争では、勝者が戦争を終結した時に新しい法律をつくって、敗者がそれを破ったといって、いくらでも罰することが出来る、悪しき前例をつくった」と、事後法で罪を裁く事は出来ない事を前提として、「国際裁判所が、正義に基づいて処罰を加える事を求められているにも関わらず、自ら正義の法理の法理を適用しているか否かを審査する機能や義務さえ与えられないで、単に戦勝国の最高司令官の定めた法規を適用しなければならない。かようなことを本裁判所が認めるとすれば、それは国際法の為に、このうえなく有害な事をした事になるであろう」とも述べ、裁判そのものを強く批判している。
また、同じく晩年に応えたインタビューの中では、日本とドイツが戦争を開始した理由の違いについて触れ、「手続き上にも問題がいくつかあり、不公平な点がありました。一例をあげると、中国における共産主義の脅威があった事を立証する機会を与えてほしい、との求めが被告側から出されました。そうした脅威があった為に、日本は行動を起こしたと立証しようとしたのです。ドイツの場合は、ヨーロッパ大陸での大国になろうとして戦争に突入していったのですが、日本は、これとは違います。結局、裁判では、立証の機会は認められませんでしたが、アンフェアだったと思っています」 と述べている1983年6月1日「東京新聞」夕刊より。
生前のレーリンクは、休日になると故郷で友人と弦楽四重奏の演奏を楽しむ、謹厳な表現と思いの尽くされたマナーを忘れない、決して怒ったり人を口汚く罵る事が無いただ、連合国の犯罪行為には一切触れさせなかったうえに、しばしば泥酔した状態で法廷にやって来たウェブ裁判長には、相当腹に据えかねたらしく、自らの著書でその事を明かしたうえで、ウェブを「到底力不足な二流の人物」などとして、辛辣に扱き下ろしている。、といった非常に謙遜かつ温和な人柄だったと伝えられている。また、レーリンクと親交のあった小菅信子は、その人柄を「フィリッポ・ネリを彷彿とさせた」と評している。
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