読み込み中...サンクトペテルブルク( )は、ロシアの都市。レニングラード州の州都である。かつてのロシア帝国の首都。第一次世界大戦以降(1914?1924)はペトログラード()、ソ連時代(1924?1991)はレニングラード( )であった。
市街はネバ川河口デルタの島々と両岸に広がり運河網が発達し、バルト海において重要な港市の位置をしめる。ネバ川は運河や河川などにより、白海、ドニエプル川、ヴォルガ川と結ばれているため、この都市はカスピ海やウラル、ボルガからの船舶のバルト海への出口となっている。港は冬季である11〜4月に凍結してしまうが、厳寒期を除いて常に砕氷船が航路を維持している。また、市中心部に運河が縦横に巡る美しい街並みを有することから、「北のヴェネツィア」と称されることもある。
当初はオランダ語風にサンクト・ピーテルブールフ()後にドイツ語風にサンクト・ペテルブルク()と呼ばれるようになる。ちなみにドイツ語で正確には、ザンクト・ペーテルス(現在のドイツ語発音だとペータース)ブルク(Sankt Petersburg)と呼ばれる。ロシア帝国の首都として長く定着していた。
第一次世界大戦でロシアがドイツと戦争状態に入ってからロシア語風にペトログラード(、1914年から)と改められ、さらにソビエト連邦時代にはレーニンにちなんでレニングラード(、1924年から)と改称され、この名称が半世紀続いた。
しかしソ連崩壊を受けて、1991年に住民投票によってロシア帝国時代の現在の名称に再び戻った。ロシア人の間ではピーテル()の愛称で呼ばれる。なお、州名は従来どおりレニングラード州となっている。
ピョートル大帝によって1703年5月27日(グレゴリオ暦。当時のロシアで使われていたユリウス暦では5月13日)に築かれた人工都市であり、モスクワとサンクトペテルブルクは母性と父性として対比されることもある。その背景としては、モスクワが「大地信仰」を根底とするロシア(「母なる大地、母なるロシア」という表現が用いられる)を象徴する土着の都であったのに対し、ペテルブルクは西欧に倣って「人工的」に建設された西欧的・キリスト教的な父性支配を象徴する都と考えられる、ということがある。
大北方戦争の過程で、スウェーデンから奪取したバルト海・フィンランド湾沿岸のイングリアに新都として造営された。河口付近には、ペトロパヴロフスク要塞も同時並行で建設されるなど、建造作業は過酷なもので、多くの人命が失われた。その数は1万とも言われる。
ロシア革命では二月革命・十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こった。その後、ソヴィエト政権は首都をモスクワに移転し、1922年に正式に定められたことで、この町は政治の中心地から外れた。
ロシア・フィンランドの国境に近い為、スターリンはフィンランドに対して「大砲の射程内の地域」の割譲を要求したが、フィンランドはこれを拒み、1939年の冬戦争が勃発。フィンランドは善戦したが、結局翌1940年、当該地域の割譲で講和がなされ、この戦争が中立的であったフィンランドの枢軸陣営参加を招いた。第二次世界大戦中は、フィンランド、ドイツ両軍を基幹とする枢軸軍によって約400日にわたる包囲を受けた(レニングラード包囲戦)が、凍結した湖から細々と物資輸送を行うなどして耐え抜いた。
戦後もレニングラードはソ連第2の都市として存在したが、その歴史的経緯からモスクワとは違った文化や風土を維持した。また、レニングラードの共産党第一書記になることは、ソビエト体制の中で重要な位置を占めることと同義であり、クレムリンでの権力ゲームでも影響力を持つことになった。とはいえ、革命以降サンクトペテルブルク出身の人物がロシアのトップまで登り詰めたのはウラジーミル・プーチンが初めてである。
1998年に周辺の8市17町(ツァールスコエ・セローがあるプーシキン市やクロンシュタット等)を編入し、市域が拡大した。
2008年5月に首都モスクワから憲法裁判所が移転することが決定している。この措置により、サンクトペテルブルクはロシアの首都機能の一部を担うこととなる。
サンクトペテルブルクはロシアを代表する港湾工業都市である。造船業を初めとして、電気機器、工作機械・工具類、農業機械、化学工業、製紙、家具、繊維・衣類、食品加工、タバコ、皮革などの工業が発達している。
サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝による建都以来ロシア最大の文化都市として発展してきた。そのため、特に帝政時代にはこの都市を舞台に多くの文化人が活動し、詩や小説などの題材としても扱われてきた。『青銅の騎士』を物した詩人で作家のアレクサンドル・プーシキン、いわゆる「ペテルブルクもの」を物したウクライナ出身の作家ニコライ・ゴーゴリ、『罪と罰』を物したフョードル・ドストエフスキーなどがその代表である。また、イワン・ツルゲーネフの作品にも描かれるように帝政時代のモスクワはひどい「田舎」扱いされており、ペテルブルクで活躍することこそがエリートの絶対条件であると看做されていた。音楽家や画家もペテルブルクで活動するのが基本であり、特に帝政末期ペテルブルク以外で活動するようになった芸術家の一派は「移動派」と呼ばれた(ペテルブルク以外を巡業する派ということ)。こうしたことから、ペテルブルク人は文化意識・水準が高いという誇りを持っているとされている。
サンクトペテルブルクの観光名所の多くがユネスコの世界遺産に登録されている。サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群を参照のこと。
鉄道でフィンランドからモスクワへ向かう場合、サンクトペテルブルクのフィンランド駅に到着し、市内を移動してモスクワ駅からモスクワへ向けて出発、モスクワのレニングラード駅に到着することになる。
市内ではサンクトペテルブルク地下鉄が運行されており、2008年現在4路線60駅が存在する。この他に路面電車やトロリーバスの運行も行われている。
英語での名称が同一のため、「姉妹都市」でなく「双子都市」(Twin city)提携をしている。なお、セントピーターズバーグの市名はサンクトペテルブルク出身のロシア人移民が故郷にちなんでつけたものである。
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