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マリア1世 (ポルトガル女王)

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マリア1世(Maria I, Maria Francisca Isabel Josefa Antónia Gertrudes Rita Joana, 1734年12月17日 - 1816年3月20日)はポルトガル女王(在位:1777年 - 1816年)。ジョゼ1世の娘。「敬虔王」(a Piedosa) と呼ばれる。

ポンバル侯爵のゆきすぎた独裁を是正したが工業化を継続、道路、運河の開設、鉱山の検査、織物業の技術改良などをおこなった。1740年以降、イギリスを始めとする諸国との貿易収支は黒字であり、1789年に諸国と結んだ通商条約の結果、ポルト産ワイン、ブラジル産砂糖などの輸出が増加した。ブラジルとイギリスの間の中継国として繁栄をきわめていたポルトガルは、1789年のフランス革命勃発で事態が悪化する。

1760年6月、父の弟ペドロと結婚。女王の私生活は、即位後7年の間に、母、夫、王子を相次いで失う不幸に見舞われた。加えて、革命で退位したルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑されたことが大きなショックとなり、1791年にマリア1世は精神に異常をきたした。このため、1792年以降、三男ジョアン王子が摂政となった。

1793年、カタルーニャに侵入したフランス革命軍と戦っていたスペイン軍に援軍を派遣した。当初は勝ったが、のちに敗北が重なると、スペインカルロス4世は態度を豹変し、1795年フランスとバーゼルにおいて和平を結んだ。宰相マヌエル・デ・ゴドイは革命政府にポルトガル占領を提議した。

1801年、第一執政に就任したナポレオン・ボナパルトがスペインと同盟を結んでポルトガル攻略を開始、越境したスペイン軍がアレンテージョ全域を占領した。ポルトガルはフランスとの講和の道を探ったが、オリヴェンサの譲渡、ブラジル北部割譲、250万フランの支払い、ポルトガル国内の港のイギリス船への封鎖という条件は、1805年のトラファルガーの戦い以後、海運貿易ルートのイギリス依存を強めるポルトガルが受諾できるものでは到底なかった。

1806年、ナポレオンの大陸封鎖令が発令。ポルトガルはこれに従わなかった。ナポレオンはスペインと密約を結び、ポルトガルを3分割し、1つを宰相ゴドイの王国とすることに同意した。1807年11月、将軍ジュノーがポルトガルに侵入。摂政ジョアンはイギリス国王ジョージ3世と密約を結んでいたため、王家の乗ったポルトガル艦隊はイギリス艦隊に護られてブラジルへ避難した。多数の貴族や裕福な商人たちも加わり、合計1万人が王室とともに脱出した。

王宮から馬車でテージョ河港へ急ぐ際、現状の理解できないマリア1世はどこへ行くのかわからず、「そんなに急いではいけない。国民は、私たちが逃げようとしていると思うでしょう。」と言ったという。

1816年、ブラジルで死去。

子供

  • ジョゼ(1761-1788)  ベイラ公およびブラジル大公
  • ジョアン(1762 夭折)
  • ジョアン・フランシスコ(1763 夭折)
  • ジョアン・マリア(1767-1826)
  • マリアナ(1768-1788)  スペイン王子ガブリエル妃
  • マリア・クレメンティナ(1774-1776)
  • マリア・イサベル(1776-1777)

参考文献

  • 安部眞穏「波瀾万丈のポルトガル史」泰流社刊
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