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マリオ・アンチッチ

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

マリオ・アンチッチMario Ančić, 1984年3月30日 - )は、クロアチアスプリット出身の男子プロテニス選手。クロアチアの先輩選手ゴラン・イワニセビッチと同じスプリット出身で、顔立ちも試合中の挙動もよく似ていることから、「イワニセビッチ2世」と呼ばれることが多い。人気テレビゲームの『スーパーマリオブラザーズ』にちなんだ“スーパーマリオ”というニックネームもある。シングルス自己最高ランキングは7位(2006年7月)。2005年度の男子テニス国別対抗戦・デビスカップで、同僚のイワン・リュビチッチとともにクロアチア・チームを初優勝に導いた。これまでにATPツアーでシングルス3勝、ダブルス5勝を挙げる。身長195cm、体重81kgの長身選手。妹のサンヤ・アンチッチもプロテニス選手になった。

7歳からテニスを始め、10歳の時からゴラン・イワニセビッチと一緒に練習するようになった。この少年期に、アンチッチは先輩選手のイワニセビッチから多大な影響を受けた。ジュニア時代には、2000年ウィンブルドン男子ジュニア部門で準優勝がある。2001年に17歳でプロ入り。2002年ウィンブルドン1回戦で、アンチッチは第7シードのロジャー・フェデラーを 6-3, 7-6, 6-3 のストレートで圧倒した。続く2回戦で敗れたが、この勝利で「イワニセビッチ2世」は一躍有名になり、現地イギリスの新聞から「スーパーマリオ」のニックネームもつけられた。2003年全豪オープンファン・カルロス・フェレーロとの4回戦まで進み、全仏オープンの2回戦では第1シードのアンドレ・アガシを 7-5, 6-1, 4-6, 2-6, 5-7 のスコアで手こずらせた。先にアンチッチが2セットを取ったが(2セット・アップという)続く3セットをアガシに奪い返され、逆転負けに終わる。2004年ウィンブルドンでさらなる成長ぶりを発揮し、アンディ・ロディックとの準決勝まで進出したが、4-6, 6-4, 5-7, 5-7 で敗れている。同年のアテネ五輪にもクロアチア代表として出場し、イワン・リュビチッチとペアを組んで男子ダブルスの銅メダルを獲得した。この年はATPツアーで4度の準優勝があり、あと1歩でツアー初優勝を逃していた。

2005年6月、マリオ・アンチッチはウィンブルドン前哨戦の1つであるオランダ・ハートゲンボッシュの芝生の大会でついにツアー初優勝を飾った。その決勝戦ではフランスミカエル・ロドラを 7-5, 6-4 で破っている。同年10月に日本の「ジャパン・オープン」にも出場したが、決勝で南アフリカウェスリー・ムーディに 6-1, 6-7, 4-6 の逆転で敗れ、年間2勝目はならなかった。2005年12月2日から4日デビスカップのワールド・グループ決勝戦でクロアチアとスロバキアが対戦した。会場はスロバキアの首都ブラチスラヴァで行われたが、アンチッチとイワン・リュビチッチのコンビが活躍し、「3勝2敗」でクロアチアにデ杯初優勝をもたらした。

2006年全仏オープンで初めて準々決勝に進出したが、ロジャー・フェデラーに 4-6, 3-6, 4-6 のストレートで敗れた。オランダ・ハートゲンボッシュ大会で大会2連覇を達成した後、ウィンブルドン準々決勝でもフェデラーに連敗する。ウィンブルドン終了後、アンチッチは初めての世界ランキングトップ10入りを果たし、自己最高の7位に食い込んだ。しかし、2007年初頭から伝染性単核症に悩まされ、2月から半年間の戦線離脱を経験した。

2008年6月、アンチッチはオランダ・ハートゲンボッシュ大会のダブルスでユルゲン・メルツァーオーストリア)と組んで優勝し、ダブルス通算5勝目を挙げた。ウィンブルドン選手権でも2年ぶりの準々決勝に勝ち進み、ここでもフェデラーに敗れた。

高校時代は学問でも優秀な生徒であったアンチッチは「自分が大学に進んだらどうなるかチャレンジしてみたくなった。」と言い地元の大学の法学部に入学。ツアーのかたわら勉学にも励んでいたが2007年初頭からの伝染性単核症によりツアーから離脱した半年間を利用し大学に通い、卒業を果たしている。ジェームズ・ブレーク等、大学を中退しているトッププロは多いが大卒テニスプレイヤーは珍しく、アンチッチの大学卒業はテニス界ではちょっとした話題を呼んだ。

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