読み込み中...マリオ・ガブリエーレ・アンドレッティ(Mario Gabriele Andretti:1940年2月28日 - )はアメリカ人のレーシングドライバー。1978年のF1ワールドチャンピオンであり、CARTでも4回のチャンピオンを獲得した。インディ500、デイトナ500とF1チャンピオンを全て獲得した唯一のドライバーである。
アンドレッティ家はレーシング一族としても知られ、息子のマイケル・アンドレッティもCARTでチャンピオンを獲得し、F1にも参戦していた。さらに現在、マイケルの子である孫のマルコ・アンドレッティもレーシングドライバーとしてデビューし、IRLで参戦1年目で史上最年少優勝を遂げている。マリオの双子の兄アルド・アンドレッティも元ドライバーで、その息子で甥のジョンとアダムはNASCARで活躍する。
マリオ・アンドレッティは当時イタリア領のモンタナ・ディストリア(Montona d'Istria、現在のクロアチアのモトヴン)で生まれ、第二次世界大戦後に一家でアメリカへ移住した。
アメリカへ移るとすぐに、1959年にアンドレッティはダートオーバルでのレースからレーシングキャリアをスタートさせ、1964年からUSAC(後のCART)シリーズに参戦するようになる。1964年にアメリカ国籍を獲得。
F1には1968年より、その他の様々なカテゴリーの合間を縫う様にして、「腕試し」的にスポット参戦を続けていた。とはいえ、デビュー戦のUSGPでポールポジションを獲得するなどの活躍を見せる。ちなみにF1デビュー戦でPPを獲得したのは史上4人しかいない(他の3人はジュゼッペ・ファリーナ、カルロス・ロイテマン、ジャック・ヴィルヌーヴ)。
1970年代半ばから本格的にF1に参戦するようになり、1976年途中からロータスに加入すると、チャップマンと協力して当時低迷していたチームを徐々に上位に押し上げて行く。同年に日本で初めて開催されたF1レース、F1世界選手権・イン・ジャパンでは、豪雨の中で見事なマシンコントロールを見せ、ロータス(マシンはロータス77)での初優勝を飾った。1977シーズンは年間最多勝(4勝)。
1978年もロータスで年間6勝を挙げ、ついにF1ワールドチャンピオンを獲得した。ただし一部には「チームメイトのロニー・ピーターソンの方がアンドレッティより速いのに、チームオーダーでアンドレッティを先行させていた」という説も存在する。アンドレッティ本人は後年のインタビューで「チームオーダーは存在しなかった(自分が実力でチャンピオンになった)」と発言している。
その後、1981年をもってF1へのフル参戦は区切りをつけていた。しかし1982年、カルロス・ロイテマンの突然の引退を埋める形でウィリアムズに加わり、アメリカ西GPに出走。同年終盤のイタリアGPとラスベガスGPには、ジル・ヴィルヌーヴとディディエ・ピローニのレギュラー2人を相次いで欠いたフェラーリの要請に応える形で出走し、イタリアGPでは予選1位、決勝3位と活躍する。
ただし1982年をもってF1での活動は完全に終了し、活躍の場をアメリカに戻した。アンドレッティのF1撤退後25年間に、F1に参戦したアメリカ人ドライバーはエディ・チーバーJr.、ダニー・サリバン、息子のマイケル、スコット・スピードのわずか4人だけである。
アメリカへ戻った後も、1984年には4回目となるCARTのタイトルを獲得するなど、レースで長く活躍した。アメリカとヨーロッパの大レースで輝かしい成績を残してきたものの、ル・マン24時間レースでの勝利だけは実現できず現在に至っている。
なお、Amy Grantの1991年のヒット曲『Good For Me』の中で歌われている。
アンドレッティ家のドライバーは、好走しながらもトラブルに見舞われるなどでインディ500を勝利できないジンクスを持ち、いまだマリオがわずか1勝したのみである。息子であるマイケルとジェフ兄弟や、マイケルの従兄ジョンもインディ500は未勝利で、一族で何度かの勝利経験のある同じレーシングファミリーのアンサーファミリーと対照的。2006年にはフィニッシュ直前までマルコ - マイケルの親子1-2態勢を築きながらファイナルラップでサム・ホーニッシュJr.に交わされ、2位と3位に終わった。
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