読み込み中...レイテ沖海戦(レイテおきかいせん、Battle of Leyte Gulf)とは、第二次世界大戦中の1944年10月23日から同25日にかけてフィリピン及びフィリピン周辺海域で発生した、日本海軍とアメリカ海軍との間で交わされた一連の海戦の総称。日本側とアメリカ側の主攻目標が共にレイテ島(レイテ湾)であったことから、この名が付けられた。比島沖海戦もしくはフィリピン沖海戦 (2nd battle of the Philippine Sea) ともいう。直接的にはシブヤン海海戦 (Battle of the Sibuyan Sea)、スリガオ海峡海戦 (Battle of Surigao Strait)、エンガノ岬沖海戦 (Battle of Cape Engano)、サマール沖海戦 (Battle off Samar) の4つの海戦からなるが、戦局に与えた影響や評者による議論の仕方によっては事前の様々な背景が採り上げられる事もある。
連合軍の作戦名はキングII作戦(Operation KING II英標記はDefense Technical Information Center所収の論文及び原勝洋『日米全調査 決戦戦艦大和の全貌』の標記に従った)でレイテ島奪還が目的、日本側の作戦名は捷一号作戦でアメリカ軍の進攻阻止が目的である。日本海軍の艦隊戦力はこの海戦での敗北を最後に事実上壊滅し、以後大規模かつ組織的活動が不可能となった。また、この海戦で日本側は神風特別攻撃隊による攻撃をはじめて行った。
日本(特に海軍)は残された軍艦ほぼすべての投入を企図するなど総力を挙げ、後の戦闘を見越し陸軍も多数の部隊を配置し、アメリカも太平洋に展開する大半の軍事力(特に海軍)を投じて戦ったため、その規模の大きさ、戦域の広大なことでも有名である。1944年6月のマリアナ沖海戦は敗北に終わり、7月9日にはサイパン島を失陥、マリアナ諸島自体の失陥も確実なものとなった日本では国政にも影響があり、反東条の気運の中7月22日に小磯内閣が誕生した。しかし、陸軍軍人とは言え予備役に引いていた小磯國昭に陸軍を抑える力はなく、この政変は陸軍、特に参謀本部の発言力を強める結果となったとされる児島襄『太平洋戦争 下巻』フィリピンに決戦を求めて。
その陸軍参謀本部は7月15日、今後の戦争指導方針として次の4案を示した。
# 短期決戦案 #* 本年後期に国力戦力の全縦深を展開して対米決戦を指導し、明年以降の施策は全然考慮しない。 # 決戦重点二本立案 #* 本年後期に国力戦力の徹底的重点(七〜八割)を構成して主敵米の進攻に対し決戦的努力を傾倒し、一部(二〜三割)をもって長期戦的努力を強化する。 # 併行二本立案 #* 本年後期従来程度の決戦的努力を行なうと共に、併せて長期戦的努力を行なう。 # 長期戦重点二本立案#* 戦局の前途短期決戦の見込みなきをもって決戦的努力を従とし、長期戦的努力を主とする。
日本の「戦力は既に破断界に達している」と認識していた参謀本部は第2案を推薦、梅津美治郎参謀総長もこの案を推し25日陸軍大臣杉山元と協議してこれを採用した。戦後、児島譲は「もし第二案の決戦で敵に大打撃を与えれば、同じ和を求めるにしても、ずるずると敗戦するよりも立場は有利になるだろう」と評した。これがいわゆる「一撃講和」の基本的な考えである。
この目的のため大本営は7月18日から3日間にわたり陸海軍合同研究を行い次の防衛作戦を立案、方面別に捷一号から捷四号と名付け、7月24日裁可、陸軍は同日作戦準備を各軍に命じた。
このうち、フィリピン方面の防衛作戦は、捷一号作戦とされていた。日本にとって、フィリピンを奪還されることは、本土と南方資源地帯の連絡が途絶されることであり、戦争の敗北に大きく繋がるものであった。
その後、大本営政府連絡会議から名称を改めた最高戦争指導会議の最初の会議が8月19日に開かれた。このとき「世界情勢判断」と「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定され、前者でドイツが敗北必至であると認め、後者では「欧州情勢の推移如何に関わらず、帝国は決戦的努力を傾倒して敵を破摧、政略施策と相俟って飽く迄も戦争完遂に邁進せざるべからず」と結論し太平洋方面での決戦方針を追認、同時に大陸において対ソ連への独ソ和平工作、対重慶(中国国民党)への和平工作を行なうこととした(以上、日本の背景は主に児島襄『太平洋戦争 下』「フィリピンに決戦を求めて」に拠る。具体的な作戦計画については捷号作戦を参照のこと)。
守りに回った日本側の戦略目的がある意味で明快になりうる環境にあったのに対し、下記のように、アメリカのフィリピン奪回のスケジュールは対日反攻が相当進展してからも紆余曲折を辿った。そのようになった理由は陸海軍、統合参謀本部などの主要指揮官の間の意見の違い、ヨーロッパ戦線との兵力配分、秋のアメリカ大統領選挙を睨んだ主要アクターの行動、対日戦終結後の蒋介石政権支援のための大陸への兵力展開といった要素が絡んで考慮されたからであった。
1943年11月のカイロ会談で中部太平洋進攻とニューギニアからフィリピン方面への進攻の両者を進める方針が定まり、概略の順番も示されたが、優先度は中部太平洋の方が上であり、海軍作戦部長アーネスト・キングは中国との兼ね合いを重視してフィリピンよりは台湾→廈門に至るルートに拘りを見せていた。
1944年3月12日、キング、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ、マッカーサーの代理であったサザランド参謀長等の討議の後統合参謀本部は当面の攻略予定について決定をした。その中にはマッカーサーの推すハルマヘラ(9月15日に上陸予定)、ミンダナオ(11月15日に上陸予定)など南西太平洋から南部フィリピンに至るものも含まれていた。しかし、6月の段階でも統合参謀本部はフィリピンを素通りしたい意向を示し、海軍作戦部長アーネスト・キングは上記2箇所への進攻を中止し、彼の持論である台湾へ進攻することを提案した。キングの方針は3月12日決定での中国本土接岸目標にも合致していた。
統合参謀本部は戦争終結を早めるべく6月13日、マッカーサー、ニミッツの両者に対して次の3つの案での対日進攻の再検討を命じた。
# 台湾攻略までの既定計画の促進。 # 途中の目標を素通りして一気に台湾を攻略する # 既定計画を中止し、日本本土攻略を含む新計画を策定しかし、両者ともこれらの計画は急進的に過ぎると考えた。
このとき、陸軍参謀総長のマーシャルは6月24日、マッカーサーに沖縄への進攻を提案した。その意図はマッカーサーの面子を潰さずに中国本土に接岸し、かつ米本土に残されているヨーロッパ用の予備兵力をキングの台湾進攻案に使わせないためであった。
マッカーサーはマーシャルの提案に反対し7月8日、統合参謀本部が3月12日に決定した案を更に短縮し1945年5月ルソン島に進攻するレノ5号(Reno-V)計画を提出した。マッカーサーは、軍事的理由としてフィリピンの場合ゲリラの助力が期待できること、島嶼への海上進攻と比較し地上拠点も複数確保できる事を挙げていた。しかし、政治的な理由もあった。フィリピンは元々アメリカの植民地であり、マッカーサーは父親の代よりこの地の利権を多く握っていて、マッカーサー王国などと揶揄される状態であった。また自身の前職はフィリピン軍元帥であり、更に緒戦で日本陸軍に敗北した際に、自分を含む高級軍人達だけが脱出し「私は戻ってくる」と宣言した手前もあった。これらがマッカーサーがフィリピン奪回に大きな努力を払っていた背景である。そのため、6月18日マーシャル参謀総長に宛てた書簡に対しマーシャルはマッカーサーの個人感情をたしなめる返事を送っている児島襄『太平洋戦争 下』フィリピンに決戦を求めて。
一方ニミッツはこの時期、1945年2月に台湾南部に進攻するグラニット2号計画(Granite-2)を持っていた。また7月4日、予定通りに進攻が進まなくても既定の作戦計画を遂行することと、マッカーサーの主張する機動部隊と陸上基地とを連携させた作戦が適切である旨の2点を回答した。この理由としては # サイパン攻略時の抵抗が予想より大 # 連合艦隊の脅威 # 日本陸軍の大陸での進撃による中国本土沿岸での作戦活動の困難 # 1月に既にキングに対して8月までの戦力の用意はあるが以降は補強が必要である旨を伝えたが #* マッカーサーの戦力を指揮下に置くことは期待できない #* オーバーロードの進展からして戦力が必要な時期までに太平洋に移動することは期待できないといったことを挙げていた。海軍はマッカーサーの提唱するレノ5号は対日戦早期終結に役立たないと批判した『第二次大戦の米軍事戦略』第四章 三。なお、マッカーサー、ニミッツの提出した両計画の意図、両者の見解などはそれぞれの回顧録に詳しい。。
こうした対立のため統合参謀本部は7月11日、ヨーロッパ情勢と絡め次の提案をし、下記のいずれにするかはパラオ占領(当時の予定では9月15日)とミンダナオ攻略の間に決定するとした。
# ドイツが打倒され、日本海軍を壊滅させた場合は日本本土への直接進攻(その際硫黄島、沖縄進攻を提起) # ドイツ打倒も日本海軍撃滅も出来ていない場合にはミンダナオ→ルソン→台湾→沖縄→九州→本州の順に進攻 # ドイツを打倒していないが日本海軍を撃滅した場合はミンダナオを迂回なお、キングはこの後エニウェトクなどの視察行に出、17日にサイパンに飛び、第5艦隊司令官を務めていたレイモンド・スプルーアンス、両用戦の指揮を取っていたリッチモンド・K・ターナーなどと討議を行なった。その中で次期進攻としてどこが望ましいかを尋ねたところ、両者ともフィリピンと答え、スプルーアンスはその理由としてサイパンのような島嶼よりも港湾向きの地形が多く、マニラ湾などを活用できることを挙げた。キングはスプルーアンスの論理に理解は示しつつも、持論の台湾進攻による中国大陸接岸案を棄てようとはしなかった谷光太郎『アーネスト・キング』第11章。。
なお、この大戦の間、アメリカ本国の政軍関係者には軍の動員限界についての考えが背景にあり、労働人口との兼ね合いから他の連合国への武器供給を含めた生産計画と睨みつつ、動員を行っていた。1943年から44年にかけては本国に留保している予備戦力を含めて、陸軍総兵力を90個師団770万人(海軍は200万人)に制限する決定も出され、これを世界にどう配分するかが戦略討議の前提条件であった。更にこの動員限界を超えて徴兵を行うのは、1944年11月の大統領選挙後でなければ不可能との統合参謀本部の見解もあった。そのためマーシャルはやや後の9月末にレイテ島上陸以後の作戦を計画した際にも、この件を考慮した上で作戦を検討するべき旨を主張しているマーシャルの考えは時系列に沿って配置していないが、主要人物の考えの提示として記載。谷光太郎『アーネスト・キング』第12章、『第2次大戦の米軍事戦略』第2章P74、第3章P161、第4章P212-213等も参照。。
一方、ルーズベルトはマッカーサーが共和党の大統領候補になる事を警戒し、これまで余り手柄を立てさせないようにしてきた。マッカーサーは表面上は平静を装ってきたが、選挙出馬への働きかけは行なっていたため、これは杞憂とは言えない。しかし、マッカーサーは4月末に不出馬を宣言し、ルーズベルトは7月初旬の民主党大会で自身が大統領候補に指名されることが確実となり、カリフォルニアに滞在中の20日に指名を受けた。また、マッカーサーにも出馬の意思がなくなったことを知った。その後ルーズベルトは選挙遊説を行い、その一環としてボルチモア (USS Baltimore, CA-68 ) でオアフ島ホノルルに赴いた。これは選挙中に前線基地に赴くことで、自分を戦争指導者として国民にアピールする狙いがあった。この際、前線の最高指揮官達と下記の会談が行なわれたが、これも政治ショーの性格があった。上記のように、戦況はマリアナ諸島全体の占領が確実な段階まで来ていた。
ボルチモアは7月26日に到着し、その日の夜に現地の資産家の所有する邸宅で軍関係者を招いての夕食会を開き、その後、ウィリアム・リーヒ陸海軍参謀長会議議長 (Chief of Staff to the Commander in Chief, U.S. Army and Navy)、マッカーサー、ニミッツの4者のみで会談を行った。マッカーサーはミンダナオ→レイテ→ルソンというコースを示して持論を述べ、フィリピンはゲリラの協力が期待できるが、台湾は半世紀も日本の統治下にありむしろ住民が日本側へ協力すると思われる旨を比較してみせた。一方、ニミッツは台湾には固執していなかった。キングの提唱する台湾進攻には5〜10個の陸軍師団が必要と見られ、陸軍の協力が不可欠だったからである。ルーズベルトはこの時点ではマッカーサーに手柄を上げさせようと考えていた。マッカーサーは長弁舌を振るった後、キリスト教徒が多くを占めるフィリピンの住民は1942年に裏切られたと思っていること、フィリピンを日本軍の銃剣の下に見捨てる事はアメリカの名誉に大きな汚点となることを述べて迫った。そして、会談後寝室に続く廊下で2人きりになった時、「国民の激しい怒りは、この秋の選挙時に閣下への反対票となって返ってくることになる」と脅した。これに対しルーズベルトは「フィリピンを迂回しない」ことを認め、「これからキングとやり合わねばならない」と述べた。このやり取りでフィリピンに足場を設けることは決まった。会談はその後も同艦が出港する29日まで続いた。作戦部長キング、この時点で作戦中であった第5艦隊司令官の後任を予定していたハルゼーもそうした中で討議の一部には参加或いは意識していた『駆逐艦「野分」物語』第七章 「ハルゼーの猛進」。ただし、ハワイ会談の日付については、他の多くの文献が指している日付とした。しかし、海軍(キング)が主張する台湾進攻とルソン進攻案との関係は後回しとされ、9月のケベック会談でチャーチルと協議した結果により決めるとした。ハワイ会談に対し統合参謀本部は不満で、キング作戦部長は即時台湾攻略を主張し、ニミッツに対して「人事を扱う航海局の出身だから妥協ばかりする」と怒りを露にした。一方海軍側でもハルゼーはフィリピン攻略の意義を認める進言をした。いずれにせよフィリピンへの進攻決定は高度の政治性を含むものではあったハワイ会談については他節で挙げたものの他『レイテ沖海戦 (歴史群像太平洋戦史シリーズ9)』 学習研究社 の谷光太郎の記述にもよる。。
8月に入りテニアン、グアムが相次いで陥落、マリアナ諸島を完全に占領したアメリカ軍は、ペリリュー島、ヤップ、タラウド諸島などが次の目標として見えてきた。
8月16日、マーシャルはスケジュールを短縮できるとしたマッカーサーに計画の再提出を命じ、マッカーサーは作戦名称をマスケーティア(Musketeer )と改名し27日に計画を提出した。それによれば攻略予定は9月15日にモロタイ、10月15日にタラウド、11月15日にサランガニ、12月20日にレイテ、などとなっており、リンガエンへの上陸時点でレノ5号に比較し40日短縮されていた。この一部を統合参謀本部は採用した。キングはなおも台湾に拘りマッカーサーはレイテ、海軍と海兵隊は台湾を攻略するよう提案し、暗にレイテ上陸への非協力をほのめかしたが、最終的にはレイテ後を棚上げする事で折れた。こうして9月9日、統合参謀本部はミンダナオ島の攻略(キングI)予定を11月15日、レイテ島の攻略(キングII)予定日を12月20日と指令した。その後ルソンと台湾のどちらに進攻するかは棚上げされた為未定であった。
なお、オーバーロード作戦実施直前(計画策定の最終段階)では、ノルマンディ上陸後90日でドイツ本国進撃の態勢を整え10月にはドイツ打倒を実現するスケジュールであったが、上陸から90日を経過した9月初めの段階では、それが不可能な事は明白となった。そのため、ドイツ打倒後3ヶ月で移動を開始し6ヶ月までの間に到着とされたヨーロッパ方面の兵力を当てにする事は出来なくなった以上、アメリカ側については上記文献のほか主に福田茂夫『第二次大戦の米軍事戦略』第四章 三、谷光太郎『アーネスト・キング』第11章等に拠る。。
なお、リンガ泊地に移動した部隊の訓練内容は後述のように輸送船団攻撃の計画が持ち上がって以後、それを目的としたものに変えられたが、小柳の陳述では下記の5種に区分されているアメリカ戦略爆撃調査団による質疑 質問者James A. Field海軍予備少佐 1945年10月24日(英語版)
最初の回答。。
8月29日、第3艦隊はエニウェトクより最初の出撃を行い、31日、第38機動部隊第4群が硫黄島を空襲し児島襄『太平洋戦争 下』P240、続いて小笠原諸島を襲った。9月4日、第3艦隊(ハルゼー大将)が直接指揮する残りの3つの群はニューギニアのマヌス島から出撃し、9月6日よりパラオ周辺、続いてフィリピンを空襲(下記「ダバオ事件」の項参照)、第4群もヤップを叩きつつパラオに向かい、他の群と入れ替わりに空襲を加えた。ただし、この段階では日本軍はセブ島を中心に航空兵力を配置して敵の攻撃を控え、温存策をとっていた。このために150機分の囮が各基地に配置されていた。
一方、アメリカ軍は空襲と併行しながら9月15日、モロタイ島、ペリリュー島へ上陸した(ペリリューの戦い)。17日にはアンガウルに上陸した(アンガウルの戦い)。9月23日にはウルシー環礁を占領しており、後に後方の補給拠点として使用された。第38任務部隊はペリリュー、モロタイ上陸作戦を支援した後、小笠原諸島やヤップを空襲した。
ダバオは、アメリカ軍の上陸予想の可能性が高いと見られており、捷一号作戦では敵来寇の第一候補地に挙げられていた。9月に入ると連日のようにビアク島からの基地航空機による空襲を受けるようになり、9月9日から10日にかけアメリカ海軍第38機動部隊は、パラオ諸島に続いてダバオを中心にミンダナオ島各所に空襲を加えた。日本側は事前の空襲の為警戒を強めていたが不運な事に、この日の早朝、サランガニ見張所が敵上陸用舟艇接近と誤認、この事は捷一号作戦警戒を発令する事に繋がった。そしてフィリピン南部に陸海軍の基地航空兵力が集結をはじめた矢先の9月12日、再び米機動部隊が来襲し、9月22日までマニラを始めとするフィピン各地に空襲を続けた。
この戦いで日本側は一方的に攻撃を受けるだけで基地上空での邀撃戦に終始し、何ら敵艦隊に打撃を与える事は出来なかった。その反面一航艦の実働兵力は250機から65機へ激減した佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』P129。機数は文献によりばらつきがある。。海軍と共同する陸軍の現地航空部隊である第四航空軍も約200機からほぼ全機が失われたこの出来事は文献によっては省略されている事も多いが『戦史叢書』や一般的な文献では佐藤和正『レイテ沖海戦』第三章に記されている。。
アメリカ軍は上記の南部フィリピン攻撃後、パラオ作戦の支援に第4群を残して第38任務部隊の残りの3群は一旦後退した。10月7日マリアナ諸島の西で合流した第38任務部隊はフィリピン奪回の陽動攻撃の意味も込めて10日に南西諸島を空襲、12日から14日には台湾を空襲、日本軍の基地航空部隊はこれに応戦し、アメリカ軍に多大な損害を与えたものと判断したが、実際はアメリカ軍はほとんど損害を受けておらず、日本の航空戦力が消耗しただけに終わった。そして、この時の戦果誤認が、後の日本軍の艦隊総出撃という積極的な行動要因の一つとなる。第38任務部隊が陽動を行っている間の10月11日から15日にかけて、ニューギニアのホーランディアとマヌス島に集結していた上陸部隊は続々と出撃していた。
連合艦隊司令部は台湾沖航空戦の大戦果を信じ、引き続き基地航空部隊にアメリカ軍空母機動部隊の攻撃を命じた。小沢治三郎中将指揮下の空母航空隊も基地航空部隊の指揮下に移して沖縄へ展開させ、戦場に投入した。また、アメリカ軍機動部隊の損傷した残存空母を掃討するために、小沢中将の指揮下にあった志摩清英中将の第二遊撃部隊(第五艦隊)を出撃させたものの、この段階で戦果誤報に気付いた為任務は中止され、同艦隊が奄美大島へ退避中に台湾の馬公に向かうように指示し、更に同艦隊を南西方面艦隊の指揮下に移した。
一方、アメリカ側ではこの時期の他の戦いと同じく、充実した体制が組まれていた。第38機動部隊は10月6日にウルシーを出港してから、1945年1月のリンガエン湾上陸支援と通商路攻撃を終えるまでの約16週間海上にあった。同艦隊各艦は少なくとも85日は洋上に留まり、根拠地等に錨をおろす事はなかった。また、第3艦隊の各部隊は概ね15ノット前後での移動が多かったが、25日の作戦行動など、必要とあれば25ノット以上の速力も選択していた。戦術レベルでは同日第34任務部隊で大型艦から小型艦に給油を行うため数時間速度を落とさざるを得なくなる場面などがあったが、後方の港湾まで後退するようなことはなかった。
この長期に渡る洋上行動を支えたのは、強力な役務部隊である。これは艦隊用タンカー34隻、護衛空母11隻、給兵艦6隻、貨物船7隻、駆逐艦19隻、護衛駆逐艦26隻、外洋タグ10隻、計113隻に及ぶ。アメリカ海軍はこれを10〜12のグループに分割し、日本軍の哨戒圏外に補給点を設定、ウルシーとの間を往復させていた。
ローテーションは次のようになっていた。補給点(Fueling Area)には常時9〜10隻のタンカーなどが待機し、残量が所定のレベルに下がると、残りを次のタンカーに移載し、3〜4日ごとにウルシーに後退、そこで本国から派遣されてきた商用タンカーから燃料を受け取るというものであった。一方空母は、グアム、エニウェトク、マヌスから、高速空母への補充機と搭乗員を運び、弾薬、需品等も補給していた。冷蔵船や郵便船なども存在していた。
一方、日本側は補給点を発見することは出来なかった(以上、アメリカ側については松代格三「艦艇の航続力と海軍作戦」『世界の艦船』1992年10月号)。
ただ、第38機動部隊第1群は24日には後退して補給中であり、結局この海戦で殆ど有用な役割を果たす事はなかった。補給点はミック(MICK)と呼ばれ東経130度、北緯15度の海上にあった。この他にも補給点は設定されており、本作戦では6つあった。本作戦の兵站計画によれば、需品の供給もニューギニアに設けた後方拠点などに数ヶ月分が備蓄されていた。
また、戦場であるフィリピンは戦前アメリカ本国の議会を通過した法案により1946年7月4日に独立を予定されていたが、フィリピンを占領した日本軍はこの状況を汲み、1943年には形式上はフィリピンを独立させていた。日本はその後連合国への宣戦布告を迫ったが、国土が戦場となり、長年の宗主国アメリカとしこりを生みたくなかった大統領ホセ・ラウレルはこれを引き伸ばす事に努め、1944年9月23日漸く宣戦布告をした。しかしこれも、戦争状態の存在を認める(existense of a state of war)であって正真正銘の宣戦(Declaration of War)ではなかった。日本軍はこの時期、親日を誓うフィリピン人による防衛組織ガナップ隊、11月10日にはマカピリ隊を編制し、後方での役務につけた(鈴木静夫『物語 フィリピンの歴史』中公新書)。
シブヤン海に差し掛かった栗田艦隊は24日8時過ぎアメリカ軍第38任務部隊に発見された。この時第38任務部隊は第2群(ボーガン少将指揮、空母5隻基幹)がサンベルナルジノ海峡付近に、第3群(シャーマン少将指揮、空母4隻基幹)がルソン島の東に、第4群(デーヴィソン少将指揮、空母4隻基幹)がレイテ島付近にいた。また、第1群(マケイン中将指揮、空母4隻基幹)は補給中だった。ハルゼー大将は第2、3、4群の3個群を以って栗田艦隊に対し攻撃を開始した。
10時26分、第2群の空母イントレピッド(USS Intrepid, CV-11)、カボット (USS Cabot, CV-28) からの第1次攻撃隊45機が攻撃を開始し、武蔵と妙高に魚雷1本が命中した。妙高は速度が12ノットに低下し離脱した。12時6分、イントレピッドからの第2次攻撃隊31機が攻撃を開始し、武蔵に魚雷3本、爆弾2発が命中した。この攻撃で武蔵の速度は22ノットに低下した。13時30分、ミッチャー中将直率第3群の空母レキシントン (USS Lexington, CV-16)、エセックス (USS Essex, CV-9) からの第3次攻撃隊44機が武蔵に攻撃を集中し魚雷5本、爆弾4発を命中させた。また、大和にも爆弾1発が命中した。武蔵の速度は16ノットに低下した。14時30分、第4群の空母フランクリン(USS Franklin, CV-13)からの第4次攻撃隊32機が来襲し、大和に爆弾1発が命中した。14時59分、第2群及び第4群からの第5次攻撃隊67機が来襲。攻撃は武蔵に集中し魚雷11本、爆弾10発が命中し武蔵は艦隊より落伍、2軸運転となり、大量の浸水により速力は6ノットに低下した。その後機関が停止して午後7時35分に転覆沈没した。他に長門と利根に爆弾2発、駆逐艦清霜に爆弾1発が命中した。
15時30分、栗田艦隊は一時空襲圏外へ退避のため反転し、16時付で電文を発信した。ハルゼーは小沢艦隊の前衛を発見した後の16時20分、栗田艦隊に張り付けていた偵察機を帰還させた。この日の日没は18時17分であり、武蔵艦長だった猪口が艦橋が暗くなって戦闘所見のメモが取れなくなった際、ノートに残された最後の時刻が19時5分であった。このような光線状態の下、栗田艦隊の電測員も見張り員も、敵機らしきものの存在を認めることは無かった。その後連合艦隊からの返電がないまま、17時14分(17時45分とする文献もあり)に栗田の意思により栗田艦隊は再反転した。しかし、栗田艦隊はこの再反転を悟られない為直ちに発信を行わなかった。このため、連合艦隊司令部は他の日本軍部隊と同様に状況をリアルタイムで掴めず、18時15分付で第一遊撃部隊宛に「天佑を確信し、全軍突撃せよ」との電文を発信し、その3、40分後に漸く栗田艦隊の16時付の反転電文を受信した。この間連合艦隊司令部は作戦の中止すら検討し、即決が慣例だったことには珍しく2時間も議論に費やした後、結局反転を容認しないという結論に達し、19時55分付けで16時の反転電文を容認しないという内容の電文を返電し、これは23時52分に栗田艦隊で受信された。結果として連合艦隊司令部は栗田艦隊が反転否認を意味する電文により進撃を再開したと考えた。
栗田艦隊の方でも敵情は不明であった為、18時30分付けでラモン湾東方に存在を報告された敵機動部隊に対する攻撃成果を知らせるよう、各航空艦隊、小沢艦隊宛に発信した。しかし、この電文に対する返信を栗田艦隊は把握していない。19時39分付で、栗田艦隊は午前中ミンドロ島サンホセ基地に向け発進させた水上機に宛ててレイテ湾などの敵情を知らせるよう命じる電文を発信し、その中に「進撃中」の言葉を入れたためこれを受信した部隊は栗田艦隊の状況を漸く把握した(以上、電文状況については主に佐藤和正「第九章 混迷の海」『レイテ沖海戦 下』に拠った)。
栗田艦隊の援護のため、新たにフィリピンへ展開していた日本海軍基地航空隊の第二航空艦隊は、第38任務部隊の第3群に航空攻撃を行った。9時30分、軽空母プリンストン (USS Princeton, CV-23) は爆弾が1発命中し爆発炎上、その後軽巡洋艦リノの魚雷で処分された。また、プリンストンの消火作業中に起きた爆発で軽巡洋艦バーミングハム (USS Birmingham, CL-62) が損傷した。
アメリカ第3艦隊は洋上哨戒の穴を突かれたり誤報に振り回されるなどしてルソン島西方など見当はずれな海域を疑うこともあり、24日まで小沢艦隊を発見することが出来なかった。一方、ルソン島東方沖に到達した小沢艦隊は基地航空隊から知らされた第3群に偵察機を送って存在を確認、58機(電報では76機)を出撃させて攻撃し、基地航空隊も日没まで5回に渡る攻撃隊を出撃したが有効な損害を与えることはできなかった(小沢機動部隊から出撃した攻撃隊の戦果は、空母エセックス以下数隻の空母に対して至近弾。その中の1〜2隻の喫水線下の船体に軽い損傷を与えたのみ)。だが、基地航空隊と小沢機動部隊の波状攻撃は、第38任務部隊の一番北側に位置する第3群の北方への索敵を遅らせることに成功した。
24日夕方になり、栗田艦隊のサンベルナルジノ海峡強行突破を危惧したハルゼー大将は、第38任務部隊の3個群から高速戦艦(6隻中5隻)を中核とする水上砲撃部隊を引き抜いてリー中将指揮の第34任務部隊が編成予定であることを全軍に知らせて準備を進めていたが、栗田艦隊の反転を作戦不能なほど損害を与えたためと判断し、戦果報告と栗田艦隊が壊滅して撤退していることを報告した。また、間をおかずに小沢機動部隊を発見、これを日本軍の主力と判断し、栗田艦隊への攻撃を中止、小沢機動部隊攻撃のため、第34任務部隊を含む3個群を率いて北上した。なお、この時アメリカ側は日本側の決戦計画の基本となったと言われる新Z作戦計画文書を入手していたが、上記の敵情判断や主要参謀の注意が他に向いていたため、その内容を作戦行動に活かすことは無かった(詳細は海軍乙事件参照のこと)。
栗田艦隊は、上記のように再度反転していたが、ハルゼー大将は仮に再び栗田艦隊の残存艦(全艦損傷と報告された)がサンベルナルジノ海峡に迫っても第7艦隊が対処できると判断していたため、栗田艦隊反転の知らせがきても集結と北上を続けた。その後、軽空母インディペンデンスの夜間索敵機が栗田艦隊が12ノットで東進している事を報告し、さらに「ここ数日点灯していなかったサンベルナルジノ海峡の灯台が、今に限ってなぜか点灯している」と決定的な報告をもたらしたが、いずれの報告もハルゼー大将の関心外であった。こうして、栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡で待ち伏せに合うことなく通過し、レイテ湾を目指してサマール島西岸を南下した。なお、海峡通過の際、海峡の両岸から狼煙が上がったといわれている(吉田俊雄、半藤一利『全軍突撃 レイテ沖海戦』)。
武蔵の生存者救助には駆逐艦清霜、島風、浜風があたり、20本の魚雷が命中した武蔵は19時35分沈没した。25日1時30分過ぎ、救助を終えた清霜と浜風の2艦はコロン湾へ撤退した。
10月22日15時30分にブルネイを出撃した西村艦隊は23日、スールー海に入りスリガオ海峡へ向かった。24日、西村艦隊も第38任務部隊に発見され、9時30分ごろ約20機の空襲を受けたが、栗田艦隊発見の報に北方に移動し被害は2隻の小破にとどまる。
栗田艦隊と西村艦隊はほぼ同時にレイテ湾に突入する予定であったが、栗田艦隊が一時反転したことにより予定より遅れた。同時に突入してアメリカ軍の邀撃戦力を分散するという計画は崩れたが、西村祥治中将は夜戦を企図し、西村艦隊単独でのレイテ湾突入を決断、20時13分付発信の電文にて、25日4時にドラグ沖突入の予定と栗田艦隊に通信を送った。ブルネイでの計画では25日5時半にスリガオ海峡の南口に到着する予定であったため、これは4時間も突入時刻を繰上げていることになる。しかし、この通信に対し、栗田艦隊や連合艦隊司令部からの返信はなかった。後述のように栗田、西村両艦隊の攻撃は計画とは違い調整を欠いたものとなったが、その原因は栗田艦隊側の遅延ばかりでなく、西村艦隊側の繰上げにもよっている。また、これにより志摩艦隊とは最期まで共同行動はおろか、共戦的な行動すらとることはなかった。
一方、アメリカ軍第7艦隊司令長官のキンケイド中将は西村艦隊の接近を察知しオルデンドルフ少将指揮の戦艦部隊を迎撃に投入した。オルデンドルフ少将は西村艦隊のルート上、レイテ湾南方のスリガオ海峡で待ち伏せを行うことにした。その戦力は、戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻と大きなものであった。マッカーサーは軽巡ナッシュビルで観戦することを望んだがこれは押し留められた。
25日未明に、西村艦隊はスリガオ海峡に接近、1時48分北上を開始した。西村艦隊は魚雷艇の攻撃はかわし、応戦したが2時53分レイテ湾入り口にさしかかった時、駆逐艦部隊に襲撃された。ディナガット島寄りに現れた駆逐艦に照射砲撃を行ったが敵駆逐艦は大量の魚雷を発射。戦艦扶桑が魚雷4本を受け戦線離脱。その後弾薬庫に引火、大爆発を起こし艦体が真っ二つに折れて前後の部分が漂流した。また、駆逐艦山雲も轟沈し、駆逐艦満潮、朝雲も被雷し航行不能となった。戦艦山城にも魚雷1本が命中した。航行不能となった2隻の駆逐艦はその後撃沈された。西村艦隊は3隻になったが北上を続けた。
アメリカ側の記録によると、前日の24日22時36分に索敵中の魚雷艇PT131が西村艦隊と接触、僚艇とともに交戦に突入。以後西村・志摩艦隊は魚雷艇隊の襲撃と触接追尾を受け続け、完全に動向を把握されていた(魚雷艇隊の損害は39隻中10隻)。
3時23分、米駆逐隊第二小隊が魚雷14本を発射した。このうち一本が戦艦山城に命中。山城はさらに速力が低下したが、重巡最上、駆逐艦時雨と共に突進を続けた。 3時40分、西村中将が山城から「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク、各艦ハワレヲ顧ミズ前進シ、敵ヲ攻撃スベシ」と命令を下した。これが、旗艦の発した最期の命令となった。3時51分、接近してきた残りの艦艇にアメリカ軍の戦艦、巡洋艦がレーダー照射による砲撃を開始した。山城が先ず被弾し、最上もレーダーが島影を敵艦影と誤認するなど役に立たたず両艦とも正面に見える砲撃の閃光を目標に反撃したが絶好のT字に陣形を組まれ大口径弾300発、小口径弾4,000発の砲撃を打ち込まれた艦隊は命中弾が相次いだ。山城は駆逐艦からの雷撃を受け速力が低下、その後火薬庫に引火、大爆発を起こした。この時、山城の艦橋が崩れ落ちたのが目撃されている。それでも尚山城は1、2番主砲から反撃の砲撃を行っていたのが米軍から確認されているが間もなく右舷に傾斜し4時19分艦尾より転覆して沈没した。最後尾にいた駆逐艦時雨は反転離脱した。尚、前述の扶桑の残骸は艦首部が4時20分頃沈み艦尾部分が午前5時頃まで転覆したまま浮いていたとされる。最上は微速航行で戦場を脱出した。西村艦隊は駆逐艦時雨を残して壊滅状態に陥り、西村中将も戦死して、レイテ湾への突入は失敗した。
後に続き突入する筈だった志摩艦隊は西村艦隊の2時間後にスリガオ海峡に到着した。この際魚雷艇隊の攻撃を受け軽巡阿武隈が被雷した(魚雷艇PT137の雷撃)。3時25分、志摩艦隊は戦闘序列で突入を開始したが、旗艦の那智が最上を炎上停止した敵艦と誤認して転舵、8ノットで退避中の最上と衝突した。敵情不明のため志摩中将は突入を断念、海峡外で様子を見ることにして退避をはじめた。
4時10分、オルデンドルフ少将は同士討ちの報告を聞いて砲撃を中止させた。巡洋艦と駆逐艦は残敵の掃討と救助活動をするべく南下を開始した。
当初は多数が海面を漂っていた生存者だが、多くが米軍の救助を拒否して自決、また近くの島に上陸した少数の生存者も丸腰だったため殆どが原住民の襲撃により殺害され、生存者は沈没した全艦合わせて10数人だった。特に最初に大爆発を起こした戦艦扶桑は、想像を絶する被害を受けたらしく、弾薬庫爆発により艦体が真っ二つに折れたあと艦首も艦尾も炎上しつつ一時間以上浮遊していたにもかかわらず艦長 阪匡身少将以下1637名全員が戦死し、生存者は1人もいなかった。同じく戦艦山城も生存者は2名のみ。この両艦のみを見ても乗組員三千余名中生存者がたったの2名。まさしく全滅であった。
阿武隈の護衛に駆逐艦潮を派遣してマニラへ向かわせ、最上には駆逐艦曙を護衛にあたらせてコロン湾に避退するよう命じたが、最上はその後空襲を受け最終的に乗員の退艦後、曙の魚雷で処分され、翌日の11時28分、阿武隈もアメリカ陸軍機の空襲を受けて沈没した。志摩艦隊の本隊である、那智、足柄、霞、不知火は何度か空襲を受けたものの、損失艦はなしでコロン湾に到着した。不知火を栗田艦隊の駆逐艦早霜の救援に送ったが第38任務部隊の空襲で撃沈された。志摩の命令により「2戦隊全滅大破炎上」の報が発信されたのは4時49分であり、栗田艦隊では5時32分に受信した。
なお、スリガオ海峡海戦中の射撃回数については下記のようであった。
スリガオ海峡海戦後の残弾、各艦で発生したトラブルについては後述する。
24日の14時39分、相次ぐ栗田艦隊の被害報告に小沢中将は艦隊の存在をアメリカ軍第38任務部隊に明らかにするため、航空戦艦日向、伊勢からなる松田千秋少将指揮の第四航空戦隊を基幹に前衛隊を編成して第38任務部隊に砲撃戦を試みるべく南下をはじめた。16時過ぎ、艦隊は栗田艦隊のシブヤン海での反転が知らされてから間もなく第3群の偵察機に発見され、小沢艦隊は17時15分、味方部隊に対して触接を受けている旨を発信した。しかしこの電報は栗田艦隊に着電しなかった。アメリカ海軍第3艦隊はその晩の集計により栗田艦隊へ壊滅的な打撃を与えたと判断し、漸く発見した空母機動部隊である小沢艦隊を攻撃するため、日没から深夜にかけてサンベルナルジノ海峡、レイテ島沖から集結して全速力で北上をはじめた。この時ハルゼー大将自ら第34任務部隊(高速戦艦6隻)を率いて先行し、空からだけでなく砲戦を挑んで徹底した攻撃することを目指した。一方小沢中将はアメリカ軍の偵察機に発見されたことから、25日は空襲を受けると判断し、17時10分に連合艦隊から「天佑を確信し、全軍突撃せよ」との電文を受け取っていた事から、栗田艦隊も予定通り進撃を続けていると考えていた。小沢は艦隊を本隊と松田千秋の指揮する支隊の2隊に分け、南東に向け進路を取っていた。しかし、20時頃、16時に栗田艦隊が発信した反転避退の電文が着電した。小沢艦隊司令部は連合艦隊からの突撃命令を受信していた事から栗田艦隊もこの命令で再反転していると予想したが、反転避退のために突入の時間がずれ、両艦隊の連携が上手くいかないと考えた。そのため、小沢艦隊は一旦北上を行った。
小沢艦隊は25日7時12分に第38任務部隊の偵察機を発見し、錬度不十分なため戦力とならない艦載機を直衛用の戦闘機18機を除き残存機を陸上へ退避させ、さらに囮任務を果たすため北上した。8時15分、第1次攻撃隊180機が小沢艦隊に来襲した。空母千歳と駆逐艦秋月が被爆沈没。軽巡洋艦多摩は魚雷1本が命中、大破。空母瑞鶴も被雷して速度が低下し、通信機が損傷したため囮成功を知らせる電報が打てなかった。さらに、10時ごろ第2次攻撃隊36機が来襲した。この攻撃で空母千代田が被爆、大破炎上して航行不能になった。10時51分、小沢中将は旗艦を軽巡洋艦大淀に移し、連合艦隊司令部と栗田中将宛てに、「大淀に移乗して作戦を続行」と打電した。12時31分にも空襲を受けて被害が出ていることを大淀から知らせた。
10時過ぎにハワイの太平洋艦隊長官ニミッツ大将から、「第34任務部隊はどこか。全世界は知らんと欲す」と電報を受信し、ハルゼー大将はこの電報に激怒した。11時15分、ハルゼー大将は小沢機動部隊の残存艦に迫っていた第34任務部隊と第38任務部隊の第2群を率いて、レイテ島沖に引き返した。残った2個群にミッチャー中将指揮下で攻撃を続けさせ、第34任務部隊からローレンス・デュボーズ少将指揮の重巡洋艦2隻と軽巡洋艦2隻、その護衛の駆逐艦を引き抜いて巡洋艦部隊を編成して同様に追撃を続行させた。ハルゼー大将はニミッツ大将とキンケイド中将に、「レイテ沖に向けて急進中」と返答を送った。
13時過ぎ、ミッチャー中将に指揮が移った2個群から発進した第3次攻撃隊約200機が来襲、空母瑞鶴と瑞鳳が被爆被雷し、14時14分に瑞鶴は沈没した。15時過ぎになると第4波の約30機が小沢本隊を攻撃し、15時27分、瑞鳳が沈没した。航行不能になっていた千代田も第38任務部隊から分派されたデュボーズ少将指揮の巡洋艦部隊の攻撃で16時55分に撃沈され、小沢機動部隊は空母4隻全てを失った。17時過ぎには第5波と第6波の第4次攻撃隊約150機が来襲、伊勢に攻撃が集中されたが大きな損傷は免れた。ハルゼー大将の反転命令によって多摩を含む損傷艦は復旧と救助活動ための時間を獲得し、千代田の曳航を任されていた軽巡洋艦五十鈴は空襲のため曳航を中止していて、駆逐艦槇と退避していたので難を逃れた。
18時半ごろ、小沢本隊と松田支隊は合同した。瑞鶴の護衛についていた駆逐艦若月と駆逐艦初月は救助を続けていたが、五十鈴が千代田の安否を気遣って引き返してきたので3艦は合同し、五十鈴は初月に千代田の消息を尋ねたが判明しなかったので燃料不足を理由に捜索と所在確認を依頼した。そこに追撃してきたデュボーズ部隊と遭遇し、小沢中将に敵艦隊の発見と千代田の捜索中止を知らせた。五十鈴と若月は煙幕を展張し直ちに反転、撤退したが、初月はそのまま戦闘に突入したと見られ単艦で重巡2、軽巡2、駆逐艦9の13隻を相手をすることとなった。米軍記録によれば魚雷発射体制をとり敵艦隊に回避運動をとらせるなど約2時間の足止めに成功したようで、その間に五十鈴と若月は無事離脱できたが、初月は最終的に被雷し速力の低下したところを米艦隊の一斉砲撃を浴び撃沈されたとされる。単艦戦闘で戦闘参加した初月乗組員の生存者がいないため実際にどのような戦闘が行われたかは不明である。但し瑞鶴乗組員を救助中だった初月搭載内火艇が戦闘開始時に取り残され、これに乗っていた乗組員は生還している小沢中将はこの知らせを受けて、艦隊に南下を命じたが時間を要した(ほとんどの艦が損傷していたためとされる)。また、急行途上に若月より戦艦2隻を含む艦隊と報告を受けたのでハルゼー大将指揮の高速水上砲撃部隊と誤認、南下を続けた。しかし、デュボーズ部隊がミッチャー中将指揮の2個群と合流するため撤退したので遭遇できず、燃料も残り少なく、再び北へ反転、撤退した。大破した多摩は単艦で退避中に米潜水艦ジャラオ (USS Jallao, SS-368) の雷撃を受け23時5分に沈没。この艦も単艦での沈没のため生存者は一人もいなかった。
翌日の26日の夕方、五十鈴が沖縄南東部の中城湾に、29日の深夜、日向、伊勢、大淀、霜月、若月、槇が呉に帰港。
小沢艦隊は24日に行われた栗田艦隊への攻撃を自艦隊に引きつける事は出来なかったが、25日は第38任務部隊の牽制に成功し、後の目から見れば栗田艦隊は戦艦部隊によるレイテ湾突入を第38機動部隊2〜4群の阻止攻撃から開放されていた。しかし、25日22時10分、栗田中将から夜戦の見込みがないと湾内への突入失敗を知らされた。なお当時大和に通信仕官として乗り組んでいた都竹卓郎が戦後著した本によれば、野村實が1980年に出した本に軍令部はずっと空母4隻は健在と考え、及川総長の27日朝の戦況奏上でもその旨申し上げていた処、28日の奄美大島帰着後初めて事実が判ったと書かれていると言う。反転後、再びレイテ湾を目指していた栗田艦隊は、アメリカ軍第38任務部隊による妨害を受けずに、25日0時30分サンベルナルジノ海峡を通過、サマール島沖に差し掛かっていた。この時点での栗田艦隊の勢力は戦艦4隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻であった。6時48分、大和が35km先にマストを発見した。それはサマール島沖で上陸部隊支援を行っていたクリフトン・スプレイグ少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(コードネーム"タフィ3")であった。栗田艦隊はこれを正規空母中心の機動部隊、すなわちアメリカ軍の主力と誤認、6時59分攻撃を開始した。
20日の上陸以来、第77任務部隊の護衛空母群は計画通り支援任務に徹し、まともな敵の攻撃を受けてこなかったが、24日になると多数の日本軍機がレイテ湾に飛来してきた。また3つの日本艦隊が報告されており、25日は敵艦隊への攻撃で多忙を極めることは予想されていた。深夜には西村艦隊の接近が報じられたが、栗田艦隊の動静について音沙汰は無かった。6時半、第3集団の艦船は警戒を解除し、第3種警戒(通常配置)に移ってよいとの指示を受けた。栗田艦隊の発見は米側記録によるとその直後の6時41分の航空機によるものであり、数分後には総員戦闘配置が発令されている。やがて各艦のレーダースコープにも大艦隊が映し出された。第3集団の各艦は混乱しながらも、砲撃を回避しつつ待機していた搭載全機の発艦に成功した。なお、第3集団は初動の30分あまりで既に発艦していたものを合わせ100機弱の航空機を発艦させている。これら艦載機は栗田艦隊攻撃の後、主に米軍占領下のタクロバン飛行場に着陸、一部は反転避退する栗田艦隊を再攻撃に回った。宇垣の『戦藻録』には「30機あまり発進したと見え」とあり、都竹も同様の感想を抱いていた。都竹は戦後に記録を見て本当の機数を知り、驚いたと言う。 7時10分、夾叉され続けていた護衛空母カリニン・ベイが、最初の直撃弾を受けた。一方、砲撃を受けていたスプレイグ少将は救援を求めたが、第3艦隊も第7艦隊の他の部隊もすぐに救援にいける状態ではなかった。ハルゼー大将は休養と補給中の第38任務部隊第1群を救援に向かわせ、北方の小沢機動部隊へ攻撃を続けたが、キンケイド中将はスリガオ海峡のオルデンドルフ艦隊と志摩艦隊を追っていた巡洋艦部隊を集結して補給を急いだ。そして、第4群全体の指揮官であるトーマス・L・スプレイグ少将に対しては避退を明確に禁じ、暗に時間稼ぎの捨て駒になれと命じた。
結局栗田艦隊は攻撃を行ったものの、約2時間の海戦で護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦ジョンストン (USS Johnston, DD-557) 、ホーエル (USS Hoel, DD-533)、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ (USS Samuel B. Roberts, DE-413) を撃沈したに留まった。この理由は概ね下記に纏められる。
一方、栗田艦隊では"第3集団"の航空隊や駆逐艦、それに他の護衛空母群からの攻撃機などにより主に重巡洋艦が攻撃を受けた。
第3集団の艦載機が半ば空中退避を兼ねた、おっとり刀的発艦であったのに対し、第2集団の護衛空母6隻から8時30分頃までに発艦した79機は、魚雷49本、500ポンド爆弾133発、100ポンド爆弾、ロケット弾各200発以上の本格的な艦船攻撃装備を整えており、主として空母に接近していた重巡に攻撃を浴びせた。その戦果は筑摩に対するものだけだが、かなりの誇大報告がなされた。その他の阻止攻撃を含め鈴谷は至近弾で航行不能となった後、再度爆撃を受け魚雷が誘爆して沈没、鳥海は爆弾が1発命中し航行不能となり、筑摩も魚雷が1本命中して舵を損傷、航行不能に陥った。熊野は駆逐艦ジョンストンの雷撃により落伍し、羽黒も爆撃により第二主砲搭を失ったが、誘爆と火災は防げた。しかし福田、都竹によれば、93式電話機の空中線が吹き飛び、重巡群を先導していた同艦と、旗艦との通話連絡が途切れたことは、事後の戦況の把握に大きな支障を与えた。重巡群の戦果報告が比較的正確なのに対して、大和を含む他艦での報告は誇大で艦級のサイズも大きく報告されているが、それはこの接近距離に原因していた。9時11分、栗田中将は分散しきった艦隊に集合を命じた。11時、栗田艦隊はレイテ湾への進撃を再開したが、11時前に南西方面艦隊から栗田艦隊の北100kmの地点「ヤキ1カ」に機動部隊が存在するという電文が届いた。この戦いでの栗田艦隊通算3回目の艦隊針路反転、これが今日まで議論が続くいわゆる「栗田艦隊謎の反転問題」の始まりである。
護衛空母群の空襲を受けて利根が落伍し、11時26分、栗田艦隊は反転し敵機動部隊を求めて北上を開始した。しかしその位置に機動部隊は存在せず、この点は戦後論議の対象となった(詳細は下記)。栗田艦隊は13時に再び反転した。
栗田艦隊のレイテ湾突入意思の喪失が何時起こったかは諸説あるが、最も遅い時点での解釈を採用してもこの時をもって完全に撤退行動に入っている。一般的に伝えられる話としては、最初に反転を進言したのは大谷作戦参謀であり、それを受けて山本先任参謀が栗田長官に伝えた。栗田は自分ひとりで決定したと伊藤正徳に述べたが、小柳は参謀会議を開いて全員一致で決定したと戦略爆撃調査団に陳述しているアメリカ戦略爆撃調査団による質疑 質問者James A. Field海軍予備少佐 1945年10月24日(英語版)小柳の戦略爆撃調査団に語った陳述によれば、反転した理由は下記の6点に纏められる。
#志摩艦隊から西村艦隊の全滅を知らされたこと #栗田艦隊のレイテ湾接近が大幅に遅延したこと #米空母から発信されたと思われる増援要請の電話傍受により2時間後に航空機が飛来すると予想されたこと #空母機にレイテ島の野戦基地に着陸するよう命じた電話の傍受により基地機との共同攻撃が予想されたこと #別の機動部隊が北方から接近すると考えられたこと #レイテで戦闘を継続した場合、更に多量の燃料を消費すると予想されたこと 当時大和に通信仕官として乗り組んでいた都竹卓郎によれば反転北上の頃に栗田艦隊など日本海軍でイメージされていたのは次のような態勢であった。つまり敵機動部隊は北、中央、南の3群に分かれ、南方群が明け方栗田艦隊と交戦、中央群は南方群救援のため南下を開始、昼過ぎから栗田艦隊に攻撃を加えており、また中央群から分かれた北方群が、小沢艦隊に向かいつつあるという構図である。例えば偵察情報だけでも、呉に在泊していた第6艦隊旗艦筑紫丸には、空母を含む大部隊が9時0分、ヤキ1カに近い地点ヤンメ55を南下中との偵察情報が入り、11時37分に配下の潜水艦宛に打電している。ただし都竹はこの情報が大和に届いたか記憶していない。また、駆逐艦は燃料が極度に不足していた(後述のように撤退時5隻を分離する)。また湾口のスルアン水道通過についても機雷堰が設けられていると推測されており、難題であった。また、上述のイメージがあったため反転北上の報告を聞いた伊藤整一軍令部次長は即座に「それは却って危険だ」とコメントしたと言う。
一方で栗田艦隊の攻撃から解放された米軍のスプレイグ少将は「栗田が反転を決めた理由は単純で、栗田は被害がこのままずっと続くかもしれないと恐れただけなのだ」と見なしていたJames D. Hornfischer, "The Last Stand of the Tin Can Sailors", An unprecedented account of the U.S. Navy’s impossible victory: the Battle off Samar, October 25, 1944。その後第3集団も他の護衛空母群と共に特攻機の攻撃を受けた(後述)。他部隊も日本軍の迎撃に追われていたため、沈没艦の溺者救助には時間を要し27日まで待たなければならなかった。第3集団の戦死者は約1200人、負傷者は800人、飛行機の損失は100機であった。
なお、都竹によれば当の米海軍側の史料には、「極めて優秀な射撃であった」、「砲術科士官が望み得る最高の弾着」といった、至極簡明な評言がさらりと記されているだけであり、日本側の評論家による批判のうち砲弾数と命中弾数で単純に割った例を示した後、次のように切って捨てた。
9時20分頃、ハルゼー大将にキンケイド中将から二度目の高速戦艦・機動部隊派遣の要請と、栗田艦隊の兵力、オルデンドルフ艦隊の弾薬欠乏が知らされた。ハルゼーは第1群を送ったこと、第34任務部隊は北方の小沢機動部隊を追って前進中であることを返電し、その後9時55分に第2群に反転を命じ、10時15分に自ら率いる第34任務部隊も反転した。リーは当初20ノットでの航進を命じたが、高速の機動を繰り返していた為第34任務部隊は小型艦の燃料に支障をきたし、12時から12ノットに減速して給油を行なった。給油は15時22分に完了し、ハルゼー大将は第7戦艦戦隊の戦艦2隻、第14巡洋艦戦隊の軽巡3隻、他駆逐艦8隻を抽出して第34任務部隊第5群を臨時に編成、アイオワに座乗するバッジャ少将を指揮官に命じ、リーの本隊はこの後詰という形になった。
一方、栗田艦隊は反転後、第1群の攻撃隊100機や、タクロバン飛行場で補給した護衛空母群の攻撃隊などに数度にわたる空襲を受けた。第1群の攻撃隊はアメリカ海軍史上最長の600km近い距離を飛行して参陣したものであり、攻撃後タクロバンに強行着陸した機体などもあった。これにより駆逐艦早霜が損傷し、結局レイテ湾への突入は断念し、北上を続けてサンベルナルジノ海峡へ向かった。利根は艦隊に復帰したものの、19時15分に栗田中将は落伍した艦とその護衛の駆逐艦に、自力航行できない艦は処分してコロン湾に向かうように指示を出し、航行不能な筑摩と鳥海は修理が完了せず、筑摩は自沈、鳥海は駆逐艦藤波の魚雷で処分された。
ハルゼーは16時1分に速力28ノットを命じ続いて夜戦準備を下令、26日1時に海峡に到達する事を予告した。第2群には東方海上で待機し航空機による支援体制を整えた。これによってバッジャの第5群は撤退しつつある栗田艦隊を追ったものの、栗田艦隊は21時5分頃に海峡を通過しており、第34任務部隊第5群との時間差は3時間あった。
第34任務部隊第5群は26日0時54分、筑摩の乗組員救助を命じられ避退が遅れていた野分と会敵し、1時35分これを撃沈したが、栗田艦隊主力の捕捉には失敗した。「野分」沈没により「野分」に乗っていた100名を超す「筑摩」生存者も「野分」乗組員とともに全員戦死した。結局、「野分」に救助されずに漂流後米軍に救助された一名のみが「筑摩」唯一の生存者であった。。
夜間にサンベルナルジノ海峡東方沖へ集結した第1群と第2群は払暁前に偵察機を発進、栗田艦隊は発見され、日の出と同時に攻撃隊が発進した。この空襲で能代が沈没、熊野、早霜が損傷、早霜の救援に向かった藤波も撃沈単艦沈没により乗組員全員戦死。またこれにより「藤波」に救助されていた「鳥海」乗組員も全員戦死。従って「鳥海」は乗組員全員が戦死してしまったため鳥海の最期の戦闘がどのようなものかは現在に至るも不明である。され、無人島で仮泊した早霜は続く空襲で擱座した。
栗田艦隊は28日21時30分、ブルネイに帰投し、萬栄丸、八紘丸、雄鳳丸から一週間ぶりの給油を受けた。
レイテ沖海戦から「統率の外道」と最初の"発令者"第一航空艦隊司令長官大西中将("発案者"は軍令部との説が有力)自らが呼んだ、神風特別攻撃隊通称「特攻隊」とよばれる、航空機による体当たり攻撃が実施された。これは台湾沖航空戦により稼動機数が僅か零戦30機程度にまで激減した航空戦力で栗田艦隊のレイテ湾突入援護を行わなければならなかった大西中将が、苦肉の策として発令したものである。人事及び機材改造など準備に時間がかかることから、作戦の一つとして元々軍令部が準備していたことは疑いないが、どのようにして大西中将が特攻戦術導入に至ったのか(彼は元々特攻反対論者であった)等は、彼が終戦直後に何も語らずに自決したことにより未だに謎に包まれている。尚、陸軍は富永恭次中将を司令官とする部隊が"万朶隊"及び"富嶽隊"の2隊を特別攻撃隊として出撃させているが、これは海戦後の11月に入ってからのことであり、海戦時は実行部隊は未だ内地で編成中であった。
21日朝、海軍の神風特別攻撃隊は各地から出撃した。しかし天候不良などで会敵出来ず、24日まで3回出撃して帰還している。そして25日、4度目の出撃が行われ8時ごろダバオを出撃した部隊はレイテ湾の南で第77任務部隊第4群第1集団(コードネーム"タフィ1")の護衛空母群を発見しこれに突入した。護衛空母サンティーとスワニーに特攻機が命中し損傷した。10時45分、栗田艦隊の攻撃を受けた直後の"タフィ3"(第77任務部隊第4群第3集団)の護衛空母群にマバラカットを出撃した関行男大尉率いる零戦五機から成る「敷島隊」が突入した。護衛空母セント・ローに特攻機1機(一説には2機)が命中し、爆弾、魚雷の誘爆でセント・ローは沈没した。1時間後、再び"タフィ3"にセブを出撃した部隊が突入、護衛空母カリニン・ベイに特攻機が命中した。
この攻撃により護衛空母1隻を撃沈、3隻を撃破したが、これを日本海軍は正規空母の撃沈破と誤認。特攻の威力を過大視した日本軍は終戦までこの戦法を正規の戦術として作戦展開していくこととなる。
日本軍はアメリカ軍に一撃を与える最後の機会を逃した。これにより、アメリカ軍はレイテ島に足場を築くことに成功し、フィリピン奪回を進めていくこととなった。また、日本軍は空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻他多数の艦艇を失い、残存艦艇は燃料のない本土と燃料はあっても修理のできない南方に分断され、組織的攻撃能力を失った(さらに本土への帰航途中、戦艦金剛が米潜水艦シーライオン (USS Sealion, SS-315) に雷撃され、沈没した)。
この海戦の直後、軍令部では、特攻機と護衛機を積んだ雲龍型航空母艦と駆逐艦で機動部隊を編成し、再びレイテ沖に殴りこむという「神武作戦」計画が企画されたが、実行されなかった。
thumbアメリカ軍のレイテ島上陸阻止に失敗した日本軍は多号作戦と呼ばれるレイテ島への輸送作戦を行った。9次にわたるこの輸送作戦でも、日本軍は軽巡鬼怒以下多くの艦艇を喪失した。レイテ島を制圧したアメリカ軍は12月15日にミンドロ島に上陸、そして1945年1月9日ルソン島リンガエン湾へ上陸した。ただし、一連の戦いでの抵抗が予想より大きかった為、ルソンへの進攻は2週間遅らされた。なお、統合参謀本部は10月3日に陸軍はルソン島、海軍は沖縄を目指して攻略する決定を下し、レイテ島以降の攻略予定についての論争は終わった。
第3艦隊はこの海戦の途中からで小沢艦隊を求めて北上、栗田艦隊の侵入を許し、急遽南下したもののその完全な撃破にも失敗した。これは主に司令官のハルゼーの意向が原因となっており、後にブルズ・ラン(Bull's Run)と呼ばれることとなった。
ハルゼーは24日夜の段階では栗田艦隊を撃破し退却させたと思い込んでいたが、戦いの後「明確な意図を持って進む強力な水上戦力を、航空攻撃によってのみ阻止するのは困難」と発言し、自身の正しさについて弁明した。戦後は回顧録の中でキンケイドを批判したため、怒ったキンケイドがそれに反論、それに乗っかった「野次馬」の間で、レイテ沖でのハルゼーの取った行動の是非を問う論争が勃発した。なお、ニミッツは上記のように海戦前ハルゼーに日本艦隊を叩くように指示を出していた。論争に疲れたハルゼーは、「レイテ沖はスプルーアンスが、フィリピン海海戦は俺が指揮を執ればよかったのだ」と一言漏らしていたという。
アメリカ側ではこの件に関しての議論が多くなされる。問題の一つには、第3艦隊が多様な任務を要求され、目的が不明確になったことがあった。カール・ソルバーグに拠ればキングは厳格に指揮権を分割された事に責任を感じた為、ニミッツは「全世界は知らんと欲す」により第3艦隊を栗田艦隊への無意味な追撃戦に差し向けた責任からか、戦後は目立った発言がなかったのだと推測している。キンケイドは第7艦隊の基本的な任務である両用作戦の護衛と支援に意識が集中しており、当時第3艦隊がサン・ナルベルナジノ海峡を封鎖していると思い込んでいた。他の将官と異なり、回顧録の類は書かなかった。
マッカーサーは、捷一号作戦の着想の巧みさを認め、アメリカ側の問題として同一作戦の指揮系統の分断、通信不達・遅延を指摘、その責任はワシントンにあるとし、作戦における海軍側の最高指揮官であったニミッツには第7艦隊の奮戦に対する感謝の言葉を述べた(マッカーサー大戦回顧録[下])。
現在、アメリカ側は各種の報告書が完備され、英語を母語としない者でもインターネット上での検索など簡易な手段で閲覧できるものも多い。
敗北した日本では戦後、多くの議論がなされてきたことが出版の記録から明らかである。日本側では議論の殆どは栗田艦隊の行動に集中しており、戦後は擁護、批判、中間的意見など様々な見解が交互に披瀝されてきたと言える。中にはこの戦いの結果に感情的な不満を表明する者も多く、大岡昇平のようにそれを認める者や佐藤和正のように一部批判の矛盾などを含めてたしなめる者もいる。また、歴史との向き合い方という意味では、創作の混じった物品に関しては歴史認識や人物評価に特定のバイアス(思想的なものを含む)を与えたり、増幅したりすることについて司馬遼太郎などの歴史小説が抱える問題と同種の問題が存在することも指摘される。歴史観や実証性に関わる問題として、弾薬問題、当時の現場指揮官の状況認識については現在でも新資料に光が当てられ、従来の説が俗説として批判されることがある。
公式資料としては日米の戦闘記録などの一次資料、海戦後に米軍内で行なわれた一部指揮官への陳述記録、終戦直後にGHQと第二復員省等の手で行なわれた日本側指揮官の陳述記録、それらを元にした公刊戦史(複数)などがある。この他上は将官、下は兵卒や民間の船員に至るまで、日本側で個人的にこの戦いの記録を残した者は多く確認されており、自費出版などの事例も多い。一方で、対戦国であるアメリカ側にも多くの史料が存在し、その中には翻訳されたものもある。しかしこれらは需要や価格の面から出版されても衆目の目に触れられない物が多い。そのため2000年代に入って初めて発掘、翻訳等がなされて刊行されることもある。
なお、日米以外の当事者であるフィリピン人等の手になる文献も日本では余り知られていない。
一般的に、米海軍ではレーダー射撃が実用可能な水準になっていたが、日本海軍ではレーダー技術が遅れており、その性能は劣っていたと言われている。
レイテ沖海戦時において、海軍が各大型水上艦に搭載した二号二型電探改四は、戦艦程度の目標であれば、夜間15,000m、昼間25,000m(34,000〜35,000m説もある)の補足距離があり、また、大和を初めとする戦艦群は初めてといえるレーダー射撃をおこなっており、その性能は「まずまず信頼して使いうる程度」といわれている。しかし、同海戦に参加した戦艦榛名の戦闘詳報では「味方艦の電波が干渉しあって妨害される場合が多く、言われるような性能が安定して発揮できない」としている。だが、戦艦金剛戦闘詳報の「電測(レーダー)射撃は相当に有効。敵の電測射撃はわが方と大差ない」という見方もある(当時の日本の工業水準・品質管理の低さから見て、各艦の電探それ自体の出来と性能に差があった可能性もある)。
この海戦で、(よく言われる重巡鳥海への味方撃ちを含めて)命中弾こそなかったもののレーダー射撃自体が可能であったことには、疑う余地はない。とはいえ、サマール沖海戦のような混戦では、敵味方識別も困難であり、有効なレーダー射撃が可能であったかは、疑問視する見方が多い(米軍も同時期の西村艦隊との戦闘で、レーダー射撃での味方撃ちを行っている)。
栗田艦隊については、「レイテ突入を実行すれば弾薬が欠乏したアメリカの第7艦隊を撃滅した」という、根強い通説がある。例えば『日本海軍 戦場の教訓』P400にて半藤一利は「相手に弾がないんですから、恐いことはちっともありません」と発言し、谷光太郎は『学研太平洋戦史シリーズ9 レイテ沖海戦』P127にて「砲弾の残量に乏しかった。第七艦隊は簡単につぶされただろう」と述べている。確かに、スリガオ海峡海戦に参加した第7艦隊主力は西村艦隊を深追いしつつあり、これを呼び戻すのには時間がかかると見込まれ、また、弾薬の心配もあったとされる。そのため、受信したスプレイグ少将の無電を読んだキンケイドは、7時25分、ハルゼーに「第7艦隊は弾薬が欠乏している」と通信を送った(佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』第11章 サマール沖の砲煙)。
一方で主に上記の観点に懐疑的な立場の評者からは第7艦隊の状況について次のような事実が提示されていった。
第7艦隊以外のアメリカ側の状況としては、攻撃を受けていない10隻以上の護衛空母が残っており、マケイン中将率いる第1群が急行中であった。レイテ突入を行えば、第7艦隊に加えてこれら全てからの猛攻撃を受けていたと考えられる。なお、栗田艦隊は最もレイテ湾に接近した時点でも、湾内の艦船を射程に入れるまでにあと2時間を必要としていた。この間、日本基地航空隊の米護衛空母艦隊への空襲があり戦果もあがっているが、規模は大きなものではなかった。また、第7艦隊を撃破してレイテ湾に突入したとしても艦隊機動に不利な、狭いレイテ湾内で航空攻撃に晒される点は変わらない。なお、これらの迎撃態勢を整えている一方で、目標としていた上陸船団は既に揚陸を終えており、事前に栗田艦隊司令部が危惧した通り避退できる状態にあったという事実もある。
栗田艦隊は作戦開始以来丸三昼夜をほぼ不眠不休の緊張状態で過ごし、栗田提督以下将兵は疲労と消耗の極みにあった。その結果、既に25日朝のサマール島沖海戦で、護衛空母と正規空母、敵煙幕と直撃弾の識別さえできない、焦って気が逸るばかりな、技量や命中率云々以前の状態に陥っていたと言われる。また、戦後初期には大和の通信機も長時間の戦闘で調子が狂っていたとされた。そのままレイテ湾に突入した場合、将兵がさらに疲労・消耗し、さらに能力が低下した状態で敵と交戦することになる点も、しばしば指摘される。また、駆逐艦などの航続力の短い艦船では燃料が減少しており、その後、栗田艦隊は給油を行ないつつ艦隊を分割してブルネイに帰還している。
砲弾については『レイテ戦記 上巻』P261-262にて、戦艦には砲弾が残されているものの、重巡は殆ど弾を撃ち尽くしていたことが記されている。一方、巡洋艦、水雷戦隊は利根のように単艦で発射した艦がいるものの、サマール沖海戦では駆逐隊全艦等による統制雷撃を行っていない。また、戦艦でも金剛は7時過ぎに敵戦闘機の機銃掃射により前檣楼トップに据えられた測距儀を破壊されており、以後砲塔測距儀による射撃によらざるを得なくなった(佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』P179-180)。榛名はマリアナ沖海戦での損傷修理が十分ではなく、26ノット以上を出せなかった。それでも第7艦隊の戦艦群よりは優速であるが、第7艦隊の戦艦群とほぼ変わらない速力しか出せない護衛空母の追撃においても支障が生じていた。
水上戦について付け加えれば、「アメリカ側(主に第7艦隊)の状態」で触れたように制空権がアメリカ側にある状態では、高い砲撃命中率が期待できない。これは直前に行われたサマール沖海戦で証明されている。
また、指揮、情報でも上記で触れてきた点の他に次のような問題があった。
まず、水上艦艇の能力を活用した作戦であるにもかかわらず、その中核である大和型戦艦については日本海軍内でも作戦を計画・指揮する部署にて正確な情報が共有されていなかった。『戦艦大和建造秘録』には栗田健男提督は「主砲口径が46cmであることを知らなかった」と米軍の調査団に陳述している事が書かれている。第二艦隊の砲術参謀も同様で、艦隊の参謀団の全員或いは大半が、指揮下の戦艦の攻撃能力を知らなかった可能性が高い。戦後の一時期、大和型戦艦の攻防力は極端なまでに高く評価される傾向があり、史料批判に熱心だった大岡昇平も『レイテ戦記 上巻』P262にて「「大和」の超大口径主砲がものをいって、オルデンドルフの旧式戦艦群6隻をアウトレインジ出来たかもしれない」と指摘し、佐藤和正もこの可能性には言及している。しかし、上記の証言は後世指摘される46センチ砲弾の威力、46センチ砲対応防禦と言った要素を計算に入れて作戦を行うことが、艦隊司令官には不可能であることを示している。また、大遠距離砲戦での命中率は低い物であり、例えば3万メートル以遠での砲撃で命中弾を得た戦例はない。 次に、艦隊司令官の裁量は一般に考えられているより狭い面があった。6月29日、木更津沖の大淀にある連合艦隊司令部を訪れた第二艦隊の小柳参謀長は次期方針の打ち合わせに関係して艦隊旗艦を従来慣例となっていた愛宕から、通信能力・防御力に優れた大和型戦艦とする要望を上申し、その艦として武蔵の名を挙げた。しかし連合艦隊の草鹿参謀長は第二艦隊が夜戦部隊であり速力の遅い大和型戦艦を旗艦には出来ないこと、第一戦隊を中核に艦隊の別働隊を作る計画があることを理由として却下された(佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』第二章 旗艦「武蔵」を容認されず)。その後、愛宕は潜水艦の雷撃で沈没し、艦隊司令部は作戦中に旗艦を大和に変更する事となった。このことが後の通信不達問題を多発させた背景として指摘され、既にサマール海戦中適切な指揮が出来なかった一因として佐藤和正などが指摘している(詳細は下記)。なお、この後に武蔵は航空攻撃により撃沈されているが、旗艦ではなく、輪形陣の中心に配置されていなかったこと(被害担任艦を期待されたとも言われる)には注意が必要であろう。また、旗艦としての能力を人員面から見ると、海戦当時の条件ではないが、竣工後連合艦隊司令部が移動してきた際暗号士まで含めてその陣容は160名程度であったという。3点目として、仮にこれら全ての不利を覆して栗田艦隊が船団を撃破できればアメリカ軍のレイテ島攻略、延いてはフィリピン諸島攻略に一定の影響を与える可能性は指摘される。しかし、揚陸した部隊への艦砲射撃は作戦計画に含まれておらず、行なうとしても現場指揮官の裁量となり、真珠湾攻撃の基地施設破壊と同質の現場指揮官の権能にまつわる問題が生じる。
いずれにせよ栗田艦隊が突入すれば、歴史上最後の戦艦同士の艦隊決戦が生起したと考えられ、「決戦が生起」という点については識者、ひいてはこの海戦について興味を持った一般人の中では共通したものとなり、そのことが太平洋戦争、あるいはレイテ沖海戦の中でもこの問題が何度も採り上げられ(本稿にも見られるように)電文や弾薬数まで検討の俎上に上がる理由のひとつとなり、後述の謎の反転問題と絡めて議論の対象となっている。
この問題は本海戦の評価の中でも最も多く議論の的となってきた。ここでは、この議論を幾つかの争点に分割して記述する。栗田艦隊のサマール島沖海戦後の反転の意図は戦史研究家などの間では「謎の反転」と呼ばれ、題名にその名を冠して記事を執筆する人物もいる。これに関連して幾つかの議論が起こった。各艦隊の状況を列挙した後、主に反転と栗田についての議論を記す。
しかし、評者達により過去最も議論の焦点となってきた説は、原因を作戦の計画段階に遡って求めたものである。下記のマニラで8月11日に行われた計画の打ち合わせの段階で連合艦隊司令部と栗田艦隊の意思疎通の欠如の原因が生まれ、作戦目的の認識に影響したというものである。つまり、海軍中央では比島上陸部隊の輸送船団を叩く事を主目的とし、打ち合わせでも神参謀は「艦隊が全滅しても構わない、以後の作戦は一切考慮しない」と述べた。しかし栗田艦隊では機会さえあれば敵主力艦隊を撃滅する事を望み、また、被害が大きくなって来ると、以後の作戦の為に1隻でも多くの艦艇を保全することを考え、この齟齬が反転につながったというのである。
一方で、栗田は戦後の会見等で船団も重視していたことを述べており、小柳ら他の首脳部も著書などで船団の価値を否定してはいない。こうしたことを根拠に黛治夫のように「謎」という言葉自体を否定する者も居るまた、問題の核心とされた連合艦隊司令部の神参謀が8月にマニラで行った打ち合わせにて小柳が行った返答は小柳の著書『栗田艦隊』によると次のようなものであり、この記述はその後多くの文献で紹介された。
この発言を神参謀は了承した。この作戦目的の解釈の件について、当事者、後世の評者の見方は分かれている。
反転については上記の他にも『なにわ会ニュース』92号に左近允尚敏による『栗田艦隊の反転』が掲載され、国内外の多くの評者のコメントが提示されている。
本海戦ではあまり知られていないものも含めて、日米双方で通信の不達、或いは着電の著しい遅延する事例が発生した。日本側の状況は日本語文献ではかなり明らかになっており、実態としてはこの問題があらゆる局面で指揮官や司令部の判断に重大な影響を与えていた。終戦直後米戦略爆撃調査団により行われた聞き取り調査でも多くの参謀、艦長、司令官が揃って述べたのがこの通信体制の不備であった。
中でも問題とされたのは栗田艦隊の状況把握である。特に巷間指摘されるのはサマール島沖を航進中に着電した9時45分付けの「ヤキ1カ」地点に敵機動部隊が存在する事を述べた電文で、ヤキ1カは栗田艦隊の北方にあり、電文は11時に着電した(大和のみが受信した事になっているとする所見もある)。そのために栗田艦隊はこの機動部隊を求めて北へ向かった。また、11時に瑞鶴が沈没し小沢艦隊司令部が大淀に移乗した旨の電文をはじめとする重要電文が大和の受信記録に残っており、東京でも受信している。
これらのことについて戦後疑問が上がった。論点は本当に栗田艦隊は北方機動部隊が存在するという電文を受信したのか、また小沢艦隊の誘出成功の電文を栗田艦隊司令部は知らなかったのかどうか、という点である。これらに対して栗田艦隊司令部が嘘をついているという立場に立ったのは半藤一利、大岡昇平等であった。
半藤は、通信士官として艦隊勤務の経験があった吉田俊雄と共に書いた『全軍突撃 レイテ沖海戦』の中で、25日に大和が小沢艦隊から受信した電報について箇条書きした。それによるとサマール沖海戦で戦闘を行いつつエンガノ沖海戦中の小沢艦隊から大和が受信した電報は次の通りである。
# 十月二十四日に敵機動部隊に対する航空攻撃開始を知らせた電報 # 伊勢、日向を中核とする前衛部隊の派遣を知らせる電報 # 小沢艦隊上空に敵偵察機が現れ、ハルゼーに発見されたことを知らせた電報 # 二十五日朝、ふたたび敵艦上機の触接を受け、ハルゼーの攻撃が近いことを知らせた電報 # 敵艦上機八十機来襲、交戦中であることを知らせた電報 # 瑞鶴に魚雷命中を知らせた電報 # 小沢長官が大淀に移乗、作戦を続行中であることを知らせた電報(1100発信、1215受信) # 敵機一〇〇機の攻撃を受け、秋月沈没、多摩落伍を知らせた電報(1231発信、1441受信)このうち5と6は発信前に瑞鶴が沈没したが、残りの電報でも囮作戦の成功だと判断する事が出来、1、2、7、8は大和の電報綴に記録があるから瑞鶴の通信機は故障していない、したがって、通信不達はあったものの小沢艦隊が空襲を受けている事は分かった筈だと半藤は主張し、後年『日本海軍 戦場の教訓』にて電報の不着や遅延が重なると不自然で、それを理由に全てを隠蔽したと述べた。田村俊夫は半藤説を採りつつ栗田に情報が届かなかった理由は参謀の陰謀によるものだと述べた。
大岡は『レイテ戦記 上』にて、瑞鶴の通信機が故障していたと述べた小柳富次の証言が誤りであること、瑞鶴の通信長が戦死している事、モリソン戦史が戦艦大和の電報綴を元に書かれているが小沢艦隊が敵と接触した報告がこの綴りにはあるのに栗田艦隊の戦闘詳報にはないこと、などを疑問点としてあげている(一部は半藤が『全軍突撃 レイテ沖海戦』で挙げた点を援用している)。また、大岡は、例え愛宕に乗組んでいた第二艦隊の通信班が一部しか大和に移乗できなかったとしても大和の通信設備は完備されているし、愛宕の通信班も使えば通信業務は出来た筈である旨を主張した。
1970年代末には大和の通信班に所属していた元予備少尉の小島清文が『文藝春秋』等で、北方機動部隊の電報を見ていないことや彼が見たという大和の艦橋の様子などを根拠に、電文は捏造であると結論した。また、1970年代には『戦史叢書 海軍捷号作戦(2)』が発刊され北方機動部隊の電文については「問題の空母情報は第一遊撃部隊だけではなく、マニラでも内地でも受領されたことは紛れもない事実であるが、その情報源は分からない」と記されているが、小島はこれも戦史叢書が全て誤っていると主張した。
栗田艦隊司令部と同じ第一艦橋に居た大和副砲長の深井俊之助少佐は、戦後この電報が栗田司令部による捏造であると主張した。深井はチャンネル桜の番組に出演して、ミッドウェイ海戦時第7戦隊司令官だった栗田が消極的な指揮をとったことと関連付け、小沢がこのことで不信感を抱き、作戦前に栗田艦隊司令部に軍刀を送って決意を促がしたと述べた(桜BBインターネット放送「人間の杜」#59/60及び『防人の道 今日の自衛隊』 2006年11月13日および15日に前編、12月に後編。当該番組の概要)。
一方、佐藤和正はこうした疑問点について強い反論を行なった。後年左近允尚敏、都竹卓郎も目的としては同趣旨の反論を行なっている。佐藤は受信状況等について考察し結論として自軍の偵察機が栗田艦隊を見て当該の電文を発信したという説を採っている。
まず海軍の通信について主に都竹の説明を元に述べる。上述のように通信には短波を主用するが、洋上に出た艦隊は敵の無線方位測定を避けるため、傍受能力は当然維持されているが、原則として電波を発射しない。
相互の交信には、打ちたい電文を行動海域(通信区)の中継局、フィリピン方面ならマニラの第31通信隊に、遠達性の低い周波数で打ち込み、通信隊はそれを丸ごと広域短波放送にかける。受信はその逆で、今の場合マニラ放送に聞き耳を立てる。海戦中は当然電報が輻輳(そう)するが、放送の仕方は当該通信隊の戦務処理に委ねられ、特定の電報が優先されることもある。放送は、他の中継局も含め、多少の時隔を置いて複数回流される。
このような放送系を介した通信の仕組みは米軍側も同じで、25日朝の第7艦隊からハルゼー艦隊宛の幾つかの救援要請電は、平文にも関わらず到達に1時間前後を要している。
なお、電報番号で表示される発信日時は、電波に乗る前の「起案」時刻である。受信日時は電信員がその暗号電報を取り終わった、いわば「着電」時刻であり、どちらも字義通りの効能を持つ迄に、相当のタイムラグがある。
なお佐藤和正は、放送を介した通信の仕組みとは明言していないが、無電は一回だけ相手を呼び出すのではなく、呼び出しは無しで定められた周波数によって数回に渡り連続打電するものであり、呼び出しが一日半に及ぶ事もあると述べた。
栗田司令部に小沢艦隊からの敵誘致成功の電文が届かなかったのが事実だとして、それ以前の問題として小沢艦隊が栗田艦隊の再反転の無電を受信していないのではないか、という疑念がある。つまり小沢司令部が栗田艦隊の反転を知らず、栗田艦隊は撤退していると考えていたがために、自艦隊の状況を積極的に打電しなかったのではないか、だから栗田艦隊で受信できなかったのではないか、ということである。これは佐藤和正の「艦長たちの太平洋戦争」内で第四航空戦隊司令官の松田千秋少将が「戦闘終了後小沢が「栗田の再反転を知らなかった」と言っていた」と証言しており、また「小沢艦隊は再反転の電報を受信していない」とも言っていることが根拠となっている。
栗田艦隊が反転したのが24日16時前、これを報じたのが同16時、この電文を小沢艦隊が受信したのが20時であった。それ以前に小沢は2の電文を打っており17時15分に大和に着電したことは確認されている。この1分前に栗田は再反転命令を出していたのだが、これはすぐに発信されなかった。既に連合艦隊司令部からは栗田艦隊宛に再反転命令の電文が打たれており、これは受信していた小沢長官も栗田艦隊の再反転に期待していたようだが21時を過ぎてもそれが着信しないため、単独の進撃は危険と考えた小沢は21時30分、先行して南下していた四航戦の松田少将に対してに対して反転、北上するよう命令した上で、22時30分部隊を一旦全艦北上させた。このとき松田部隊はシャーマン隊の至近距離まで接近しており、これに両軍は全く気づかなかった(戦後になって両軍記録より判明)。もし、栗田艦隊の反転電文が達せず、松田部隊が進撃を続けていれば米機動部隊に対して砲撃戦を仕掛けることが出来たという事になる。
栗田は19時39分になってミンドロ島サンホセ基地の水上機部隊に対して自隊への敵情報告命令を出し(連合艦隊司令部では受信せず)、これが初めて再反転を示唆する電文となったが、連合艦隊に宛てて直接再反転を報告したのは21時45分になってからだった(連合艦隊司令部では受信)。しかし、この2本とも小沢艦隊では受信していないのである。従って小沢は栗田の再反転を知らぬまま25日の敵空襲を受けることとなった。小沢は25日7時32分に4の電文を発し、同8時15分に5の電文を発しているが、いずれも短い電文であり二報しか打電していない。これは小沢が栗田艦隊が再反転したことを知らなかった証左であると、佐藤は述べている。もし小沢が栗田が進撃していることを知っていれば「敵誘致成功」の電文は栗田が確実に受信できるようにもっと多く、長く伝えていたはずだとし、瑞鶴被弾後に四航戦や「大淀」に打電を代行委任せず、「大淀」に移乗するまで現況を打電しなかったこともこれで説明が付くとしている。「栗田司令部が再反転の電文をすぐに打たなかったこと」これが栗田司令部の"小沢艦隊の状況不明"の原因となったと佐藤は指摘している。
当時日米両軍が多用した短波通信は、電離層の反射を利用して見通し距離外との通信を行うものである。しかし大戦中は太陽黒点活動が活発となり、電離層が不安定な時期が続き、しかも低緯度地方にその影響が集中したと述べた。周波数によってこの悪影響は程度が異なるが、日本海軍は2-4MHzの短波帯であれば影響が低い事を突き止め、同周波数帯の無線機の開発にかかったが、その前に戦争が始まったため電波予報を出して事前策としていた。また、大和のアンテナは地上に設置されたものに比べて設置上の制約が大きく、10m程度のものであり、しかも常に移動するという悪条件である。船舶通信についての教育テキストでは日本標準時プロジェクトのような「報時」について言及がなされるが、リンク先にも示されているように一つの周波数のみでは伝播しない区域があることを考慮し、短波では複数の周波数で発信を行っている。この他短波の受信状況は日中か夜かでも変化し、その傾向分析を行っている事例もある。また遠方で受信できた場合に近距離であれば必ず受信できるとも限らない(鈴木治『船舶通信の基礎知識』) 。佐藤の記述には「電波の突き抜け現象」による記述もある(デリンジャー現象ないしスキップ・フェージングを指すと思われる)。
受信状況については、愛宕沈没により電測士は清水少尉、司令部付暗合士の小林(剛)、広瀬両少尉が戦死、小林(敏)少尉は救助されたが高雄でブルネイに帰投した。大和に移乗出来た通信班員は小島を含む2人の予備少尉だけであり、大和が旗艦となった事で通信班が艦隊司令部付と第一戦隊司令部付に分けられたため、オーバーワークとなり、且つはじめて聞く送信員の打電を処理しなければならなかった事で通信能力が低下した。このことは都竹によれば大和戦闘詳報の「戦訓の部」に記されており、電信員の数は一応定員を満たしていたが、速成教育を受けただけで、当直を任せられない新兵が多いため、戦闘中でも最低1直交代という原則を1直半にせざるを得ず、その上切断空中線の復旧といった応急作業が頻繁に飛び込み、古参兵は疲労困憊(ぱい)の極に達した(なお、無線通信士の間ではしばしば電信員固有の癖について指摘される。"「CQ Ham Radio」誌、JA2CNC、JA9LIN"。この癖により、暗号数字の誤受信、ノイズ混入による欠字などにより、年間受信量の30%が受信不能となっていたという。佐藤は欠字が多い場合は暗号士に回送されても翻訳不能として没にされたと推定している。なお、『海軍艦隊勤務』では大和の定員表を推定する記事が掲載されており、機密性の高かった同艦の詳細な定員は不明な部分が多い。
従って、半藤が自著で大和の通信設備に被害が無かったように記しているのは明確な誤りである。
佐藤和正は瑞鶴が第一報を発信した午前7時32分頃は栗田艦隊は海戦中で、その指揮に追いまくられていたと述べ、瑞鶴のアンテナが第一次空襲で損傷し、補修したことを挙げた。また佐藤は「ヤキ1カ」を栗田艦隊を敵艦隊と誤認した味方航空機によるものと推定している。
神野正美『空母瑞鶴』によれば、第一機動艦隊は戦闘詳報でこの件について指摘し、問題があった電文として5件を挙げている。呉に帰還後調査も行なわれた。その原因分析としては次のような点が挙げられ、通信能力に優れた艦を旗艦とするべきことや台湾の高雄に展開していた通信隊の能力強化が戦訓として指摘されていた。
# 瑞鶴の送信勢力不充分 # 味方との混信 # 電信部通信指揮官間の錯誤 # 通信隊における受信状況の差異 また神野によれば、同艦隊の情報参謀であった山井實夫はこの問題について次のような点を指摘している。 # 使用電波、周波数の種類による時刻別の伝播特性 # 発信源のアンテナ効果(指向性、空母についてはアンテナマストの起倒状態、倒れていると見通しが非常に悪化する) # 戦闘中の艦内伝達の難易 # 電波の伝播経路の空間状態なお、佐藤和正は司令部が大淀に移乗した後には不達は無くなったと述べている。
これに関連して松井宗明によれば、艦艇は秘匿性が要求されたり遠距離の特定海域から本国に通信する場合などは八木アンテナなどの指向性アンテナを用いるが、通常は無指向性アンテナを使用する。マストや上部構造物を利用して展張する展張型アンテナは、ほぼ無指向性である(艦船用の通信設備についての一般的な解説は『世界の艦船1989年2月号』「特集・艦隊通信」他に拠る)。
原勝洋によれば、大和はシブヤン海海戦時に展張していたアンテナケーブルが断線し、被害が重大なものであったため予め積み込んでおいた修理部品も不足したと述べている。断線したケーブルは雑音を誘起し、通信の障害となった。また、自艦の対空砲火による震動が無線機に悪影響を及ぼし、2つある受信室のうち一つは業務が不可能となっていた。都竹は、増強された高角砲の発砲振動を強め、通信環境には悪影響であった可能性を指摘している。このことにより大和は10月24日は送受信に著しい障害があり、31通の電文に問題があったという(31通の内訳について、原は本海戦を扱った『決戦戦艦大和の全貌』で述べていない)。原は戦闘時の通信対策で課題を残したと総括した。
当時熊野に士官として乗組み、戦後海上自衛隊で統合幕僚会議事務局長などを努め、情報畑の著書・論文発表が多い左近允尚敏は艦艇研究家の田村俊夫が半藤の主張を汲み入れて『海交』で疑念を呈した際、大和が受信した小沢艦隊の電報について分析を行い、『栗田艦隊の反転』にて反論している。主な点としては大和に着電した電報だけでは判断する事はできないと言うものであり、7、8から分かるのは100機に空襲されて旗艦が沈んだ事だけであり、「ハルゼー機動部隊が北につり上げられ、敵主力は南方にいないことが十分に読みとれるはず」という半藤の推理を否定した。また、8時46分に瑞鶴は送信不能となり、以降は大淀からの送信だったと指摘した(瑞鶴の状態についての同種の指摘は佐藤和正も行っている)。
また左近允は小島が7の「大淀ニ移乗 作戦ヲ続行ス 一一〇〇」を指摘してを翻訳して敵機動部隊だと即断したこと等数点を挙げて、どのような手段(航空機か潜水艦か)で攻撃されたのかも、被害の程度も書かれていないのに何故作戦が成功したと判断できるのかについて矛盾があることを指摘した。また、左近允と都竹卓郎は小島の方が嘘をついていると批判した。戦後日本大学教授となった都竹は大和で通信士官をしており、小島が文芸春秋に投稿した記事の中でも怒りっぽい士官として描かれているが、24日18時頃ガンルームで食事中に艦橋に呼び出された件を例に、全員が戦闘配置に就いており悠長な状況ではなかったと述べた。また「海軍の通信系の仕組みを全く知らず、『大和』が聯合艦隊や各艦隊の司令部と、ダイヤル即時通話さながらに、直接交信しているものと、思い込んでいたようである」と述べ、その上で大和戦闘詳報の資料批判と日本側の作戦行動の問題点を指摘した。また両者は小島が不戦兵士を自称し、反戦活動を行なった事を批判した(なお、小島の活動については現在中帰連などで確認ができる)。
時代により入手可能な資料や価値観が異なる面もあるが、概ね上記のような種々の視点が提供されてきた。この他の事実としては、上陸船団に十重二十重に支援艦隊がつけられるのは常識であり、日中戦争や開戦初期の日本軍の侵攻作戦でも行なわれてきた事例が複数ある。その中で栗田は数多くの作戦に参加し、通商破壊作戦で戦果も挙げた経験があった。また、実戦で示されたように米軍の索敵能力は「敵を発見する」という意味では高いものであり、戦意も高いものであった。また、損害を無視した目的の貫徹という視点についても、船団に接触する以前に全滅するほどの損害を受ければ達成は不可能である。
このことに関して、後の批評家は、上記で述べたように、反転しなかった場合には日米で戦艦同士の艦隊決戦が発生することをほぼ暗黙の前提としてきた。しかし栗田艦隊は「空襲を脅威と認識し輸送船団も揚陸を終えているだろうから期待しえる戦果は極めて少ない」と考えていた。
作戦目的の是非以外とは別に、明らかにされてきた経緯への評価は次のようなものがある。栗田艦隊の突入は小沢機動部隊の囮作戦及び味方基地航空隊の航空攻撃による、言わば事前のお膳立てと連携したものであったが、成功するかはやってみなければ分からない、言い換えれば戦況が流動的である事も両派から指摘される。事実、計画策定後基地航空兵力はダバオでの誤報や台湾沖航空戦で弱体化し志摩艦隊は遊兵化した。これらは上部の連合艦隊司令部や並立する南西方面艦隊司令部の責任が大きく、その他日本側の判断ではどうしようもない作戦能力(特に偵察などの情報収集力)の低下がありソフト、ハード、量の全てで米軍とは雲泥の差であった。
そして、作戦開始後には小沢艦隊による誘出はシブヤン海海戦の後まで遅延し、西村艦隊の突入繰上げによっても遊撃部隊の突入タイミングは乱れ、栗田艦隊には『アメリカ側(主に第7艦隊)の状態』で述べたような兵力が立ちはだかった。なお、栗田艦隊のレイテ突入は、栗田艦隊司令部の言を信用するならば、小沢艦隊からの連絡は司令部の知るところではなく、味方基地航空隊の攻撃が行われているとの連絡もなく、支隊である西村艦隊もどうやら全滅したらしいという認識から、作戦の前提が崩壊しているという認識を持っていた。
そして、栗田艦隊をはじめ日本側は直前のサマール沖海戦で、米正規空母部隊の一群を撃破したと認識している。この種の誤認は戦場では多発するものであり、偵察を重視していたアメリカ海軍でも多発した(一例としてはマリアナ沖海戦時、敵は発見したものの大和型戦艦を主力とする日本艦隊を艦のサイズを見誤ってその戦力を過小に報告した事がある)。小沢艦隊からの囮成功の連絡もなく、自分の艦隊が(小沢艦隊が囮となって誘引するはずの)米機動部隊の一群をすでに捕捉・撃破している(という認識を持つ)状況下で、小沢艦隊の米機動部隊誘引作戦が成功しているなどという「正しい」認識を持つのは不可能であり、戦果を挙げたと認識している以上海軍上層部が作戦後に艦隊司令部等に処罰を行うことはありえない。
また、栗田艦隊は真偽はともかく北方機動部隊の電報を前提に動いた。これを放置した場合の脅威を想定したことを指摘する向きもある。もちろん栗田艦隊は北方機動部隊と会敵しなかったが、日本側が考えていた敵機動部隊たる第3艦隊は、陽動に引っかかったことに気づくと各部隊から戦闘艦艇を引き抜き、それら護衛艦を集結して大部隊とするより追撃を重視して栗田艦隊に向かった。一部の評論家が夢想した、「ヤキ1カに居たとしても逃げるだけで、機動部隊は護衛艦も含め水上戦には無力である」と言ったイメージとはかけ離れた姿であったし、都竹や小柳の証言に見られるように、日本側もそこまで機動部隊を軽んじていた訳ではなく、有力な敵だと見做していた。アメリカ側だけでなく日本側にも開戦初期以来、数々の海戦で護衛艦艇を攻撃的に使用し、或いはそのように使用する含みを持たせ運用してきた実績があった。
上で述べたように日本側では総じて事前準備、組織間の情報伝達、連携の調整の失敗が多くの者に指摘される。上記のほか例えば外山三郎も兵力差の他の重要な要因としてこれらを挙げている。最終段階の栗田艦隊の行動を中心に意見が分かれる部分もあるが、資料批判を行なう評者の中には一部の批判に対しての反論もあり、日本軍批判であれば中身は何でも良いわけではない旨が指摘されることもある。
また、栗田が艦艇を保全したことは、数度にわたって行われた日本軍の逆上陸作戦(多号作戦、成功例もある)での護衛艦確保という意味で有益であった。米機動部隊は残存日本艦隊の攻撃に大きなリソースを割いており、艦艇がレイテ湾で全滅していれば、米機動部隊の陸軍部隊に対する空襲支援はより強力なものとなったであろう。従来の通説による栗田中将(或いは栗田艦隊)批判は、誤った情報を前提とした評価によるもの、残弾論争のように物証に乏しいものが多く含まれている。また奥宮の「消化試合」という言葉に代表されるように誰が指揮を行なっても史実以上の成果が得られたかは疑問であり、それだけ戦況は日本側に不利であった。
昭和30年に刊行された戦記である伊藤正徳の『連合艦隊の最後』において、本海戦は、 「無理の集大成であり、そして無理は通らないという道理の証明に終わった」という評価が成されている。
この戦いは純粋な商業的な対象ともなり、文学作品、映画、更にはゲームや仮想戦記が出版され、純粋な娯楽に該当するものを含めその製作には戦史の評論を行なう者も多数参加してきた。これらは戦史に興味を持つ者を主たる販売対象としている。創作物の中でも作戦に対する視点は多様であり、例えばゲームではいわゆる史実に沿った作戦展開の中を前提し、プレイヤーに両軍の置かれた状況を理解してもらうことを重視するか、プレイヤーの裁量を重視するかで違いがあった。また、対象期間においても、スタートを米軍進攻による捷一号作戦発動後とするか、背景の項で見たように史実でも検討の俎上に上がった台湾やミンダナオ進攻などの選択肢を反映するため、更に早い時期からのスタートとするかなどの違いが見られる。これに関してゲーム雑誌では、史実への批評を行ないつつ、その結果を知るプレイヤーに対してどのようにゲームをデザインするかについて、製作者側から意見の表出があった。ただしゲーム、仮想戦記ともに、栗田個人に対しては批判的評価を反映したものが殆どである。
ゲームという意味では戦いをゲーム的状況としてゲーム理論の方からテーマとされることもあり、商業ウォーゲームとの繋がりも絶無ではない。
10月24日15時30付けで第38任務部隊第2群、第3群、第4群から水上部隊(戦艦6、巡洋艦7、駆逐艦17)を抽出して編成。ただし編成を宣言したものの実施されなかったと言う(外山三郎『太平洋海戦史 3』)。また、24日夕刻の時点では第3群の艦船は集結地点近海にいなかった。
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