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羽生善治

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

羽生善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )は、将棋棋士。通算タイトル獲得数は、大山康晴に次いで歴代2位。全7タイトル戦のうち6つで永世称号の資格を保持(永世名人(十九世名人)・永世棋聖・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世王将)。数々の実績から、将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。二上達也九段門下。棋士番号は175。埼玉県所沢市若松町生まれ、東京都八王子市育ち。羽生と同世代の棋士にはトップクラスの実力者が多く、「羽生世代」と称されている。

プロデビューまでの来歴

小学校1年生で将棋を覚え、2年生の頃から八王子の将棋道場(八王子将棋クラブ)に通うようになる(親が買い物をするとき、託児所的に将棋道場を利用したということもある)。通い始めた当初、通常は8級からスタートする所を、その実力から道場の席主から与えられた段級は15級であった。これは昇級の楽しみを与えるためであった。しかしその後、棋力は急速に向上していき、翌年の小学3年のときに初段、さらに、4年のときに四段、5年で五段となり、アマ強豪のレベルとなる。子供の頃から将棋が家族内であまりにも強すぎたために、家族が不利な展開になったときは将棋盤を180度回転して、それまで家族が指していた劣勢な側を善治が、それまで善治が指していた優勢な側を家族が指し継ぐという家族内ルールが存在したというNHK『クイズ日本人の質問』インタビュー

5年生の頃から、関東各地の子供将棋大会を総なめにする。母親が我が子を見つけ易くするため、いつも広島東洋カープの赤い野球帽を被らされていて、周囲からは「恐怖の赤ヘル」と恐れられていた(羽生自身は読売ジャイアンツファンであった)田中寅彦 『羽生善治 神様が愛した青年』ベストセラーズ、1996年。ISBN 978-4584191286。

関東各地の子供将棋大会で森内俊之と知り合い、この頃からライバル関係となる。将棋大会で、先手・森内の初手▲5八飛に対して後手の羽生が▽5二飛、という珍しい出だしの将棋があった「佐藤康光&森内俊之のなんでもアタック」『将棋マガジン』1996年6月号。。1982年の小学生将棋名人戦で優勝。このとき森内が3位、NHKテレビ解説者は当時19歳の谷川浩司だった。

小学生将棋名人戦で優勝後、奨励会入り。1年余で6級から初段に昇段するなど驚異的な速度で昇級・昇段を重ね、1985年12月18日に三段において13勝4敗を記録。この成績をもって、当時の規定当時は、三段リーグの制度がなかった。により四段に昇段し、加藤一二三、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士となる。

戦績

末尾の年表 も参照。

デビュー、そしてスターダムへ

デビュー直後の1986年度に、全棋士中で1位となる勝率(0.741)を記録し、将棋大賞の新人賞を受賞する。

羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「チャイルドブランド島朗による命名。と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進む。

羽生を一気にスターダムへ押し上げることになったのは、五段時代の1988年度のNHK杯戦である。大山康晴加藤一二三谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、4人の名人経験者を立て続けに下して優勝。まるで作ったかのような舞台設定で谷川浩司は、「(羽生が)持って生まれた運」と表現している(『別冊宝島380 将棋王手飛車読本-将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』宝島社〈別冊宝島〉、1998年。ISBN 978-4796693806より)。、これは多くの将棋ファンに対して羽生という棋士の存在を強烈に印象付けた。特に対加藤戦で放った▲5二銀は非常に有名であり、解説役で出演していた米長邦雄も驚嘆していた後に加藤はこの対局について、「▲5二銀自体は奨励会員でも指せる」と述べているが、中盤戦で攻められている側に玉将を上がった▲4八玉を高く評価している(『将棋世界』2007年11月号102ページ、「加藤一二三九段、1000敗を語る」)。。同年度は対局数、勝利数、勝率、連勝の記録4部門を独占(80局、64勝、0.800、18連勝)し、将棋大賞最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞した。無冠の棋士が受賞したのも、史上初である。なお、記録4部門独占は羽生だけが達成している記録で、羽生はその後も3回(合計4回)達成している。

1989年、タイトル戦初登場となる第2期竜王戦で初代竜王島朗から奪取し、史上最年少タイトル記録(当時)となる19歳2か月で、初タイトルとなる竜王位に就くただし、最年少タイトル獲得記録は、わずか1年足らずで18歳6か月の屋敷伸之によって塗り替えられた。。この年度は、先手番での勝率が9割を超えた1989年度は先手番勝率が.9355(29勝2敗)。玲瓏:羽生善治(棋士)データベースの年度別成績を参照。

翌年11月に谷川に敗れ、無冠の「前竜王」という肩書きになるが、3か月後の1991年2月に棋王位を獲得し、それ以降は無冠となったことがない(2009年3月現在)。また、肩書きとして段位を名乗ったのは竜王戦挑戦時の「六段」が最後である。

七冠達成への道

1992年度、王座福崎文吾から奪取して、ここから長い王座戦連覇が始まる後に、大山が持つ同一タイトル連覇記録(名人戦13連覇)を塗り替えることとなる。福崎は「(羽生さんが今年も王座を防衛したので、私は)今年も“前王座”を防衛しました」というジョークを言うことがある。。同年、竜王を含む三冠の谷川と竜王戦で対決し勝利したことで、自身初の三冠となると同時に、名実ともに第一人者としての道を歩むことになる。

1993年度、棋聖王位を奪取して、五冠となるが、竜王を佐藤康光に奪われ四冠に後退する。

1994年度には、前年に史上最年長名人の記録を達成した米長邦雄から、名人位を奪取し、さらには竜王を佐藤から奪還して史上初の六冠王となる。残るタイトルは、王将ただ1つとなったが、王将リーグは5勝1敗で郷田真隆と並んで終え、プレーオフに勝利して王将挑戦権を獲得し、1995年1月からの第44期王将戦七番勝負で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑むことになる。

王将戦七番勝負はフルセットの戦いとなり、その間、同時進行していた棋王戦五番勝負では3-0のストレート勝ちで早々と防衛を決めていた。

そして迎えた王将戦最終第7局(1995年3月23〜24日)であったが、千日手指し直し千日手局は前局と全く同じ手順で進み、41手目で初めて先手の谷川が手を変えた。「お互いの意思がピッタリ合った」(日本将棋連盟書籍編『谷川vs羽生100番勝負-最高峰の激闘譜!』日本将棋連盟、2000年。ISBN 978-4819702102より)の末、敗退。谷川によって、史上初の全冠制覇を目前で阻止された谷川は、第1局と第2局の間に阪神淡路大震災で被災していた。谷川は後に「(逆に)もしも震災がなかったら、このとき敗れていたのかもしれない」という旨を語っている(『別冊宝島380 将棋王手飛車読本-将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』宝島社〈別冊宝島〉、1998年。ISBN 978-4796693806より)。。この第7局の2日目当日、対局場である青森県奥入瀬のホテルには、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた。対局終了後、カメラや質問が主に敗者に向けられたというのも、異例のことであった。

しかし、それから1年間、羽生は全てのタイトルを防衛する。なお、これらの防衛戦の間に通算タイトル獲得数が谷川の20期(当時)を超え、大山、中原に次ぐ歴代3位となっている。さらに、第45期王将リーグも5勝1敗の1位で抜けて、谷川王将に2年連続挑戦する。

そして、第4局(1996年2月13日 - 2月14日)、4-0のストレートで、ついに王将位を奪取し、七冠独占の偉業を成し遂げた。タイトル戦の数が7つになった1983年以降、全冠制覇は史上初で、翌日の新聞の一面を飾ったり、終局直後に生中継によるニュース速報が行われるなど、棋界にとどまらず社会全体で大々的に採り上げられた。直後に棋王戦で防衛に成功したので、年度の全7タイトル制覇も達成したことになる。この年度は、テレビ棋戦のNHK杯早指し将棋選手権でも優勝したので「九冠」とも言われた。しかも、年度勝率は、予選を勝ち抜いて勢いに乗る挑戦者を迎え撃つタイトル戦の対局が多かったにもかかわらず、0.8364(歴代2位)という数字であった46勝9敗のうち、タイトル戦だけでは25勝5敗(.8333)。この年度の最終戦となった対屋敷伸之戦に勝っていれば、中原誠の持つ最高勝率記録(.8545 47-8)に並ぶことができていた。

七冠王として迎えた新年度(1996年度)の最初のタイトル防衛戦は、小学生時代からのライバル・森内俊之との初のタイトル戦となる名人戦であった。この七番勝負は4-1で防衛に成功し、内容的にも、両者、力を出し合った名局揃いという評価を受ける。

次の防衛戦(七冠王としての3つ目の防衛戦)は、2年連続で三浦弘行羽生の全冠独占後に雑誌『将棋マガジン』(日本将棋連盟発行)の中で「羽生から最初にタイトルを奪取するのは誰?」というアンケートが行われ、大抵の人が谷川や佐藤康光と答えた中、三浦と答えたのは僅か4人であった。を挑戦者に迎えた第67期棋聖戦であった。フルセットの戦いとなったが、最終第5局で相掛かり2八飛車引き相掛かりの先手で、飛車を「浮き飛車」(2六飛)にせず「引き飛車」(2八飛)にする指し方は当時としては珍しかっため、力戦と呼ばれた。しかし、これをきっかけに、プロ間で流行するようになる。の趣向を見せた三浦に敗れ、全冠独占は167日で幕を降ろした1996年2月14日=王将奪取日 - 7月30日=棋聖失冠日)。

七冠以後

三浦から棋聖位を奪われたのと同年の第9期竜王戦と、翌1997年の第55期名人戦という2つのビッグタイトル戦で、いずれも谷川にタイトルを奪われ四冠に後退この名人戦で、谷川は名人位獲得通算5期となり、十七世名人資格を得た。。獲得賞金・対局料ランキングでは、羽生は1位が‘指定席’であるが、1997年は谷川にその座を譲った。

1997年度のNHK杯決勝では村山聖に勝って4度目の優勝をしたが、これが二人の最後の対局となった(約5ヵ月後の1998年8月8日に村山が死去)。

2003年度の竜王戦、王将戦、そして2004年の名人戦で、いずれも森内俊之に立て続けにタイトルを奪われ、永世竜王・永世名人資格獲得を逸する竜王戦は0-4のストレート敗退。羽生がタイトル戦でストレート負けを喫したのは初めてであった。ばかりか、羽生のタイトルは王座の一冠のみとなった。羽生が一冠のみとなるのは11年9か月ぶりのことである。この時点で、棋界の構図は、森内竜王名人王将と合わせて三冠)、谷川王位棋王(=二冠)、佐藤(康)棋聖、羽生王座となり、この瞬間、羽生は棋界最強の座を奪われただけでなく無冠の危機さえ迎えた。しかし、その2004年度中に王位を奪還し、王座一冠の時期は89日で終わる(2004年6月11日 - 2004年9月8日)。さらに同年度中に王将、棋王をも奪還して四冠となり、あっという間に再び7タイトルの過半数を占める。

2005年、王座戦で14連覇を果たし、1959年〜1971年にかけて大山康晴が樹立した同一タイトル連覇記録(名人戦13連覇)を抜く数字の上では大山の記録を抜いたものの、羽生自身は14連覇時の就位式(2005年)で「大山先生にはとてもかなわないが、数字の上だけでも一つ追いつくことができた」と述べており、偉大な先輩に敬意を表している。

2005年度のA級順位戦では8勝1敗の成績だったにもかかわらず谷川とのプレーオフとなり、結果敗れて名人挑戦を逃した。8勝して名人挑戦できなかったのは唯一のケースである。なお、このプレーオフの一局は結果的に「詰ましにいって詰まなかった」ものだったが、内容は高く評価され、第34回将棋大賞で創設されたばかりの「名局賞」を、谷川とともに受賞している。

2006年、王座防衛の時点で通算タイトル獲得数を65期とし、中原誠(通算64期)を抜いて歴代単独2位となる。

2007年、深浦康市に王位を奪取されるが、最終第7局の終盤戦の内容が評価され、2年連続で将棋大賞の名局賞を受賞する。

2007年12月20日、最年少、最速、最高勝率で史上8人目の通算1000勝特別将棋栄誉賞)を達成第66期A級順位戦6回戦、対久保利明戦にて達成。

2008年2月28日、第57期(2007年度)王将戦で防衛に成功し、史上2人目の棋戦優勝100回(タイトル獲得68期、一般棋戦優勝32回)を達成。

2008年6月17日、第66期名人戦第6局で森内名人を破り、名人位と三冠に復帰。通算5期獲得により永世名人(十九世名人)の資格を得るとともに、史上初の、いわゆる「永世六冠」(永世名人、永世棋聖、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将)を達成大山康晴と中原誠の「永世五冠」を抜く単独トップの記録。。その2日後の2008年6月19日、第49期王位戦挑戦者決定戦で橋本崇載を破って深浦へのリターンマッチの権利を得、タイトル4連続挑戦(棋王、名人、棋聖、王位)棋王戦の前の王将戦、および、王位戦の後の王座戦は防衛戦であるため、佐藤康光が持つタイトル5連続挑戦の記録(2006年度)の更新は不可。なお、王座戦の次の竜王戦でも挑戦権を獲得している。

2008年12月17日〜18日に渡辺明と対戦した第21期竜王戦七番勝負第7局(山形県天童市)は、どちらが勝っても初代永世竜王誕生となる戦いとして注目を集めたが、竜王位奪取と一気の「永世七冠」達成はならなかった。七番勝負での3連勝4連敗は将棋史上初のことである3連勝3連敗は、これ以前に2度発生していた(1978年の十段戦で中原誠3連勝の後に米長邦雄が3連勝、2005年の王位戦で羽生3連勝の後に佐藤康光が3連勝)。。この第7局は将棋大賞の名局賞受賞局となり、羽生にとっては3年連続で、負けた一局での受賞となった。

2009年3月22日放送の第58回NHK杯将棋トーナメント決勝において森内俊之九段を降し、加藤一二三九段と並んで現役最多タイとなる7回目の優勝を果たした歴代最多は大山康晴十五世名人の8回

棋風

  • 基本的には居飛車党であるが、振り飛車相振り飛車も指しこなす。「得意戦法はあまりもたないほうがよい」と羽生自身が公言するほどの、自他共に認めるオールラウンドプレイヤーである。幅広い序盤戦型、各局面で先入観にとらわれない柔軟な発想と決断力、豊富な戦術に定評があり、そのため対戦相手は対策が立てにくい。それが、今に至るまで高い勝率を維持している一因と言われる。
  • 終盤での絶妙の勝負手、他の棋士が思いつかないような独特な寄せ手順から逆転することから「羽生マジック」と称される。
  • 棋風は「泰然流」「無双流」などと名づけられているが定着していない。
  • 好きな駒は銀将。2008年5-6月の永世名人資格を獲得した名人戦でも銀の動きに異彩を放った。
  • 金銀を、2三(後手なら8七)や8三(後手なら2七)に打った対局の勝率が高いと言われている。ここに金銀を打つのは、通常は勝ちづらいと考えられている手法である。このため、棋界の一部では、これらのマス目は「羽生ゾーン」と呼ばれている鈴木大介勝又清和「進化する羽生将棋」『将棋世界』2008年3月号、日本将棋連盟、63-65頁
  • 大山康晴の力強い受け、中原誠の自然流の攻め、加藤一二三の重厚な攻め、谷川浩司の光速の寄せ、米長邦雄の泥沼流の指し回し、佐藤康光の緻密流の攻め、森内俊之の鉄板流の受け、といった歴代名人の長所を状況に応じて指し手に反映させることから、「歴代名人の長所をすべて兼ね備えた男」とも評される勝又清和「これならわかる!最新戦法講義」『将棋世界』2008年10月号、日本将棋連盟、68頁

エピソード・人物

対局に関するエピソード

重要な対局
  • 王位、王座、棋王、王将は、それぞれ通算10期を超えているが、竜王、名人、棋聖の獲得数は、あまり多くない。永世名人資格獲得は小学生時代以来のライバルである森内俊之に2年連続で阻止され、結果的に森内に先を越された(森内が十八世、羽生が十九世)。また、唯一永世称号を獲得していないタイトル戦は、最も賞金額の多い竜王戦である。2008年渡辺明と戦った竜王戦七番勝負第7局は、どちらが勝っても勝ったほうが初代永世竜王の資格を得る勝負であったが、敗れた。
  • 七冠制覇を達成した1996年2月13〜14日の王将戦七番勝負第4局では、対局前日から風邪を引いて熱を出していた。これについては、本人いわく「体調管理が悪いことは褒められたものではない」としながらも、「いい状態ではないから、負けてもしょうがないと思ったことが、逆に、プレッシャーを低減させた一面があった」という
所作
  • プロデビューして間もない低段時代には、上目で相手をにらみつける(ように見える)「ハブ睨み」が相手を恐れさせたとされる。ただ、羽生によると意識をして相手を睨み付けていたわけではないと語っている。
  • 初手を指すとき、細い指で持った歩を斜めに上げ、ゆっくりと舞わせてから下ろす。これは、他の棋士達ではあまり見られない所作である。
  • 打ち下ろした駒をさらに指で盤に押し付ける仕草をすることがあるのも、羽生の特徴である。これは、俗に「グリグリ」と呼ばれ、無意識なのか意識的なのかは不明であるが、勝負どころの一手や終盤で勝ちに行く手を指すときに見られる。
  • 2003年の第51期王座戦では、タイトル戦初登場で19歳の渡辺明五段(当時)の挑戦を受け3-2で防衛したが、最終の第5局の終盤で羽生の手が震えて駒をまともに持てなかったということは有名である『将棋世界』2007年1月号、日本将棋連盟。また、対局相手の渡辺も、テレビ番組で証言している。。その後も、一手のミスも許されない終盤で羽生の手が震えることが度々見られるようになった。手の震えが出るようになったのは30代に入ってからであるたとえば、『プロフェッショナル 仕事の流儀』(NHK総合、2006年7月13日放送)で紹介された藤井猛との朝日オープンでの対局や、『囲碁・将棋ジャーナル』(NHK BS2、2008年5月17日放送)で紹介された2008年の森内との名人戦第3局(大逆転の一局、後述)でも見られ、さらに、同第4局の▲6二角成を指す際に6二の金を取るときには、隣の駒を乱してしまうほど激しく震えた。
  • 初めて竜王位に就いた1989年頃は、先輩棋士(自分より段位や実績が上の棋士)と対局する際、上座に座るべきか下座に座るべきか、毎局悩んでいたが、1990年に1期で竜王位を失って以降は、席次に関しては、タイトル保持者としてふさわしい行動をとるよう努め、それで反感を買っても仕方がない、という考えをとるようになった羽生善治『決断力』角川書店〈角川oneテーマ21〉、2005年、5-6頁。。その後1994年に、A級順位戦8回戦で中原誠(当時の肩書きは前名人)と対戦した際、羽生(当時王位・王座・棋王・棋聖の四冠)が上座についたことで物議をかもした。この件は「上座事件」と呼ばれることもある。これについて羽生は、それまでのリーグ戦の成績が、自分の方がよかったので勘違いした、と語っているNIKKEI 日本経済新聞社
諸対局内容
  • 初タイトルの竜王を失った1990年の竜王戦七番勝負は、谷川3連勝の後に羽生が1勝を返し、最終的に4-1で谷川が奪取した展開であったが、角番で1勝を挙げた第4局は、入玉模様ではなく攻め合いであったにもかかわらず、203手という超手数の激戦であった。この一局のことを、羽生は「それまでは、昇級・昇段・タイトル獲得という上だけを見ていたが、初めて後ろ向きで対局したという意味で、(将棋観を変えた最も)印象に残る一局である」2008年秋にNHKで放送の「100年インタビュー」より。と語り、一方、谷川は「どちらが勝ってもおかしくない名局」、「4-0か4-1かというのは、その後のことを考えれば大きかったかもしれない」『別冊宝島380 将棋王手飛車読本-将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』宝島社〈別冊宝島〉、1998年。ISBN 978-4796693806より。という旨を述べている。
  • 最初の五冠王となったころは、振り駒で先手を引き当てることが多く、「振り駒も強い」といわれた。実際、1992年度と1993年度のタイトル戦における振り駒(第1局および最終局)は12回行われたが、すべて羽生が先手となった。
  • 若手時代、NHK杯戦で先手番となったとき、▲2六歩▽8四歩▲2五歩▽8五歩という相掛かりの出だしの後、常識とされる5手目▲7八金を指すまでに若干の時間を使って考慮をし、観戦している人々をドキリとさせたことがある解説役で出演していた内藤國雄は、▲2四歩と指しても先手が僅かに悪いとされているだけであり、羽生ならば何かやってくるかもしれないと相手に思わせる雰囲気を持っている、という趣旨の解説をしていた。
  • 1993年12月24日の対谷川戦(棋聖戦)において、序盤で4四の歩のタダ取りを許す▽4二角、さらには、いったん敵玉に迫っていた7九の と金を、香車を取るだけのために2手をかけて▽8九〜▽9九へ「退却」させるという、将棋の常識からかけ離れた奇手を指した。売られた喧嘩に谷川が応じる展開の乱戦となり、さらに終盤だけで80手ほどもある激戦となったが、結果、羽生が勝利している。
  • 1994年、初めて名人位を獲得した直後のNHK杯戦・対畠山鎮戦で、先手・畠山の初手▲2六歩に対して2手目▽6二銀と指したことがある。そして、10手目で▽3四歩とするまで羽生の歩が1つも動かないという、極めて珍しい出だしとなった。まさに「名人に定跡なし」である。結果、勝利したものの、自陣を整備するのに神経をすり減らす展開であった。
    また、ほぼ同時期に、先手の初手▲7六歩に対する2手目▽6二銀も指しており、こちらは一度ならず何度も指している。これは、相手が振り飛車党の場合に、たまに用いられる作戦ではあるが、羽生が実戦で試した相手は、谷川浩司、郷田真隆、森下卓といった居飛車党である。なお、後に羽生は「2手目▽6二銀は損だが、どれぐらい損であるかを見極めるために指した。どれだけ損であるかがわかったので、もう指すことはない。」という旨を語っている将棋世界』2006年8月号、日本将棋連盟。
  • 2007年10月14日放送のNHK杯戦、対中川大輔戦で奇跡的な逆転勝利(中川の玉がトン死)を挙げ、解説役でNHK杯現役最多優勝記録保持者の加藤一二三をして「NHK杯戦史上に残る大逆転」と言わしめる対局となった加藤は「あれー?!」「おかしいですねー。」「トン死じゃないですかー?」などの驚嘆の声を連発していた。また、この対局映像は後にニコニコ動画に投稿され十数万回の記録的な再生数を記録した。後に勝又清和が「終盤の大逆転」という番組にて、一区切りの解説してから「羽生さん自身もこんな奇跡的な展開はないなという事で・・」「後でネットも見てたらしいですね。その話を聞いた時「ニコニコ動画に出てましたね」と結構反響があったので、ちょっと話を・・・」と発言した事で、羽生がニコニコ動画を視聴しているという反響の声が挙がったが、羽生自身ネットでこの局面に関する事を調べてたり確認したりしているとは捉えられるが、動画を観たと明言しておらず、その話(ネットで見ていた事)を聞いた勝又が「ニコニコ動画に出てましたね」と反響があった事を羽生に伝えたという捉え方もでき、実際に羽生がニコニコ動画を視聴したかは不明である。
  • 2008年の第66期名人戦第3局(2008年5月8日〜9日)において、控え室対局場の宿(ホテル)に駆けつけた棋士達が集う部屋のことの棋士達が森内俊之の勝ちと判断して検討を打ち切った後の敗勢から驚異的な粘りを見せて、最後の最後で森内のミス羽生が打った飛車を森内が3枚の銀で捕獲したと思われた直後、羽生が桂馬を動かした手が王手銀取り(飛車の空き王手)となり、森内が今打ったばかりの銀が桂馬で取られてしまった。そして、森内の金・銀がぼろぼろと取られていき、その金・銀で森内の玉が寄せられる形となった。を誘い、大逆転勝利を挙げる。羽生自身はその後の、『プロフェッショナル 仕事の流儀 ライバルスペシャル 最強の二人、宿命の対決』(NHK総合、2008年7月15日放送)のインタビューの中で「ずっと不利を感じていて気持ちが萎えていたがそれからひたすら最善手を続けた結果が勝利を引き寄せたのではないか」と語っており、その凄まじさは副立会人の深浦康市が「50年に1度の大逆転」と評したほどであった。
  • 史上初のネット公式棋戦である大和証券杯ネット将棋・最強戦の第2回、1回戦・渡辺明竜王との対局(2008年5月11日)において、マウス操作のミス2度クリックをしないと指し手が確定されない設定(操作ミスによる指し間違いを防ぐ設定)を対局途中から解除するつもりだったが、解除するのをうっかり忘れたままであったという。時間がぎりぎりになり、着手確認の際誤った操作をしてしまい、着手が間に合わなかったという。直後の公開された感想戦および後日の公式ウェブサイト(第2回大和証券杯ネット将棋・最強戦 日本将棋連盟、2008年5月16日)上での発表による。によって、痛恨の時間切れ負けをする3か月前に中井広恵もネット対局で時間切れ負けをしている。。時間切れとなった局面は68手目、中盤から終盤への入り口で一番面白くなるところであり、しかも羽生優勢直後の公開された感想戦での渡辺・羽生両者の見解の局面であった翌日、日本将棋連盟の公式ウェブサイト(同上。第2回大和証券杯ネット将棋・最強戦 日本将棋連盟、2008年5月16日)で、対局者への注意徹底を行うこと、そして、万一同様の事態が起こった場合に指し継ぎの感想戦を行えるようなシステム(ソフトウェア)に変えることにより、ファンサービスを向上する旨が発表された。。なお、これは羽生にとってデビュー以来初めての反則負けとしてマスコミに注目され、翌日の朝刊では一般紙や地方紙でも取り上げられたこの反則負けの3日前〜2日前には名人戦で森内に勝利して2勝1敗とし、2日後は棋聖戦の挑戦者決定戦を控えている、という過密スケジュールであった。

その他のエピソード

  • 血液型はAB型『別冊宝島380 将棋王手飛車読本-将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』宝島社〈別冊宝島〉、1998年。ISBN 978-4796693806 の巻末に記載。
  • 好物は蕎麦
  • 苦手なものはカエル
  • 東京都立富士森高等学校に通っていたが、将棋に専念するため中退。後に東京都立上野高等学校通信制を卒業。母は、将棋に専念させず高校に通わせたことを後悔したと述べている棋士・羽生善治のお母さん ハツさん:2 高校入学、勧めたことを後悔 朝日新聞 2009年3月22日閲覧が、羽生は、逆に、「高校に行ったおかげで将棋を嫌いにならずに済んだので、母には感謝している」と述べている2009年4月6日放送「人生が変わる1分間の深イイ話」3時間スペシャル」
  • 寝癖がトレードマークであったが、結婚後はあまり見られなくなった(扶桑社から発刊された「新しい単位」という本では、羽生の寝癖がついているというイメージから、「だらしなさ」の単位として「hb(ハブ)」が採用されている)。演歌歌手長山洋子の歌「たてがみ」は、羽生に対するオマージュソングである(「たてがみ」は羽生の寝癖になぞらえたタイトル)。
  • 妻は元女優の畠田理恵。婚約発表は1995年7月1996年2月19日に畠田が駅で暴漢に襲われる事件が発生。この事件は七冠達成から僅か5日後であったため、マスコミで大きく取り上げられた。
    挙式は1996年3月28日日本テレビのテレビ番組『進め!電波少年』で、松村邦洋が「羽生7冠王の寝癖を直したい!」という企画をかかげて、式場へアポなし突入をされた。
    1997年7月に長女、1999年11月に二女が誕生。2人の女の子の父親となる。
  • 普段は自然体で喋る人物であるが、タイトル戦前日のインタビューでの質問に対しては、大きな抑揚をつけて「そぉ〜ですね。あーのー。まぁ〜。」とゆっくり前置きをしながら、慎重に言葉を選んで受け答えをするのが、羽生の独特のスタイルである。
  • 能條純一漫画作品『月下の棋士』の主人公・氷室将介の圧倒的な強さと対局時のオーラは羽生をモデルにしていると作者が単行本最終巻で語っているただし、単発で登場する「羽田」という名前の眼鏡の少年は、羽生に似ている。
  • 趣味は水泳とチェス。チェスでは、FIDE Masterの称号を持ち、2009年2月現在においてレイティングは2404と日本国内1位で国内屈指の強豪であり、世界ランキングは2748位。アジアランキングは279位。日本チェス協会の国内称号である段位は六段となっている。
  • 田中寅彦九段の1995年度の抱負は「羽生竜王・名人と対局する」であった将棋マガジン(日本将棋連盟)1995年9月号。これは、当時の羽生と対局するためには、タイトル挑戦者になるなどの活躍をしなければならなかったことを表現している。その以前から、田中はたびたび羽生の強さや読みの深さを賞賛する発言をしている。
  • 2006年11月14日八王子市より八王子観光大使を委嘱される。
  • お笑い芸人Bコースのメンバー、ハブは彼の従兄弟にあたる。
  • 子供の頃公文式をしていたため、CMに起用されていたこともある。また、その頃から七冠王になるまでを書いた本(羽生善治ストーリー、マンガ形式)もある。
  • テレビ番組「進め!電波少年」内のコーナーで、松村邦洋と、19枚落ち(羽生の駒は玉将のみ)で対戦するが、松村が将棋のルールを全く知らなかったこともあってか、勝利を収めている。
  • 2008年は永世名人資格(十九世名人を襲名資格)を得て前人未到の、いわゆる「永世六冠」の偉業大山康晴十五世名人、ならびに中原誠十六世名人は永世五冠である。を達成したともに、全タイトル戦で番勝負を闘い、名人・四冠として将棋界最強者を改めて印象づけた。さらには初代永世竜王の資格を争って第21期竜王戦(渡辺4-羽生3)で渡辺明竜王(当時)と激戦を繰り広げ、2008年の国民栄誉賞候補(官房長官談話)であった。しかし、第21期竜王戦では3連勝のあとに4連敗で敗退したこともあり、国民栄誉賞は作曲家の遠藤実(同年12月6日に逝去)に第21期竜王戦の最終日の第7局第2日(12月19日)に内定した米長コラム - 週刊現代 2008年1月24日号
  • 第67期名人戦七番勝負第1局の2日目(2009年4月10日)、対局中の羽生に対して観戦記者が扇子へのサインを求めるという珍事があった(日本経済新聞Yahoo!ニュース。羽生は44手目を考慮中であったが、依頼に応じ扇子にサインをした。これは午前9時45分頃の出来事であったため、NHK BS2の生放送(9:00〜10:00)でこの様子がリアルタイムで映し出された司会の長野亮アナウンサーはつぶやくように「今・・何か書いていますね・・」「まだ午前中ということで心の余裕が感じられるような・・」と‘実況中継’した。。後で羽生は「驚きましたが、10〜15秒で済むことでしたから」とコメントしたNHK総合テレビ・2009年4月11日早朝のニュース。この記者は朝日新聞社の嘱託を長くつとめた東公平(75歳)で、この対局の観戦記の執筆を同社から委託されていた。同社は東に厳重注意をした。東は「(羽生とは昔から顔見知りであったため)うかつなことをしてしまった」との反省の弁を述べた。

昇段履歴

  • 1982年12月2日 - 6級で奨励会入会
  • 1983年2月3日 - 5級 (9勝3敗)
  • 1983年3月28日 - 4級 (6連勝)
  • 1983年5月11日 - 3級 (6連勝)
  • 1983年7月7日 - 2級 (6連勝)
  • 1983年8月24日 - 1級 (6連勝)
  • 1984年1月11日 - 初段 (12勝4敗)
  • 1984年9月10日 - 二段 (14勝5敗)
  • 1985年4月25日 - 三段 (12勝4敗)
  • 1985年12月18日 - 四段 (13勝4敗) = プロ入り
  • 1988年4月1日 - 五段 (順位戦C級1組昇級)
  • 1989年10月1日 - 六段 (竜王挑戦)
  • 1990年10月1日 - 七段 (前年の竜王位獲得による当時は、竜王戦の昇段規定であっても、1年以内に2つ昇段できない規定であったため。
  • 1993年4月1日 - 八段 (順位戦A級昇級)
  • 1994年4月1日 - 九段 (タイトル3期・・・八段昇段前にタイトル3期は達成していたが、1年以内の飛び昇段ができない規定のため)

主な成績

タイトル・永世称号

詳細は末尾の年表 を参照。
タイトル番勝負 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 永世称号資格
竜王七番勝負
10-12月
89(第2期), 92, 94-95, 01-02 12 6期
(歴代1位)
2
名人七番勝負
4-6月
94(第52期)-96, 03, 08 8 5期 3 永世名人
十九世名人
棋聖五番勝負
6-7月
93前(第62期)-94後-95(第66期),
00, 08
10 7期 5 永世棋聖
王位七番勝負
7-9月
93(第34期)-01, 04-06 16 12期
(歴代1位タイ)
9
(歴代2位)
永世王位
王座五番勝負
9-10月
92(第40期)-08 17 17期
(歴代1位)
17
(歴代1位)
(継続中)
名誉王座
棋王五番勝負
2-3月
90(第16期)-01, 04 16 13期
(歴代1位)
12
(歴代1位)
永世棋王
王将七番勝負
1-3月
95(第45期)-00, 02, 04-08 15 12期
(歴代2位)
6
(歴代2位タイ)
永世王将
登場回数合計94、 獲得合計72期 = 歴代2位(1位は大山康晴の80期)
(2008年度王将戦終了現在。番勝負終了前は除く。)

一般棋戦優勝

通算33回(2008年度終了現在) = 歴代2位(1位は大山康晴の35回)

詳細は、末尾の年表 を参照。

在籍クラス

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

将棋大賞

詳細は末尾の年表 を参照。記録は次項を参照。

記録(歴代1位のもの)

  • タイトル関連
  • * 最高同時タイトル - 七冠(1996年2月14日-1996年7月30日)
  • * 同一タイトル連続保持 - 17期(王座1992年 - 2008年)※継続中
  • * 最多永世称号獲得 - 6 (永世名人、永世棋聖、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将)(2008年6月17日 - 永世名人資格獲得)
  • 将棋大賞関連
  • * 最年少最優秀棋士賞 - 18歳(1988年)
  • * 最多最優秀棋士賞 16回 - 2008年度(受賞年は2009年)受賞現在
  • * 年度記録4部門賞独占(1988、1989、1992、2000年度) - 羽生以外の棋士は一度も達成していない
  • * 年度最多対局 - 89局(2000年度)
  • * 年度最多勝利 - 68勝(2000年度)
  • 高記録達成回数
  • * 年度勝数60勝以上 - 4回羽生以外には、森内俊之(1991年63勝)、木村一基(2001年61勝)が各1回達成しているのみ。(1988年(64)、1992年(61)、2000年(68)、2004年(60))
  • * 年度勝率8割以上 - 3回(1987年(.820)、1988年(.800)、1995年(.836))
  • 通算勝数関連
  • * 1000勝所要年月最速 - 22年0か月
  • * 最年少1000勝 - 37歳2か月23日
  • * 1000勝時最高勝率 - .7283
  • * なお、通算600勝・800勝到達も最速・最年少・最高勝率記録を保持している。
  • 賞金関連
  • * 獲得賞金・対局料ランキング首位 - 11年連続15回(1993年 - 1996年1998年 - 2008年、なお1997年は谷川浩司に次いで2位)
  • 珍記録
  • * 最年少竜王戦1組降級 - 20歳11か月23日(1991年9月20日)
  • * タイトルホルダーでの最年少竜王戦1組降級(当時棋王) - 20歳11か月23日(1991年9月20日)
  • * タイトル戦7番勝負で史上初の序盤3連勝しながらの、タイトル獲得失敗(2008年12月18日-第21期竜王戦7局)

その他表彰

著書

  • 「羽生の頭脳」シリーズ(全10巻、日本将棋連盟、ISBN 978-4-8197-0310-9ほか)
  • 「羽生の法則」シリーズ(1〜6巻、日本将棋連盟、ISBN 978-4-8197-0372-7ほか)
  • 『決断力』〈角川oneテーマ21〉(2005年7月、角川書店、ISBN 978-4-04-710008-4)
  • 『先を読む頭脳』(松原仁伊藤毅志と共著、2006年8月、新潮社、ISBN 978-4-10-301671-7)

その他多数。

関連書

  • 四人の名人を破った少年 飛矢正順 評伝社, 1990.2
  • 竜王、羽生善治。 将棋世界臨時増刊 1990.2
  • 羽生善治妙技伝 森雞二 木本書店, 1993.4
  • 羽生善治 天才棋士、その魅力と強さの秘密 大矢順正 勁文社, 1994.2
  • まんが羽生善治物語 高橋美幸原作 まきのまさる画 くもん出版, 1995.6
  • 羽生善治神様が愛した青年 田中寅彦 ベストセラーズ, 1996.3
  • 七冠王、羽生善治。 将棋世界臨時増刊 1996.3
  • 七冠王羽生善治α波頭脳の秘密 マガジンハウス編 マガジンハウス, 1996.4
  • しなやかな天才たち「イチロー」「武豊」「羽生善治」万代勉ほか アリアドネ企画, 1996.7
  • 羽生善治名人位防衛戦の舞台裏 日浦市郎 エール出版社, 1996.12
  • 羽生善治頭の鍛え方 大矢順正 三笠書房, 1996.7
  • 強すぎる天才・羽生善治の謎 七冠研究記者会 本の森出版センター, 1996.4
  • 羽生善治に学ぶ子どものための「超」集中記憶術 大内延介 講談社, 1997.5
  • 羽生 21世紀の将棋 保坂和志 朝日出版社 1997.5
  • 天才羽生善治神話 小室明 三一書房, 1997.10
  • 羽生善治夢と、自信と。椎名龍一 学習研究社, 2006.11

出演

テレビ番組

ほか多数

CM

脚注

関連項目

外部リンク

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