読み込み中...樺太(からふと)、樺太島(からふととう、、、)は、ユーラシア大陸の東方 、オホーツク海の南西部、北海道の北にある、南北に細長い島である。広義の日本列島の中では、主要5島のうち最も北にある島である。
また、樺太という名称は、日本領有下において南樺太及びその付属島嶼を指す行政区画名としても使用された。(樺太庁)なお、樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割され、それぞれ異なる沿革を経たため、本項では、北緯50度以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。
現在はロシア連邦が自国領である北サハリンに加え、南部も実効支配しているが、ソビエト連邦はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本政府は国際法上、南樺太は所属未定地であるとしている。また、第二次世界大戦における日本本土最後の地上戦が行われた地でもある。
「からふと」の名は、一説には、アイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ 」(kamuy kar put ya mosir) と呼んだ事に由来すると言う。これはアイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江(アムール川)の河口から見てその先に位置することからこのように呼ばれたとされる。
江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていた。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着した。
「サハリン」または「サガレン」の名称は、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じて清国版図測量中に黒竜江(満州語名:サハリヤン・ウラ)河口対岸に島があると聞き、満州語で、サハリヤン・ウラ・アンガ・ハタ(黒竜江の対岸の島)という名で呼んだことに由来する。ただし、清は樺太の存在を認知したが、清国領とはみなさなかった。
なお、日本が南樺太を領有していた時代には、単に「樺太」と言えば南樺太を指したため、区別の必要から北樺太を薩哈嗹(サガレン)と呼ぶ場合もあった。
北緯45度54分から54度20分、東経141度38分から144度45分にかけて位置している。島の約70%を山岳地帯が占めるが、北部は平地が広がる。樺太は、南北が約948km、東西の幅が最大で約160km(最狭部は約26km)の、南北に細長い島である。面積は76,400km²で、北海道(77,981.87km²)よりやや小さい。
日本列島広義の日本列島を指す。広義の日本列島は樺太、千島列島、北海道、本州、四国、九州、南西諸島、伊豆諸島からなる。台湾を含めることもある。狭義の日本列島は、現在日本が実効支配している領域を指す。小笠原諸島は含まない。最北端に位置し、南の北海道とは宗谷海峡で、西のユーラシア大陸とは間宮海峡で隔てられており、東はオホーツク海に面している。なお、2万年ほど前には海水面が低下し、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は地続きだったと考えられている。
最北端はガオト岬(エリザベート岬)で、シュミット半島の先端に位置している。シュミット半島から西方の樺太北岸と、対岸の大陸側であるアムール川河口地域の北岸にかけて海岸線が南に湾曲しており、サハリン湾と呼ばれている。
南の宗谷海峡に対しては、西側には能登呂半島が、東側には中知床半島が突き出し、2つの半島の間は亜庭湾がある。能登呂半島の先端は西能登呂岬で、樺太の最南端に位置している。中知床半島の先端は、中知床岬である。
樺太の西方は、ユーラシア大陸との間に間宮海峡が横たわっている。最狭部はネヴェリスコイ海峡と呼ばれ、その幅はわずか約7.3kmしかない。東のオホーツク海に対しては、島の中南部から北知床半島が突き出している。先端の北知床岬から西方は北へ海岸線が湾曲し、多来加湾と呼ばれている。
気候は、モンスーン気候。夏季は湿度が高く、霧が多く発生する。夏と冬の寒暖の差が大きい。また、石油や天然ガスなどの豊富な地下資源に恵まれている。
先住民には、アイヌ、ウィルタ、ニヴフといった北方少数民族がいる。
南樺太は、日本施政下においては樺太と呼ばれる行政区画であった。地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争中の1942年に、外地から内地へと編入された。人口は1945年当時、約40万人であった。当時の主要な産業は漁業、農業、林業と製紙・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業などであった。南樺太では樺太庁の置かれた豊原市が中心都市。
北樺太は、樺太・千島交換条約以来のロシア領であり、ロシア帝国時代は沿海州、ソビエト連邦時代は当初ハバロフスク地方、その後はサハリン州に属し、ロシア連邦となった現在も引き続きサハリン州に属している。主な都市はオハやアレクサンドロフスク・サハリンスキー(日本名:オッチシ・落石)である。
氷河期には大陸と陸続きだった。日本(間宮林蔵など)やロシア帝国の到達以前は南部にアイヌ民族、中部にウィルタ民族(アイヌ民族は「オロッコ」と呼んだ)、北部にニヴフ民族(ニヴヒとも)などの北方少数民族が先住していた。
旧ソ連・ロシア占領下については、南サハリン州及びサハリン州の項目を参照されたい。
幕末以来、日本とロシアの間で領有者がたびたび変遷した。
日本政府は、サンフランシスコ講和条約にソ連は調印せず、その後も南樺太の領有に関する条約や協定等が締結されていないため、「国際法上南樺太の帰属は未確定である」との立場を取っている。一方ロシア側は、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しなかったが日本は国際条約で領有権を放棄している、ロシアの南樺太領有は戦争の結果であり、また既にソ連国内法により編入されているとの立場を取っている。
一方、日本国には南樺太の領有権問題を主張する人も存在するが、上記の通り日本が領有権を放棄したことについては日本とロシアの主張に差異が存在しないため、一般的に議論の対象になることは少ない。
なお冷戦下の1952年3月20日にアメリカ合衆国上院は、南樺太及びこれに近接する島々、千島列島、色丹島、歯舞群島及びその他の領土、権利、権益をソビエト連邦の利益のためにサンフランシスコ講和条約を曲解し、これらの権利、権原及び権益をソビエト連邦に引き渡すことをこの条約は含んでいない、とする決議を行った。