読み込み中...宮崎市(みやざきし)は、宮崎県のほぼ中央にある都市で同県の県庁所在地である。
中核市に指定されている。
年平均気温は18℃前後。年降水量はたいてい2,000mmを超えており、年によっては3,000mmを超えることもあるなど、極めて多い水準にある。また日照時間も年間2,000時間を割り込むことはほとんどない。平均気温・年降水量・年日照時間いずれも県庁所在地では第3位である。全体的に、九州以外の住人が一般的にイメージする「九州の気候」に最もよく当てはまる気候と言える。宮崎市の気象台では霜の観測はあるが、青島以南の沿岸部は無霜地帯である。
西風の強い乾燥した晴れが多い。九州各地(鹿児島市など九州南部も含む)が雪に見舞われた時でも宮崎市のみは晴れている時が多い(九州山地の影響で雪雲が来ない)。冬の雪は、降雪そのもの観測しない年もあり、積雪は非常に稀で1961年以降で1cm以上の積雪を観測した回数は4回のみである。記録的な寒波に見舞われた2005年12月22日に1cmの積雪を観測したが、1cm以上の積雪は約19年ぶりで、12月の積雪は60年ぶりのことであった。日中は暖かい一方で、特に冬型が緩んだ翌朝は放射冷却で最低気温が氷点下になることがある。春が近い晩冬では曇りや雨が目立ってくる。
南の古くからの市街地で城ヶ崎(じょうがさき)と隣接する中村と、北の小さな街の花ヶ島(はながしま)・江平(えひら)が、その中間に位置する県庁の置かれた上別府村の市街化によって繋がり、南北に細長い連続した市街地となった。この最初の市域を核として市街地が拡大した。さらに1960年代からは平和が丘を皮切りに市街地を弧状に取り囲むようにニュータウンが次々と開発され、人口増加の受け皿となった。現在、市街地は実質的に清武町の加納(かのう)地区と一体化している。
室町時代の1551年(天文20年)、太田七郎左衛門忠延が大淀川の右岸の河口付近にある城ヶ崎という地域に町を開いた。この城ヶ崎は赤江港を控えた商人の町として上方との交易が行われ、俳句などの町人文化が発達し、江戸時代が終わるまで繁栄した。それ以外の地域は農村であり、各藩の飛び地や天領が複雑に入り組んだ辺境の地であった。
明治時代に美々津(みみつ)県と都城(みやこのじょう)県の合併で宮崎県が誕生し、その後合併され鹿児島県となった。しかし、1877年(明治10年)の西南戦争が勃発して薩摩士族の西郷隆盛一派が敗れると、分県運動が起こり鹿児島県と宮崎県に分割され、また、同時に政策で主に四国から移住してきた人たちが現在の繁華街の基礎を造り、県庁が置かれると急速に発展し始めた。
| 1 | 大迫元繁 | 1924年8月28日 | 1927年10月21日 |
| 2・3 | 川越壮介 | 1927年12月20日 | 1935年2月26日 |
| 4 | 柿原政一郎 | 1935年7月11日 | 1937年6月7日 |
| 5 | 根井久吾 | 1937年6月7日 | 1940年12月29日 |
| 6 | 青木善祐 | 1941年1月21日 | 1945年1月20日 |
| 7 | 和田一次 | 1945年2月2日 | 1945年6月27日 |
| 8 | 萱嶋高 | 1945年6月29日 | 1945年12月8日 |
| 9 | 二見甚郷 | 1945年12月10日 | 1947年3月26日 |
| 10 - 11 | 荒川岩吉 | 1947年4月6日 | 1955年4月22日 |
| 12 - 14 | 有馬美利 | 1955年4月30日 | 1966年7月4日 |
| 15 - 17 | 清山芳雄 | 1966年8月21日 | 1978年8月20日 |
| 18 | 中村隆則 | 1978年8月21日 | 1982年8月20日 |
| 19 - 21 | 長友貞藏 | 1982年8月21日 | 1994年1月10日 |
| 22 - 25 | 津村重光 | 1994年2月6日 | (現職) |
2006年1月1日に田野町・佐土原町・高岡町を編入し、各町には編入と同時に合併特例区が設置された。合併特例区は5年後地域自治区に移行する。またそれ以外の地域でも2006年1月1日から、旧町村あるいは中学校の校区を基本にして地域自治区が設置された。
赤江、木花、住吉、瓜生野地区を中心にトマト・ピーマン・キュウリをはじめとする促成栽培が盛ん。マンゴーも名物の一つになっている。青島地区では漁業が中心。
宮崎東諸地域は宮崎SUNテクノポリス圏域に指定されているものの、メインは清武町・国富町・旧佐土原町で、印刷業を除き宮崎市においては大規模な工業は行われていない。産業構成は第二次産業の占める割合が極端に小さいのが特徴。
市と周辺地域による小売業とともに、大都市からの交通の便が悪いことから卸売業も発達している。また観光都市であるためにサービス業も大きなウエイトを占める。近年は情報産業を積極的に誘致している。
宮崎学園都市開発整備事業により、宮崎大学は附属幼・小・中を除き1984年〜1988年にかけて霧島・船塚の旧キャンパスから順次市南部の木花台に移転した。木花から清武町にかけては高等教育機関が集中し新しい文教地区が形成されている。宮崎大学の旧キャンパスには宮崎県立図書館、宮崎県立美術館、宮崎県立芸術劇場(以上旧農学部跡地・宮崎県総合文化公園)、宮崎公立大学(旧教育学部跡地)・南九州大学宮崎キャンパス(旧農学部跡地)が新たに立地し、こちらも伝統をつぐ文教地区として恥じぬものとなった。
中等教育については、2003年から県立高校の普通科の合同選抜が廃止され、市内の普通科高校を自由に志望することが可能となった。伝統的に公立高校が強い風土であるが、県内の私立の中高一貫校の台頭や県外の有名私立高校へ頭脳の流出が続いており、その対策として2007年宮崎県立宮崎西高等学校に付属中学を併設した。
宮崎交通が市内および近隣市町村の路線バスを一手に受け持っている。かつてはJR九州バスの路線があったが現在では廃止され、宮崎交通に譲渡されている。
市の道路網の特徴として、大淀川が市街地を分断する形で流れており、交通路が限られてしまうため、その橋の周辺では渋滞が頻繁に発生する。特に大淀川を渡って市街地に入り込む市街地を通過するだけの交通を減少させるべく、内環状線と外環状線が整備中である。