読み込み中...| 近畿地方のデータ | ||
| (三重県を除いた)2府4県の合計 | ||
| 面積 | 27,335.11km² | |
| 総人口 | 20,922,282人 (2005年3月31日) |
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| 人口密度 | 765.40人/km² (2005年3月31日) |
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| 位置 | ||
Wikipedia画像へのリンク(近畿地方の位置) |
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近畿地方(きんきちほう)は、本州中西部に位置する日本の地域。かつての畿内とその周辺地域から構成される。関西地方(かんさいちほう)とも。
飛鳥から平安京まで歴代の王城の地であり、明治維新の東京奠都まで名実ともに日本の中心であった。現在も西日本の中核にして、関東地方と列んで重要な地方である。
近畿地方にどの府県を含めるかについては、次のような例がある。
※以下、特に断りのない場合は「2府4県」を近畿地方として扱う。三重県については東海地方の項を、福井県については北陸地方の項を参照のこと。
※三重県については、特に北中部(北勢・中勢)が中京圏に含まれるため、「中部地方」「近畿地方」で分類する場合は「近畿地方」、「東海地方」「近畿(関西)地方」で分類する場合は「東海地方」で分けられる傾向がある。
※福井県については、嶺南地方が1876年から1881年の約4年6か月間滋賀県の一部であった。若狭湾岸は関西電力の原発地帯となっている。
※他地方の類似例として、山梨県(中部地方・首都圏・関東地方)、新潟県(中部地方・東北地方)などがある。
| ISO 3166-2 | 都道府県名 | 順位 | 人口 | 割合 |
|---|---|---|---|---|
| JP-25 | 滋賀県 | 31 | 1,366,415 | 1.10% |
| JP-26 | 京都府 | 13 | 2,645,796 | 2.10% |
| JP-27 | 大阪府 | 2 | 8,831,177 | 6.90% |
| JP-28 | 兵庫県 | 8 | 5,588,268 | 4.40% |
| JP-29 | 奈良県 | 29 | 1,434,576 | 1.10% |
| JP-30 | 和歌山県 | 39 | 1,056,050 | 0.80% |
| 20,922,282 | 16.40% |
※順位・人口・割合は2008年3月1日のデータによる。なお、2005年3月31日現在の「住民基本台帳に基づく人口調査結果」(総務省)では、初めて人口が減少に転じ、京都府・大阪府・兵庫府・奈良県の4県を合わせた人口が2004年より0.004%減となっている。
※2006年5月に神奈川県の人口が大阪府の人口を超え、大阪府の人口は第3位となった。
次のグラフは滋賀県・京都府・大阪府・兵庫県・奈良県・和歌山県の人口を合計した。
近畿地方(2府4県)の府県内総生産 (GDP) は2004年度で約80兆2990億円で、関東地方に次いで日本で第二の経済圏を構成するが、関東地方(1都6県)のGDPとは約2.5倍の差があり、この差はますます拡大する傾向にある。製造業の多くは大阪府や兵庫県南部(阪神工業地帯)、京都府南部に集中し、その他の地域では農林水産業が盛んである。
2004年度 近畿の府県内総生産 (GDP) (単位:10億円)| 都道府県名 | 府県内総生産 | 構成比 | 全国比 |
|---|---|---|---|
| 滋賀県 | 5,894 | 7.34% | 1.16% |
| 京都府 | 9,831 | 12.24% | 1.93% |
| 大阪府 | 38,680 | 48.16% | 7.61% |
| 兵庫県 | 18,709 | 23.30% | 3.68% |
| 奈良県 | 3,775 | 4.70% | 0.74% |
| 和歌山県 | 3,411 | 4.25% | 0.67% |
| 近畿 | 80,299 | 100.00% | 15.79% |
| 全国 | 508,411 | - | 100.00% |
気象予報・経済情勢・交通体系などにおいては、大まかに北部(日本海側)、中部、南部(太平洋側)と3分割されることが多い。明確な境界線はないものの、兵庫県の中国山地から京都府の丹波山地を経て滋賀県の鈴鹿山脈北部に至るラインと、中央構造線と言われる和歌山県の紀ノ川河口付近から奈良県の紀伊山地北部を経て三重県の志摩半島に至るラインにより区分される。
近畿地方を指す言葉としては、「近畿」のほかに「上方」「関西」などがある。「関西」については関西#日本も参照。
「近畿」の「畿」の字義は「都」であり、近畿とは「都に近い地域」すなわち「首都圏」という語義を持つ。よく似た語として韓国の京畿が挙げられる。初めて「近畿」の語が公的に用いられたのは明治36年(1903年)の国定教科書『小學地理』からである。都が所在する奈良や京都とその周辺地域を「畿内」と呼んだことに由来し、そのルーツは大化改新で都が難波長柄豊崎宮(現在の大阪市)に移った際に都の圏域を「内畿国」(うちつくに)と呼んだことに求められる。そのため、狭義としては畿内のみを指すと言えるが、それとは逆に畿内を除いた範囲を指すとする学者もいる。
「関西」は、もとは逢坂関以西、のち鈴鹿関・不破関・愛発関以西の西国諸国全てを指す用語であり、昨今のように大阪・京都を中心とする地域を「関西」と呼ぶようになったのは江戸時代以降である。現在の「関西」の用法は江戸・東京視点から生まれたものであり、近畿地方の住民には「関西」よりも「近畿」を好む人が多い。
傾向としては、行政機関では「近畿」、経済・交通・旅行業界では「関西」の名称を使うことが多い。また英語圏ではKinkiが“Kinky”(よじれた、異常な、などの意)と間違われる恐れがあるため、国外向けにはKansaiの使用が好まれる。
古くからの日本の中心地及び先進地として、近畿地方は日本史の中で大きなウエイトを占めている。
弥生時代前期の畿内には、目立った政治勢力はまだそれほど成立していなかったと考えられている。当時の畿内に特徴的なのが、方形に区画するように溝を掘って作られた方形周溝墓である。
弥生時代後期になると、奈良盆地東南部に大規模な集落が出現した(纏向遺跡)。この遺跡からは、日本列島各地から流通してきたと思われる土器が非常に多数発見されており、また、王宮跡と見られる大規模な遺構も見つかっていることから、弥生時代後期の倭の中心的な都市の一つだったと考えられている。魏志倭人伝に登場する邪馬台国の有力な候補地ともされている。
近畿地方中部には、ヤマト王権が3世紀中葉に成立し、古墳時代が始まると、ヤマト王権は倭国を代表する政治勢力として成長していった。ヤマト王権の王(治天下大王)は代々、奈良盆地や河内平野に王宮を営み、また同地には王族や豪族たちの古墳が多数築かれた。和泉国の大山古墳(堺市)は仁徳天皇の墓と伝承されており、世界最大の規模を誇る。
古墳時代が終わる6世紀中期頃から、王宮が奈良盆地南部の飛鳥に代々営まれるようになった。そのため、古墳時代に続く時代区分を飛鳥時代という。古墳時代後期から中国大陸や百済などからの渡来人が多数来朝しており、その多くは飛鳥時代に奈良盆地や河内平野など畿内近国に定着して帰化した。
645年、乙巳の変で蘇我入鹿が宮中で暗殺されると、孝徳天皇により大化の改新と呼ばれる改革が行われ、飛鳥から難波長柄豊埼宮(大阪市)への遷都が実施された。その後、天智天皇が政権を握ると、667年、大津京(大津市)への遷都が行われた。
672年には、天智天皇の後継者争いから壬申の乱が勃発した。この古代最大の内乱は畿内を舞台に行われ、これに勝利した大海人皇子(天武天皇)は飛鳥浄御原宮(明日香村)に遷都し、中央集権的な国家造りに取り組んだ。天武後継の持統天皇が奈良盆地南部に営んだ藤原京は、日本史上最初の都城である。
701年、大宝律令が施行され、律令制が本格的に導入され始めた。律令制の地域区分である五畿七道によれば、大和国・山城国・摂津国・河内国・和泉国の5国が五畿(畿内)とされた外、丹波国・丹後国・但馬国が山陰道に、播磨国が山陽道に、紀伊国・淡路国が南海道に、伊賀国、伊勢国が東海道に、近江国が東山道にそれぞれ区分されていた。
710年、平城京(奈良市)への遷都が行われ、以後を奈良時代という。平城京には10万人が在住したと推定されており、突如として出現した日本最初の大都市であった。
8世紀後期になると、桓武天皇によって長岡京そして平安京(京都市)への遷都が相次いで実施された。この平安遷都(794年)から1192年までを平安時代という。この間、平清盛が福原京(神戸市)を計画した。
平安時代を通じて、畿内近国は朝廷の統治が比較的及びやすい地域だった。例えば、9世紀後期には諸官庁の経費をまかなうための官田が畿内に4000町設定されたほか、他の地域で次第に実施されなくなった班田が畿内諸国では10世紀まで継続した。平安中期に名田制が登場すると、名田の面積を均等化した均等名が多く見られた。平安後期の荘園公領制の形成過程では、他地域よりも荘園の増加がいち早く進行した。
鎌倉時代には武士による荘園・公領への侵出が著しくなったが、多くの権門(有力貴族や有力寺社)の権利が複雑に入り組む荘園・公領が汎在する畿内近国では、武士の侵出は他地域ほどとはならなかった。収入の増加を目論む権門は中国由来の農業技術や新たな農業技術の導入に努め、畿内は農業技術の先進地域となった。例えば、畿内では鎌倉時代までに早くも二毛作が実施されていた。
また一方では、商人・職人らが商業上・生産上の特権を得るために、有力寺社の神人となったり、天皇に奉仕する供御人となる動きが顕著に見られた。こうした神人・供御人らは獲得した特権を背景として座とよばれる同盟を結成し、畿内のみならず他地域に渡る広範な交易活動を展開した。
農業生産の向上と交易活動の広域化は鎌倉中期ごろから進展していき、畿内を中心に流通の活発化、銭貨の普及、そして社会の流動化をもたらすこととなった。従来の荘園領主・武士層とは異なる階層が急速に経済力・政治力を持ち始め、彼らは悪党と呼ばれた。後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した楠木正成も悪党の一人だったと考えられている。
悪党の台頭は社会構造の流動化を加速させ、従来は荘園領主・国衙・武士に支配されるのみであった村落が、自検断権を持ち領主と対等に交渉しうる惣村へと発達した。室町時代当時、惣村だけではなく、神人・供御人として広範な商業活動を行っていた土倉・馬借らや、在地武士層である国人らも高い自立性を有していた。その帰結の一つとして、15世紀前期から土一揆・徳政一揆・惣国一揆が発生した。こうした自立性・自主性の高さから、戦国時代になっても他地域のように戦国大名による一円的な支配は行われず、織田信長・豊臣秀吉の出現を待つことになる。
南北朝以降勘合貿易や南蛮貿易の拠点であった堺は、会合衆と呼ばれた有力商人らによる自治都市として栄え、「東洋のベニス」とも称された。しかし織田信長・豊臣秀吉の支配下で都市は解体され、商人の多くは大坂へ移住させられた。
江戸時代になると、西廻り航路を通じて日本海沿岸から瀬戸内海沿岸の物資が集積する大坂は「天下の台所」と呼ばれ、日本最大の商都として著しい繁栄を見せた。また、松坂は伊勢商人の本拠地、近江八幡は近江商人の本拠地として、それぞれ「本店経済都市」として栄えた。
江戸時代以降、鈴鹿関と須磨の関に挟まれた地域は「関西」や「上方」と呼ばれるようになり、上方文化の中心地となった。上方文化を象徴する人物には井原西鶴や近松門左衛門などがいる。
近畿地方における有力な藩としては、徳川御三家の紀州藩(紀州徳川家、56万石)や彦根藩(井伊家、35万石)や姫路藩(池田家、52万石)などがあった。紀州藩は西日本の鎮として睨みを利かせ、彦根藩は中山道沿線を領土として京都に対する備えとして、姫路藩は瀬戸内海に面する山陽道沿いを領土とし西国に対する備えとして、配置されていた。3藩とも幕府にとって重要な存在であったため、居城の和歌山城と彦根城と姫路城は大きな規模を誇っている。
幕末には京都が維新に向けた重要な舞台となり、二条城で大政奉還が行われた。
明治維新を迎えると、天皇は京都御所を出て江戸城に滞在することになった(東京行幸)。この時、江戸は東京と改名され、国家機関も東京に置かれた。このため畿内では衰亡の危機との危惧論も出されたが、1897年の京都帝国大学(京都大学)の創立を初めとして、文化の中心地として復興が行われた。大坂は大阪に改称され、引き続き経済と行政の中心地となった。幕末に海軍操練所が置かれて維新直前に開港した神戸は明治20年代末には東洋最大の港湾都市へと発展する。
1871年の廃藩置県後の近畿地方を概観すると、大阪府、京都府、兵庫県、和歌山県、奈良県、滋賀県、三重県となっている。若狭地方は、1876年8月に滋賀県に編入されたものの、4年6ヶ月後の1881年2月には滋賀県から分離され、福井県に編入された。
交通面では、近畿地方各地を結ぶ鉄道が官民両者によって建設されるが、京阪神の都市間では電鉄会社が中心となって鉄道整備や多角化事業を活発に競い合い、近畿地方は長年「私鉄王国」と呼ばれることとなった。軍事面では、日本海沿岸の舞鶴に海軍の拠点(舞鶴鎮守府)が置かれた。
明治20年代末以降は京阪神に富裕層が集まり、関東大震災による東京の衰退もあって、昭和初期まで東京に並ぶ日本の文化・経済の中心地となって多くの文化人・経済人を輩出した(阪神間モダニズム)。しかし昭和10年代に戦時体制がとられてからは有力企業や資本家の東京への移動が始まる。
第二次世界大戦の戦災を受けるも、高度経済成長期には1963年7月に名神高速道路が開通、1964年10月に東海道新幹線が開通し、1970年に日本万国博覧会(大阪万博)が開かれ、1970年代に神戸港が世界一のコンテナ港となるなど目覚しい復興を遂げた。
現在、南関東に次ぐ日本第2の経済圏を形成しているが、オイルショックやバブル崩壊、阪神・淡路大震災などを経て近畿地方の地盤沈下が問題視されている所がある。
近畿地方は日本文化の中心として古くから活発な文化活動が行われ、数多くの伝統芸能や文化財が継承されている。そのため、国宝・重要文化財の約6割、人間国宝の約3割、日本の世界文化遺産の11件中5件(法隆寺地域の仏教建造物・姫路城・古都京都の文化財・古都奈良の文化財・紀伊山地の霊場と参詣道)が国土面積7%の近畿地方に集中している。ことに京都や奈良は古都として名高く、国内外から多くの観光客を集める。
江戸時代、上方は町人層を中心に発展し、豊かな経済力を背景に元禄文化(上方文化)が花開いた。大衆演芸が活発に行われ、上方歌舞伎や文楽、上方落語などが生まれた。近代には漫才が発達し、大阪はお笑いの一大拠点となった。
町人主体の地域柄、大坂では合理主義的でイラチ(せっかち)で実と本音を重んじる気風が育まれた。これは理想主義的で名と建前を重んじる武士主体の江戸のそれとは対照的なものであった。そのため大阪の気風は江戸・東京側から特異なものとして誇張して捉えられ、また近畿地方全体がそうした大阪のイメージで一括りにされることがよくある。ステレオタイプな大阪・関西像についてはこちらも参照。
近畿地方の食文化の特徴は、出汁を利かせた薄味が好まれることである。これは北前船によって蝦夷地から昆布が大量にもたらされた歴史に由来する。海運などを通じて食材の集積地だった大阪は「大阪の食い倒れ」と称され、現在もたこ焼きやお好み焼きといったB級グルメからフグ料理や懐石のような高級料理まで、幅広く楽しむことができる。
そのほかの近畿地方の食文化の特色としては、但馬牛・神戸牛・近江牛・松阪牛といった和牛の産地であり牛肉の消費が高いhttp://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news003465.htmlことや、灘五郷や伏見など伝統的な日本酒の一大産地であること、京都市を筆頭にパンの消費が高いことhttp://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news000235.htmlなど、が挙げられる。
いわゆる「関西弁」は京言葉を中心に発展し、江戸時代に江戸言葉が台頭するまで事実上の共通語であった。現在も共通語に次ぐ影響力や勢力を持ち、特に大阪弁は漫才を通じて知名度が高く、準共通語といっても過言ではない。こうした背景から方言への誇りは強く、例えば上京後も方言で通す者が他地方に比べて多いという。しかし標準語/共通語の影響を1世紀以上受けていることから伝統的な方言は衰退しつつあり、また近畿地方各地の様々な方言が関西共通語とも言うべきものに均質化する傾向がある。
畿内は、古代から日本の政治的中心であり続けた地域であり、律令時代には畿内を中心とした放射状交通網(東方の東海道、北東の東山道、北方の北陸道、北西の山陰道、西方の山陽道、南方の南海道)が整備された。
江戸時代になると、京都を中心にして、東には東海道と中山道(途中、草津宿で分岐)が、西には西国街道が整備された。
明治時代になると、大阪(点)を中心にした放射状交通網が整備され、現在に至っている。
明治以後の近畿地方の交通網は、概ね大阪を中心にした放射状幹線が整備されている。幹線ルートは、東海道・中山道ルート、北陸道ルート、南紀ルート、四国ルート、山陽道ルート、山陰道ルートに大きく分けられる。
日本海側では、福知山を中心として、京阪神を経由せずに北陸地方から山陰地方に抜けるルートが整備・計画されている。
近畿地方の中心は平野が細長い地形であり、散在する各中心都市間を結ぶ性格も併せて、同じ方向に2つ以上の事業者の路線が並行したり、近接していることが多い。これらの都市間及び近郊からの通勤利用が多く、京阪神圏は東京圏に次ぐ運行本数・利用者数となっている。
近畿地方外からの長距離需要としては主として、中部・関東方面を結ぶ東海道新幹線、中国・九州方面を結ぶ山陽新幹線、名古屋方面を結ぶ近畿日本鉄道の名阪特急などがある。
広域放送の近畿広域圏とされており(三重県は中京広域圏)、加えて県域局と独立UHF放送局がある。