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古代ローマ

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Wikipedia画像へのリンク(ローマの領域の変遷
紀元前510年から紀元後530年までを示した。共和政期(茶色)、帝政期初期・中期・後期の一部(薄紫色)、西ローマ帝国(青色)、東ローマ帝国(薄緑色))

古代ローマ(こだいローマ、ラテン語:Roma antiqua)とは、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国になった国家の総称である。ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度にさまざまな形で残った。

日本で通常「古代ローマ」と言う場合、1453年まで続いた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は含まないことが多い。

時代区分

王政期

紀元前753年(建国)から紀元前509年(または紀元前510年)まで。伝説上の7人の王が治めていた期間。

初期の4人の王はローマ建設時の中心となったラテン人サビニ人から選ばれているが、その後の3人の王はエトルリア人出身であるとされる。これは初期のローマにおいてエトルリア人による他民族支配を受けていたことを示すと考えられている。

共和政期

紀元前509年から紀元前27年まで、イタリア半島の一都市国家から地中海の全域に属州を持つ帝国となった期間。政治は元老院と政務官を中心として民会などで一般ローマ市民の意思も反映されながら運営された。

帝政期

初期

いくつか分け方が存在する。 # アウグストゥスからはじまるユリウス・クラウディウス朝からフラウィウス朝までとするもの。 # 1. に五賢帝の時代を加えるもの。 # 2. セウェルス朝なども加えディオクレティアヌスの即位までを帝政初期として帝政全体を二つに分けるもの。

2. の区分が比較的多い。

中期

セウェルス朝から始まり、軍人皇帝時代を経て、ディオクレティアヌスが即位するまで。

後期

ディオクレティアヌスの即位を普通開始とする。そのまま西ローマ帝国の滅亡までを帝政後期としてくくることも多いが、テオドシウスの死後に帝国が東西に分裂した後は、西ローマ帝国東ローマ帝国としてわけることもある。

後期以降の時代は皇帝による専制や君主崇拝が強められ、専制君主制(ドミナートゥス)と呼ばれることが多い。

またコンスタンティヌス1世ミラノ勅令によってキリスト教が公認され徐々にローマの支配イデオロギーの中の枢要な部分を占めるようになっていった。

東西分離後

西ローマ帝国

その滅亡をもってヨーロッパ史では古代と中世との境界とする。

東ローマ帝国

その滅亡を以ってヨーロッパ史では中世と近代近世)の境界とする。

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滅亡の原因

古代ローマは、国家の存続期間が1200年と世界史上でも群を抜いて長く、また古代にありながら近世の初頭に匹敵するような高度な文化を持ち、その領土も広範囲に及んだため、その滅亡の原因は常に昔から多くの者の関心を引くテーマであり続けた。

最も直接的な原因は、国境を警備するのに最低限必要な10万程度の、それもある程度訓練をされた帝国に忠誠を誓う兵力を維持することができなくなった為、蛮族によるイタリアやガリアなど帝国中核州の占領を招き政権が消滅してしまったことによる、という結論で一致している。が、そうした事態を引き起こした原因として、経済上の問題、教育上の問題、政治上の問題、国内の民族構成における問題など、さまざまな要素が取りざたされる。

まず、経済上の問題を挙げるなら、ローマの発展は強力な兵士の徴兵源であったローマ市民自作農が健在である間は継続し、自作農の没落と共に領土的拡張は停滞を迎えている。そして、こうした徴兵兵士に代わって職業軍人が軍団兵として徴用されるようになると、ひとつは兵士としての任務期間が25年であったことからより高齢化した兵を抱えやすくなり、これが直接的な軍事力の低下につながった。また、より深刻な問題として多数の常備兵の雇用は常に中央政府を威嚇可能な武装した潜在的な政治勢力を生成し、早くも帝政初頭のユリウス朝中期から頻繁な皇帝の交代や帝国を二分、三分しての内乱の原因としての彼らの介入が開始され、これが国力の大きな消耗を招いた。また、末期に帝国自体が分裂し、外圧への抵抗力が激減し、全ての意味でローマが滅びてしまう遠因にもなった。

また、第三の問題として、職業軍人制度は、次第に文化や宗教はおろか、言語さえ異なる異民族兵士を帝国内に多量に内包する結果に繋がり、帝政後期にはローマ人による兵士は帝国内から姿を消し、軍隊の全員が国境付近に住む異民族によって構成されるようになってしまった。当然、こうした結果は、帝政末期に起こった異民族の大移動に対する大幅な抑止力の低下を招いた。

このように、古代ローマ国家の初期から中期にかけての連続的な戦争による農村の疲弊と、戦争勝利・領土拡張に伴う大規模な奴隷の流入は、自作農の没落を招き、自作農の没落は、軍隊の無能力化、及び有害化を招き、これがローマの存続にとって、最も致命的で死命を制する病根になった。

また、同時にこうした奴隷の流入は、属州からの収奪ともあいまって、ローマ市民における失業率の拡大と労働蔑視、下から上まで多数の遊民階層を生み出す現象も惹起し、長い目で見れば、経済的にもローマを弱体化させる、少なくともローマが帝国内における求心力を失い分裂に向かっていく要因となった。

また、急速な領土拡張による国内の民族構成の変化も、この国が衰退に向かった原因の一つになっている。 ローマが発展した要因は、もちろん多数の自作農や地理的環境に恵まれたこともあるであろうが、そのような特徴なら他のイタリア、ガリア、イリリアなどの平凡な南ヨーロッパ諸都市も持っており、彼らに対してローマが大きく傑出できた要素として、ローマに独特の政治体制と教育の習慣があったことは見過ごせない。

ところが、民族の多様化とローマ人の減少、少子化、混血の拡大は、先ほどあげた上下共に遊民層が拡大という社会的変質ともあいまって、次第にその進歩的な教育の平凡化を招き、こちらも中期以降のローマから政治的、軍事的体力を奪う要素となった。

教育と同時に挙げた政治体制の変質も、ローマの発展を止めた要素であろう。結果から言って、先ほど挙げた自作農の存否の期間とも一致するが、ローマは民主性が機能するうちは発展を続け、民主制の崩壊時期と前後してその領土的拡張を止めている。民主制に変わる、皇帝とその幕僚による一党独裁制、または末期の専制君主制は、政治的腐敗の一層の拡大や事故対処能力の低下を招いたことは言うまでもない。

このように、政治、経済、社会上における不利な要素が互いに連動して影響したことにより、ローマは発展をやめ、多少の小休止はあったものの、次第に衰退をしていくのである。

ローマの戦争一覧

古代ローマ史に関する古典

近代以降の古代ローマ史に関する著作

ここでは特に広く知られ、二次資料としての価値が高く、評価の定まった文献のみをあげる。

参考文献

関連項目

古代ローマの関連ワード
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