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江戸

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江戸(えど。外国語ではEdo、Yedo、Yeddo、Yendo、Jedoなど諸表記あり)は、東京の旧称である。特に、江戸城を中心とする東京特別区中心部(東京都千代田区周辺)を指す。

概要

江戸は明治維新により東京とされるまで皇居を置かなかったためではなかったが、江戸時代には江戸幕府が置かれた事実上の日本の首都であり、日本の政治経済の中心地として発展した。また、江戸城徳川氏将軍の居城であり、江戸は幕府の政庁が置かれる行政府の所在地であると同時に、自身も天領を支配する領主である徳川氏(徳川将軍家)の城下町でもあった。しかし幕末になると政治的中心が再び京都に移り、15代将軍徳川慶喜は将軍としては江戸に一度も居住しなかった。

1868年(明治元年)に発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書により江戸は東京と改称され、続く天皇の東京行幸により江戸城が東京の皇居とされた。翌年には明治新政府も京都から東京に移され、日本の事実上の首都として返り咲いた。また、東京への改称とともに町奉行支配地内を管轄する東京府庁が開庁されたが(1871年廃藩置県に伴い新・東京府に更置)、その後も「東京とは京都からみて東の都という意味に過ぎず、地名としては江戸のままである」とする考えが根強く存在してきた。

1889年に、市制施行で東京市となった。1943年の戦時体制下で、東京府と東京市は廃止されて、東京都が設置された。

江戸の町は、大きく分けて見ると江戸城の西に広がる山の手の武家屋敷と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した庶民の町(下町)に大別される。川・堀の水路網と蔵は江戸を象徴する町並の特徴であり、蔵造りの町並が残された川越市栃木市佐原市などの関東地方の河港都市は、江戸に似た構造という点や江戸と交流が深かったという点から「小江戸」と呼ばれている。

歴史

徳川氏以前の江戸

江戸」という地名は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見で、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられている。

地名の由来は諸説あるが、は川あるいは入江とすると、は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。当時の江戸は、武蔵国下総国の国境である隅田川の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。

江戸の開発は、平安時代後期に武蔵国の秩父地方から出て河越から入間川(現荒川)沿いに平野部へと進出してきた桓武平氏を称する秩父党の一族によって始められた。11世紀秩父氏から出た江戸重継は、江戸の桜田(のちの江戸城)の高台に居館を構え、江戸の地名をとって江戸太郎を称し、江戸氏を興す。重継の子である江戸重長1180年源頼朝が挙兵した時には、当初は平家方として頼朝方の三浦氏と戦ったが、後に和解して鎌倉幕府御家人となった。弘長元年10月3日1261年)、江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重正嘉の飢饉による荒廃で経営ができなくなった江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)を北条氏得宗家に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されていることが記録として残されている。

鎌倉幕府が滅びると、江戸氏は南北朝の騒乱において初め新田義貞に従って南朝方につき、後に北朝に帰順して鎌倉公方に仕えるが、室町時代に次第に衰え、本拠地を多摩郡喜多見(現在の東京都世田谷区喜多見)に移した。

代わって江戸の地には、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力な武将であり家老であった太田資長(のちの太田道灌)が入り、江戸氏の居館跡に江戸城を築く。江戸城は、一説には長禄2年(1456年)に建設を始め、翌年完成したという。太田資長は文明10年(1478年)に剃髪し道灌と号し、文明18年(1486年)に謀殺されるまで江戸城を中心に南関東一円で活躍した。道灌の時代、現在の神田川並びに日本橋川の前身である平川(平河)は日比谷入江に流れ込んでおり、西に日比谷入江、東に江戸湊(但し『東京市史稿』は日比谷入江を江戸湊としている)がある江戸前島周辺は中世には、浅草品川湊と並ぶ、武蔵国の代表的な湊であった。江戸や品川は利根川(現在の古利根川中川)や荒川などの河口に近く、北関東の内陸部から水運を用いて鎌倉・小田原西国方面に出る際の中継地点となった。

道灌の死後、扇谷上杉氏の衰亡と共に、江戸城は後北条氏の支城となった。後北条氏末期には北条氏政が直接支配して太田氏千葉氏を統率していた。

徳川時代の江戸

一介の地方の城下町から巨大都市への大改造を実現した人物は、徳川家康であった。

1590年後北条氏小田原の役豊臣秀吉に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられ、開拓の命を受けた徳川家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸に定めた。同年の旧暦8月1日八朔)、家康は駿府から居を移すが、当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったという。家康は江戸城本城の拡張は一定程度に留める代わりに城下町の建設を進め、神田山を削り、日比谷入江を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる。この時期の江戸城はこれまでの本丸・二ノ丸に、西丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸があり、また道三掘平川江戸前島中央部への移設、それに伴う埋め立てにより、現在の西丸下の半分以上が埋め立られている(この時期の本城といえるのはこの内、本丸・二ノ丸と家康の隠居所として造られた西丸である)。

家康が1600年関ヶ原の戦いに勝利して天下人となり、1603年征夷大将軍に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は一気に高まり、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられ、江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本御家人などの武士が数多く居住するようになるとともに、彼らの生活を支える商人・職人が流入し、町が急速に拡大した。

一方、江戸城とその堀が幕府から大名に課せられた普請によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構が構築された。都市開発の歴史については後の江戸の都市計画の章で述べる。

1657年明暦の大火の後、再建事業によって市域は隅田川を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、18世紀初頭には人口が百万人を超え、八百八町といわれる世界有数(一説によると当時世界一)の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は、江戸を東日本における大消費地とし、東日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である上方近畿地方)と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。当時の江戸は、『東都歳時記』、『富嶽三十六景』の「東都浅草本願寺」など、漢風に「東都」とも呼ばれる大都市となっていた。18世紀末から19世紀初めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や参勤交代を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、膨大な人口が農村から江戸に流入して、様々な都市問題を引き起こすことにもなった。

江戸の人口と識字率

ロドリゴ・デ・ビベロによって1609年ごろに15万人と伝えられた江戸の人口は、18世紀初頭には100万人を超え、世界一ないしはそれに匹敵する規模であったと推定されている。成人男性の識字率も幕末には70%を超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、ロシア人革命家メーチニコフや、トロイア遺跡を発見したドイツ人のシュリーマンらが、驚きを以って書いている。ただし、識字率100%の武家が人口のかなりの割合を占めているための上げ底という見方もあり、地区では20%程度だったと言われている。とはいえそれでも世界的に見れば高い水準である高札等で所謂『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実から、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。

ただ、人口に関しては、記録に残っているのは幕末に60万人近くとなった町人人口のみであり、人口100万人とは、幕府による調査が行われていない武家や神官・僧侶などの寺社方、被差別階級などの統計で除外された人口を加えた推計値である。武士の人口は、参勤交代に伴う地方からの単身赴任者など、流動的な部分が非常に多く、その推定は20万人程度から100万人程度までとかなりの幅があり、68万人から150万人まで様々な推定値が出されている。雑記等に記される同時代人の推定も50万人から200万人まで幅がある。

  • 町奉行支配下の町方・寺社方町人人口

江戸の人口の最古の記録は、『正宝事録』の註釈として記された元禄六年(1693年)六月十七日の35万3588人であり、徳川綱吉が浮説雑説を唱えた者を探すために行われたものであるが、実際に人口調査の体裁が整えられてたのは、徳川吉宗によって子午改(6年毎)の全国人口調査が開始された享保六年(1721年)以降であり、大岡越前守から有馬兵頭頭へ提出した書類の形式で伝えられている。徳川吉宗は享保八年(1723年)九月から享保九年(1724年)四月の間の9263人の急激な人口減少、享保十年(1725年)四月から六月の間の1万0394人の急激な人口増加に気付き、季節的な人口変動の理由を調べさせた結果、土蔵の建築が春以降に増えて労働転入者も増える、冬の火災の多さから特に子女は近隣実家等へ疎開するなどといった実態が判明している。

以下公文書の他、複数の史料に記録として残っている江戸府内の町人の人口を男女別構成とともにまとめる。江戸の範囲は随時変わっており、寺社門前地が正式に御所内に組み込まれたのは1745年以降であり、朱引・墨引という呼称ができたのは1818年以降である。また安政元年以降は新吉原・品川・三軒地糸割符猿屋町会所を含む。明治二年(1869年)四月に施行された江戸市街調査によると江戸は町地269万6千坪(8.91 km2, 15.8%)、寺社地266万1千坪 (8.80 km2, 15.6%)、武家地1169万2千坪(38.65 km2, 68.6%)より構成されていたが、この内武家地の人口は江戸時代を通じて調査より除外された。公文書の形式で残っているもの(重宝録、享保撰要類集、町奉行支配惣町人人数高之改、天保撰要類集、市中取締類集)以外は信頼度が低い。出典のうち『江戸会雑誌』や勝海舟の『吹塵録』、『江戸旧事考』、『統計学雑誌』などは明治時代中ごろにまとめられた二次的史料であり、元となる江戸時代の史料が現在では不明となっている。斜体で示した数字は (1) 他の年月に酷似した数字が登場しており、共に誤記が疑われるケース (2) 元の史料の人口に対して寺社方人口や新吉原などの計外人口を独自に加算したと推測されるケースのいずれかであり、信頼性が低い。
年月 西暦 町方並寺社門前 町方支配場 寺社門前地 出典
総数 総数 総数
|元禄六年1693353,588正宝事録
|享保三年十二月1718534,633389,918144,715享保通鑑
|享保六年十一月1721501,394323,285178,109重宝録, 吹塵録(丑年改)
享保七年三月1722526,211225,700300,511吹塵録
|享保七年四月483,355312,884170,471重宝録
|享保七年九月476,236307,277168,959重宝録
享保八年四月1723459,842290,279169,563重宝録
|享保八年五月526,317300,510225,807吹塵録, 半日閑話, 千草の花, 江戸会雑誌
|享保八年九月473,840304,686169,154重宝録
享保九年四月1724464,577299,072165,505重宝録
|享保九年七月537,531吹塵録
|享保九年九月469,343301,018168,325重宝録
享保十年四月1725462,102301,125160,977重宝録
|享保十年六月472,496301,920170,576重宝録
|享保十年九月537,531322,423215,108吹塵録, 江戸会雑誌
|享保十一年1726471,988吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
|享保十六年四月1731525,700300,510225,190吹塵録, 世説海談, 松の寿, 江戸会雑誌
|享保十七年十一月1732533,518吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
|享保十八年九月1733536,380340,277196,103475,521303,958171,56360,85936,31924,540享保撰要類集
享保十九年四月1734533,763338,112195,651473,114301,851171,26360,64936,26124,388享保撰要類集
|享保十九年九月528,776335,279193,497468,840299,530169,31059,93635,74924,187享保撰要類集
享保二十年四月1735525,700316,700209,000半日閑話
|享保二十年九月530,648336,629194,019470,359300,633169,72660,28935,99624,293享保撰要類集
元文元年四月1736527,047333,998193,049466,867298,012168,85560,18035,98624,194享保撰要類集
|元文元年九月527,974467,58860,38636,10824,278享保撰要類集
|元文二年1737526,212300,512225,700吹塵録
元文三年1738453,594吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
|元文三年四月528,117333,238194,879469,601298,445171,15658,51634,79323,723町奉行支配惣町人人数高之改
|元文三年九月526,813332,019194,794468,446297,223171,22358,36734,79623,571町奉行支配惣町人人数高之改
寛保二年1742591,809江戸旧事考
|寛保二年九月501,346316,357184,989446,278283,647162,63155,06832,71022,358町奉行支配惣町人人数高之改
寛保三年1743515,122300,013215,109吹塵録, 乙巳雑記上, 人別石高
|寛保三年四月501,166316,373184,793448,453285,270163,18352,71331,10321,610町奉行支配惣町人人数高之改
延享元年1744460,164吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
|526,612225,700300,912護花園随筆
|延享二年九月1745515,667325,187190,480460,369292,452167,91755,29832,73522,563寛延奇談
延享三年1746515,122310,013205,109松の寿
延享三年四月504,277317,730186,547446,642283,587163,05557,63534,14323,492寛延奇談
|544,279吹塵録, 江戸会雑誌
延享四年四月1747512,913322,493190,420454,226288,027166,19958,68734,46624,221享保撰要類集
|延享四年九月513,327322,752190,575453,592287,505166,08759,73535,24724,488享保撰要類集
|寛延三年十二月1750509,708吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
|宝暦六年1756505,858吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
|宝暦十二年1762501,880吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
|明和五年1768508,467吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
|安永三年1774482,747吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
|安永九年1780489,787吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
|天明三年1783564,747人別石高
|天明六年1786457,083吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
|寛政三年1791535,710吹塵録, 半日閑話, 乙巳雑記上, 江戸会雑誌
|寛政四年1792481,669吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
|寛政十年五月1798492,449283,163209,286吹塵録(午年改), 一話一言, 江戸会雑誌
|享和三年正月1803607,100400,918205,119江戸会雑誌
|文化元年1804492,053吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
|文化七年1810497,085吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
|文化十二年1815574,261江戸旧事考
|文化十三年1816501,061吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
|文政五年1822520,793吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
|文政十一年1828527,293吹塵録(子年改), 江戸会雑誌
|天保三年五月1832545,623297,536248,087474,674260,149214,52570,94937,38733,562椎のみ筆, 吹塵録, 江戸会雑誌
|天保五年1834522,754吹塵録(午年改), 江戸会雑誌
|天保十一年四月 (五月)1840551,369296,414254,955天保撰要類集
|天保十二年四月 (五月)1841563,689306,451257,238天保撰要類集, 吹塵録, 江戸会雑誌
|天保十三年四月1842551,063295,518255,545477,349257,130220,21973,71438,38835,326天保撰要類集
天保十四年1843562,257江戸旧事考
|天保十四年七月553,257292,352260,905479,103253,820225,28374,15438,53235,622天保撰要類集
天保十四年九月547,434288,732258,702474,739251,045223,69472,69537,68735,008天保撰要類集(9月届出)
|547,952289,032258,920477,076252,327224,74970,87636,70534,171天保撰要類集(11月26日届出)
弘化元年四月1844559,497290,861268,636491,905255,793236,11267,59235,06832,524天保撰要類集
|弘化元年九月558,761292,320266,441484,472253,997230,47574,28938,32335,966天保撰要類集
|弘化二年五月1845557,698293,391264,307吹塵録, 松の寿, 蠧余一得三集
|嘉永二年九月1849564,943291,666273,277藤岡屋日記
|嘉永三年四月1850559,115288,362270,753藤岡屋日記
嘉永六年四月1853574,927295,453279,474492,271253,180239,09182,65642,27340,383市中取締類集
|嘉永六年九月575,091295,275279,816492,317252,847239,47082,77442,42840,346市中取締類集
安政元年四月1854573,619294,028279,591統計学雑誌(306号)
|安政元年九月570,898292,413278,485統計学雑誌(306号)
安政二年四月1855573,619294,028279,591統計学雑誌(306号)
|安政二年九月564,544288,402276,142統計学雑誌(306号)
万延元年四月1860557,373282,924274,449統計学雑誌(306号)
|万延元年九月562,505287,644274,861統計学雑誌(306号)
慶応三年四月1867539,618272,715266,903統計学雑誌(306号)
|慶応三年九月538,463269,902268,561457,066228,959228,10781,39740,94340,454統計学雑誌(306号), 内外新報(21号)
明治二年一月1869674,447府藩県石高人口表(以降華士族を含む本籍人口)
|明治二年三月503,703260,936242,767東京府史(武家地・寺社地を除く)
|明治六年一月1873595,905310,050285,855日本地誌提要
|明治九年一月1876716,728370,056346,672東京府統計表
大田南畝 「寛政十年戊午江戸人別」 『一話一言』 巻26 (1820年); 山下重民 「江戸市街統計一班」 『江戸会雑誌』 1冊(2号) pp. 18?26(1889年); 勝海舟 「江戸人口小記」「正徳ヨリ弘化迄江戸町数人口戸数」 『吹塵録』(1890年); 小宮山綏介 「府内の人口」 『江戸旧事考』 2巻 pp. 19?23(1891年); 『日本財政経済史料』 9巻 pp. 1210?1243(1922年); 柚木重三、堀江保蔵 「本邦人口表」 『経済史研究』 7号 pp. 188?210(1930年); 幸田成友 「江戸の町人の人口」 『社会経済学会誌』 8巻(1号) pp. 1?23(1938年); 鷹見安二郎 [江戸の人口の研究」 『全国都市問題会議』 第7回1(本邦都市発達の動向と其の諸問題上) pp. 59?83(1940年); 高橋梵仙 『日本人口史之研究』 三友社(1941年); 関山直太郎 『近世日本の人口構造』 吉川弘文館(1958年); 南和男『幕末江戸社会の研究』 吉川弘文館(1978年)より作成。史料によって若干異なる場合は一方のみを記した。享保三年十二月、享保七年三月、享保八年五月、享保九年七月、享保十年九月、享保十六年四月、享保十七年十一月の数字を仮に町方並寺社門前の人口として扱ったが、公文書では少なくとも享保十年六月までは町方支配場の人口のみしか集計しておらず、そもそもこれらのほとんどにアナグラム的な数字の誤記が見受けられる。また『吹塵録』の「江戸人口小記」は町方並寺社門前の人口として子午年改の人口をまとめているが、『重宝録』では享保六年十一月の人口を町奉行支配場のみの町人人口として記載しており、享保十一年、元文三年、延享元年の数字も町奉行支配場町人人口として扱った。)
寛政十年五月(1798年)と天保十一年五月(1840年)に関しては三郡(豊島郡荏原郡葛飾郡)に占める江戸の人口が知られている。
年月 西暦 内訳 総数 豊島郡内 荏原郡内 葛飾郡内 出典
寛政十年五月1798総数492,449425,12418,67948,646一言一話
283,163245,76610,33427,063
209,286179,3588,34521,583
天保十一年五月1840総数551,369459,43519,95871,976天保撰要類集
296,414248,12510,43637,853
254,955211,3109,52234,123
江戸末期には出世地別の統計や地方に籍を置く出稼人の人口もまとめられている。 算総人口
年月 西暦 町方並寺社門前町人人口 出稼人 出稼人加出典
総数 当地出生 他所出生 不明 総数
天保三年五月1832545,623414,774130,8490椎のみ筆、天保撰要類集
天保十二年四月1841563,689413,103150,5860天保撰要類集
天保十四年1843562,25734,191596,448江戸旧事考
天保十四年七月553,257388,185165,072034,20125,8488,353587,458天保撰要類集
天保十四年九月547,952386,040161,8813129,47522,3747,101577,427天保撰要類集
天保十四年九月547,434378,885168,549029,47622,4377,039576,910天保撰要類集
弘化元年四月1844559,497401,121158,3215524,09219,1424,950583,589天保撰要類集
弘化元年九月558,761401,363157,3336521,65017,0444,606580,411天保撰要類集
嘉永二年九月1849564,94311,5949,7011,893562,657藤岡屋日記
嘉永三年四月1850559,115414,686144,23119810,4348,6791,755569,549藤岡屋日記
嘉永六年四月1853574,9279,2657,6861,579584,192市中取締類集
嘉永六年九月575,091430,871143,9193019,0757,5341,541584,166市中取締類集
安政元年四月1854573,619432,022141,2643338,5157,0261,489582,134統計学雑誌(306号)
安政元年九月570,898429,917140,6373448,3066,8691,437579,204統計学雑誌(306号)
安政二年四月1855573,619432,022141,2643338,5157,0261,489582,134統計学雑誌(306号)
安政二年九月564,544426,774137,4313397,9796,6091,370572,523統計学雑誌(306号)
万延元年四月1860557,373428,367128,5844226,3935,1131,280563,766統計学雑誌(306号)
万延元年九月562,505425,169137,0043328,0216,6361,385570,526統計学雑誌(306号)
慶応三年四月1867539,618421,711117,4075004,6923,6421,050544,310統計学雑誌(306号)
慶応三年九月538,463421,023116,9265144,6163,5971,019543,079統計学雑誌(306号)

公文書で出稼人を加えた町人人口が最大(58万7458人)となったのは天保十四年七月(1843年)であり、出稼人を除いた町人人口が最大(57万5901人)となったのは嘉永六年九月(1853年)のことである。但し『江戸旧事考』は出稼人を加えた町人人口が最大となった天保十四年の人口を59万6448人とし(内訳等の数字は公文書の天保十四年七月のものと似ている)、出稼人を除いた町人人口が最大になった数字として100年前の寛保二年(1742年)の59万1809人を挙げている(『江戸旧事考』の数字は多くの場合計外人口を加算しているものと思われる)。また『江戸会雑誌』は享和三年正月(1803年)の数字として60万7100人を挙げている(但し男性の人口を誤って十万人多く記載していると思われる)。江戸は地方からの上京者が多く、江戸時代中期には男性が女性の倍近くいたが、末期には男女差がかなり解消された。

このほか大田南畝の『半日閑話』、岩瀬京山の『蜘蛛の糸』、『乙巳雑記上』などは、天明六年十月廿八日(1786年)または天明七年五月廿五日以降(1787年)に江戸の町人の人口が100万人を超える128万5300人であったと伝えている。また天保八年(1837年)の人口として128万4815人という数字も伝わっている。共に災害の直後の非常時であったため、これらが武家人口を含めた真の江戸の人口であるとする解釈があるが、(1) 男女比が逆転している (2) 50年隔てた両年の人口や後述の計外人口の構成が酷似しているなど信頼性が低い。
年月 西暦 総数 出典
天明六年十月廿八日17861,285,300587,800690,500半日閑話(数字は原文ママ)
|1,285,300587,800697,100乙巳雑記上(数字は原文ママ)
|天明七年五月17871,285,300587,800697,500蜘蛛の糸
天保八年18371,284,815587,810697,005出典不明(三田村鳶魚?)
|天保八年十月1,287,800589,800688,000浮世の有様(数字は原文ママ)
  • 新吉原、神官・僧侶の人口
新吉原は1657年の明暦の大火の際に江戸郊外に作られた居住地区であったが、安政元年よりも前は町奉行の支配下に入っておらず、江戸御府内人口の統計から除外されてきた。また神官・僧侶は特殊階級とみなされ、人口の統計から除外されている。以下複数の雑記に記録されている計外人口を列挙するが、時代を超えて数字が酷似していることから、数点の元史料をもとに数字が伝えられ、誤記により変化した考えられる。 寺社方人口として一番控えめな数字を採用すると約4万人程度となる。また新吉原の人口は約1万人程度である。 (沙門) (修験者) (社人, 神主) 神仏神子 (座頭)
年月 西暦 新吉原 寺社方 出典
出家山伏彌宜比丘尼 大神楽荒盲人
享保六年172137,0956,0759,006享保通鑑
享保七年三月172236,0966,0159031,000吹塵録
享保八年五月17238,16326,0977,0759037,030半日閑話
8,16126,0976,0751,910享保通鑑
8,16136,0956,075903 1,010千草の花
享保九年五月17237,12536,0256,0759,0031,010柳烟雑記
享保九年七月8,67920,3904,2759036,7235,836吹塵録
享保十六年173111,96026,0053,075900吹塵録
8,96026,0003,075900世説海談
享保二十年四月17358,96026,0053,075900半日閑話
元文二年173730,695675903 1,010吹塵録
寛保三年17438,67936,6954,2776,7235,8311,289吹塵録
8,67936,6954,2775,8436,7225,8311,284享和雑記
8,67936,6954,2775,8436,7235,8371,283乙巳雑記上
12,58436,6954,2745,8216,7215,8311,284延享世話
延享元年17448,062護花園随筆
天明六年十月178614,50053,4397,2303,5803,840乙巳雑記上
天明六年十月廿八日14,50052,4307,2303,5803,840半日閑話
天明七年五月178714,50052,4307,2303,5803,840蜘蛛の糸
寛政三年17918,94026,0903,081900半日閑話, 甲子夜話, 乙巳雑記上
享和三年正月18038,896江戸会雑誌
天保八年十月183715,70054,8057,2303,5803,844浮世の有様
  • 寺社門前町支配下の農民、町人の人口
御府内の範囲は時代によって異なり、特に寺社門前町の取り扱いについては幕府役人の間でも問い合わせがあった。実際朱印内であってもかなりの農地が武家屋敷とともに存在した。そのため町奉行支配下の町人人口として計上されている寺社門前地の人口には、農地に点在する農民、一部町人の人口が含まれていないとする解釈がある。鷹見安二郎(1940年)によると住宅密集地区外に点在する民家は文政年間で約9500戸程度と見積もられ、約4万3500人程度である。
  • 被差別階級の人口

最少で6222人(安永六年六月(1777年))、最多で1万3266人(嘉永三年(1850年))の数字が伝わっている。

  • 武士及び使用人の人口

武家屋敷に使用人として住む町人の人口は、幕府の管理下になかったため、江戸の人口統計から除外されている。また軍事機密保持なども理由に、武士階級全体の人口がそもそも統計として残っていない。いくつかの雑記は江戸在中の武士の人口として2億人を超える荒唐無稽な数値(享保十七年四月(1732年): 2億3698万7950人(『月堂見聞集』)、享保二十年(1735年):2億3608万5950人(『半日閑話』)、寛政三年(1743年)及び文化十二年(1815年):2億3658万0390人(『甲子夜話』))を記載しているが、唯一『土屋筆記』は御屋敷方の人口として70万0973人(年次不明)という比較的現実的な人口を伝えている。また『柳烟雑記』は享保九年五月(1723年)の武家人口として、大名264人、旗本5205人、御目見以下1万7004人、与力・同心並びに六尺・下男3万0909人、その他487人と伝えている。

小宮山綏介(1891年)は、『柳烟雑記』の統計を元に諸藩の在府者と家族の人口を12万1100人、旗本御家人と家族の人口を8万3403人、その家来・従事者5万8936人、合計約26万人程度と推定している。また天保十四年の調査に対しては、合計約30万人程度と推定している。一方鷹見安二郎(1940年)は明治初年の華族・士族人口や石高の統計などをもとに、諸藩の在府者と家族の人口を約36万人、幕府配下の武家と家族の人口を約26万人、合計約62万人と推定している。関山直太郎(1958年)は、旗本御家人と家族約11万5千人、その家来・従属者約10万人、諸藩の在府者と家族約18万人、幕府直属の足軽・奉公人等約10万人、合計約50万人と推定している。過去の人口推定値として海外でしばしば引用されるTertius Chandler(1987年)は、町奉行支配下の町人人口の3/8程度を武士人口とし、18万8千人(1701年)から約21万5千人(1854年)と見積もっている。

江戸から東京へ

1868年戊辰戦争が起こり、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、軍の大軍が江戸に迫り、江戸は戦火に晒される危険に陥った。幕臣勝海舟は早期停戦を唱えて薩長軍を率いる西郷隆盛と交渉、最後の将軍徳川慶喜は江戸城の無血開城し降伏、交戦派と官軍の間の上野戦争を例外として、江戸は戦火を免れた。

同年、江戸は東京と改名され、翌1869年には東京城(江戸城)に行幸した明治天皇が入って「皇城」とされて、かつての将軍の居住する都市・江戸は、天皇の行在する都市・東京となった(東京奠都)。東京の町並が東京市東京都へと変遷しつつ拡大してゆく過程で、かつての江戸は都心となり、その中核としての役割を果たしている。

都市

江戸の範囲

Wikipedia画像へのリンク(江戸の墨引き(≒明治期の朱引き)の範囲を引き継いだ明治期の東京市街(1888年)。江戸城の東、現在の丸の内・東京駅付近を中心とする半径4kmほどの円状を為す。)

江戸の地名で呼ばれる地域は、元々は平安時代に存在した荏原郡桜田郷(江戸城の西南)の一部であったが、やがて豊島郡江戸郷と呼ばれるようになっていた。

江戸時代前期頃の江戸の範囲は、現在の東京都千代田区とその周辺のみであり、江戸城の外堀はこれを取り囲むよう建造された。明暦の大火以後、その市街地は拡大。通称「八百八町」と呼ばれるようになる。

江戸の市域は「御府内」と呼ばれ、正式な区域は1818年に地図上の朱引きで、さらに町奉行の管轄する区域は墨引きで示されるようになった。朱引きは旧東京市の15区より若干広く、現在の豊島区渋谷区荒川区北区目黒区の一部、品川区の一部、板橋区の一部をも含む。墨引きは旧東京市の15区とほぼ一致する。朱引きは明治以降も存続し、数度の改正を経て、最終的には旧墨引に近い形となり郡区町村編制法施行時に旧東京15区となった。

江戸は、江戸後期に現在の、千代田区・中央区港区新宿区の東側(四谷付近まで)・文京区台東区墨田区江東区の辺り、のちの東京市の内十五区部分ぐらいまで広がったといわれている。

以下に江戸に含まれる主な歴史的地名をあげる。

元々、徳川家康自身が岡崎出身の一大名であったように、岡崎を初めとする西三河系の地名が、江戸には多く移植されている(例:秋葉原 三河の隣国、遠江秋葉神社に由来)。

実際には、既に触れたように江戸の地は平安時代末期から関東南部の要衝であった。確かに徳川氏の記録が伝えるように、後北条氏時代の江戸城は最重要な支城とまではみなされず城は15世紀の粗末なつくりのまま残されていたが、関八州の首府となりうる基礎はすでに存在していた。

しかし、江戸が都市として発展するためには、日比谷入江の東、隅田川河口の西にあたる江戸前島と呼ばれる砂州を除けば、城下町をつくるために十分な平地が存在しないことが大きな障害となる。そこで徳川氏は、まず江戸城の大手門から隅田川まで道三堀を穿ち、そこから出た土で日比谷入江の埋め立てを開始した。道三堀は墨田川河口から江戸城の傍まで、城の建造に必要な木材や石材を搬入するために活用され、道三堀の左右に舟町が形成された。また、元からあった平地である今の常盤橋門外から日本橋の北に最初の町人地が設定された(この時と時期を同じくして平川の日比谷入江から江戸前島を貫通する流路変更が行われたと思われる)。これが江戸本町、今の日本銀行本店や三越本店がある一帯である。さらに元からあった周辺集落である南の、北の浅草や西の赤坂、牛込、麹町にも町屋が発展した。この頃の江戸の姿を伝える地図としては『別本慶長江戸図』が知られている。

Wikipedia画像へのリンク(江戸中心部の主要な門と橋、寺社。青部分は江戸を敵から守る堀と神田川、隅田川。)

江戸は「の」の字形に設計されたことが一般の城下町と比べて特異であるといわれる。つまり、江戸城の本城は大手門から和田倉門、馬場先門、桜田門の内側にある本丸、二の丸、西の丸などの内郭に将軍、次期将軍となる将軍の世子、先代の将軍である大御所が住む御殿が造られ、その西にあたる半蔵門内の吹上に将軍の親族である御三家の屋敷が置かれた。内城の堀の外は東の大手門下から和田倉門外に譜代大名の屋敷、南の桜田門の外に外様大名の屋敷と定められ、西の半蔵門外から一ツ橋門、神田橋門外に至る台地に旗本御家人が住まわされ、さらに武家屋敷地や大名屋敷地の東、常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・数寄屋橋から隅田川、江戸湾に至るまでの日比谷埋立地方面に町人地が広げられた。これを地図で見るとちょうど大手門から数寄屋橋に至るまでの「の」の字の堀の内外に渦巻き上に将軍・親藩・譜代・外様大名・旗本御家人・町人が配置されている形になる。巻き貝が殻を大きくするように、渦巻き型に柔軟に拡大できる構造を取ったことが、江戸の拡大を手助けした。

家康の死後、二代将軍徳川秀忠は、江戸の北東の守りを確保するため、小石川門の西から南に流れていた平川をまっすぐ東に通す改修を行った。今の水道橋から万世橋(秋葉原)の間は本郷から駿河台まで伸びる神田台地があったためこれを掘り割って人口の谷を造って通し、そこから西は元から神田台地から隅田川に流れていた中川の流路を転用し、浅草橋を通って隅田川に流れるようにした。これが江戸城の北の外堀である神田川である。この工事によって平川下流であった一ツ橋、神田橋、日本橋を経て隅田川に至る川筋は神田川(平川)から切り離され、江戸城の堀となった。この堀が再び神田川に接続され、神田川支流の日本橋川となるのは明治時代のことである。

更に3代将軍徳川家光はこれまで手薄で残されてきた城の西部外郭を固めることにし、溜池や神田川に注ぎ込む小川の谷筋を利用して溜池から赤坂、四ッ谷、市ヶ谷を経て牛込に至り、神田川に接する外堀を造らせた。全国の外様大名を大動員して行われた外堀工事は1636年に竣工し、ここに御成門から浅草橋門に至る江戸城の「の」の字の外側の部分が完成した。

城下町において武家地、町人地とならぶ要素は寺社地であるが、江戸では寺社の配置に風水の思想が重視されたという。そもそも江戸城が徳川氏の城に選ばれた理由の一因には、江戸の地が当初は北の玄武麹町台地、東の青龍平川、南の朱雀日比谷入江、西の白虎東海道、江戸の拡大後は、玄武に本郷台地、青龍に大川(隅田川)、朱雀に江戸湾、白虎に甲州街道四神相応に則っている点とされる。関東の独立を掲げた武将で、代表的な怨霊でもある平将門を祭る神田明神は、大手門前(現在の首塚周辺)から、江戸城の鬼門にあたる駿河台へと移され、江戸惣鎮守として奉られた。また、江戸城の建設にともなって城内にあった山王権現(現在の日枝神社)は裏鬼門である赤坂へと移される。更に、家康の帰依していた天台宗の僧天海が江戸城の鬼門にあたる上野忍岡を拝領、京都の鬼門封じである比叡山に倣って堂塔を建設し、1625年寛永寺を開山した。寛永寺の山号は東叡山、すなわち東の比叡山を意味しており、寺号は延暦寺と同じように建立時の年号から取られている。

江戸は海辺を埋め立てて作られた町のため、井戸を掘っても真水を十分に得ることができず、水の確保が問題となる。そこで、赤坂に元からあった溜池が活用されると共に、井の頭池を水源とする神田上水が造られた。やがて江戸の人口が増えて来るとこれだけでは供給し切れなくなり、水不足が深刻になって来た。このために造られた水道1653年完成の玉川上水である。水道は江戸っ子の自慢の物の一つで、「水道の水を産湯に使い」などと言う言葉がよく使われる。

1640年には江戸城の工事が最終的に完成し、江戸の都市建設はひとつの終着点に達した。しかし、1657年明暦の大火が起こると江戸の町は大部分が焼亡し、江戸城天守も炎上してしまった。幕府はこれ以降、火事をできるだけ妨げられるよう都市計画を変更することになった。これまで吹上にあった御三家の屋敷が半蔵門外の紀尾井町に移されるなど大名屋敷の配置換えが行われ、類焼を防ぐための火除地として十分な広さの空き地や庭園が設けられた。

大名屋敷が再建され、参勤交代のために多くの武士が滞在するようになると、彼らの生活を支えるため江戸の町は急速に復興するが、もはや外堀内の江戸の町は狭すぎる状態だった。こうして江戸の町の拡大が始まり、隅田川の対岸、深川・永代島まで都市化が進んでいった。南・西・北にも都市化の波は及び、外延部の上野浅草が盛り場として発展、さらに外側には新吉原遊郭が置かれていた。

神社仏閣

神社

寺院

江戸近郊

江戸の生活と文化

娯楽

Wikipedia画像へのリンク(『目黒新富士』(名所江戸百景より。歌川広重:江戸後期)視界の開けた場所から望む富士に江戸の住人は親しみ、浮世絵・富士講をはじめ多くの文化の対象となった。これは目黒に二つあった富士塚のうちの一方、新富士(現存せず)と富士山を描いたもの。)
Wikipedia画像へのリンク(市村座での『青砥稿花紅彩画(白浪五人男)』より稲瀬川勢揃いの場(歌川豊国:1862年(文久2年))。江戸時代の町人文化を代表する歌舞伎。本作の時代には作者河竹黙阿弥が活躍し、江戸歌舞伎が隆盛を極めた。)

服装

食事

諺・故事成語

  • 江戸前
  • 火事と喧嘩は江戸の華 >>江戸の火事
  • 江戸の敵を長崎で討つ
  • 江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ
  • 江戸っ子は五月の鯉の吹き流し
  • 江戸っ子の梨を食うよう
  • 江戸っ子の初もの食い
  • 江戸っ子の産れ損なひ金を貯め

江戸を題材にした作品

小説

随筆

映画・テレビドラマ

その他多数あり。

関連項目

関連書籍

  • 谷畑美帆 『江戸八百八町に骨が舞う』人骨から解く病気と社会 吉川弘文館 (2006年)ISBN 4642056130
  • 鈴木理生 『江戸の橋』 三省堂  ISBN 4-385-36261-0

外部リンク

脚注

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