読み込み中...札幌農学校(さっぽろのうがっこう)とは、明治初期に北海道の札幌に置かれた教育機関であり、日本初の学士授与教育機関である。札幌農学校は、札幌、ひいては北海道の開拓の歴史と密接に繋がっており、札幌の発展に伴って規模も拡大し、東北帝国大学農科大学、北海道帝国大学、そして、現在の北海道大学へと発展した。現在、観光スポットとして有名な札幌市時計台は、この札幌農学校の演武場として建てられたものである。
1869年、札幌本府の建設が始まった。建設開始以前に札幌に住んでいた和人は2家族。
1872年(明治5年)4月15日 (旧暦)、東京・芝の増上寺の方丈25棟を購入して開拓使仮学校(初代校長は荒井郁之助)が設置された。北海道開拓に当たる人材の育成を目指し、後に札幌に移して規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた。
初年度全生徒数は120名(官費生60、私費生60)で、年齢により普通学初級(14歳以上20歳未満)と普通学2級(20歳以上25歳未満)に割り振り、後に専門の科に進ませた。同年9月(旧暦)には女学校(官費生50名のみ)を併設した。なお、官費女学生は、卒業後に北海道在籍の者と結婚することを誓わせられた。
1875年(明治8年)5月、最初の屯田兵が札幌郊外の琴似兵村に入地した。また、札幌本府建設から5年経ち、ようやく町の形ができた北海道石狩国札幌郡札幌(現在の札幌市中央区北2条西2丁目)付近に仮学校が東京から移転し、旧暦7月29日に札幌学校と改称した。この期に、開拓使札幌本庁学務局所管となり、続いて同年9月7日開校式を行った。
1876年(明治9年)8月14日 (旧暦)、札幌学校は札幌農学校と改称して開校式を挙行した(正式改称は同年9月)。なお、同年8月24日には女学校も札幌に移転し開校したが、翌1876年(明治9年)には廃校になった。この女学校校舎は、元の脇本陣を利用したもので、1879年明治12年1月17日に開拓使札幌本庁舎が全焼したあと、1888年(明治21年)12月14日北海道庁の赤レンガ庁舎ができるまでの間、開拓使、札幌県及び北海道庁の庁舎として使用された。現在の札幌市中央区南1条西4丁目(三越札幌店付近)にあった。
1879年(明治12年)に幌内炭鉱(幌内村。現三笠市)が開山し、石炭積出港となる小樽港までの区間に官営幌内鉄道の建設が始まる。1880年(明治13年)11月28日、札幌・札幌駅 - 小樽・手宮駅間が、新橋〜横浜間、大阪〜神戸間に続く鉄道として開通した(同年札幌区設置)。1882年11月13日には小樽手宮〜幌内が全通(→幌内線、函館本線、鉄道の歴史 (日本))。この年、北海道の人口は20万人を越え、開拓使が廃止されて函館県・札幌県・根室県の3県が設置された。また、札幌農学校は農商務省の管轄になった。鉄道開通により、札幌は小樽港という外港を得て、政治面のみならず、流通・経済でも中心地となっていき、以後、函館に代わって札幌と小樽が道内の中心都市としての地位を築き上げていくことになる。
1884年、伊藤博文の命で北海道視察に訪れた内閣府書記官金子堅太郎には、「実業に暗く役に立たない」と酷評されるなどの事件もあった。
1886年(明治19年)、3県は廃止されて北海道庁が設置された。北海道庁官制によって北海道庁長官を他府県の知事に当たる役職とした。
北海道では、農業・開拓や国防を担う屯田兵制度が1875年5月から開始されたが、1880年代末ともなると、北海道の人口が30万人(→都道府県の人口一覧)を越えて開拓に適した土地が少なくなり、かつ、炭鉱などの鉱業や流通業が主力産業となって人口が急増し始めた。すると、新産業に対応出来ない札幌農学校の卒業生の北海道流出が増え、また、志願者も減少する傾向が見られた。そのため、農業以外の高等教育の必要性が高まった。日清戦争の賠償金を元に、1897年、京都帝国大学が設置されると、総合大学である帝国大学を北海道にも設置しようとの運動が盛んになった。
札幌農学校では、開校初期にはアメリカ出身の教師が多かったこともあり、イギリス・アメリカ風の大農経営・畑作に重点をおく農学が講義されていた。しかし第1期生の佐藤昌介が米留学中にジョンズ・ホプキンス大学でイリーのもとで学んだことにより、(保護貿易論者のイリーが影響を受けていた)ドイツ農学や歴史学派経済学の影響が1890年代半ばの農学校で強くなり、次第に中小農経営と米作に重点をおく農学へと学風が転換していった。
1899年、札幌区が設置された(この年の年末の札幌区の人口は4万0578人、前年1898年の北海道の人口は76万6900人)。同年、森林科が設置される。この森林科は農学科本科に付属する予科と同じく、中学校卒業者を受け入れるもので、専門学校であった。これは1905年には林学科となるが、やはり既設の農学科とは異なって学士の授与能力を持たなかった。この期に乗じて、翌1900年、第14帝国議会において、野党から「九州東北帝国大学設置建議案」に続いて「北海道帝国大学設立建議案」が提出された。両建議案は可決され、議会の意思が政府に示されたが、建議が法的拘束力を持っていないことや不況期だったことなどから政府は消極的だった。
1901年(明治34年)、他の府県より権限は小さいものの、北海道会法によって議会が設置され、北海道地方費法によって「北海道地方費」という名称の法人格を持つ地方自治体となった。これで北海道は「1つの地方で1つの自治体」という特例ながら、国の直轄から自立した。この期に再度「北海道帝国大学設立建議案」が提出され、帝国議会で可決された。しかし、政府はまたも消極的であった。
1903年(明治36年)、札幌農学校は、現在の札幌市北区北11条西6丁目(現在の北海道大学の所在地)に移転した。この年の年末の札幌区の人口は55,304人、北海道の人口は99万4300人。
日露戦争後の不況期に入りながらも、紆余曲折を経て、1907年(明治40年)6月、宮城県仙台市に東北帝国大学が設置され、同年9月に札幌農学校は東北帝大の分科大学(農科大学)となった。 これは、京都帝国大学福岡医科大学(1903年設立)と同様に、帝国大学の本部の所在都市以外に置かれた例となった。1907年当時の帝国大学およびその分科大学の立地は以下の通り。なお、北海道の教育環境を鑑みて、農科大学附属となる高等農林学校程度の大学予科も設置された(帝大の予科は、後に設置された京城帝国大学予科と台北帝国大学予科の3校のみ)。1907年の年末の札幌区の人口は6万6193人、翌1908年の北海道の人口は132万2400人。またこのときすでに存在していた林学科も農科大学附属とされるが、1910年には講座制が適用され、他学科と同等に大学レベルの学科になる。これは東京帝国大学に続き2番目の旧制大学林学科であった。
1908年(明治41年)、有島武郎が英語講師として同農科大学に赴任した。
1910年、小樽高等商業学校が設置され、北海道で農学と商学という複数の高等教育が受けられるようになった。しかし、高等商業学校は大学予科と同レベル(大学予科と小樽高商で定期戦開催)であり、帝国大学とは格差があった。
東北帝大では、1911年(明治44年)1月に理科大学が設置され、翌1912年(明治45年)4月1日に仙台医学専門学校が医学専門部(後に医科大学)として、仙台高等工業学校(1906年設立)が工学専門部として包摂されるなど、仙台での東北帝大拡充が続いた。
東北帝大理科大学新設と同じ1911年1月に、九州帝国大学が設置された。また、同年4月には京都帝大の福岡医科大学が九州帝大に移管され、工科大学も新設された。
九州では、京都帝大から独立して分科大学も複数設置されたのに対し、北海道での高等教育は従来の農学以外には広がらず、この時点で東北帝大からの独立も実現しなかった。このため、北海道帝大設立の運動が再燃し、同1911年、三度目となる「北海道帝国大学設立建議」が帝国議会にあげられた。採択はされたものの、この期にも北海道帝大設立には至らなかった。
その後、第一次世界大戦が始まって日本が好況(1915-18年)に入ると風向きが変わり、大学令公布(1918年12月6日)に伴う各帝国大学の分科大学制から学部制への改組に先立って、仙台と札幌に分かれている東北帝大は各都市毎に分かれることになった。
1918年(大正7年)4月、北海道帝国大学設置。同時に東北帝国大学農科大学が東北帝大から分離され、北海道帝大に移管された。この年の年末の札幌区の人口は9万3218人、北海道の人口は、帝国大学設置運動が始まった頃の約10倍の204万8600人となっていた。
翌1919年2月、大学令に基づいて、北海道帝国大学農科大学は北海道帝国大学農学部に改組され、同時に医学部も設置された。以後、1924年に工学部、1930年に理学部が設置されるなど、高等教育を拡充して総合大学となっていった。
なお、六大都市の大阪市(125万人)や名古屋市(43万人)、あるいは、広島市(16万人)や金沢市(13万人)に比べて人口が少ない仙台市(12万人)、札幌区(10万人)、福岡市(9.5万人)に政策的な理由で帝国大学が設置されたため、他の大都市では帝国大学設置運動がその後も続いた(→都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位#1920年(大正9年)の人口順位)。