読み込み中...寺山 修司 (てらやま しゅうじ、1935年12月10日 - 1983年5月4日)は、日本の詩人、歌人、俳人、エッセイスト、小説家、評論家、映画監督、俳優、作詞家、写真家、劇作家、演出家など。演劇実験室・天井桟敷主宰。本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」とかえすのが常だった。
言葉の錬金術師の異名をとり、膨大な量の文芸作品(小説・エッセイ・評論・戯曲・シナリオなど)を発表。その一方で、映画・演劇なども幅広く手掛けた。競馬への造詣も深く、『ユリシーズ』(船橋競馬場所属)という競走馬の馬主になるほど。メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。
寺山の競馬の出会いは1956年。ネフローゼで入院中でのことで、同室の韓国人から賭博とともにそれを学んだ。
1962年、山野浩一と親しくなったころから足繁く競馬場に通うようになり、1963年、牝馬ミオソチスに心酔して競馬エッセイを書き始め、競馬を人生やドラマになぞらえて語るなどの独特の語り口で人気を博した。
1964年にはTBSテレビのドキュメンタリー番組『サラブレッド・我が愛』の台本・構成を手掛けている。
1968年、船橋競馬のある騎手から「寺山さんのエッセイは中央競馬寄り」という批判を受けたことをきっかけに、「ユリシーズ」(南関東)の馬主となる。1970年からは報知新聞競馬面に競馬予想コラム『みどころ』『風の吹くまゝ』を連載し、これは1983年4月、死の直前まで続いた。
競馬界のスポークスマン的存在で、1973年には日本中央競馬会(JRA)のコマーシャルに出演。『カモメは飛びながら歌を覚える。人生は遊びながら年老いていく』という自作のコピーを朗読。1974年にハイセイコーが引退すると、引退記念レコード『さらばハイセイコー』の構成、詩の朗読を行なった。
1978年の日経新春杯でテンポイントが骨折、2ヵ月後に死亡すると、追悼詩「さらば、テンポイント」を残した。この詩は関西テレビのテンポイント追悼特集番組『風花に散った流星』で紹介された。
1978年6月にはNHKが製作した『ルポルタージュにっぽん』「ダービーの日」という番組に進行役として出演。同年5月28日に開催された日本ダービーでの「東京競馬場の長い一日」を騎手、調教師、観客らの姿にスポットを当てて描くというドキュメンタリーの形で綴った。
1981年のカブトシロー薬殺未遂騒動の際には、寺山を中心とした10人の競馬マニアの連名で中央競馬会に抗議文を提出している。
1982年に寺山が選んだ「私の忘れがたかった馬ベスト10」(競馬放浪記あとがき)はミオソチス、カブトシロー、モンタサン、ホワイトフォンテン、テンポイント、ハイセイコー、メジロボサツ、ユリシーズ、タカツバキ、テキサツシチ。騎手では中島啓之、のちに吉永正人を贔屓にした。まだ人気にも話題にもなっていない頃から彼らを熱心に取り上げ、「ダービーに勝つまで書き続ける」のが常だった。寺山の応援の効果か、両者共にダービー制覇を成し遂げているが、残念ながら吉永正人がミスターシービーで悲願達成したシーンを見届ける事は、肝心の寺山がダービー開催3週間前に急逝した為に叶わなかった。
ちなみに、前述の報知新聞競馬面予想コラム『風の吹くまゝ』の最終回は1983年皐月賞の当日で、寺山は『勝つのはミスターシービー』とコラムに記し、吉永正人とミスターシービーの勝利を確信していた。
演劇活動については天井桟敷参照。
「時には母のない子のように」や「あしたのジョー」の作詞家として意外性をもって語られることが多いが、決して「作家のサイドワーク」ではなく、作詞家寺山修司としての活動である。ミュージシャンへの歌詞提供だけでも100曲以上、演劇・映画関連のものを含めると、ゆうに600曲を超える。