読み込み中...当代は特に代数を名乗っていないものの、4代目笑福亭松鶴の門下で鶴瓶を名乗り、後に2代目林家染丸の門下に移り染八を名乗った噺家がいることから、当代は2代目であると思われる。
笑福亭 鶴瓶(しょうふくてい つるべ、本名:駿河 学(するが まなぶ)1951年12月23日 - )は、日本の落語家(6代目笑福亭松鶴門下)、タレント、俳優、司会者、ラジオパーソナリティーである。社団法人上方落語協会副会長。
大阪府中河内郡長吉村長原(現在の大阪市平野区長吉長原)の出身で、兵庫県西宮市在住。
所属事務所はデンナーシステムズデンナーシステムズは元松竹芸能社員で鶴瓶のチーフマネージャーを担当していた千佐隆智が代表取締役を勤める芸能プロダクション。東京・東麻布に所在し、ジャパン・ミュージックエンターテインメントの系列でもある(ただし、ウェブサイト上には掲載されていない)。主に東京・全国区方面でのマネジメントを担当しており、マネージャーもデンナーシステムズの社員が就いている。。松竹芸能にも籍を残している。
落語家としては、現在上方落語協会副会長を2008年6月20日より務めている。
あだ名は「師匠」「べーさん」、「まーちゃん」、「まなぶくん」。身長は公称173cm。趣味はボクシング。好物はパン、カレーライス。
5人兄弟の末っ子で浪速高等学校卒業。その後、京都産業大学経営学部に進学するも中退。大学時代は京都産業大学落語長屋という落語研究会に所属しており、童亭 無学(どうてい むがく)を名乗る。一時期はここでの芸名を本名であるスルガ・マナブと名乗ったこともある。
しばしば、鶴瓶を「つるべぇ」「つるべぃ」と誤読されるが、出典が「釣瓶」なので正しくは「つるべ」である。同じく笑福亭一門であり、兄弟子でもある笑福亭鶴光もしばしば「つるこう」と誤読されるが正しくは「つるこ」。鶴瓶本人は関西においては「鶴瓶はな、『つるべえ』やあらへん、『つるべ』や」と六代目松鶴のまねで説明することが多い。また、一般に関東では「つるべ」、関西では「つるべ」と、関東と関西では「つる」のアクセントが全く逆になるため、「つるべ」の関東読みに違和感を覚える関西人も少なくない。田原俊彦は「つるへい」と呼んでいた。
名前から兄弟子の笑福亭鶴光、眼鏡をかけた外見から桂文珍と間違えられることが多い。宝塚の女優から「笑福亭仁鶴瓶」宛てへの手紙が送られたこともある。
『笑っていいとも!』では標準語で話すようにタモリから言われたが全く話せず、ピーコから「30年外国に行って帰ってきた人みたい」と言われた。タモリから「ドラマに出るときに標準語(で話す人)の役(のオファー)こないの?」と聞かれた際に「大阪弁以外の役なんか一度もやったことない」と答えた。しかし浦沢直樹原作の『Happy!』では似非アメリカ訛り、『華麗なる一族』では標準語を使って演じていた。
好きなアーティストはaikoで、洋楽のファンでもある。若者文化に対する造詣も深い。
長男は俳優の駿河太郎。2008年7月26日、浜松近郊の病院で孫が生まれたことを『FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!』で発表した。
1961年頃、学校へ行く途中で近所のおじさんに競馬場に誘われて、駿河少年が適当に指名した馬券をおじさんが購入し、それが万馬券に化ける。驚き感嘆したおじさんは、約40万円の払戻金を丸々駿河少年に手渡し、貰った本人は何のことか意味が分からず大金を自宅に放置し、暫くして母親が発見し大目玉をくらい取り上げられてしまう。後になってこの出来事を思い出し、母親にお金の使途を執拗に問質した所、実家の建て増し資金になっていたことが発覚。この話をテレビ朝日の『徹子の部屋』で話したところ、さらに母親から叱られたという。
高校時代、全裸で職員室を駆け抜けるという偉業を成し遂げる。当時男子校のため、在籍の教師は男性のみと思われる。
1969年、頭のいい人間に対抗心を持っていたため、受験していない京都大学や、大阪大学の入試の合格発表に行き、落ちていそうな生徒の隣で「あった!」と合格したフリをして、胴上げされるという悪戯をする。この時、大阪大学でNHKの取材を受け、模様が夕方のニュース番組で流れたため、それを見ていた親戚から祝電が届くなど両親に恥をかかせてしまう。
京都産業大学学生時代に、教授が教室に入る際に出囃子を鳴らして笑いを取ったことがある。
清水國明、原田伸郎、後に結婚する玲子夫人とともに、あのねのねのメンバーでもあり、ヤマハのコンテストにも出場した(鶴瓶は踊るだけ)。この時玲子夫人が「ひょっこりひょうたん島」のテーマを歌っている。清水とは下宿で共同生活を送った時期もあった。あるトラブルから原田をトイレで殴って便器に顔を突っ込んだことがある。やがて、あのねのねがスターになり、鶴瓶の結婚式に二人が札束を持ってきたエピソードもよく語られる。鶴瓶の結婚式・披露宴の代金をあのねのねがすべて負担し、それでも余ったという。
在学中に6代目笑福亭松鶴の楽屋に通いつめ入門を乞う。何度も断られるが、ようやく1972年2月14日に許され、11番弟子として入門。現在は7番弟子である。
弟子入りのきっかけは、入門前のある日、安井金比羅宮で開かれた米朝一門の落語会での松鶴の行いをみたことだという。高座に上がった松鶴は「あっ!」と固まった後、見えた僧侶を示して「あの坊さんの頭見たらネタ忘れてもた。オチだけ言うて降りま」と言い、本当にオチだけを言って2分ほどで降りてしまった。それを見て「エライ人や」と思い、松鶴への弟子入りを決めたという。
父は芸人になることに反対していたが、「親父さんを連れてこい」との師匠の意向もあり、騙して松鶴の自宅に連れていった。気づいた父は大人の対応を取っていたが怒っており、その気配を感じ取った鶴瓶は松鶴に修行について「今日からお願いします」と切り出した。弟子は松鶴宅に住み込みであり、自宅に帰らず、怒られずに済むからである。しかし「弟子になったら、親子ではなくなってしまう、今日のところはゆっくり水入らずで過ごしてきなさい」と松鶴から強く言われてしまい、父子で帰宅せざるを得なくなった。松鶴宅の門を出たとたん、近くにあった木製のゴミ箱の蓋を振りかざした父親に追い掛け回され、最後にはそれで殴られてしまったという。
入門を許されて4日目のこと、寄席の来場者の下足番を任された際に、いつも当たり前のように青田(無料、顔パスの意)で入場し横柄な態度で振舞う新聞記者に腹を据えかねて口頭でとがめたところ、「お前、辞めさせたるわ、ちょっと来い」と松鶴の楽屋に連れて行かれた。松鶴から下足番を離れたことをたしなめられると、破門等の処分を覚悟してこの経緯を話した。すると松鶴は新聞記者を「アホ! カス! 去ね(帰れ)!」と罵倒し、「この子は将来、あんさんらが取材で世話になる子や! それに対して何をさらす(何をする)!」と言い放った。その男気に、鶴瓶はたまらなく感動したという『鶴瓶上岡パペポTV』及び高田文夫編『ありがとう笑名人 第一集』での本人談。。その後「鶴瓶」の名を与えられ、松鶴を「おやっさん」として慕い続ける。
兄弟弟子の中では、鶴瓶は付き人として、師匠・松鶴と最も行動を共にしており非常に可愛がられた。テレビ番組での共演も多い。
しかし、松鶴からは決して落語の稽古を付けられることはなかった。兄弟子である笑福亭松枝のエッセイによると、鶴瓶は何度も稽古を付けてくれるよう直訴したが、松鶴の方が逃げ回っていたとのことである。また、松鶴が鶴瓶の素質を見込み、笑福亭の代々の伝統である「捨て育て」により個性を伸ばすため、あるいは松鶴が鶴瓶は古典の言葉ではなく現代の言葉で笑いを創っていったほうが良いと判断したためなど他にも諸説ある。
松鶴によって、高島屋大阪店ホール(現在はグランドホール)で行われた落語コンクールにエントリーされてしまった折は、入門前より学校などで披露していた『いらちの愛宕詣り』を覚え、その江戸版である「堀之内」(10代目桂文治の伸治時代のもの)の断片を交えつつ、古典落語なのにオートバイに乗った人物を登場させるなど、入門前より行っていたアレンジを適当に加えて演じた。審査員だった松鶴と香川登枝緒からは「時代錯誤も甚だしい」「こいつの落語は落語やおまへん。現にワタイ(落語の)稽古つけてない!」と酷評されてしまった『ありがとう笑名人 第一集』より。この話には続きがあり、松鶴は会場を出る際に一転して「お前のが一番よかった」と鶴瓶を褒めている。。そのほかにも、高座にラジカセを持ち込み、笑いが欲しいシーンでスイッチを入れて笑い声を出し、客の笑いをあおるなど、当時としては斬新なアイデアを披露したりしたが、これも松鶴に楽屋で叱られてしまった。ただしその松鶴も、若手時代には高座でバレリーナに扮して先代から怒られている。3代目桂米朝によれば、3代目桂米之助作の新作落語「白鳥の死」の口演のためだという。松鶴の若手時代のこの話をベテランのお茶子から教えてもらい、鶴瓶は気が楽になったという。
入門当時には、小学六年生で12歳の兄弟子・笑福亭手遊(おもちゃ、入門は1971年10月で廃業が1974年)がおり、入門順が序列となる落語界のしきたりに従い、彼を「兄さん」と呼んでいた。その頃は子供がお笑いの世界でデビューする例が他にも見られ、そのような背景もあってか手遊もあまり気を遣うことなく鶴瓶に「兄弟子」として振る舞うことがあったという。
一時期、笠置シヅ子の隠し子であると振れ込んでいたことがある。当時すでに笠置は晩年で闘病生活に入っており、二人が会うことはなかったが、後にその病院の看護婦だった女性から、「笑福亭鶴瓶って子がおるやろ、あの子、私の隠し子なんよ」と笠置が言っていた、と教えられ、驚いたという。
また、ユリ・ゲラーをはじめとする超能力・エスパーブームの時期でもあり、「超能力がある」と言ってスプーン曲げをしていたこともある。洒落のつもりでスプーン曲げも力任せにやっていただけだが、上岡龍太郎の不興をかってしまった。鶴瓶は正直に事情を話し、上岡も笑って誤解を解いた。鶴瓶と上岡はこれが縁で互いの楽屋を訪れるようになり、その鶴瓶の楽屋話が面白い、ということで『激突夜話』『パペポTV』へとつながっていった。
一時「東の萩本欽一、西の笑福亭鶴瓶」と言われた程、プロデューサー感覚に溢れた自作自演ぶりを発揮したこともあり、お笑いタレントとしての評価は高い。
同門の兄弟子には笑福亭仁鶴や笑福亭鶴光、笑福亭福笑、6代目笑福亭松喬などがいる。また前述の笑福亭手遊の話を様々な場でネタにしている鶴瓶噺、朝まで生つるべ、2007年8月12日放送分のおしゃれイズム等。。
初のレギュラー番組は東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』で、以降、近畿・中京地区でラジオ・テレビを中心に活躍。関西芸能界の先輩からも所属事務所を問わず可愛がられ、松竹芸能所属であるにもかかわらず桂三枝がメイン司会の吉本興業系列の番組に出演するなど、吉本と松竹が強い対立関係にあった当時としては異例の存在であった。その後東京へも進出を図る。2001年にコカコーラとのタイアップで、日本テレビと吉本興業が組んで制作されたドラマ『明日があるさ』にも、鶴瓶が松竹芸能からただ一人ゲスト出演するなど、所属事務所の垣根という面においては別格の存在である。
入門前から1981年頃までの若手時代は、アフロヘアーにオーバーオール姿がトレードマークとなっていた。オーバーオールばかり履いていた理由は、電車内で自分の前に立つ女性の股間を見ながら自慰行為をするのに一番ばれにくい服装だったからである「ためいき坂くちぶえ坂―松鶴と弟子たちのドガチャガ」 笑福亭松枝 著 。1990年代中頃からヘアースタイルは短髪である。前頭部の生え際がやや後退しM字型、2000年位からは頭頂部の頭髪も薄くなってきた、いわゆるMO型である。
1975年、東京12チャンネルの番組生放送中に、股間を露出(詳細は下記を参照)。同局から無期限の出入り禁止とされたため、東京進出は失敗に終わる。その後、出入り禁止は解除された。
1982年から4年間続いた毎日放送の『突然ガバチョ!』の司会で再び脚光を浴び、毎日放送のキー局であるTBSでも遅れネットで放送が開始されるも、関東では人気不振の為、わずか4カ月で打ち切りとなった。『突然〜』が関西以外の地方でもネットされたのがきっかけとなり、1986年に東京へ再進出。だが、出演番組が早々と打ち切られることも多く、当時の週刊誌にも「再び東京進出失敗か」と叩かれた。ちなみにこの頃、鶴瓶が地元の電車に乗車している際に、このような記事の見出しが書かれた週刊誌の中吊り広告の真下に鶴瓶本人が立ってしまい、近くにいた乗客に「あんた、笑ってる場合やないよ。上見てみ」と指摘され、初めてそれに気づいたというエピソードがある。
しかしビートたけしは「この男を大阪に帰らせてはいけない」と鶴瓶を東京に留まらせたという。TBS系列の『世界No.1クイズ』が裏番組の『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に太刀打ちできず打ち切りになった時、 面識はなかったものの鶴瓶の才能を認めていたビートたけしが、『世界No.1クイズ』を制作していたイーストの重役に対して「このまま大阪に返したら、イーストは笑われるぞ」「鶴瓶を活かせないような制作なら、お前らの仕事なんかしねえ」と鶴瓶をバックアップするように言った。このことは後に鶴瓶自身がいろもんの中で語っており「それ以来たけし兄さん実際のところ、たけしと鶴瓶はともに昭和47年デビューの同期であり、さらに厳密に言えば鶴瓶の方が半年ほど先に師匠に入門している。しかし関東・関西の風習の違いや、年齢による立場からたけしが先輩・鶴瓶が後輩の立場で接している。には頭が上がらない」とのことである。なおテレビ朝日系で『歌謡びんびんハウス』については8年間放送されており、すべての番組が早々に打ち切られたわけではない。また、当時の『歌謡びんびんハウス』のスタッフによって『鶴瓶噺』や『朝まで生つるべ』、『朝まで歌つるべ』が企画・制作されている。また、フジテレビ系『森田一義アワー 笑っていいとも!』には1987年4月から今日に至るまで約23年間木曜日のレギュラーとして出演している。
後にテレビ番組『鶴瓶上岡パペポTV』が全国放送化されて以降は、トークの面白さが評価され、全国区の人気を得るようになった。
あのねのねの当初のメンバーであったことや、ラジオのパーソナリティを長くやっていたことから、フォークソングに対する造詣も深く、『鶴瓶噺』や『朝まで生つるべ』、『朝まで歌つるべ』(テレビ朝日)などで、フォークソングを絡めている。
1994年に放送された『ラスタとんねるず'94』のカジノゲームに出演した際に事件を起こしている。負けたときの視聴者プレゼント用として持っていた巨大三笠焼きをいきなり一口かじり、そのかじりかけの三笠焼きをプレゼントとした。その後、コインをベットした際に、モニターに座っていた木梨憲武に気づくと「そこ座んなや!」と木梨の尻を叩き、最後のベットでまたもモニターに座っている木梨を発見すると再び木梨の尻を叩き、今度はベットした自分のコインを絶叫しながら撒き散らした。居合わせた石橋貴明も絶叫しながら、鶴瓶の持ち分以外の約500枚のコイン全部を撒き散らし、収録が一時中断されている。
家族は、妻、長女、長男がいる。長男はロックバンド「sleepy dog」のボーカル、スルガタロウ。本名:太郎。妻と長女は芸能人ではないため、非公表。その他にはペットに犬を飼っている。
1974年10月12日に結婚。結婚式は大阪府交野市の「郡津神社」で執り行われた。その結婚式の仲人は師匠の笑福亭松鶴 (6代目)が務めたが、スピーチの際に「ウチの弟子は13人いてまっけど、こいつが一番アホだ。終い!」とだけ言い残し、そのまま結婚式場を後にした。
鯖アレルギー(正確には鯖の寄生虫であるアニサキスアレルギー)。
タモリ、明石家さんま、島田紳助など鶴瓶よりも後輩の落語家またはタレントは、「鶴瓶師匠」、「鶴瓶兄さん」と呼ぶ。ココリコなどは「べー師匠」もしくは「べーさん」、角淳一、やしきたかじんなどの悪友は鶴瓶と呼ぶ。さだまさしは、親交が深いゆえにわざと「つるべえ」と呼ぶこともある。所ジョージは以前、「しょうふくていつるびんさん」と、親しみを込め、冗談混じりで呼んでいたことがある。また、たけしを鶴瓶は「兄さん」と呼んでいる。
さんまの携帯電話の電話帳には鶴瓶は「悪べぇ」と登録されている。たまに、レギュラー番組などで批判と称し使っている。ナインティナインの岡村隆史曰く、「悪べぇ」の由来は『めちゃ²イケてるッ!』と鶴瓶が出演していた番組の収録スタジオが隣同士であり、そこへ鶴瓶が訪れ、『めちゃイケ』出演者用のカレーライスを食べたうえに金で解決しようとしたことで、当時の岡村が「この人はものすごく悪い人や」と思ったことからであり、『ナインティナインのオールナイトニッポン』の人気コーナー「悪い人の夢」はこの出来事がきっかけで作られたコーナーである。
『笑っていいとも!』には、1987年から木曜日に曜日移動なしで継続して出演し、木曜『いいとも』の顔的存在となっている。「辞めたい」と言ったこともあるが、タモリに慰留され現在に至っている。なお、辞めたいとした理由は、明石家さんまの降板と「おもろい若手が沢山出てきて、自分のような古株はいらんと思うようになったから」であり、タモリに原因があるわけではない。むしろ、タモリの笑いに対する意識の高さを人一倍知っており、彼を「テレビの師匠」と仰ぎ、尊敬している。「『いいとも』を辞めたい」と言ったとき、タモリに「こういう場に出続けてるってことは、あんたにとって大事なんだよ」と言われ、当初は意味が分からず、年末恒例の『特大号』にだけは出演しない交換条件付きでしぶしぶ残留した。近年になって、定期的にタモリのような芸人と会うことや、若手などと生放送の場で絡むことの意義を感じ、「その意味がようやく分かった」と自身のラジオ番組内で語っている。これに関してタモリに対し、「あんた、何で(あの時に)そんなこと(=鶴瓶にとってそれが大事だということ)分かったの?」と感謝の意ともとれる疑問を投げかけている。また、その答えは、長年の生バラエティの司会で培われた、タモリにしかできない予見であったとしている。
「派出所」を「はつしゅしょ」または「はしゅしゅしょ」、「違和感」を「ゆわかん」などと発生し、滑舌がよくない。カタカナ語に弱く、喋ると噛んでしまうことも多い。ブルース・ウィリスを「ブゥルース・ウィルス」、チャンピオンを「チャンピョン」と書いたこともある。また、ロシアを「ロシヤ」というが、ロシア語での発音は「ロシヤ」に近く、間違いというわけでもない。
50歳を過ぎてから、『笑っていいとも!』のクイズなどで、城咲仁など顔をよく知る芸能人ですら名前が出てこなくなっている。
2007年の『第58回NHK紅白歌合戦』の白組司会を務めた。紅白への出演は初。
2002年9月、江戸落語の春風亭小朝との二人会で『子別れ(子は鎹)』(落語を本格的に始めるにあたって4代目桂文紅にじきじき『子別れ』を稽古を付けてもらった)を演じたことを機に、落語への回帰を強めている。2003年には小朝、林家こぶ平(現:9代目林家正蔵)らと落語の「六人の会」を結成。また同年5月に「上方落語協会」理事に就任している。その後、同協会の広報委員長を経て、2008年6月に副会長に就任した。
良くも悪くも上方落語の噺家のクセが抜け切れていないが、しゃべりの面白さや、独特の飄々とした存在感で、広く親しまれている。自身の身の回りで起こった日常の話題を面白おかしく話すスタイルは「鶴瓶噺」(つるべばなし)と呼ばれ、独自のジャンルを構築し、2000年には上方お笑い大賞を受賞した。2007年まで年1回5日間、青山円形劇場にて「鶴瓶噺」を開催している(2008年からは会場が世田谷パブリックシアターに変更)。
現時点での「落語家・鶴瓶」に対する評価は概ね好意的であるが、創作の「長屋の傘」「青木先生」(南原清隆は「私落語(わたくしらくご)」と命名)については「鶴瓶噺を落語化した程度」といった批判的な意見もある。
多忙なタレント活動の合間を縫って「鶴瓶噺」、「笑福亭鶴瓶落語会」などの独演会を展開する他、六人の会が主催する「東西落語研鑚会」にも参加。大阪・帝塚山の6代目松鶴旧宅で行われる演芸イベント「帝塚山・無学の会」を主宰するなど、精力的に落語に取り組んでいる。古典落語にも「東西落語研鑚会」で「鴻池の犬」「らくだ」などに挑戦している。特に2004年の東西落語研鑚会で口演し、好評を得た「らくだ」は松鶴の十八番(おはこ)であり、松鶴門下では直々に稽古を付けられていた6代目笑福亭松喬しか、舞台での披露を許されていなかった題目である。
鶴瓶の最近の落語への取り組みは、弟子(ほとんどが落語をしない頃の鶴瓶に弟子入りを志願していたことで、落語家に弟子入りした感覚がない)に対する影響が少なくない。例えば筆頭弟子の笑福亭笑瓶は新作や古典の改作に取り組み、笑福亭純瓶は怪談噺に力を入れ、笑福亭銀瓶は韓国語落語を打ち立てた。2007年3月には、銀瓶以降の6人の弟子が「シックスセンス☆六瓶の会」と題した落語会を大阪で開いている。
テレビドラマ『タイガー&ドラゴン』では元上方落語の天才だったヤクザの組長という役を演じ、少しだけ落語を演じている。この時の落語は、脚本が作られていたが、一切捨て、全てアドリブで演じていた。鶴瓶はこのドラマを最初単発ドラマだからと言われ引き受けたものの、連続ドラマになりこのような役柄になってしまったことに驚いていたことを告白した。
2004年より年に1回、桂南光と桂文珍との落語会「夢の三競演 三枚看板 大看板 金看板」を開催。落語会としては異例の6,000円を超える料金も話題となる。チケットは、過去3回共完売。その他この3人は、2005年から「文珍南光鶴瓶+1 しごきの会」と題して、年に数回、baseよしもと(現在は天満天神繁昌亭)で若手落語家育成の為の会を開いている。過去にこの「しごきの会」において、一番多く弟子を持ちながらも、鶴瓶の弟子が1人も会に参加しなかったことがあり、このことに鶴瓶は憤慨。「お前ら、誰に食わせて貰ってんねん!俺は(師匠の)松鶴に食わせて貰ってる。俺は、恥ずかしいわ!」と自らの弟子に向かって怒鳴ったという。
「帝塚山・無学」は、師匠六代目松鶴の旧自邸を鶴瓶が改築した純和風ホール。月1回「無学の会」を開催し、一般にも公開している。毎回ゲストを招いているが、前もってゲストの名前を発表されることは無く、毎回シークレットになっている。今までのゲストにタモリ、明石家さんま、木梨憲武、イッセー尾形、 桂米朝、桂春団治ら豪華な顔ぶれを迎えている。
帝塚山・無学と下北沢Live bar 440にて定期的に稽古会を行なっている(料金は後払い制で客の志納)。
何かと裸にまつわるエピソードの多い人物である。以下代表的な事例を挙げる。
これらの逸話から露出狂と思われることが多いが、それについては著書で「僕は世にいう露出狂などでは、断じてない。…(中略)…僕の場合は、決して快感のためにやっているわけではないからだ」と述べて否定する一方、「ただ、快感を得るためにではないにしろ、例の部分を露出することに、さして抵抗を感じていないことだけは、事実かもしれない」とも語っている。なお、2007年8月の『週刊文春』の対談記事で家庭では全裸で過ごしていることを明かした「阿川佐和子のこの人に会いたい 第693回」『週刊文春』2007年8月30日号、文藝春秋、p132。
出演番組には即興のものが多く、即興落語・即興ドラマ・即興コント・即興漫才など多岐にわたる。本人曰く、企画書を書かないので即興企画が多いのであるということである。
また、関西テレビでの毎年1月2日の特別番組にも出演している。
出演したドラマもほぼ関西弁で演じている。