読み込み中...北上盆地の南部に位置し、北に花巻市、南に平泉町がある。市の北部を西から東に流れる、胆沢川によって形成された胆沢扇状地の東端に位置し、南北に北上川が流れる。東部は北上山地の山並みが連なり、西部は扇状地の肥沃な大地が広がり胆沢町と接する。
今から1200年前、水沢を含む胆沢は日高見国として平和で豊かな土地であった。このころは、たび重なる朝廷側の攻略を受け、この地のリーダーであったアテルイ率いる蝦夷群は、徹底抗戦し朝廷軍を撃退した。しかし、延暦21年、坂上田村麻呂の戦略と戦いにより疲弊のため、ついにアテルイは都に送られて斬首された。この戦いの締めくくりとして、坂上田村麻呂はこの地に胆沢城を造営し、150年にわたる陸奥北半の経営拠点とした。これによって水沢地方をはじめとするこの地方は律令体制下に組み込まれることになり、胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手の六郡が新たに設置され、奥六郡と称された。その後、安倍氏がこの六郡を支配する。
中世には平泉の奥州藤原氏滅亡後、葛西氏が奥州総奉行となり水沢には重臣であったとされる佐々木氏や柏山氏が治める事になる。柏山氏は半独立した存在だったが、豊臣秀吉の小田原の陣に呼応せず葛西氏同様に奥州仕置により改易され、子息が南部氏に仕える事になる。
江戸時代には水沢を含む胆沢郡は仙台藩伊達家の一門、水沢藩留守家の所領となり、宿場町として栄えた。奥州街道が南北を貫き、手倉街道、盛街道が交差する交通の要所として重要視され、前九年合戦では水沢城付近に源頼義が陣を張ったとの伝承も残り軍事的にも拠点となった。一国一城令により水沢城は4つの郭を2重の掘りで囲む城郭でしたが水沢要害と名称をかえ、留守氏の本城として明治維新まで続く。城を中心に家臣を配し、奥州街道沿いには商家町として商人を集め経済的にも確立し、その外側(東側)に寺院を集め小さいながらも寺町を形成し、いざという時の防衛の役割をもたせている。乙女川を筆頭に城下町内には小さな川が何本か流れ込み、町割りや掘りに見立てるなど様々な工夫が見られ、現在の水沢市の原型が形付けられた。
明治時代には、廃藩置県により、胆沢県設置。その後、県合併により一関県、水沢県となる。県南の中核都市の1つで、商工業が盛んな地域として発展。市東部の羽田地区では、江戸時代から続く伝統産業の鋳物や南部鉄器が有名。また、日本の天文学で重要な役割を担った緯度観測所(現・国立天文台水沢VERA観測所)がある。現在でも旧武家町には多くの武家屋敷が残り周辺の歩道の整備などに力を入れている。又、水沢市からは多くの偉人が輩出されており、特に高野長英、斎藤實、後藤新平は水沢三偉人としてそれぞれ資料館や生家など史跡も多く残されている。
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