読み込み中...千葉ロッテマリーンズ(ちば - 、Chiba Lotte Marines)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。
千葉県を保護地域とし、同県千葉市美浜区にある千葉マリンスタジアムを専用球場(本拠地)としている。なお、二軍(イースタン・リーグ)の本拠地は埼玉県さいたま市南区にあるロッテ浦和球場である。
※1974年は阪急とのプレーオフを制して優勝。また、2005年はレギュラーシーズン2位ながらプレーオフで西武、ソフトバンクと連破して優勝となっているため、楽天を除く11球団で最もリーグの年間勝率1位から遠ざかっている(歴代1位)。
2003年より元福岡ダイエーホークス球団代表・瀬戸山隆三が球団代表に就任すると、積極的なファンサービスに尽力するようになる。特に千葉マリンスタジアムの球場内は千葉市、駐車場などの球場外の敷地は千葉県の管理となっている為(スタジアムのある区域は県立幕張海浜公園の一部である)、当時は売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らない状態だった。これを県と市の協力を得て改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置したり、動物とふれあう場所を作ったり、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始したり、スタンド内にベビーベッドを設けるなどしており、セ・パ交流戦の際にこれを見た阪神タイガース前オーナーの久万俊二郎は「これこそファンサービス」と感動したという。また、京葉線の最寄り駅の海浜幕張駅の発車メロディも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。現在のマリーンズの営業力向上に貢献したのは瀬戸山を中心としたフロントの努力も大きく、「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」という声も多い。
ファンサービスに積極的になったのは、2004年に勃発したプロ野球再編問題による副産物ともいえる。オリックスと近鉄の合併に伴い、球団数が奇数になることからもう1球団を削減する構想が浮上し、千葉ロッテと福岡ダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰されたのが1つのきっかけだった。かつて川崎球場で施設難に苛まされていたロッテを誘致した千葉市だが、移転後はロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などもあいまって、球団側と行政側との間には溝が生じていた。故に施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。しかし、先の再編問題でロッテが千葉を去る可能性が生じたのをきっかけに行政側に危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、更に2006年度からは球団を千葉マリンの指定管理者に指名して運営を委託するなど、現在は球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。なお、プロ野球チームが指定管理者になるのは千葉ロッテマリーンズが初となった(他にオリックス・バファローズが2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたスカイマークスタジアムと、2005年以後の東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地のクリネックス(旧フルキャスト)スタジアム宮城も、都市公園法に定める「管理許可制度」の適用で各々の球団が球場を運営・管理している)。
千葉ロッテは2005年から「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席とし、チケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を行っている。
当初は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦開催が中止となったための代替企画だった。韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。
こうして開催されたのが、「来場者に色々な席で、様々な角度からゲームを見てもらう」というコンセプトで、スタンドを全席自由席(大人1500円、子供500円の均一料金)にし、更に「360度ビアスタジアム」と銘打ったビールを通常の半額(1杯300円、ソフトドリンクも200円に割り引き)で販売するというサービスだった。結果、28日は25,012人、29日も23,838人と、2日とも通常の平日のナイターを大幅に上回る観客を集め、概ね好評だった。また、「ビアスタジアム」は全席自由とすることで観客の動向を調査し、スタンドのどの席にニーズがあるのかをリサーチする目的もあった。
「ビアスタジアム」は翌2006年シーズンも6月27日の対日本ハム戦、8月30日の対ソフトバンク戦の2度実施され(但しドリンク類はブースのみでの販売とし、売り子の巡回販売は行わず)、6月の試合では観衆の実数発表を開始してから当時最多の29,152人を記録した。千葉マリンには同年、一・三塁側のファウルエリアにフィールドウィング・シートが増設された。「全席自由席」実施日は他席と入場料こそ同額だが、観客の安全性を確保する上で規定の定員を遵守しなければならないため「指定席」となっている。このためウィングシートの希望者はあらかじめ前売入場券を購入した上で抽選に申し込む必要があり、当選者に限り座席指定券が発行される。
更に2007年はイベントのアイディアを一般ファンから募集し、全席自由席企画を「応援スタジアム」と「ビアスタジアム」の2本立てとして実施することとなった。まず「応援スタジアム」は7月3日の対オリックス・バファローズ戦で実施。通常の外野スタンド右翼側だけでなく内野スタンド一塁側も応援席とし、イニング間には応援ボードコンテストなどを実施。また、ゲストとして渡辺真知子を招聘するなど(一部後述)、様々な企画が行われた。恒例となった「ビアスタジアム」は7月31日の対楽天戦で行われ、30,016人の観客を集めた。
「全席自由席」の試合でロッテは2007年まで6戦全敗だったが、2008年7月8日の対日本ハム戦で「ビアスタジアム」として初勝利を挙げ、翌日の同カードで連勝し、「ビアスタジアム」通算成績は2勝6敗となった。
西本幸雄が阪急監督時代の1966年に信任投票を行ったのはあまりにも有名だが、実は大毎監督だった1960年にも似たような事件が起きた。
1969年10月10日、大阪・日生球場での近鉄戦のダブルヘッダー第2試合は試合時間が5時間15分(4-4のまま決着付かず延長13回、当時の規則に基づき時間切れ引き分け)となり、当時の最長試合時間となった。5時間超えは当時の日本プロ野球初の出来事でもあった。
さらに参考記録ではあるが1981年のプレーオフ、川崎球場での日本ハムとの第1戦では9回の最長試合時間記録である5時間17分の大熱戦を展開したが、やはり4-4の引き分けに終わった。
1973年から1977年の間、当時のロッテオリオンズは仙台や首都圏を転々としながら主催公式戦を開催していた。特定の本拠地を持たずに(1974年以降、野球協約上は仙台を本拠地としていた)流浪する当時のロッテは「ジプシー球団」などと揶揄されていた。
現在の千葉ロッテマリーンズの前身である毎日オリオンズは1949年に創設され、1957年に大映ユニオンズと合併し、その後経営権の移転や改称などを経て現在に至るが、同年以降、プロ野球再編に絡むなどして球団合併構想に巻き込まれたことが数度ある。
1973年、ロッテオリオンズはジプシー時代(前述)最初のシーズンを終えた。一方、ロッテと同じく東京都を保護地域としていた東映フライヤーズはオーナー企業の経営難等により、同年2月7日に球団の経営権が東映から日拓ホームに譲渡され「日拓ホームフライヤーズ」に改称したが、同年もパ・リーグは観客動員の面では苦戦を強いられた(ただ同年、ロッテはパ史上最多の観客動員を記録している)上、プレーオフを制して日本シリーズに進出した南海ホークスも読売ジャイアンツ(巨人)の前に1勝4敗で散り、巨人のV9を許した。この当時の状況に、日拓のオーナー・西村昭孝はシーズン終了後「パ・リーグに将来性はない」と判断、日拓とロッテを合併し、更に1リーグ制への移行を画策し始めた。
前述の通り、当時ロッテはジプシー生活を強いられていたため首都圏で常時主催試合を開催できる環境を求めていた。またロッテのオーナー・重光武雄も球団経営にあまり執心がないと憶測されたことから、合併調印は時間の問題といわれていた。更には関西でも球団合併構想が取り沙汰され、「10球団1リーグ化へ」などと先走った報道もなされた。
しかし重光はこの合併を否定。結局、合併そのものも程なく破談となり、球界に嫌気がさした西村は球団経営権を日本ハムに売却、事態は収束した(この一連の詳細はプロ野球再編問題 (1973年)を参照)。
また2004年には、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるため更なる球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した(詳細はプロ野球再編問題 (2004年)を参照)。
この過程でロッテは、当時親会社ダイエーの経営難から球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れた事が判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は福岡ドーム、2軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテホークス」とするなど、具体案についても報じられたが、結局実現には至らなかった。また、ロッテと西武ライオンズを合併する構想もあったが、これも西武が単独での球団保有を表明したため実現しなかった。
結局同年オフ、ダイエーは産業再生機構の支援を受けて経営再建を図る事となり、ホークスはソフトバンクに売却されて福岡ソフトバンクホークスとなった。
ロッテ本社は1971年から球団を保有しており(球団名のスポンサーとしては1969年から)、2009年現在パ・リーグの現存6球団の中では最も古くから経営権を所有している。
千葉ロッテマリーンズと埼玉西武ライオンズは、前身の毎日・西鉄時代から1952年の平和台事件を発端に何かと遺恨を残している。
5年間のジプシー時代を経て、1978年から川崎球場に落ち着いたロッテだったが、同年シーズンは移転早々、苦難に次ぐ苦難を強いられた。6月18日には川崎で阪急に前期優勝を決められ、更に前期終盤は2分けを挟んで日程終了まで負けっぱなしの15連敗(当時リーグ3度目のワーストタイ)。7月18日には西宮で阪急に4-23と大敗を喫し(阪急は当時リーグ新の最多22打点、リーグ2度目の最多得点タイ)、8月31日には宮城で今井雄太郎に完全試合達成を許し、挙げ句に9月27日には川崎でまた阪急に目の前で後期優勝を決められるなど、同年リーグ優勝の阪急を引き立てるばかり(シーズン対戦成績6勝17敗3分)。ロッテはこれが大きく響いて前期5位、後期3位でシーズン通算の年間順位も4位に終わり、金田は監督を辞任した。「ジプシー時代は本拠地が無いため緊張感があったのに、本拠地を持った途端に安心して油断したのではないか」と酷評する評論家もいたほどだった。さらに前年までリーグ2位だったロッテの観客動員数は激減し、同年は496,500人とリーグ5位に陥落。前年までの“家主”で横浜スタジアムに移転した大洋が1,437,000人と、前年の825,000人から大幅に観客動員を増やしたのとはまるで対照的だった。これが後に「閑古鳥」と揶揄される川崎時代のケチの付き始めとなる。
ロッテはその後1991年までの14年間に亘って川崎を本拠地として使用したが、観客動員の面では終始苦戦を強いられた。優勝争いに絡んだ1981年の854,300人をピークに、1986年までの観客動員数は平均60万人台と営業面で低迷し続けていた。また首都圏もしくは関東の他地区への本拠地移転も何度か検討されたものの、いずれも頓挫。千葉県千葉市の千葉県野球場や栃木県宇都宮市の宇都宮清原球場など、候補地は浮かんでは消えていった。またロッテは前身の毎日、大毎、東京時代を含め、当時の12球団で唯一最下位を経験した事がないチームだった(前後期制の1975年前期、1982年前期は最下位となっているが、シーズンを通算した年間最下位の経験はなし)。ところが、パ・リーグが再び1シーズン制となった1983年は43勝76敗11分と大きく負け越し、5位の南海にも8ゲームの大差を付けられて遂に球団史上初の年間最下位に沈むと、1986年以降は優勝争いどころかAクラスにも浮上できず、下位の常連に成り下がった。
ロッテが大映から球団を譲渡されたのは1971年だが、その3年後の1974年には日本一になっている。戦力補強や施設改善などチームの強化を行わないまま、球団保有開始から比較的短期間で優勝を果たしたのに加え、暫定移転した仙台で当時としては群を抜く観客動員を記録したのが、その後のチーム整備やファンサービスがおざなりになった遠因ではないかといわれている。丁度この頃、1974年の日本一メンバーが引退やトレードで少しずつロッテを去り始めていた。こうして球団の運営上の諸問題は、老朽化した川崎球場を舞台にいよいよ浮き彫りとなりつつあった。
その川崎球場は1952年の開場以来、大規模な改修はほとんど行われておらず、移転時には既に開場から26年を経過して老朽化が著しく進んでいた。市がロッテ移転に合わせて行ったのは室内練習場の新設くらいで、それ以外の箇所、即ちスタンドやフィールドについては外野フェンスの嵩上げなどごく小規模な改修が行われた程度に過ぎず、前年まで大洋が使っていた時とほとんど変わらない状態で供用されていた。またフィールドのみならず施設そのものも狭隘だったことから、それにまつわる様々なエピソードが残っている。
当時の主力有藤道世は「ロッカールームが湿気でジメジメしていて、バットやグラブ、スパイクを置いたまま1週間遠征に出るとカビが生えた。バットは一晩置いておくだけで20g重くなった」と証言している。またスタンドが低かったため、ファウルボールが一塁側場外に出ると「ドーン」或いは「ガシャーン」という音と共に、選手用駐車場に停めてあるロッテ選手の愛車を直撃することもしばしばあった。
作家の鉄矢多美子は、大学卒業後の1977年から10年間、ロッテ球団で場内アナウンスなどの仕事をしていたが、川崎移転時には老朽化した設備に四苦八苦したという。放送室に置かれたボールカウント表示用のスイッチには「昭和二十七年製」と書かれてあり、球場関係者から「壊れたら替える部品が無いので、丁寧に扱ってください」と注意されていた。またアナウンス中に足許にネズミが這い出してきたり、フィールド上でネズミとネコが追いかけっこをしたり、外野のスピーカーアンプの中にヒバリが巣を作っていたり、またある日の試合中にはウェイティングサークルにいた愛甲猛が放送室前のバックネットに臀部を押し付けるや、突然空調のない部屋目掛けて放屁したりと、当時のエピソードは枚挙に暇がないという。
また、川崎は映画やテレビドラマの撮影でもしばしば使われた。刑務所のトイレのシーンの撮影が、スタンド下のトイレで行われた事がある。また、ある刑事ドラマの撮影にも川崎が使われた。犯人が追っ手を逃れ、古ぼけた野球場のスコアボード棟に逃げ込むシーンの撮影だったが、ドラマの監督は撮影場所を選んだ理由について「都内近辺で、こんなオンボロのスコアボードがあるのは川崎しかない」と話していたという。
不入りは相当なもので、当時ロッテの選手がベンチでスタンドの観客数を数えたところ、僅か89人しかいなかったという事もあった程だった。主催者もついに外野席を無料開放し、宣伝カーを出して球場周辺の町内に「ただいま無料です」と放送して、来場を呼びかけていた。
来場者はスタンドがあまりにも不入りだったのに乗じて、ガラガラのスタンドでキャッチボールをしたり、複数の男性が上半身裸になって踊ったり、柔道の乱取りをしたり、試合中にもかかわらず、三塁側に隣接する川崎競輪場で行われている競輪をスタンド上段にある広告板の隙間から覗き見したり、スタンドの段差を使って流しそうめんを始めたり、卓を囲んで麻雀をしたり、本塁打が出れば持参した打ち上げ花火を点けたり、カップルが試合そっちのけでキスを交わしたり、ロッテに本塁打が3本出た試合では選手が投げ込むマスコット人形を1組の親子が3個ともキャッチ(佐々木修の項目も参照)したりと、プロ野球の試合が開催されているとは思えない光景が連日繰り広げられ、「珍プレー好プレー」などテレビ番組でしばしば取り上げられた。中にはわざわざテレビに映るのを目的に川崎へ足を運び、こうしたパフォーマンスを行う者もいたほどだった。この川崎の不入りぶりは何度も話のネタにされ、ビートたけしも「川崎球場では人が死んでも誰にも気付かれないので、ミイラ化した死体がゴロゴロ転がっている」などと毒づいていた。また、ロッテファンだったヨネスケ(落語家・桂米助)も、自作の新作落語で川崎球場の不入りぶりをネタにするなどしていた。その頃は成績もどん底だった為、マスメディアでロッテのフロントの無気力ぶりを批判されたり(例:朝日新聞1983年10月12日付記事)、週刊ベースボールの読者投稿欄「ボールパーク共和国」でもロッテの弱さや不人気ぶりを揶揄するネタやロッテのフロントに対する批判投稿が頻繁に掲載されたりもした。
川崎の設備や動員数の悪さは、日本でプレーした外国人選手にもいくつかのカルチャーショックを与えたといわれている。阪急ブレーブスのブーマー・ウェルズが来日初年、川崎球場で試合前の練習をした後「ところで本番の試合はどこでするんだろう」と思っていたところ、その後スタンドに観客が入ってきたので驚いたといわれている。当のブーマーは川崎球場をアメリカで言うところのマイナーリーグ、つまり2軍の野球場だと思い込み、試合は別の野球場に移動して行うものだと考えていたらしい。また、その日の川崎球場は客が不入りで、それこそマイナーリーグ並みの僅かな観客数だったため、その光景には「これが日本のプロ野球なのか」と特に驚いたようである。他にも1988年、ロッテはメジャー時代に4度首位打者に輝いたビル・マドロックの獲得に成功した際、一塁側ダッグアウト裏を改修してわざわざマドロック専用のロッカールームを用意した(1984年に近鉄に入団したものの、球団の待遇や施設の不備を巡ってシーズン序盤に退団したドン・マネーらの一件が背景にあったといわれる)。またマドロックは初めて川崎球場を訪れた際、狭隘なフィールドを見るや「この球場なら、本塁打50本は打てると思う」と豪語した(因みにマドロックは既に現役晩年だったこともあって同年の成績は平凡で、本塁打も19本にとどまった)。
このような状態からも察すことができるように、当時は球団・球場ともファンサービスには余り執心がなかった。右翼スタンドには川崎市が広告主となって「がんばれ! 市民球団ロッテオリオンズ」とチームを激励する広告を掲出したり、川崎駅構内にも「皆様の市民球団ロッテオリオンズを応援しましょう」と呼びかける看板を設けるなどしたものの、市は球場の改修については財政難や観客の不入りなどから終始消極的。当時全国の主要都市でドーム球場の建設が次々計画される中、川崎市でも一時ドームの建設構想が浮上したことがあったものの、結局頓挫した。ロッテは1987年から女性向けのPR用フリーペーパー「URE・P(ウレピー)」の配布を行ったり、芸能プロダクションの浅井企画の協力を得て場内でミニFM局による放送サービスを行うなどしてイメージアップを図ったものの、球場の設備そのものは改善されないまま。同年の観客動員数は6年ぶりに70万人を越えて778,000人を記録したものの、観客動員100万人達成など、まさしく夢のまた夢の話だった。
そして1988年10月19日のいわゆる「10.19」では、普段川崎を訪れない観客が多く来場したこともあって数々の問題点が露呈された。場内のトイレは男女兼用で、女性は用便をする際には男性用の小便器の横を通って個室に行かねばならなかった。普段は観客が少ないこともあってスタンドには売り子が配置されておらず、ビールや軽食・菓子は観客自らわざわざネット裏1階の売店まで出向いて購入しなければならなかった。内野場外にはラーメン店、お好み焼き店、そば・うどん店等があったが、10.19の際にはどの店も試合途中で僅かな食材のストックを使い果たし、麺が底を突いたラーメン店では空腹の観客が「せめてスープだけでも分けて欲しい」と嘆願する一幕もあったほどだった。この10.19が、翌1989年から着手された川崎球場の改装工事の契機となったといわれている。その1989年、南海がダイエーに売却されて福岡に移転し「福岡ダイエーホークス」となると、球団史上初の観客動員100万人を達成した(1,251,000人)。これによって当時のプロ野球12球団で100万人を超えた経験がないのは、遂にロッテ1球団だけとなった。それ以前からも、落合博満の応援歌(後には高沢秀昭、初芝清に流用)では「ロッテの夢は観客動員100万人」と、この状態を皮肉った歌詞が当てられている。これらのロッテ球団の問題点は当然当時の野球少年達にも知られ、「最も入りたくない球団」の代名詞となり、例えば古木克明(オリックス)が小学校の文集で「将来はプロ野球選手になりたい。しかし大洋とロッテには入りたくない」と書いたり、1990年ドラフトの超目玉小池秀郎の交渉権を8球団の抽選により運良く獲得したものの入団を拒否されたりと散々な扱いだった。
1991年、川崎市が総額14億円を投入して行った改修事業が完工。フィールドの人工芝化、スコアボードの電光化、一部座席の取替えなどが実施された。同年シーズン、ロッテは本格的な誘客キャンペーンの実施に乗り出した。キャッチフレーズを「テレビじゃ見れない川崎劇場」と銘打ち、自虐的なテレビコマーシャルが首都圏で放映された。だが老朽化した施設が抜本的に改善されたわけではなく、数々の問題が完全に払拭されたわけではなかった。またこの間、千葉県千葉市が千葉マリンスタジアムを1990年に竣工させ、ロッテ側に対して本拠地誘致を積極的に進めていた。ロッテはこれを受けて6月の段階で千葉への移転を方針付け、そして7月31日(この日パ初の千葉マリンでの公式戦、ロッテ対西武戦が行われた)、重光球団社長代行は同日のオーナー会議の席上、翌1992年から本拠地を千葉マリンスタジアムに移転する意向を公式に表明した。重光は「千葉には現在フランチャイズがなく、野球ファンの底辺拡大にも繋がる」と理解を求め、出席者の了解を得た。また球団名についてはこの時点では「ニックネームのオリオンズは変えないが、地元意識を高めるため『千葉』を入れたい」とし、「千葉ロッテオリオンズ」を移転後の仮称とした。但しこれまでの川崎市との関係も考慮して「今後も年間5〜10試合程度開催したい」とし、川崎でも継続して公式戦を行う考えであった。しかし川崎市側は川崎球場を改修したばかりであったことから、この移転発表には猛反発。市はロッテに対し千葉移転に関する収入補償を求める方針を決定したが、ロッテはこれまで市側に対し、何度となく川崎球場の改修もしくは新球場の整備を求めてきたのを拒否し続けられた過去の経緯からこれを拒否。予定していた川崎での試合開催数も削減することになった。結局9月4日、実行委員会でロッテの保護地域の千葉県への移転が承認された。10月17日、川崎の本拠地としての最終戦・対福岡ダイエー25・26回戦ダブルヘッダーが行われ、第1試合は7-3、第2試合は7回雨天コールドで5-4とロッテが連勝し、“川崎劇場”に幕を下ろした。ロッテの同年の観客動員数は1,021,000人。球団史上初、12球団ではしんがりとなる“夢の”100万人突破を川崎最終年にしてようやく達成した。
球団名は一般公募により改称することになり、11月21日、新たな球団名は「千葉ロッテマリーンズ」と決まった(応募1位の愛称は「パイレーツ」だった)。
千葉移転初年の1992年、千葉ロッテは7月3日・7月4日に川崎で対近鉄バファローズ2連戦を開催。3日は18,000人、4日は23,000人を集め、これが千葉ロッテが川崎で主催する最後の公式戦、そしてプロ野球一軍最後の公式戦となった(翌1993年には横浜対阪神戦が予定されていたが雨天中止となった)。
ロッテはこの川崎で低迷期を味わってきた。設備は古く観客も少なかったが、それでも当時を知る者は振り返るたびに「いい思い出だった」と語っている。有藤は「ジプシー時代から解放され、川崎が本拠地に決まった時は嬉しかった。球場は汚かったけど“住めば都”で、グラウンドとスタンドが一体になった雰囲気は良かった」、鉄矢も「時代遅れの空間だったけど、人々の体温を感じる球場だった」、現在では川崎時代を知る数少ない現役の堀幸一も「当時は他の球場が羨ましかった(堀が入団した1988年に日本ハムの本拠地だった東京ドームが開業した)が、いい事も悪い事もいい思い出。プロに入って初めての球場で、川崎最後の年に初めてレギュラーを獲ったし、思い入れがある」と語っている。
川崎本拠地時代のロッテの観客動員数(1978年〜1982年はプレーオフを除く)| チーム順位 | 年間観客動員数 (リーグ内順位) | 主な出来事 | |
|---|---|---|---|
| 1978年 | 前期5位・後期3位 年間4位 | 496,500人(5) | 阪急が前期・後期とも川崎で優勝決定 金田監督が引責辞任 |
| 1979年 | 前期4位・後期3位 年間4位 | 467,200人(5) | |
| 1980年 | 前期優勝・後期3位 年間2位 | 773,500人(4) | 張本勲通算3000本安打達成 プレーオフ進出も近鉄に敗れる |
| 1981年 | 前期4位・後期優勝 年間3位 | 854,300人(3) | プレーオフ進出も日本ハムに敗れる |
| 1982年 | 前期6位・後期4位 年間5位 | 652,200人(3) | |
| 1983年 | 6位 | 634,000人(5) | 球団史上初の年間最下位 |
| 1984年 | 2位 | 685,300人(4) | |
| 1985年 | 2位 | 638,500人(4) | 落合博満三冠王 |
| 1986年 | 4位 | 692,700人(5) | 落合、2年連続三冠王 |
| 1987年 | 5位 | 778,800人(6) | |
| 1988年 | 6位 | 816,000人(6) | 近鉄戦ダブルヘッダー「10.19」 |
| 1989年 | 6位 | 841,000人(6) | 村田兆治、通算199勝から川崎で2連敗 オリックス3連戦「10.12、10.13」 |
| 1990年 | 5位 | 786,000人(6) | |
| 1991年 | 6位 | 1,021,000人(6) | 翌年から千葉への移転を発表 |
ヨネスケはロッテが千葉に移転した1992年、「ロッテグループの社長たちが、千葉マリンでの観戦会に嫌々集まってくる」という内容の新作落語を発表している。
また、2000年代以降、この川崎時代のロッテにちなんだイベントやパフォーマンスが何度か行われている。
上述のように1998年、千葉ロッテは6月12日を最後に7月9日まで約1ヶ月間勝てず、1引き分けを挟みプロ野球記録となる18連敗を喫した。この記録は現在も破られていない。
18連敗を喫した最大の理由は絶対的なリリーフ陣の不在だった。この年、ロッテは小宮山悟、黒木知宏、武藤潤一郎といった先発陣が活躍していた一方で、それまでダブルストッパーとして活躍していた成本年秀、河本育之がいずれも故障により戦線離脱し、リリーフ陣が弱体化していた。このためブライアン・ウォーレンを獲得するが、ウォーレンの登板は18連敗の直後まで待つことになった。
また、18連敗の前はチームで23勝(25敗)を挙げているが、いずれも先発投手が挙げたものであった。 さらに、18連敗の最初の4試合は終盤までリードしながらいずれも逆転負けするなど、18連敗中逆転負けを9回、サヨナラ負けを4回喫した。こうした状況から、4連敗後近藤昭仁監督はエースの黒木に抑え転向を打診するが、3度の救援を全て失敗し、チームが10連敗となった後、黒木は抑えを外された。
一方、打線は助っ人のフリオ・フランコが不調に陥ったくらいで、他の打者は堀幸一、平井光親などむしろ打率を上げる選手もおり、チーム打率は18連敗前とそれほど変わってはいなかった。しかし併殺打が急増し、ここぞという場面で得点を奪えない機会が続き、リリーフ陣の不調や打線と投手陣の歯車がかみ合わないことも相まって(投手陣が抑えるときは打線が打てず、打線が打つときは投手陣が打たれる状況が続いた)、18連敗以前も含めると7月9日まで1点差負けが20試合を数えた。
この18連敗で借金20となってしまい、それ以降優勝戦線に加わることは無かった。18連敗後は調子を取り戻し、借金を10にまで減らしたこともあり、あの18連敗がなければ優勝戦線に加われたのではないかという声もある。
これだけ負け続けたロッテだが、ファンは増加した(千葉ロッテのファンクラブの会員が2万人から3万人に増えている)。現在のマリーンズファンはこの18連敗から生まれていると言われている。
千葉ロッテはペナントレース後半戦になると好成績を収め、また選手も好成績を挙げるケースが多いことから、「秋のロッテ」「帳尻合わせの秋」などと揶揄されている。シーズン終盤は優勝の行方も大勢が決し、また各チームとも一軍での出番が少なかった若手選手に経験を積ませるため、彼らを主力選手に代わって一軍に昇格させ、先発起用するケースも多くなる。こうしたいわば「消化試合」が多くなる事が、ロッテが特にシーズン終盤に好調を保つ遠因になっているといわれている。また後述するが、とりわけ優勝決定の懸かった試合では驚異的な強さを発揮するケースも多々あり、ペナントの行方を左右させたこともある。
一例として、1996年から2003年の8シーズン分について、千葉ロッテの9・10月の勝敗を挙げる。なお、この8シーズンの間ロッテはBクラスに終わり、且つ勝率も5割を割っている。
| 年度 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 秋季勝率 | 通年勝率 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1996年 | 25 | 11 | 13 | 1 | .458 | .472 |
| 1997年 | 30 | 11 | 19 | 0 | .367 | .429 |
| 1998年 | 32 | 19 | 11 | 2 | .633 | .462 |
| 1999年 | 33 | 15 | 17 | 1 | .469 | .474 |
| 2000年 | 26 | 14 | 10 | 2 | .583 | .481 |
| 2001年 | 26 | 9 | 17 | 0 | .346 | .464 |
| 2002年 | 33 | 22 | 11 | 0 | .667 | .482 |
| 2003年 | 31 | 22 | 8 | 1 | .733 | .496 |
前述の通り「秋のロッテは強い」というイメージが定着しているものの、意外にも勝ち越したシーズンは例示した4シーズンのうち、4回だけである。ただ勝ち越したシーズンの勝率は通年勝率と比べて異様なまでに高く、これが「秋のロッテ」を強烈に印象づけている。低迷期末期であった2002年と2003年は特に秋に好成績を収めているが、両年とも8月末まで5位だったのが9月一気に日本ハムを破り、4位に浮上している。
2004年も8月末まで5割で乗り越えて勝負の9月を迎えたが、プロ野球再編問題によるスト決行分の2試合を行うか行わないかで問題になった。中止になった2試合はマリーンズがオリックス戦、3位争いのライバルだった日本ハムは大阪近鉄戦で、この試合の開催あるいは勝敗によってマリーンズにもプレーオフ進出の可能性が残されていたのである。しかし結論として行わないということで決着し、3位の日本ハムが最終戦を勝利したことによって、0.5ゲーム差でマリーンズのプレーオフ進出はならなかった。一般的には2005年のプレーオフ進出はこの悔しさをバネにしたと言われている(前回1974年の優勝メンバーである有藤道世も「週刊ベースボール」2005年10月31日号の中で、千葉ロッテ優勝の理由の1つにこの点を挙げている)。
前述の通り、千葉ロッテはシーズン終盤に好成績を挙げるケースが多いが、とりわけ「この試合に負けたら相手チームの優勝が決まる」という状況下の試合では、たとえその年にどんなにチームが低迷していようとも驚異的な強さを発揮し、目の前の胴上げを阻止した例が数多い。
オリオンズ時代の1988年に注目を集めた近鉄バファローズとのダブルヘッダー「10.19」が最も有名で、この時は第1試合を落としたものの第2試合(近鉄にとっては最終戦)を引き分けに持ち込み、近鉄の優勝を阻んだ(詳細は10.19を参照)。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 近鉄 | |0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 4 |
| ロッテ | |2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 |
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 近鉄 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 1 | 0 | 0 | 4 |
| ロッテ | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 4 |
1995年、オリックス・ブルーウェーブは同年1月17日に発生した阪神・淡路大震災を受けて「がんばろうKOBE」のスローガンを掲げ、シーズン中盤から快進撃で独走を続けた。2位の千葉ロッテは、オリックスがマジックを「1」として迎えた9月15日からグリーンスタジアム神戸での3連戦で直接対決。伊良部秀輝、小宮山悟、エリック・ヒルマンの3本柱で3連勝して意地を見せ、オリックスの地元胴上げを阻止した。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ロッテ | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 |
| オリックス | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ロッテ | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 |
| オリックス | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 |
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ロッテ | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 6 |
| オリックス | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 |
2000年にも、マジックを「1」とした福岡ダイエーホークスに対して2連勝。マジック対象の西武ライオンズも連勝したため胴上げ阻止に成功した。なお、当時主軸を打っていた初芝清は同年シーズンを通じて不調が続いたが、この2連戦ではいずれも殊勲打を放ち、同年シーズン自身初のヒーローインタビューを初戦で受け、さらに2戦目でもお立ち台に上がっている。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ダイエー | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 5 |
| ロッテ | 0 | 2 | 2 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | x | 8 |
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ダイエー | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 |
| ロッテ | 2 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | x | 5 |
2002年にも、マジックを「1」とした西武ライオンズとの3連戦で、ロッテは初戦のナイトゲームで勝利し、さらに2戦目のデーゲームも連勝して胴上げ阻止に成功した。ただ、同日のナイトゲームでマジック対象の福岡ダイエーホークスが引き分けたため西武の優勝が決まり、胴上げ・祝勝会は宿舎で行われた。なお、翌日の3戦目は0-3で完封負けを喫している。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 西武 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 |
| ロッテ | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 3 | 0 | 1 | x | 6 |
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 西武 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| ロッテ | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | x | 4 |
2005年、千葉ロッテはレギュラーシーズン2位となりプレーオフに進出。第1ステージ(千葉マリン)はシーズン3位の西武を2連勝で下した。第2ステージ(ヤフードーム)はシーズン1位の福岡ソフトバンクと対戦。4戦目を終わって2勝2敗のタイとなり、優勝は最終となる第5戦に持ち込まれた。試合は6回を終わって1-2とソフトバンクがリード。プレーオフには「5戦目を終了して勝敗数が同一の場合は、レギュラーシーズンの上位球団が優勝」という規定が設けられていたため、ロッテが優勝するには敗戦はおろか引き分けも許されず、ただ「勝利」するしか方法がなかった。そんな不利な条件下で迎えた8回、ロッテは先頭の代打・初芝が三遊間へボテボテのゴロを放つも、打球を追った野手が交錯して幸運な内野安打となったのを足懸かりに一死一、二塁とすると、里崎智也が左中間へ起死回生の逆転2点適時二塁打を放ち、3-2と試合をひっくり返した。9回はクローザーの小林雅英が走者を許しながらも、第3戦でサヨナラ安打を放っていた川崎宗則を左飛に仕留めて逃げ切り、1974年以来31年ぶりとなるリーグ優勝を決めた(詳細は2005年のパシフィック・リーグプレーオフを参照)。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ロッテ | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 3 |
| ソフトバンク | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
リーグ優勝だけでなく、シーズン中盤のセ・パ交流戦でも対戦チームの優勝を阻止したケースがある。2006年、千葉ロッテは交流戦の終盤に東京ヤクルトスワローズと優勝争いを繰り広げ、明治神宮野球場での直接対決3連戦では2戦目までロッテが連敗して首位から陥落し、6月18日の3戦目で敗れるとヤクルトの優勝が決定する可能性があった(但しこの段階では単独優勝ではなく、ロッテにも同率優勝の可能性が残されていた)。試合はロッテが先制するも、3回にヤクルトに4点を奪われて逆転を許し、さらに4回にも1点を失った。だがロッテは5回、里崎の満塁本塁打で再逆転に成功。終盤1点差に詰め寄られたものの、8-7で逃げ切ってヤクルトの優勝決定を阻み、ロッテが再び首位に立った。結局ヤクルトはその後残り2試合に連敗して同率優勝を逃し、ロッテが単独で交流戦連覇を決めた。また同年はシーズン終盤にも、激しい首位争いを繰り広げていた西武のレギュラーシーズン1位通過を阻んでいる。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ロッテ | 2 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 1 | 0 | 0 | 8 |
| ヤクルト | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 7 |
2008年9月24日、千葉ロッテはリーグ優勝のマジックを「1」とした埼玉西武ライオンズと同23回戦(西武ドーム)で対戦し、9-1で勝利。その後、西武のマジック対象である2位のオリックス・バファローズが福岡ソフトバンクホークス23回戦(ヤフードーム)に4-1で勝利したため、本拠地での胴上げ阻止に成功した。なお、西武はマジックを「2」としてからの本拠地3連戦(対楽天2連戦、対ロッテ1試合)で3連敗。この間オリックスは2勝1敗だったため、結局この3連戦での地元胴上げに失敗し、またこの3連敗を皮切りに、オリックスが敗れてリーグ優勝が決まった9月26日を挟んで7連敗を喫した(優勝決定前後の連敗ワースト記録)。
西武は10月1日のロッテ最終戦(千葉マリン)に9-5で勝ってようやく連敗を脱出。ロッテは3試合を残してクライマックスシリーズ(CS)の進出マジックを「3」としていたものの、この試合で敗れ、さらに同日3位の日本ハムが勝利したため逆転の可能性が消滅し、4位が確定。胴上げ阻止の「返り討ち」を食らう形でCS進出を逃した。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ロッテ | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 9 |
| 西武 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 |
但し、この千葉ロッテの「胴上げ阻止」のジンクスは必ずしも全てのケースにおいて発揮できるものではなく、逆に胴上げを許してしまった例も数多い。
パ・リーグが2期制を採用していた1978年は前期・後期とも阪急ブレーブスが優勝を果たしたが、阪急は前期・後期とも当時ロッテの本拠地であった川崎球場で優勝を決めており、ロッテは2期とも阪急に目の前の胴上げを許した。また西武ライオンズには1986年10月9日(西武)と1993年10月13日(千葉マリン)の2回、胴上げを許している。
2003年9月30日、千葉ロッテはリーグ優勝のマジックを「1」とした福岡ダイエーホークスと千葉マリンで対戦した。試合はダイエーが先制したものの、ロッテは4回、リーグ最多タイ記録の1イニング5二塁打を放って6-3と逆転。しかし6回、ダイエーに一挙7点の猛攻を受けて再逆転を許した。そして7回裏のロッテの攻撃中、マジック対象の西武ライオンズがYahoo!BBスタジアムでオリックス・ブルーウェーブに3-6で敗戦し、この時点でダイエーの優勝が決まった。ロッテは最終回に4点を挙げて追い上げたものの及ばず、結局10-13で敗戦。ホークスにとって最善の形である「自力胴上げ(試合に勝利して胴上げ)」を許す結果に終わった。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ダイエー | 0 | 1 | 1 | 1 | 0 | 7 | 0 | 3 | 0 | 13 |
| ロッテ | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 10 |
また2007年にも1シーズンに2度の胴上げを許した例がある。9月29日、首位の北海道日本ハムファイターズが千葉ロッテを対象にマジック「2」として迎えた直接対決(千葉マリン)は、試合中盤までは両先発が投げ合う投手戦だったものの、9回には日本ハムに打者一巡の猛攻を浴びて大量6点を献上するなど結局1-9と大敗し、日本ハムの2年連続リーグ優勝が決定、胴上げ阻止はならなかった。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 日本ハム | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 6 | 9 |
| ロッテ | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 |
レギュラーシーズンは日本ハム以下、2位がロッテ、3位が福岡ソフトバンクという結果に終わり、ロッテはクライマックスシリーズ(CS)第1ステージ(千葉マリン)で1勝1敗から第3戦を制してソフトバンクを下し、同第2ステージに進出、リベンジを期すべく再び日本ハムと対戦した。その第2ステージ(札幌ドーム)も2勝2敗の五分として、10月18日の第5戦にもつれ込む展開となった。先発は日本ハムがダルビッシュ有、ロッテが成瀬善久の両エースとあって投手戦が予想されたものの、成瀬は前半4失点と不調で4回で降板。対照的にダルビッシュは7回途中まで1失点と好投した。ロッテは中盤以降1点ずつ返したものの及ばず、結局2-6で敗戦。ロッテはレギュラーシーズンに続いてCSでもファイターズの前に散り、胴上げを1シーズンに2度も見る結果に終わっている。だが胴上げや一連のセレモニーの後、両チームがフィールド上で互いに健闘を讃え合うシーンがあり、大きな反響を呼んだ(詳細は2007年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズを参照)。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ロッテ | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 2 |
| 日本ハム | 0 | 0 | 3 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | x | 6 |
千葉ロッテは1992年11月29日に行われたファン感謝デーで、たけし軍団と草野球の親善試合で対戦した。
たけし軍団は1991年11月に阪神甲子園球場で行われた阪神タイガースのファン感謝デーで、同様に草野球の親善試合で対戦。試合は阪神の選手の他、コーチも出場する和気藹々なムードの中で行われたが、接戦の末に4-2でたけし軍団が勝利。ゲームセットの瞬間、タイガースファンであるダンカンは長男を抱きかかえてマウンドへ走り、喜びを爆発させた。阪神は同年シーズン最下位だったこともあり、翌日のスポーツ紙は「たけし軍団、プロ相手に大金星」「阪神、たけし軍団にも負けた」などと大きく取り上げたほどであった。
これに奮起したか否かは不明だが、翌1992年の阪神はシーズン終盤にヤクルトスワローズ、読売ジャイアンツと激しい優勝争いを繰り広げるなど2位に躍進。ロッテもこれにあやかろうと、ファン感謝デーにたけし軍団を招聘した。
試合は2-1でたけし軍団が前年に続き勝利。ロッテも奮起するかと期待されたが、翌1993年は5位に終わった。
2005年の千葉ロッテは開幕戦を本拠地の千葉マリンスタジアムで迎えることができたが、これはプロ野球再編問題の影響である。本拠地開幕権は前々年のAクラスチームにあり、2005年は2003年の順位を元に福岡ダイエーホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)・西武ライオンズ・大阪近鉄バファローズに開幕権があった。この年4位だった千葉ロッテには開幕権がなかったため、本来2005年の開幕戦は福岡Yahoo!JAPANドームでの対福岡ソフトバンク戦だった。
しかし大阪近鉄がオリックス・ブルーウェーブと合併して消滅したことで、大阪近鉄が持っていた2005年の開幕権が問題となった。オリックスを3位扱いするか千葉ロッテを繰り上げるかが問題となったが「合併球団の権利はドラフトなどの順位を考えると(存続側となる)オリックス扱いにしないと整合性が出ない」ということになり、合併球団(オリックス)は5位、新規参入球団(東北楽天ゴールデンイーグルス)は6位とみなされ、近鉄が持っていた2005年度の開幕権はロッテに譲渡された。そのため、千葉ロッテの2005年の開幕戦は本拠地での東北楽天戦になった。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 東北楽天 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 千葉ロッテ | 2 | 11 | 1 | 0 | 1 | 4 | 0 | 7 | x | 26 |
ロッテと福岡ダイエーホークス(当時)は日本プロ野球の東アジアでの市場拡大を視野に、2004年シーズン中から韓国と台湾での公式戦開催について検討を行ってきた。その結果、翌2005年シーズンの6月28日と29日の2日間、日本プロ野球史上2度目となる海外での公式戦として韓国での開催が決定。カードはロッテ主催の対福岡ソフトバンクホークス2連戦とし、釜山の社稷(サジク)野球場、ソウルの蚕室(チャムシル)総合運動場野球場で各1試合を開催する予定だった。しかし、首都のソウルでの試合が予定されていた蚕室野球場での開催が困難となり(韓国プロ野球のLGツインズと斗山ベアーズの2チームが本拠地として使う球場のため、全く空き日がない)、代替としてソウルの衛星都市である仁川の文鶴(ムナク)野球場での開催に変更したものの、集客力の問題と韓国でのプロ野球人気の低迷から採算が取れないと判断され、開催は断念せざるを得なくなった。
2005年シーズンに、渡辺俊介(15勝)、小林宏之(12勝)、ダン・セラフィニ(11勝)、清水直行(10勝)、久保康友(10勝)、小野晋吾(10勝)が2ケタ勝利をマークした。同一チームから2ケタ勝利投手が6人出たのは1956年と1963年の南海ホークス以来である。
また久保は新人ながら10勝をマーク。この記録は1950年(毎日時代)の荒巻淳(26勝)・榎原好(16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利をマークしたのは球団史上初である。
2005年のシーズン途中に、週刊朝日誌上で千葉ロッテ選手による禁止薬物使用の疑惑が報道された。記事の体裁は関係者による内部告発という形をとっていたが、監督をはじめ球団関係者はこれを否定。急遽選手を検査した上で潔白を証明してみせるとまで宣言したが、最終的に選手を検査させず、うやむやになったまま真相が明らかにされることはなかった。
この事件をきっかけに球界では「薬物検査」の必要性が声高に叫ばれるようになり、同時に千葉ロッテ球団サイドの対応が批判を集める事となった。このため、2006年より薬物検査が導入・義務付けられることとなった。
千葉ロッテはファンサービスの一環として、2007年シーズンに本拠地・千葉マリンスタジアムでの試合中(主に8回裏の攻撃前)、シンガーソングライター・渡辺真知子の『かもめが翔んだ日』を場内で演奏していた。
『かもめが翔んだ日』(作詞:伊藤アキラ、作曲:渡辺真知子)は、1978年4月21日にシングルレコードとして発売され、以来渡辺のみならずJ-POPのスタンダードナンバーとして長年親しまれている。同年はじめ、球団に「みんながよく知っている歌を球場で流して欲しい」とファンからリクエストが寄せられたのがきっかけで、球団関係者は球団のトレードマークである「カモメ」に因んだナンバーをいくつか選曲。その中から知名度が特に高く、幅広い年代の観客からの支持が見込める『かもめが翔んだ日』を選んだ。また試合の終盤を盛り上げるため毎試合の8回裏、千葉ロッテの攻撃前のイニング間に演奏する事を決めた。初めて場内で演奏されたのは3月14日のオープン戦。以来ファンの間では演奏に合わせて合唱したり、かもめが飛び行く姿を模したサビの振り付けを模倣するなど応援にも盛り上がりが加わったりと絶大な支持を得、すっかり定着した。さらに千葉ロッテの公式戦開幕から6月下旬までの間、主催試合でのイニング別得点を調べたところ、8回には初回の26得点に次ぐ25得点をマークするなど、一部メディアは「かもめ効果」などと報じたほどだった。
こうしたことから、球団には「歌っている本人に、ぜひマリンスタジアムに来て欲しい」などとファンからの要望が多く寄せられ、球団が一般ファンを対象にしたファンサービスのアイディア募集企画でも、渡辺本人をゲストに招聘する企画案がいくつか寄せられるなどしたことから、球団は渡辺を同年7月3日の対オリックス・バファローズ戦で行うイベント「応援スタジアム」(前述)のゲストに招聘することを決めた。渡辺は1977年のデビューで、同年はデビュー30周年の記念の年。また『かもめが翔んだ日』が千葉ロッテの応援ナンバーとなったのに因んで、同曲をロック風にアレンジした「マリーンズ・スペシャルバージョン」を改めてレコーディングするなど、マリーンズファンの応援を後押ししていた。
「応援スタジアム」当日、渡辺は試合開始前には国歌斉唱、試合終了後には『かもめが翔んだ日』のライブを予定していたが、試合は延長にもつれ込む熱戦となった。2-2で迎えた11回、オリックスがタフィ・ローズの2ランで勝ち越し、その裏千葉ロッテも1点を挙げて食い下がったものの、結局3-4で惜敗。試合が終わったのは午後10時30分過ぎだった。しかし夜深い時間帯にもかかわらず、スタンドに残ったマリーンズファンは敗戦の悔しさをしばし忘れて渡辺の力強い歌声に盛り上がり、アンコールも行われた。
パシフィック・リーグはセントラル・リーグの球団と比べテレビや大新聞への露出が少ないためか、インターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本である福岡ソフトバンクホークスや東北楽天ゴールデンイーグルスはもちろん、北海道日本ハムファイターズも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。それなりの通信品質でインターネットの接続環境を確保できればファンは地球の裏側からでも生中継感覚で試合観戦が出来る状況になっている。
各球団が様々な形で主催試合をインターネット配信している中、千葉ロッテマリーンズは2005シーズンの佳境でパソコンテレビGyaO(ギャオ)を通して主催試合をインターネット配信し大きな反響を得た(なお、GyaOでの放送は、日本国外からは視聴不能)。その施策を一歩進める形で2006年5月1日にはインターネット放送局「marines.tv」を開局した。
「marines.tv」は、千葉ロッテマリーンズのネット動画配信におけるポータルサイトとしての性格が強く、6種類のコンテンツをテレビのチャンネルになぞらえてインターネット配信している。
中でも「マリンスタジアムでの主催試合55試合を完全生中継」する1ch「Game Live!」はGyaOの「Boom up! BASEBALL 千葉ロッテマリーンズLIVE 2006」とリンクした目玉コンテンツである。
2006年シーズンは「marines.tv」が開局する直前の4月7日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦からGyaOで無料でライブ配信されており、「marines.tv」開局後は「marines.tv」の1chとしてポータルサイトからリンクされるようになった。また、NTT東日本のインターネット接続サービス「フレッツ」利用者専用のサイト「フレッツ・スクウェア」においても「千葉ロッテマリーンズ on フレッツ」と銘打った動画コンテンツの配信を実施しており、複数のコンテンツをNTT東日本地域のフレッツ利用者向けに配信していた。
2007年シーズンはGyaOからYahoo!動画に移り無料ライブ配信を行っている(専用のビュアーが必要)。フレッツ配信は終了。
いずれもコンテンツの詳細については外部リンクの項を参照のこと。
JCN千葉制作により放送されている千葉ロッテマリーンズの情報番組。千葉県内のJCN加盟ケーブルテレビ局(JCN千葉・船橋習志野・市川・コアラ葛飾のコミュニティチャンネル(自主制作チャンネル)で放送されている。
千葉へ移転した1992年に番組がスタート。正式な番組名は「ロッテレビ〜マリーンズフリークス〜」。タイトルの由来は、"マリーンズ一筋""マリーンズ命"などの意味から生まれた『マリーンズ狂』を示す。
番組のコンセプト・モットーは、マリーンズファンとチーム・選手の架け橋。選手の素顔や人柄を紹介する『ロングインタビュー』や『マークンファミリーの取材』『球団主催行事取材』など、試合中継で見ることができないマリーンズの魅力を紹介している。またゲーム観戦等でスタジアムを訪れるファンから選手へ質問してもらうコーナーなどもある。リポーターは黒木宏子(愛称:クッキー)。
前身「毎日オリオンズ」当時からの記録が展示保存されている「マリーンズ・ミュージアム」を持つ。千葉マリンスタジアム#設備を参照。