読み込み中...足利 義稙(義材)(あしかが よしたね(よしき))は、室町幕府の第10代将軍(将軍職在職:延徳2年(1490年)-明応3年(1493年)。永正5年(1508年) - 大永元年(1521年))。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男 源義国を祖とする足利氏の嫡流 足利将軍家。
父は第8代将軍・足利義政の弟で一時は義政の養嗣子となっていた足利義視、母は日野重政の娘(日野富子の妹にあたる)。
義政の養子となり、義政の死後に第10代将軍に就任する。しかし管領の細川政元と対立して廃立、幽閉されたが、越中へ逃れた。明応7年(1498年)に義尹(よしただ)と改名、永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名する。
後に周防の大内義興を後ろ盾にして室町幕府将軍職に復帰するが、今度は管領の細川高国(政元の養子)と対立して京都を出奔し、阿波で死去した。
文正元年(1466年)7月30日、足利義視の子として生まれる。
延徳元年(1489年)、室町幕府第9代将軍の足利義尚が近江の六角高頼征伐の在陣中に死去した後、伯父の義政と和睦した父・義視と共に逼塞先の美濃の土岐成頼のもとから上洛し、足利義政の養子となって延徳2年(1490年)に第10代将軍に就任した。
義材は幽閉されたが、小豆島に流されることを知り、6月29日に側近らの手引きで京都を脱出して越中国の放生津に下向し、畠山政長の家臣・神保長誠を頼ったため、越中公方(越中御所)と呼ばれた。
明応8年(1499年)に政元派との和睦交渉が進展したという認識から、義尹(義材より改名)は越前の朝倉貞景のもとへ移った。ところが政元派との和睦は不調となり、朝倉貞景や政長の子である畠山尚順(尚慶)と同調して軍事攻撃による上洛へ方針転換したが敗北し、周防の大内義興を頼って落ち延びた。
永正4年(1507年)に細川政元が暗殺されると、義尹は将軍への復帰をもくろみ、永正5年(1508年)4月に大内義興や細川高国の支援を得て中国地方や九州の諸大名と共に上洛し、義澄を廃して7月には再び将軍になった(永正の錯乱)。
その後、義澄やその一派と将軍職をめぐって抗争するが、永正8年(1511年)8月の船岡山の戦い直前に義澄が病死し、さらにこの戦いにも勝利したため、義尹改め義稙の将軍職が確定した。だが、義稙の政権は管領となった細川高国や大内義興らの軍事力によって支えられていた。永正10年(1513年)3月には細川・大内・畠山の諸氏と対立した義稙が一時京都を出奔して甲賀に逃れ、当地で病を発した。一時は死亡説が流れる程の重病で東寺や伊勢神宮でも将軍平癒の祈祷が行われる程(『後法成寺関白記』・『東寺百合文書』など)であったが、回復後の5月に和解が成立して義稙は京都に戻った。永正15年(1518年)に大内義興が領内の事情から管領代を辞任して帰国すると、残された義稙と高国は次第に対立するようになった。
大永元年(1521年)3月、義稙は再び和泉堺に出奔した。ところが、これが同月に予定されていた後柏原天皇の即位式直前のことであったため、天皇は激怒して管領である細川高国に即位式の準備を命じて予定通りに開催させた。
高国は朝廷の信頼を失った義稙に代わる新将軍として義澄の子・足利義晴を擁立した。義稙は和泉から淡路に逃れ、ここで再挙を図って高国と抗争するが敗れ、大永3年(1523年)4月9日(4月7日とも)に阿波撫養(現在の鳴門市)で死去した。享年58。
法名:恵林院殿巌山道舜大禅定門。
墓所:徳島県阿南市の西光寺に五輪塔が立つ。没地である徳島県鳴門市の岡崎城跡に将軍塚と呼ばれる場所があり、義材の墓所と伝える。
肖像:没後まもなく作られた京都市北区の等持院霊光殿安置の木造束帯像が著名。栃木県足利市の鑁阿寺には、室町幕府15代の将軍像があり、その1体として義材の木造束帯像がある。徳島県阿南市の阿南市立阿波公方・民俗資料館所蔵の義材像は鑁阿寺像の容貌を模している。富山県射水市の放生津橋にある義材銅像は狩衣姿1体・甲冑姿1体である。東京国立博物館にも伝足利義稙(義澄)肖像がある。
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