読み込み中...大阪近鉄バファローズ(おおさかきんてつバファローズ、Osaka Kintetsu Buffaloes)は、1949年から2004年まで存在した日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに加盟していた。大阪府を保護地域とし、府内大阪市西区にある大阪ドームを専用球場(本拠地)としていた。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は、かつて府内藤井寺市にあった近鉄藤井寺球場であった。
1999年3月までの球団名は近鉄バファローズで、地域密着を謳うために1999年4月1日付で上記球団名に改称された後も通称として使われていた。なお、運営法人の商号は株式会社大阪バファローズ、近畿日本鉄道株式会社の100%の連結対象子会社(額面500円)であった。
2004年、球団及び近鉄グループの経営難から、オリックス・ブルーウェーブの運営会社「オリックス野球クラブ」に営業譲渡し、大阪バファローズは2005年3月末をもって解散。職員の大半はオリックス野球クラブに、一部は楽天野球団に移り、選手は分配ドラフトによりオリックス・バファローズ(ブルーウェーブから改称)と東北楽天ゴールデンイーグルスに配分された。詳細はプロ野球再編問題 (2004年)を参照。オリックス・バファローズの球団史においては、大阪近鉄バファローズは傍系扱いとなるため、チームタイトルや個人賞などの各種記録については一切含まれない。| 年度 | 監督 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 打率 | 防御率 | 本塁打 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 近鉄パールス | |||||||||||
| 1950年 | 藤田省三 | 7/7 | 120 | 44 | 72 | 4 | .379 | 37.5 | .242 | 3.85 | 86 |
| 1951年 | 藤田省三 | 7/7 | 98 | 37 | 56 | 5 | .398 | 33.5 | .223 | 3.13 | 37 |
| 1952年 | 藤田省三 芥田武夫(注1) | 7/7 | 108 | 30 | 78 | 0 | .278 | 40.0 | .243 | 4.06 | 37 |
| 1953年 | 芥田武夫 | 7/7 | 120 | 48 | 69 | 3 | .410 | 22.0 | .246 | 2.93 | 31 |
| 1954年 | 芥田武夫 | 4/8 | 140 | 74 | 63 | 3 | .540 | 16.0 | .247 | 2.66 | 23 |
| 1955年 | 芥田武夫 | 5/8 | 142 | 60 | 80 | 2 | .429 | 39.0 | .252 | 3.45 | 35 |
| 1956年 | 芥田武夫 | 5/8 | 154 | 68 | 82 | 4 | .455(注2) | 29.5 | .226 | 3.17 | 48 |
| 1957年 | 芥田武夫 加藤春雄(注3) | 6/7 | 132 | 44 | 82 | 6 | .356(注2) | 38.5 | .225 | 3.22 | 35 |
| 1958年 | 加藤久幸(注4) | 6/6 | 130 | 29 | 97 | 4 | .238(注2) | 49.5 | .215 | 4.04 | 41 |
| 近鉄バファロー | |||||||||||
| 1959年 | 千葉茂 林義一(注5) | 6/6 | 133 | 39 | 91 | 3 | .300 | 49.0 | .229 | 3.68 | 48 |
| 1960年 | 千葉茂 | 6/6 | 131 | 43 | 87 | 1 | .331 | 39.0 | .236 | 3.61 | 69 |
| 1961年 | 千葉茂 | 6/6 | 140 | 36 | 103 | 1 | .261(注2) | 51.5 | .229 | 3.96 | 68 |
| 近鉄バファローズ | |||||||||||
| 1962年 | 別当薫 | 6/6 | 131 | 57 | 73 | 1 | .438 | 21.0 | .252 | 3.40 | 70 |
| 1963年 | 別当薫 | 4/6 | 150 | 74 | 73 | 3 | .503 | 12.5 | .256 | 3.44 | 98 |
| 1964年 | 別当薫 | 6/6 | 150 | 55 | 91 | 4 | .377 | 28.5 | .254 | 3.63 | 112 |
| 1965年 | 岩本義行 | 6/6 | 140 | 46 | 92 | 2 | .333 | 42.5 | .235 | 3.61 | 91 |
| 1966年 | 岩本義行 | 6/6 | 133 | 48 | 82 | 3 | .369 | 31.0 | .228 | 3.60 | 100 |
| 1967年 | 小玉明利 | 6/6 | 132 | 59 | 71 | 2 | .454 | 16.0 | .251 | 3.83 | 104 |
| 1968年 | 三原脩 | 4/6 | 135 | 57 | 73 | 5 | .438 | 23.0 | .234 | 3.28 | 84 |
| 1969年 | 三原脩 | 2/6 | 130 | 73 | 51 | 6 | .589 | 2.0 | .243 | 2.78 | 118 |
| 1970年 | 三原脩 | 3/6 | 130 | 65 | 59 | 6 | .524 | 13.5 | .233 | 2.98 | 108 |
| 1971年 | 岩本堯 | 3/6 | 130 | 65 | 60 | 5 | .520 | 18.0 | .241 | 3.21 | 151 |
| 1972年 | 岩本堯 | 2/6 | 130 | 64 | 60 | 6 | .516 | 14.0 | .248 | 3.07 | 123 |
| 1973年 | 岩本堯 島田光二(注6) | 6/6 | 130 | 42 | 83 | 5 | .336 | 6・6(注7) | .237 | 3.83 | 113 |
| 1974年 | 西本幸雄 | 5/6 | 130 | 56 | 66 | 8 | .459 | 5・4(注7) | .230 | 3.63 | 131 |
| 1975年 | 西本幸雄 | 2/6(注8) | 130 | 71 | 50 | 9 | .587 | 3・1(注7) | .246 | 3.09 | 115 |
| 1976年 | 西本幸雄 | 4/6 | 130 | 57 | 66 | 7 | .463 | 5・4(注7) | .245 | 3.04 | 102 |
| 1977年 | 西本幸雄 | 4/6 | 130 | 59 | 61 | 10 | .492 | 3・6(注7) | .245 | 3.31 | 92 |
| 1978年 | 西本幸雄 | 2/6 | 130 | 71 | 46 | 13 | .607 | 2・2(注7) | .266 | 3.21 | 115 |
| 1979年 | 西本幸雄 | 1/6(注8) | 130 | 74 | 45 | 11 | .622 | 1・2(注7) | .285 | 3.70 | 195 |
| 1980年 | 西本幸雄 | 1/6(注8) | 130 | 68 | 54 | 8 | .557 | 2・1(注7) | .290 | 4.96 | 239 |
| 1981年 | 西本幸雄 | 6/6 | 130 | 54 | 72 | 4 | .429 | 6・4(注7) | .253 | 4.10 | 149 |
| 1982年 | 関口清治 | 3/6 | 130 | 63 | 57 | 10 | .525 | 3・2(注7) | .258 | 4.11 | 151 |
| 1983年 | 関口清治 | 4/6 | 130 | 52 | 65 | 13 | .444 | 29.5 | .262 | 4.49 | 134 |
| 1984年 | 岡本伊三美 | 4/6 | 130 | 58 | 61 | 11 | .487 | 16.5 | .257 | 4.36 | 174 |
| 1985年 | 岡本伊三美 | 3/6 | 130 | 63 | 60 | 7 | .512 | 15.5 | .272 | 5.10 | 212 |
| 1986年 | 岡本伊三美 | 2/6 | 130 | 66 | 52 | 12 | .559 | 2.5 | .271 | 4.34 | 183 |
| 1987年 | 岡本伊三美 | 6/6 | 130 | 52 | 69 | 9 | .430 | 21.5 | .270 | 4.22 | 135 |
| 1988年 | 仰木彬 | 2/6 | 130 | 74 | 52 | 4 | .587 | 0.0 | .253 | 3.23 | 154 |
| 1989年 | 仰木彬 | 1/6 | 130 | 71 | 54 | 5 | .568 | 0.0(注9) | .261 | 3.86 | 157 |
| 1990年 | 仰木彬 | 3/6 | 130 | 67 | 60 | 3 | .528 | 14.5 | .275 | 4.34 | 181 |
| 1991年 | 仰木彬 | 2/6 | 130 | 77 | 48 | 5 | .616 | 4.5 | .265 | 3.46 | 157 |
| 1992年 | 仰木彬 | 2/6 | 130 | 74 | 50 | 6 | .597 | 4.5 | .247 | 3.69 | 155 |
| 1993年 | 鈴木啓示 | 4/6 | 130 | 66 | 59 | 5 | .528 | 7.0 | .258 | 3.62 | 145 |
| 1994年 | 鈴木啓示 | 2/6 | 130 | 68 | 59 | 3 | .535 | 7.5 | .274 | 4.24 | 169 |
| 1995年 | 鈴木啓示 水谷実雄(注10) | 6/6 | 130 | 49 | 78 | 3 | .386 | 32.0 | .234 | 3.97 | 105 |
| 1996年 | 佐々木恭介 | 4/6 | 130 | 62 | 67 | 1 | .481 | 14.5 | .255 | 4.01 | 146 |
| 1997年 | 佐々木恭介 | 3/6 | 135 | 68 | 63 | 4 | .519 | 7.5 | .274 | 3.79 | 112 |
| 1998年 | 佐々木恭介 | 5/6 | 135 | 66 | 67 | 2 | .496 | 5.0 | .267 | 4.28 | 126 |
| 大阪近鉄バファローズ | |||||||||||
| 1999年 | 佐々木恭介 | 6/6 | 135 | 54 | 77 | 4 | .412 | 23.5 | .257 | 4.54 | 151 |
| 2000年 | 梨田昌孝 | 6/6 | 135 | 58 | 75 | 2 | .436 | 15.0 | .262 | 4.66 | 125 |
| 2001年 | 梨田昌孝 | 1/6 | 140 | 78 | 60 | 2 | .565 | 2.5(注9) | .280 | 4.98 | 211 |
| 2002年 | 梨田昌孝 真弓明信(注11) | 2/6 | 140 | 73 | 65 | 2 | .529 | 16.5 | .258 | 3.93 | 177 |
| 2003年 | 梨田昌孝 | 3/6 | 140 | 74 | 64 | 2 | .536 | 8.5 | .274 | 4.30 | 187 |
| 2004年 | 梨田昌孝 | 5/6 | 133 | 61 | 70 | 2 | .466 | 17.0(注12) | .269 | 4.46 | 121 |
| 年度 | 試合名 | 成績 | 対戦相手 |
|---|---|---|---|
| 1975年 | プレーオフ | ○●●● | 阪急 |
| 1979年 | プレーオフ | ○○○ | 阪急 |
| 日本シリーズ | ○○●●●○● | 広島 | |
| 1980年 | プレーオフ | ○○○ | ロッテ |
| 日本シリーズ | ○○●●○●● | 広島 | |
| 1989年 | 日本シリーズ | ○○○●●●● | 巨人 |
| 2001年 | 日本シリーズ | ●○●●● | ヤクルト |
※1974年に最多セーブとして制定、1977年よりセーブポイントで表彰する最優秀救援投手に変更。球団消滅後の2005年より最多セーブ投手に。
なお、表彰タイトルではなかったので参考だが1974年以降リーグ最多セーブ投手になったのは以下の選手。※1996年に中継ぎ投手の評価法としてホールドを導入、タイトルとして制定。2002年より最優秀中継ぎ投手に変更。
タイトル制定以後の該当者無し。
1953年、近鉄はいずれも後楽園球場で開かれた2試合でロンゲストゲームを戦った。6月25日の対大映スターズ戦は19:13試合開始から当時のナイターの時限であった23:45での打ち切りまで4時間33分・延長22回を戦った(スコアは4-4の引き分け)。
それからわずか1ヵ月半も満たない8月9日には東急フライヤーズ戦のダブルヘッダー第1戦(当時は同一カードダブルヘッダーの第1試合はイニング制限なしで決着が付くまで行った)で今度は4時間46分・延長20回(5-4で近鉄勝ち)を戦い、その後引き続いて開催の第2試合は22:11試合開始。時限の23:45までプレーした(7回時間切れコールドゲームで3-3の引き分け)ため、2試合で合計6時間20分も戦った。
1954年10月10日には東映フライヤーズ戦(大阪)でパ・リーグの最長イニングレコードを記録した。この試合は0-0で迎えた延長23回に武智修の2塁打でチャンスを広げた近鉄が日下隆のスクイズでサヨナラ勝ちした。
1969年10月10日、日生球場でのロッテオリオンズ戦では第2試合で延長13回、22:20の時限オーバー、4-4の引き分けで打ち切られるまで、実に5時間15分の当時の史上最長試合時間記録を達成した。
通常サスペンデッドゲームは日没(現在は適用できない)や照明設備の故障など特殊な例以外考えられないことだが、1954年6月16日に中日スタジアムで開かれた東映フライヤーズ戦で1-4で敗れて試合終了したものの、7回表のインフィールドフライをめぐって近鉄側が猛抗議。結局問題のフライ以後の攻撃を一度無効として同年8月10日に同球場で7回以後の攻撃を続行するという変則的なサスペンデッドゲームが行われた。サスペンデッド後の試合は両チームとも得点が入らず、結局1-4で敗戦した。
これは、大映のオーナー永田雅一が上記の提案をした人物である。1957年シーズン中に、パ・リーグオーナー会議で「今シーズン最下位となったチームは、解散するか合併する」ことが決定した。これは当時パ・リーグが7球団だったために非常にカードが組みにくかったことが原因であり(奇数であるため必ず対戦できないチームが一つできる)、当時最下位を独走していた近鉄パールスのオーナー・佐伯勇はやむを得ず了承した(解散か合併する基準が最下位である案がシーズン中に承認される、と言うのは現在では到底考えられないような話である)。
8月上旬に近鉄は6位チームと10ゲーム差をつけられ、状況は絶望的と言えた。しかし、ここから近鉄の選手は発奮し、以降の6位チームとの直接対決を大きく勝ち越したこともあって奇跡的に最下位を脱出し、消滅の危機を免れた。
結局最下位となったのは大映ユニオンズで、大映ユニオンズは毎日オリオンズと合併し、大毎オリオンズとなった。
1960年5月24日、駒沢球場での東映フライヤーズ戦。6-0と近鉄リードで迎えた9回裏の東映の攻撃で、近鉄先発のグレン・ミケンズは1アウトから毒島章一を四球で出塁させる。続く吉田勝豊は1塁ゴロに打ち取ったものの、これを1塁手が悪送球したために1・3塁となる。張本勲の2塁ゴロで吉田を2塁で封殺する間に毒島が生還。完封を逃したミケンズは山本八郎に2ラン本塁打を打たれてしまった。試合はこのまま近鉄が6-3で逃げ切り、ミケンズには自責点2が記録された。しかしこれに納得のいかないミケンズは翌25日の同カードの試合前、ネット裏記録席にパ・リーグ記録部長の山内以九士を訪ね、「吉田の1塁ゴロが失策でなければこれで2アウト、張本の2塁ゴロで3アウトとなるから、以降の失点は投手の責任ではない。したがって私の自責点は0だ」と抗議したが、山内は「記録は規則どおりで、君の主張は自己流に解釈したものだ」とミケンズの主張を却下した。当時の野球規則10.18(a)には「自責点は安打、犠打、犠飛、盗塁、刺殺、野選、四死球、ボーク、暴投によりプレーヤーが本塁に達するたびごとに記録される。ただし守備側と攻撃側と入れ替わる機会を逸したあとはこの限りではない」と明記されており、後半(太字)部分は「2死後、第3アウトとなるはずの走者が失策で生きた場合(例えば三振−三振−遊ゴロ失)、以降の失点は自責点とならない」と解釈されていた。この解釈だと「山本が失策で出塁した場合に、失点がミケンズの責任ではなくなる」となるのだが、山内が原文やメジャーリーグの実例を調査していくうちに実はこの解釈が誤りで、「アウトカウントにかかわらず、失策がなければ当然アウトとなるはずの走者が生きた場合(例えば三振−遊ゴロ失−三振と順序が変わっても)はそれぞれ1アウトと仮定して計算、仮定の3アウト目以降の失点は自責点とならない」とするのが正しいことが分かった。これだとミケンズの主張どおり、自責点は0となる。当時ミケンズは球団側と防御率による出来高契約を結んでいたため、このような規則には相当詳しかったといわれる。この解釈の変更は翌1961年から行われた。
日本プロ野球史で100敗という屈辱的な経験を味わっているのは1961年の近鉄のみ。140試合戦って36勝103敗1分け(勝率.261)で、優勝した南海ホークスから51.5ゲーム差の大差を付けられている。それまでのワーストは1955年の大洋ホエールズと1955・1956年のトンボユニオンズ→高橋ユニオンズの98敗だった。
この年の近鉄は10連敗を6月に1回、7月には1ヶ月で2回喫しており、他の参加5チームとの対戦成績も最高成績が東映フライヤーズと阪急ブレーブスに9勝。他の3チームには20敗以上を喫した。
シーズン最低勝率.238(130試合で29勝97敗4分)を1958年に記録している。ただしこの年は引き分けを0.5勝0.5敗として計算していたため、現在の勝率に換算すると.230となる。
1966年10月13日に開かれた藤井寺での西鉄ライオンズ戦は日本シリーズの読売ジャイアンツ対南海ホークス戦が同日に行われた影響もあり、観客動員はパ・リーグ最少の150人しか入らなかった。
1989年10月24日、東京ドームでの巨人との日本シリーズ第3戦、近鉄が3勝目をあげた試合後のヒーローインタビュー時の加藤哲郎の発言と言われているが、この通りに発言したわけではない。ヒーローインタビューでは加藤はふてぶてしい口調ながら、「ペナントレース(勝率1厘差、残り1試合で優勝決定)の方がずっときつかった」といった程度の発言しかしていない。その後、選手がドームを後にするまでの取材の過程で新聞記者の誘導により「今の巨人よりディアズ1人をマークしなければならないロッテの方が怖い」「こんなチームに負けたら、(ペナントレースで死闘を繰り広げた)西武やオリックスに申し訳ない」という発言が飛び出したが、前年最終戦で近鉄がロッテの粘りに苦汁を舐めた記憶と、加藤がその年個人的にロッテに苦手意識があった(後に加藤本人が述懐している)ことを受けてのものであり、加藤本人がハッキリと「巨人はロッテより弱い」と言ったわけではなく、マスコミが加藤の発言を歪曲したものである。近鉄が4連敗をくらった最大の原因は「加藤の発言に巨人の選手が発奮した」のではなく、データを分析すると第3戦の時点で既に近鉄打線の調子が下降してきており、それに第4戦で近鉄が苦手とするタイプの投手(香田勲男)に完封を喫し、それ以降打線がつながらなくなり殆ど点が取れなくなってしまったことである。また、ベンチ裏でヒーローインタビューを聞いて激怒したと言われている駒田徳広(当時巨人)も、ヒーローインタビューは聞いてなかったと懐述している。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
| オリックス | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 |
| 近鉄 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 4x | 6 |
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
| 近鉄 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 8 | 12 |
| ロッテ | 2 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 9 |
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
| ダイエー | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 3 | 8 |
| 近鉄 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7x | 9 |
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 計 | |
| ロッテ | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 |
| 近鉄 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1x | 11 |
試合終了後、当時の監督・佐々木恭介は「8回裏の時点で『追い付きはしなかったが、この追い上げは賞賛に値する』というコメントを考えていた」と告白、「こんな選手たちと野球ができて嬉しい。この勝利は必ずいい方向につながる」ともコメントした。近鉄はこの試合に負ければ最下位転落の可能性もあったが、この試合以降は佐々木の言葉どおり勢いを見せつけ、閉幕までを21勝7敗2分けで乗り切り、最終的に3年ぶりのAクラス復帰(3位)を果たした。
2001年にタフィ・ローズがシーズン本塁打日本記録更新を賭けて挑んだダイエー戦で、ダイエーの選手が王貞治監督のシーズン本塁打記録を守るために勝負を避けるという事件が発生した。この事件に関し、近鉄フリーク作家として活動、今はパ・リーグサイドのスポーツ作家である元近鉄応援団長・佐野正幸は著書「プロ野球の世界に生きるということ(長崎出版)」で、タブーといわれた「世界の王批判」と取れる一文を発表している。
王貞治にハンク・アーロンの通算本塁打記録を破る756号を打たれた投手が、後に近鉄で抑え投手として活躍し二年連続リーグ最多セーブを記録した鈴木康二朗であり、更に王貞治の現役最後の本塁打となった通算868号を打たれたのが、マニエルとのトレードでヤクルトに放出されたかつての左腕二枚看板の一角・神部年男である。
近鉄は助っ人外国人選手の打者が活躍するチームとして有名であり、一時期の阪神ファンやロッテファンなど他球団ファンからは「近鉄は良い外国人選手を取ってくるのがうまい」とうらやましがられる事も多かった。近鉄の優勝と外国人選手の活躍は切っても切り離せないものがあり、1979年にはマニエル、1989年にはブライアント、2001年にはタフィ・ローズがチームのリーグ優勝と共にMVPに輝いている。外国人選手が3度MVPに選出されているチームは他にヤクルトスワローズのみであり、外国人選手がMVPを受賞した回数が2006年現在11回であるため、極めて多い。
他にもタイトルホルダーになった選手も多く、タイトルをとれなくても打率.280、20本塁打クラスの打者が多くいる。それら外国人選手を4パターンに分けられる。 #日本の他球団から移籍してきたケース(代表例:ジョーンズ、マニエル、ブライアント) #ブルワーズルート(代表例:オグリビー) #レッドソックスルート(代表例:ローズ、クラーク) #ドジャースルート(代表例:ギルバート、バーグマン、パウエル)1.に関して、マニエルは守備の悪さがヤクルト・広岡達朗監督のチーム編成方針上問題となり、大砲を欲していた近鉄との間で神部年男とのトレードとなった。ブライアントはデービスの大麻事件による解雇により、急遽補強が必要となった結果の中日からの金銭トレードである。1のパターンは他にも1993年のレイノルズなども挙げられる(.298 18本 50打点と活躍したがその年限りで解雇された)。
2.は、1980年代の近鉄の主な外国人選手獲得ルートである。当時近鉄の友好球団がブルワーズであったことに起因している。
3.は、1990年代である。このルートで獲得してきた選手が、「毎年のように新外国人選手が活躍する」イメージを植えつける要因の一つとなったと言える。他にも1994-1995年在籍のスチーブンス、1996年在籍のC・D(ドネルス)などがいる。なぜレッドソックスルートと言うかというと、近鉄の外国人選手のスカウト市原稔がアメリカで懸命にスカウト活動をするうちに、独自にレッドソックスとのパイプを築きあげたことにある。レッドソックスルートで獲得してきた最後の選手は2001年在籍のフレッディ・ガルシアとウィル・フリントである。
4.は2001年開幕時に、近鉄が野茂つながりでラソーダをアドバイザーに迎え、ドジャースとのパイプができたことで選手が来るようになったルートである。これにより3の長らく優良外国人打者を獲得してきたレッドソックスとのつながりは絶たれた。ギルバートは、当時近鉄の遊撃手で打撃を期待できる選手がいなかったため、ラソーダに良い選手がいないか意見を求めた結果獲得できた選手であり、当時3A通算1700安打を記録していた。バーグマンもシーズン途中からの入団であったが、オリックス戦を中心に活躍し、1年目は10勝を挙げた。パウエルも2001年に途中入団してきたが4勝5敗、防御率は4点台半ばとあまり良い成績とはいえなかったが、2年目に投手タイトルを総なめするほどの活躍を見せ、二桁勝利の常連として息の長い活躍を見せている。
選手を取ってくる先のチームカラーを反映してか、レッドソックスルートで獲得してきた選手は打者が活躍し、ドジャーズルートは投手が活躍する傾向にあった。ドジャースルートで獲得してきた打者はギルバートを除いて成功したと言える選手はいない。
近鉄で活躍する投手はアキーノ、マットソン、パウエルなど技巧派投手ばかりで、デラクルーズ、ツイドリー、バルデス、ロドリゲス、カラスコなどMAX150kmを越えるという触れ込みの速球派投手は、活躍しなかったどころか全く成績を残せなかった。
2004年のキャンプ入りを目前とした1月31日、近鉄球団は2005年以降に球団名称を第3者に販売する「命名権」ビジネスを実施することを明らかにした。基本スポンサー料金を年間36億円とし成績に応じてそれを増減させ、スポンサーはチーム名やユニフォーム、球場への広告掲示などができるとした。市民に親しまれる球団にするためには球団本体だけに頼っては前進しないという考えを示した発案であったが、安易に球団名が変更されてしまうことに対し他球団オーナーなどプロ野球界から「野球協約に反するものであり認められない」などと反発が相次いだ。特に発言が球界の動向に大きな影響を与えるといわれた読売ジャイアンツオーナー・渡邉恒雄が猛反対したこともあり、球団名変更に必要なオーナー会議の同意を得られる目処が立たず、2月5日に方針を白紙撤回することを発表した。
ネーミングライツ売却は戦前の大東京軍がライオン歯磨をスポンサーに迎えて誕生したライオン軍(1937年秋季-1940年)、戦後パ・リーグ球団の高橋ユニオンズがトンボ鉛筆をスポンサーにしたトンボユニオンズ(1955年)、西武ライオンズの前身である太平洋クラブライオンズ(1973年-1976年)・クラウンライターライオンズ(1977年-1978年)、ロッテオリオンズ(1969年-1970年。1971年大毎からロッテに正式に譲渡)などの例がある。今回はこれが認められなかったため、「近鉄の球団消滅はこの時点で避けられないものとなってしまった」という声がある。合併問題が深刻化する頃には、一部球界関係者も「今から思えば、ネーミングライツの承認が最良のソフトランディングだった」と語っていた。
と具体的な内容まで踏み込まれていたが、松田はかねてから純益金の分配制度改正(1952年以降のフランチャイズ制度以降は試合開催で得た利益は全額ホームチームのものになっていたが、それを1リーグ時代のホーム7、ビジター3の割合での分配に戻すというもの)をセ・リーグ会長・鈴木龍二に申し入れていたこともあって、佐伯の提案を拒否した。
前述のように、親会社である近鉄(当時関西急行鉄道)は、戦中に国策で南海と合併しており、そのときには既にホークスの前身である南海軍が存在していた(合併後に近畿日本軍、戦後はグレートリングと改称している)。この合併が解消されてなければ、近鉄バファローズという球団は誕生すらしていなかった可能性があった(同一会社による複数球団の所有は禁止されている)。ただし当時としても無理があった合併で、戦時体制下での国からの命令でなければ両社は合併などしておらず、この合併は戦後すぐに解消されている。
NPB所属の選手、及び海外でプレーしている日本人選手で、近鉄バファローズに在籍経験のある現役選手を記す。()内選手は他球団から近鉄に移籍してきた選手。太字は2004年シーズン終了時に近鉄に在籍していた選手。