読み込み中...胆振国(いぶりのくに)は、日本の明治時代に設定された地方区分の国の一つである。北海道に含まれた。道南から道央にかけての地域に位置し、現在の胆振支庁の全域、渡島支庁の長万部町と八雲町のうち旧熊石町を除く部分、後志支庁の虻田郡、石狩支庁の千歳市・恵庭市、上川支庁の占冠村にあたる。
日本書紀によると、斉明天皇5年に阿倍比羅夫が後方羊蹄(しりべし)に郡領を置いたとあり、後方羊蹄は虻田郡域の羊蹄山付近との説がある。また、千歳郡域内(現在の恵庭市)では飛鳥時代から平安時代初期にかけて群集墳が築かれた。これは石狩国域の江別古墳群や北東北の終末期古墳と同様の古墳である。当時の胆振国域では擦文文化が栄えていたが、後に渡島半島を中心とする地域では擦文文化と本州土師器文化の混合的文化である青苗文化が成立した。この青苗文化を足がかりに、主に東北地方から移住し本州とアイヌとの交易に携わる人々が現れた。渡党である。居住地は道南であったとされ、活動範囲は渡島半島周辺地域にも及んでいた。渡党は蝦夷管領の支配下に置かれていた。
室町時代に入ると、応仁の乱のちょうど10年前の康正3年、長禄元年にコシャマインの乱が勃発、胆振国域のほぼ全域でも和人とアイヌによる戦いが行われた。
江戸時代ころになると、松前藩によってアイヌと交易を行う十ヶ所の場所(商場)が開かれた。制度的な詳細は商場(場所)知行制および場所請負制を参照されたい。後に置かれた郡との相対は下記のとおりである。
江戸時代中期にさしかかる寛文9年6月、和人とアイヌとの間に生じた誤解によりシャクシャインの乱が勃発、胆振国域内でも多くの和人が惨殺された。アイヌ軍は松前に攻め込む勢いであったが、山越郡域のクンヌイ(現長万部町国縫)における戦いで形成は逆転、後に鎮圧されている。
江戸時代後期、胆振国域は東蝦夷地に属していた(山越郡域は和人地)。国防のため寛政11年東蝦夷地は幕府直轄地とされたが、文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政5年再び幕府直轄地となりホロベツ以西は南部藩がシラヲイ以東は仙台藩が警護を担当した。このとき南部藩は室蘭郡域(本陣)とヤムクシナイのヲシャマンベ(分屯所)に、仙台藩はシラヲイにそれぞれ陣屋を設けている。
寺院は比叡山の僧・慈覚大師が天長3年(826年)に開山したと伝わり、江戸時代には蝦夷三官寺とされた有珠善光寺がかつて有珠郡の一部だった伊達市にある。
神社は戦国時代にすでに存在していた刈田神社、江戸時代初期に建立された弁天堂を起源とする千歳神社や、寛政年間にはすでに存在していた大臼山神社などがある。
明治5年(1872年)の調査では、人口6251人を数えた。
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