読み込み中...鉄道車両の台車(てつどうしゃりょうのだいしゃ、railway truck / bogie)は、車輪・車軸を保持し、車体の重量を車軸に伝えるとともに走行・制動機能を備えた機構である。
自動車におけるサスペンションと同様に、車両の安定性をつかさどり、曲線通過速度や最高速度、乗り心地を支配する重要な装置である。
車両の走行のための装置の総称は走り装置(または走行装置)である。そのうちで、台車とは、車体に直結されていない自由度のある走り装置ということができる。蒸気機関車の動輪や2軸貨車の場合には、通常台車とは呼ばない吉川1989。。蒸気機関車の動輪は台枠に取り付けられている形になるが、独自に動く先輪、従輪については台車という。
車両を構成する最低限の要素は荷車のように車体と車輪である。ただし鉄道車両の場合、通常車軸に車輪を固定して(輪軸という)一体として回転させる。平面上に自立するため最低4輪が必要で、最初期の蒸気機関車も客車・貨車も4輪すなわち2軸で始まったが、のちに車体の長大化、重量の増大による軸重(1軸あたりにかかる重量)の分散などのためにより多くの車輪・車軸を要するようになった。しかし3軸、4軸などを車体にそのまま固定するとカーブの通過が困難になる。
また、荷車のように車体と車輪の間になんらサスペンションがない場合、乗り心地や走行性能に問題がある。したがって、車体と車輪の間に、馬車でも行われるように、バネを介する構造が必要になる。この際、車体と車輪の間に直接バネを置くこともできる(後になっても蒸気機関車の動輪や2軸貨車は一般にこの形)が、車輪を支持する部分を車体と切り離した方がよい場合が多い。
こうした要因から、台車が出現することになる。第1の要因に関し、1車両あたり4軸を、2軸ずつの小さな単位(車体支持専門の小さな車両のようなもの)に分割し、車体に対する回転を行わせるものが現在最も多く用いられている2軸ボギー台車であり、本項目でもこの形式を中心に扱う(一部に3軸ボギー台車もある)。また中には1軸で回転を許容したものもあるが、一軸台車ということが多い。
第2の要因に関しては、2軸であっても車輪を支持する部分を車体と切り離したものがあり、車体に対する回転(首振り)機能はないが、これを単台車と呼ぶ。ボギー台車においては、レールに起因する縦の揺動をボギーの2軸間で一旦平準化するので原理的に揺れが少なくなり、またバネ装置を2段階にできる点でも、一般に2軸車に比べてより乗り心地をよくすることができる。従来バネ装置を台車構造の内部に持たせたものが多く、車体と台車の機能の切り離しが行われる形になっていたが、近年は、枕バネ(後述)の部分を車体との間に持たせる形のものが増えている。
台車の役割は次のようなものである。
| 車体 | |
| 1 | (上下・左右動、回転を受ける部分) |
| 2 | 台車枠 |
| 3 | (上下動を受ける部分) |
| 4 | 軸箱 - 軸受(輪軸回転を受ける) |
| 5 | 輪軸(車軸 - 車輪) |
| レール |
このように、役割が多岐にわたる中で、レール上で車体を支持するための構成は、多くの旅客車で使用されている台車ではおおむね左図のようになっている。前後方向は、レールに沿って進行する方向なので固定し、車体と台車の間の牽引力・ブレーキ力を伝達する。(なお前後・左右はそれぞれ列車の進行方向と、それに直交する枕木方向。上下は垂直方向とし、回転はこの垂直軸の回りの回転とする厳密には他の2軸の回転もあるがこれは上下動に分解して受ける。)。
自動車のサスペンションと似た部分もあるが、大きく異なるのは、一つは輪軸がレールに沿って進行するため左右が拘束されるので、車体の左右動をかなりの量受けねばならないことである。もう一つはカーブやポイントでの回転がレールによって引き起こされるため、操舵のために自ら回転させる必要がないことである。
上記の要求を満たすため、通常1では回転機構と、車体・台車枠間の上下・左右動を受けるバネとその振動を減衰させるダンパーの機構、3では軸箱・台車枠間の上下動を受けるバネおよびダンパーの機構を設ける。1を車体支持装置、3を軸箱支持装置とよぶ。この両者の機構には、非常に多くの種類が考案・実用化されてきた。
模式的に車体-バネ-輪軸が垂直に並んでいるとして、レールにより上下動が生じた状態では、一般にはバネより下の重量が軽いほど、車輪が容易にレールに追随することになり、またバネを介して車体に与える振動衝撃も少なくなる。鉄道車両の台車では通常3にある軸バネ(形式が違うこともある)の下に相当し、台車全体と共に、このバネ下の軽量化にもさまざまな工夫がされてきた。
次に台車の構成と部品を示す。
軸箱支持装置は、台車枠に対して軸箱を上下にバネを介して可動にする(固定またはそれに近いものもある)一方、前後・左右には固く支持する。
以前は、上下の案内にスライドレールの役割をする軸箱守を設けて軸箱を滑らせ台車枠との間に軸バネを介する方式、さらに古くは下記のイコライザーで軸箱を支える方式が多く用いられたが、上下案内とバネ支持を上下にたわむ板バネで行うものや、リンクを用いるものなど、様々な形があるため、以下の各部分は方式によりあるものもないものもある。
鉄道車両の台車は、イギリスにおけるその黎明期に馬車の揺動防止機構を援用する所から出発した。
これはイギリスにおける鉄道建設が1820 - 1830年代当時、同国で発達していた有料道路や有料運河と同列のものとして考えられ、旅客輸送については馬車の車輪だけを置き換えて軌道上を走行させるという運用形態がごく普通にとられていたこの形態は1840年に、イギリス議会に設けられた委員会で鉄道上での旅客輸送を鉄道会社の独占的管理下に置くことが決議されるまで続いた。また、それ以後も馬車を平らな床のみを備える貨車に積載して旅客輸送を行う、今のピギーパックに近い輸送形態は各国で長く続いた。ことに一因がある。
馬車においては、かつては軸箱が車体台枠部分に作り付けとなっていたが、後に重ね板ばねを用いて弾性支持することで乗り心地の改善が図られた。鉄道車両においても、車輪をフランジ付きの鉄道車両用車輪に置き換えただけで、後は車体を含め当時の最新技術である馬車の設計を踏襲したため、最初の鉄道車両用台車は軸箱と重ね板ばねによる単純な軸箱支持機構にて出発することとなった。
さらに、それゆえに鉄道車両用台車は2軸単台車と呼ばれる、2つの車軸と車体との間の位置関係が基本的に固定された、最も原始的な構造で出発することともなり、輸送力増強の要請に対しては、2軸単台車のままでの車体延伸や、荷重増大に対処すべく1軸を2軸間に追加した3軸単台車化によって対処された。
これらもまた馬車の発達に倣った展開であり、曲線通過に対する配慮に欠けていたが、ボギー式台車発明以前においてはこれ以外に旺盛な輸送需要に対応する方策が存在しなかったのも事実である。
このため、イギリスにおいては車体に対して固定された2軸あるいは3軸構成の単台車と比較的長い車体を組み合わせた客車が走行可能なように極力緩いカーブと直線を組み合わせ、地形的な障害等に対してはトンネル掘削と橋梁や築堤、高架橋の建設による立体交差化で対処する、現在の新幹線に近い平坦かつ良好な線形での建設を強いられることとなり、車両の車体断面形状の最大値を規定する車両限界が馬車由来の小断面で確定された結果、イギリスの鉄道は以後も長く輸送力増強に悩まされることとなったイギリスの鉄道が標準軌間でありながら狭軌が主体の日本の鉄道と同等かそれ以下の車体断面を強いられ、にもかかわらず早くから高速運転を実施出来ている理由はここにある。イギリスで初期に建設された路線群は、既設設備の改築費用のあまりの膨大さゆえに輸送力増大を約束する車両限界拡大が阻まれ続け、それでいて建設から100年以上を経た地上施設のままでもその高規格設計ゆえに手直し無しでの200km/hを超える高速度運転が可能で、運行面からは大きな改修を要しない、という矛盾を抱えている。。
当然ながらこの方法論は既に都市圏が形成されていて確固たる輸送需要が期待でき、かつその建設に必要となる資金確保が容易であった当時のイギリスなどの先進工業国では容易であっても、鉄道建設そのものを社会的なインフラ整備や地域開発の基軸に据える、「開拓」の手段として展開しようとしていたアメリカや多くの植民地群においては、主として資金面の事情から実現が困難であった。特に、東部と西部と称される人口集積や産業振興が容易な2つのエリア間にロッキー山脈やアパラチア山脈をはじめとする急峻かつ巨大山脈が横たわっていて技術的にもその方法論の援用が非現実的であったアメリカの場合、状況は非常に深刻であり、建設費削減のために地形に従って急曲線や急勾配を許容せざるを得なかったその代償として建設費は当時のイギリスの一般的な例と比較して単位距離当たり約1/3となった。。このため、2軸あるいは3軸の単台車ではその曲線通過特性故に車体長が著しく制限され、需要に見合った輸送力が提供出来ない、というジレンマを抱えることとなった。
アメリカで問題となった曲線通過にかかる単台車の制約問題を解決したのは、宗主国たるイギリスで1821年にウィリアム・チャップマンによって考案・特許申請されたボギー台車であった。元々は蒸気機関車の先台車のために考案された機構を応用したこの方式は、従来、車体と台車が一体で固定されていたのを改め、従来よりも長大な車体と2台以上の台車を組み合わせ、台車上部の枕梁上に心皿と呼ばれる荷重支持と旋回を支える台座を設け、これに車体に取り付けられたセンターピンを落とし込んで首振り可能とし、更に心皿の左右に側受(サイドベアラー)と呼ばれる荷重の分担支持を担当する部材を設置することで曲線通過を容易にするものである。
この方式はイギリスではその必要性が薄かった高い用地取得費と低い人件費、それにニュートン以来の伝統故に、イギリスでは直線主体の線形が自然なものとして受け入れられていた。こともあってしばらく普及が遅れたが、輸送力増強と線路条件の双方の事情から切迫した状況にあったアメリカでは1834年のロス・ワイナンズによる特許申請以降、急速に普及し、事実上の標準方式となった。
アメリカでは当初、単台車と同様の重ね板ばねを使用するペデスタル式の軸箱支持が採用されていたが、やがて劣悪な軌道条件に好適な釣合梁(イコライザー)台車が、やはり蒸気機関車の先台車用として開発された技術を応用する形で導入され、これも爆発的な普及を見ている。
なお、この時期のアメリカでは鋼材よりも良質木材の調達の方が容易な状況脱線等で破損した場合の修復・交換も容易であった。総じてアメリカの鉄道ではその極端な駅間距離の長さや人口集積度の低さなどの事情もあってメンテナンスフリーへの意識が高く、また現場での対処が簡便かつ容易な構造が好まれる傾向が強い。にあり、鉄道車両、特に客車の台車枠を木製とする例が多く見られた例えば日本において完全にアメリカ流のプラクティスが導入された幌内鉄道では、その開業に当たってアメリカから輸入された2軸ボギー客車の台車枠が木製であった。このことは鉄道博物館に現存する「開拓使号」や小樽市総合博物館に保存されているい1号客車で確認できる。。
台車の多様化の観点から重要な役割を果たしたのは、1890年代以降の高圧送電システムの普及と歩調を合わせてアメリカで爆発的な普及を見た、路面電車およびインターアーバン(都市間電気鉄道)であった。
これらはエジソンの部下であったフランク・スプレイグ(Frank Julian Sprague)の手によって確立された吊り掛け式モーターと架線集電を基礎とする簡潔なシステムをその基本とするが、その最初期より電車用台車製作に参入し、大きな利益を上げた企業の一つにJ.G.ブリル社があった。
馬車鉄道用客車製作で創業したブリル社は当初、柔らかく乗り心地が良く、しかも床面高さを軸ばね式より低くできるウィングばねを軸箱支持に採用し、型鍛造による強靱かつ事故破損時の修復が容易で、しかも顧客の要望に応じて自由に車軸間のホイールベース(軸距)を変更可能な側枠構造を備えるBrill 21E 2軸単台車で名を上げた。同台車は路面電車用2軸単台車の代名詞的存在として世界中に広く普及し、かつ世界中のメーカーにライセンス生産品や模倣品を大量に製造されるほどの成功作となったが、その一方でこれはその成功故にインターアーバン市場の可能性に気付いた競合メーカーの台頭を招き、それらとの競争の必要や急速に拡大する市場の要請から、同社は矢継ぎ早に新機構を備えた各種台車の開発に邁進した。
その過程で同社は成功作である21Eの構造を基本としつつ、ラジアル台車、マキシマム・トラクション台車(Brill 22E・39E22Eは21Eの拡大版、39Eは後の27GEのマキシマム・トラクション版。など)、と次第に大型化してゆく車体に対応した台車の開発を進め、軸ばね式で細身の側枠にハンガーと釣り合いばねを介して線路方向に重ね板ばねを置き、揺れ枕を支持するBrill 27G→27GE→76E・77E76E・77Eは低床車用として27GEを基本に後述の27MCBと同様の新機構を導入したもの。76Eは主電動機を外掛け式とした短軸距モデル、77Eは主電動機を車軸間に内掛けとした長軸距モデルで、主電動機架以外の基本構造は同一である。なお、ブリル社製台車に与えられている形式名のEはEnroll(登録)を意味し、量産製品であることを示した。、これを基本としつつ板ばねを長い下揺れ枕に置き換え、その上に枕木方向に重ね板ばねを置いて上揺れ枕を支えるBrill 27E、更には釣り合い梁(イコライザー)を2軸間に渡してその上に側枠から下ろしたコイルばねを載せ、枕梁をそれとは独立した枕木方向のスイングリンク(揺れ枕吊り)で支持するBrill 27MCB1909年開発。なお、型番のMCBはMaster Car-Builders Associationの基準に準拠して設計されたことを示し、他社製品にも同様の付番例が見られた。、と量産に適した型鍛造による強靱な側枠を特徴とするただし、試作要素の強い27Gなどの一部には鋳鋼製側枠を備えたものもあった。独特の構造の2軸ボギー台車を電鉄各社に大量供給した。
特に、ブリル社製電車用2軸ボギー台車の決定版となった27MCBでは、通常の重ね板ばねだけではなくグラジエート・スプリングと呼ばれるコイルばねを組み合わせて必要に応じて異なった特性のばねが作用する巧妙な枕ばね機構荷重が軽い間は柔らかいコイルばねが作用し、荷重が一定水準を超えると、このコイルばねがセットしてしまう(圧縮限界に達する)前に上下の周囲に設けられた支持部品同士が接触してコイルばねをバイパスし、硬いが耐荷重上限の高い板ばねに直接荷重がかかるようになる。つまり、枕ばねのばね定数を2段可変式としており、ブリル社は1910年代には乗り心地を支配するのは枕ばねであると結論付けていたことになる。事実この時代に製造された同社製台車はいずれも枕ばねを可能な限り柔らかくするように設計されており、車両の大型化による荷重の増大を見越して硬い枕ばねを好んだボールドウィンと好対照であった。、曲線通過時の旋回特性を改善すべくトラニオンあるいはトラニオン・タイ・ロッドとも呼ばれる。と呼ばれる自在継ぎ手で側枠部とボルスタ部を連結する、現在のボルスタアンカーに相当する揺動抑止機構回転部の摩擦力を利用する単純なリンク機構であったが、台車側受の摩擦抵抗軽減とビビリ振動の抑制に絶大な効果があった。世界各国でボルスタアンカーが広く普及したのは1950年代以降であり、非常に先進的な設計であったことが判る。、それに揺れ枕のスイングリンクに組み込まれ、摩耗によるがたつきの除去に効果を発揮したボールハンガースイングリンクと揺れ枕の接触部を半球状の本体と、これに対応するくぼみで構成。球状であるため摩耗の点で有利であったが、摩耗しきった場合にはリンク本体の半球部を鍛造などで作り出す必要があり、鍛造設備を持たない中小私鉄では手に余る面もあった。およびスナッパー先述のボールハンガーと1セットで使用され、スイングリンクの可動ピンを抑えばねで常時押さえつけることでがたつきを除去する。この機構は特許対象外であったのか、後に国鉄TR23・25などで模倣採用されたなど、静かで乗り心地の良い台車を実現するために非常に先進的な機構が満載もっとも、これらの特徴的な新開発機構の大半は模倣品対策として特許で保護されており、21E同様に各社で製造された模倣品はことごとくこれらの機構を省略していたため、乗り心地の点で正規品に大きく劣った。されていたその先進性と乗り心地の良さゆえに27MCB系は採用各社で非常に長期に渡って使用され続け、日本では実に2007年まで高松琴平電気鉄道で現役の旅客車両に使用されていた。。
この、ブリル社による多様な電車用2軸ボギー式台車製品の展開に立ちはだかったのが、前述のA形台車、およびこれの荷重上限拡大版であるAA形AA形は各部の設計変更や強化を行って、心皿荷重上限をA形よりも引き上げた改良モデル。、それに路面電車用低床台車のL形、およびR形を展開したボールドウィン・ロコモティブ・ワークス(Baldwin Locomotive Works)社である。
元来がアメリカ最大の蒸気機関車メーカーであり、2軸ボギー台車のルーツと言うべき蒸気機関車用2軸先台車の設計をインターアーバン用台車に展開する形で1900年代後半にこの市場に参入した同社は、釣り合い梁と揺れ枕吊りを備えたMCB規格準拠のA形台車を第1陣として、「世界の機関車工場」と謳われたその量産力に裏付けられた低価格と、長年の機関車設計で得られた優れた設計による高い信頼性を武器に市場で台頭した。
特に処女作でありながら空前のヒットとなったA形は、78-25Aのように軸距(インチ数)と心皿荷重上限(×1000ポンド単位)を数字で示し、その後に形式名を示すアルファベットを付与するその型番が示すとおり、顧客の要求に応じて自由にそれらのスペックを変更可能とされており、ボールドウィンの創案になる優美な半月形の鍛造釣り合い梁、複列のコイルばねを天秤式で側枠と接続する巧妙な釣り合い梁のばね受構造、丈夫で変形時の修理の容易な可鍛鋳鉄(マリアブル)を使用する軸箱守(ペデスタル)、入手の容易な一般鋼材を組み合わせて設計された側枠構造など、実用的、かつ製造および保守の容易性に留意したその合理的な設計を見れば大ヒットを納得できる、優れた台車であった。
このA形で示された基本コンセプトは以後の同社製台車各種でも当然に継承されており、特にBrill 27GE→76E・77E対抗として送り出されたL形およびR形ライバル製品のBrill 76E・77Eと同様、L形は主電動機を外掛け式とした短軸距モデル、R形は主電動機を車軸間に内掛けとした長軸距モデルで、主電動機架以外の基本構造は同一である。でも釣り合い梁関連の特徴以外は全て継承されており、ライバルであるブリル社製台車が量産では有利であるものの巨額の設備投資を要する製造法大型の台車枠を型鍛造で製造するには、その規模に見合った鍛造機を必要とする。と各部機構の特許取得に邁進してコピー品との差別化やライセンス供与ビジネス具体的には日本の日本製鋼所やイギリスのブラッシュ・エレクトリック(Brush Electric)社などの国外メーカーにライセンスが供与され、これらの企業では正規のJ.G.Brill社製品と同等の機構を備えた台車が製造された。の展開を図ったのに対し、入手の容易な部材を使用し生産性に優れた同社製台車は、普及期と第1次世界大戦の勃発が重なって入手難の状況がしばらく続いたためもあって、むしろそのデッドコピー品ボールドウィン製台車はコピー品の製造が特に容易であることで知られ、例えば南海鉄道天下茶屋工場は自社のモハ1201形用N-16として汽車製造K-16や日本車輌製造D-16を採寸しコピー品のコピー品を、つまり孫コピー品を製造している。知的財産権という概念が未発達であった時代故の産物ではあるが、これは車両保守を主業務とする工場でさえ、鍛造の釣り合い梁さえ別途調達すれば容易に製造可能なほど、ボールドウィン製台車が部材調達や工作の容易性を重視していたことの証である。がブリル台車を駆逐する勢いで世界中に大量に普及することとなった。
路上からの乗降を行う路面電車の場合、通常の鉄道車両とは異なる設計が求められる。具体的には、客室の床面高さを路面に近づけることが、乗客の乗降の便を図る上で望ましく、古来より様々な方法が試行錯誤されてきた。
その最初期例となったのは、電気鉄道用2軸単台車としては空前のベストセラーとなったBrill 21Eを開発したJ.G.Brill社が路面電車車両の大型化に対応して1891年に開発した、初の2軸ボギー式台車であるBrill 22EメーカーカタログではEUREKA台車と謳い、そのメリットを列挙していた。である。この台車は車体床面高さを低く抑えるために通常のボルスタと心皿を省略し、円弧状のガイドと、コンプレッションブロックと称するばね付きのピンを内蔵した支持架で旋回と牽引力を担当し、垂直荷重は側受を介して複列のコイルばねが負担するという、現在のボルスタレス台車の始祖とでもいうべき変則的かつ極めて複雑な構造を備えていた。この台車は同時に、動輪と従輪の2つの車輪径を違えて動輪にかかる荷重を大きくし、粘着力を稼ぐ「マキシマム・トラクション」台車の最初期の例の一つでもあるが、これらの特徴的な構造・機構はいずれも、路面電車で求められる床面高さの引き下げと電動機を装架する動軸の粘着力確保を両立する方策としてこの特異な構造が採用されたものであったこの特殊構造は、以後の路面電車用低床台車の進むべき道を示唆するものであった。もっとも、この台車には従輪の軸重が軽いために特に車体の長い車両に装着されると曲線通過時に従輪の脱輪を引き起こしやすい、という問題があり、J.G.Brill社も以後は通常台車を低く設計する方針に転換、ここで示された方策の数々は一旦は忘れ去られることとなった。ただし、このマキシマム・トラクション台車はアメリカでは上述の不具合ゆえに短期間で製造が打ち切られたが、重心が高く軸重過大で軌道を痛める恐れがあった2階建て電車を多用したイギリスではその後も低重心化が容易なことから愛用され、1910年代までJ.G.Brill社からライセンス供与を受けていたブラッシュ・エレクトリック社で生産が継続している。。
もっとも、変則的な構造を備えるこのBrill 22Eでの試行は、事実上失敗に終わった採用各社の多くが本台車の廃棄、あるいは本台車装着車の淘汰を短期間で実施している。。このため、J.G.Brill社はこの野心的な設計を捨てて通常構造の台車への移行を強いられ、Brill 27Gを筆頭とする高床を前提とする27シリーズを開発、一旦は低床台車の開発を中断することとなった。
そのため、各地の路面電車では、これらの通常の高床式ボギー台車を使用しつつ客室床面の低床化を図ることが試みられた。それは例えば台枠の台車間を引き下げ、2階建て電車の1階床面と同様に軌道面に近いレベルまでその部分の床面を下げる、といった方策この手法を用いた車両は部分低床車と呼ばれ、後年バリアフリーへの対応として低床化が要請されるようになった際に、そのメリットが再認識されることになる。であり、1910年頃にニューヨーク鉄道(New York Railway Co.)のヘドリィ・ドイル(Hedley Doyle)によって考案され、その名を取って「ヘドリィ・ドイル・ステップレスカー」(Hedley-Doyle Stepless Car)あるいは運行線区にちなんで「ブロードウェイ・バトルシップ」(Broadway Battleship)と呼ばれる中央出入り台式の車両5000・6000形。6000形はこの構造を活用した2階建て(構造的には現在日本の近鉄や京阪、あるいはJR各社で運行されている二階建て車両に近い)で、客室側を小直径の従輪としたBrill 62Eを装着していた。なお、同種の構造の部分低床車はロサンジェルスのパシフィック電鉄にも導入されている。が当時の部分低床車の代表例として知られている。
長く単純な軸ばね台車や、釣り合い梁式台車が一般的であった鉄道車両用台車であるが、20世紀に入る頃から列車運行速度の引き上げに対応し、これに適合する特性を備えた設計とすることが求められるようになった。
鉄道車両の輪軸においては通常、曲線区間での自己操舵を成立させるために円弧踏面を備えた車輪を車軸に固定してある。
しかしながら、この構造で2軸ボギー台車を構成する場合、限界速度域での自励振動による蛇行動現象の発生は不可避であり、安全な列車運行のためにはこの限界速度が実用速度域よりも高い速度となるよう、台車を設計する必要がある。
この問題は長く重要視されていなかった特に日本の国鉄では、長らく蛇行動による脱線事故が発生しても「線路が曲がっていたことが原因である」と判断されており、蛇行動の発生メカニズムそのものを考察するという発想が欠如していた。軌道不整といった軌道側の要因も蛇行動の拡大に大きく影響していたことは確かであり、この判断は必ずしも誤りではなかったが、根本原因を特定する上ではミスリーディングを誘発するものであったことは否めない。が、第二次世界大戦後、日本国有鉄道の鉄道技術研究所に旧軍系の航空技術者が参加し、彼らの中に航空機の自励振動によるフラッター現象の研究で知られた松平精らがいたことで、日本においてはこの分野での研究が急速に、そして飛躍的に発展した。
これはまず、1946年末に鉄道技術研究所や台車メーカー各社が参加して設立された高速台車振動研究会における高速化実現の方策の一つとして研究が進められ、松平らによる精密な模型を用いた振動試験の成果を反映する形で、蛇行動対策として高剛性の鋳鋼製側枠を使用し、軸距を伸ばし、更に軸箱剛性を高く設定した新型台車の開発が進められた。
この構想に忠実に従って設計された台車の一つに扶桑金属工業FS-1がある。ユーザーである国鉄と南海電鉄が与えた形式名をそれぞれDT14(TR37)・F-24と称するこの台車は、新しいウィングばね式の軸箱支持機構を備え、従来通り重ね板ばねによる枕ばねを揺れ枕で支える、過渡的な形態を備えていた。だが、それでもこれは在来品と比較して優秀な乗り心地と走行特性を示し、高速台車振動研究会の研究成果を実証するものであった。
一体鋳造による重い台車枠は重量が過大となる傾向が強く軌道保守の観点からは受け入れがたい面があり、また長大な軸距は床下機器艤装スペースの確保や曲線通過時の転向性能の低下といった観点で難があった。このためより軽量かつコンパクトで、ばね下重量の少ない方式の模索が行われ、カルダン駆動などの駆動システムのばね上装架への移行と歩調を合わせ、側枠の軽量化を図った鋼板プレス材溶接組み立て構造への移行、過大と見なされた軸距の短縮による適正化、新しい軸箱支持方式の導入、といった新設計の導入が進んだ。
この段階で注目されるのは、航空技術者が多数参加した新興車両メーカーである東急車輌製造が東急5000系(初代)のために1954年に開発したTS301である。これは徹底的な軽量化実現のためプレス材による全溶接構造を採用し、さらにコイルばねが備える横剛性に注目し、これと振動の減衰特性に優れたオイルダンパーを併用して枕ばねとすることで揺れ枕を省略、側枠と枕梁の間の前後力をボルスタアンカーで伝達枕梁と車体の間には従来通りのボルスタピンと側受が存在し、牽引力はそれらによって伝達される。する、インダイレクトマウント台車の日本における鼻祖となった形式であり、この台車で採用された各種要素技術はその後の日本のメーカー各社による台車開発に大きな影響を与えた。
単列のコイルばねの横剛性に依存する形のインダイレクトマウント方式を旅客車用として直接模倣するメーカーただし、後年になって大阪市交通局が複列コイルばねの横剛性に依存したノー スイング ハンガー台車を、それもボルスタアンカを装着しない、非常に簡素化された設計で開発している。はほぼ皆無であったが、前述の空気ばねを枕ばねに採用し、横剛性を左右動ダンパーと過大左右動ストッパーの併用で確保する方式のインダイレクトマウント台車は、保守上の理由などで後述するダイレクトマウント方式の導入に難色を示した各社で採用され、また初期の採用例の一つとなったボルスタアンカーは揺れ枕式の台車でやはり側枠と上揺れ枕間の牽引力伝達手段として、あるいは側枠と上揺れ枕間を結合することで常用速度域での蛇行動減衰特性を確保する手段従来は側受の摩擦抵抗を適切な値とすることで直進安定性の確保を図っていたが、このボルスタアンカーの採用で復元ばね特性を利用可能となった。としてこの時期以降、各社で多用されるようになった日本の鉄道における台車へのボルスタアンカー装着の最初の例としては1951年に汽車製造が阪急電鉄京都線200形用として納入したKS-1Aと京阪電気鉄道1700系用として納入したKS-3A・3Bが挙げられる。これらは既に軸箱間を結ぶ線に極力近い位置にそれと平行にボルスタアンカーを装着し、各軸箱にもダンパが付加されており、台車のボルスタアンカー取り付け位置が車体の前後方向のピッチング現象に与える影響に関する研究が同社で進んでいたことを示している。。
サスペンションのばねとして空気圧を利用する空気ばねは、第二次世界大戦前の黎明期の事例では、金属製の円筒が使用された1910年代に日本車輌製造が開発した野上式弾機装置の一部においては、枕ばねを金属筒に納め、その伸縮時に円筒内の空気の流入・排出を制限することで一種の空気ばねあるいはエアダンパーとしての作用を期待する構造を採用していた。また、1930年代には日立製作所が横浜市電向けとして金属製ベローズを使用する空気ばね台車を開発している。ことが確認されているが、これらは構造面での不備や金属疲労や摩耗に起因する耐久性の欠如などによって充分な成功が得られず、広く普及するには至らなかった。
この空気ばねが実用的な形で広範に利用可能となったのは第二次世界大戦後で、自動車用タイヤからの技術的な援用ヨーロッパでは自動車用タイヤメーカーとして知られるフランスのミシュラン社が1930年代以降ミシュラン台車と称するゴムタイヤを車輪に使用する台車を製作し、超軽量客車や気動車に採用されていた。これは当時のミシュラン社社長が夜行寝台列車の乗り心地の悪さに辟易して発案したとされ、この台車を使用した客車は幹線用として100両以上が製造された。もっともこのミシュラン台車では軸ばねに自動車のサスペンションと同様、重ね板ばねの両端をリンクで支持する機構が採用されており、その点でも当時の自動車技術の影響が顕著であった。なお、この台車を装着する気動車はフランスの旧植民地などに今も一部が現存している。によるゴム製ベローズを使用するものが、アメリカでグレイハウンドと呼ばれる長距離都市間バスを中心に遅くとも1940年代には一般化していたこれはベローズ形の空気ばねで車体を支持し、高さをレベリングバルブと呼ばれる圧力調整弁で一定に保持するという以後の空気ばねの基本となるシステムを既に備えていた。。
しかし、当時既に斜陽化が指摘されていたアメリカの鉄道界では、これを鉄道車両に積極的に応用しようという動きは鈍く、この新技術の鉄道への本格導入は、敗戦後軍需産業の禁止もあって貪欲に隣接産業の技術吸収を行っていた日本の鉄道工業界、特に当時新型台車の開発に精力的であった高田隆雄彼は当時渡米してグレイハウンドの空気ばねを実見しており、これが空気ばね台車開発の直接のきっかけとなった。を中心とする汽車製造会社の設計チームと同社製台車の主要な顧客であった京阪電気鉄道の二人三脚によって強力に推進されることとなった当初は運輸省の補助金を得て、国鉄キハ10系気動車用DT19・TR49を改造して空気ばねの試験が実施されたが、これはベースとなったDT19・TR49の枕ばね部の致命的な構造欠陥から不調に終わり、以後しばらく国鉄による実車試験は行われなかった。。
1955年に京阪電気鉄道に最初に納入され、1956年8月より同社の1750形1759で試用が開始されたKS-50では、ゴム製空気ばねタイヤメーカーの協力は得られたものの、試作故にコスト面の問題から既存のスクーター用タイヤチューブの金型が流用されたという。の寸法的制約から、設計陣の希望する枕ばねの空気ばね化が叶わず、やむを得ず円筒案内式(シンドラー式)軸箱支持機構を備える台車の軸ばね計8本を空気ばね化するという複雑な構造が選択され、枕ばねはコイルばね+オイルダンパーのままとされた。
この試作台車は試験開始後、曲線が多く過酷な軌道条件の京阪線において大成功を収め、振動の減衰特性に優れ、しかもレベリングバルブによる空車時と満車時との積空差の自動吸収が可能、といった空気ばねの優れた性質が明らかとなったが、ここで軸ばねを空気ばねとしていたことで1つの興味深い技術成果が得られることともなった。軸ばねの優れた減衰特性を期待して、枕ばねをロックして試験走行を実施したところ、走行特性はそれほど低下しなかったものの、乗り心地の著しい低下が発生することが確認されたのである。これにより、走行特性を支配する軸ばねと、乗り心地を支配する枕ばねの分担関係が明らかとなり、従来経験則で決定されていた台車のばね定数決定についてのモデル化が可能となって以後の台車設計に大きな影響を残すこととなった。
この後も汽車・京阪のコンビは、大径のベローズ式空気ばねを枕ばねに用いる日本初の量産実用空気ばね台車であるKS-511957年より製造。軸箱支持機構に円筒案内式(シンドラー式)の機構を採用することもあって、優秀な性能を発揮した。を筆頭に1自由度系軸箱梁式空気ばね台車(エコノミカルトラック)など次々に新しい構造の空気ばね台車を開発し、競合他社においてもこれに刺激されて様々な空気ばね台車の開発が行われるようになっていった。
汽車製造以外の各社による空気ばね台車の研究開発は1957年以降本格化し、国鉄でのDT21Yの試作これは1958年9月竣工の20系特急電車用DT23系として結実することになる。や、東急車輛製造1957年に東急5000系(初代)用TS-308を試作し、1958年には札幌市交通局D1000形気動車用TS-107を製造しているが、本格的な高速電車用空気ばね台車の量産は1960年の東急6000系電車向けTS-311・312以降となった。や日立製作所名古屋市交通局向けKL-10と相模鉄道向けKH-15を1957年に試作。量産空気ばね台車は1959年以降。を皮切りに各社で試作台車の実用試験が進められた。この中で、汽車・京阪コンビ以外でもっとも積極的にその開発を進めたのは、汽車がKS-51に採用したシンドラー式円筒案内台車と同様の機構を備える、シュリーレン式円筒案内台車の開発を進めていた近畿車輛と、その親会社であり同社製台車の大口顧客でもある近畿日本鉄道(近鉄)であった。
当時近鉄は競合路線である国鉄東海道本線及び関西本線との対抗上、特急列車の高速化と冷房化や乗り心地の改善などのサービス施策を積極的に推進しており、1957年頃には画期的な高性能車であり、かつ以後の日本の有料特急電車の基本形を確立することにもなる、新型特急車(大阪線用10000系ビスタカー)の設計を進めていた。
近隣の汽車・京阪による空気ばね台車の成功を目の当たりにした同社は、1958年に高性能車の試作車である近鉄1450系電車の装着していたKD-6枕ばねに板ばねを用いるシンプルな設計で、コイルばねを用いたKD-7との比較試験の結果、量産台車では不採用となったものであった。の枕ばね周辺を改造して短腕リンク式揺れ枕に空気ばね装備としたKD-25で運用データを採取後、KD-26・27・27A(10000系用)・28・28A(6431系用)として同年6月に製造した特急電車全てに一気に空気ばね台車を装着するという積極性を示した。
これらと、続いて同年秋に竣工した国鉄20系特急電車の成功は、空気ばねの優秀性を各社にまざまざと見せつける結果となり、以後日本においては優等車では空気ばね台車の使用が当然、という風潮が醸成された。そればかりか、通勤車であっても空積差を自動調整可能な空気ばねを採用することの有利さが徐々に認識されるようになり、DT21系のコイルばね台車を1980年代半ばになるまで普通車向け標準台車として墨守した国鉄イニシャルコストの高騰抑制を最重視し、117系電車や201系電車、あるいは凍結が問題となる北海道向け気動車用といった特殊なケースを除き、空気ばね台車の一般車への採用は原則的に行わなかった。以外では、1970年代中盤までには通勤車でも新製車には空気ばね台車を装着するのが当然、という状況になっていった。
台車の枕梁(ボルスター)を省略したボルスタレス台車は、電車用ボギー式台車の黎明期にJ.G.Brill社により開発されたBrill 22Eがその最初期例となると見られるが、近代的なものとしては、電気機関車やディーゼル機関車において列車牽き出し時等の重心移動に伴う軸重変動とこれに伴う空転の防止のために、機械的な軸重移動補償を実現する手段として考案された仮想心皿方式(ジャックマン式)と呼ばれる機構に端を発する。
これは車体から下に突き出した支持架に連結される引張棒を、軸箱よりも低い位置で台車枠に関節を介して連結し、上から見てZ字状のリンクを形成することで心皿なしに台車の旋回を実現するものZリンクの作用により旋回運動の中心軸の位置が定まることから、これを心皿中心に見立てて仮想心皿方式と呼ぶ。である。
この方式は1950年代後半以降、フランスやアメリカで機関車用として一般化し、日本においても1962年設計の国鉄ED74形電気機関車で導入され、以後コンパクトなD形機が多く粘着特性が特に重要視される交流電気機関車や、軸重移動補償に制約の多い3軸台車を備える国鉄EF62形電気機関車などに採用されている。
さらに、この方式を敷衍して枕梁が1台車2軸駆動の妨げとなりやすい気動車用として、通常のボルスタアンカーと同じ位置でZリンクを構成するDT35・36・TR205・205Aが開発され、大出力機関を搭載する試作車(国鉄キハ90系気動車)に採用された同系列のデータを元に開発された国鉄キハ181系気動車にも同系の台車が採用されているが、同系機関を搭載する国鉄キハ66系気動車では枕梁に貫通穴を設けることで推進軸の干渉をクリアし、通常の枕梁と心皿を用いる方式に逆戻りしている。。
これらの各方式はそれぞれの目的において充分な成果を挙げたが、その一方でこの仮想心皿方式には、当時の設計では部品点数が多く機構が複雑化しやすいという問題点があった。
こうした中、空気ばね開発の進展で1960年代後半には大径のダイアフラム形空気ばねが実用化され、これを用いたダイレクトマウント形空気ばね台車が一般化ダイレクトマウント台車自体は、1960年代前半の段階でベローズ式空気ばねを使用することで既に実用化されていた。されるようになると、仮想心皿台車開発で得られたZリンク式の牽引機構に加え、このばねに備わった高い横剛性を活用することで枕梁を省略したシンプルな構造の台車を開発することが模索されるようになった。
つまり、台車において垂直荷重と牽引力、それに旋回力という3つの異なった力を伝達していた枕梁と心皿を排し、垂直荷重と旋回力を空気ばねで、牽引力を牽引装置で、それぞれ分担することで代替し、重い枕梁や心皿を省略し軽量化を実現しよう、というコンセプトが提案されるようになったのである。
この方式の技術開発では1970年代初頭以降、仮想心皿方式を生み出したヨーロッパ各国が研究開発とその実用化において先行したが、日本でも 1977年に川崎重工業によるKW-25軸箱支持機構に積層ゴムを用いるシェブロン式台車で、同じ軸箱支持機構を採用し、ダイレクトマウント式の枕ばね部を備えるKW-24と共に京阪電気鉄道にて同社の3000系に装着して走行試験が行われた。、さらに1979年には住友金属工業によるFS500と称する試作台車が完成1979年7月から1981年5月にかけて帝都高速度交通営団東西線5000系5345号車で長期実用試験を行った。、特に後者の設計は1980年11月より製造が開始された半蔵門線用8000系電車に採用され、住友金属工業SS101として本格的な量産が開始され、以後の日本におけるボルスタレス台車普及の端緒となった。
日本の鉄道において、この方式の普及を決定的なものとしたのは、国鉄が台車メーカー各社と共同で研究と試験を繰り返した末、その最末期に実用化にこぎ着けたDT50であった。この台車はほとんど一本のまっすぐな棒に近い側梁の形状など極限に近い単純な形状とシンプルな機構を備え、イニシャルコストとメンテナンスコスト、それに走行性能空気ばねの採用による乗り心地の改善もさることながら、同じ空気ばね台車である従来のDT32やDT46と比較して台車1台あたり1t以上(主要な置き換え対象車両に装着されていたコイルばね台車であるDT33との比較では約2.5t)の軽量化による軌道の負担軽減、つまり軌道保守コストの低減効果は絶大と言って良い水準に達していた。また、ヨーダンパの付加が必須ではあったが、本台車の派生形式各種により、分割民営化後のJR各社で130km/hでの営業運転が開始されている。の各点で従来の制式台車各種を大きく陵駕していた。このためDT50とその派生形式各種は国鉄分割民営化直前から分割民営化後にかけての約10年間に大量生産された電車・気動車に大量採用され、以後のJR各社でもこれを基本に軸箱支持機構を変更したモデルが採用され続けるなど、大きな成功を収めることとなった。
もっとも、ボルスタレス台車はその旋回特性が空気ばねの横剛性に依存するため、これの許容上限を上回る急曲線通過が要求される線区での使用には適さずこのため急曲線の多いミニ地下鉄等では、スペース面ではボルスタレス台車の採用が望ましいにもかかわらず、枕梁を備える台車が採用されている。例えば本線東垂水駅前後に厳しい線形のS字曲線区間を擁する山陽電気鉄道は、5000系で川崎重工業製試作軸梁式ボルスタレス台車(KW-73・74)の長期実用試験を行ったが、以後の増備車では軸梁式の軸箱支持機構は継続採用としたものの、ボルスタレス台車の採用は行わず、心皿のあるダイレクトマウント台車(KW-93・94)に戻している。
、また高速走行時には車体のヨーイングを抑制するヨーダンパ(アンチヨーイングダンパ)の付与が必須であるなど、いくつかの問題点が存在するなお、福知山線脱線事故の際には事故車が本方式による台車を装着していたことから、一部でボルスタレス台車全般について欠陥のある危険な台車であるとする言説が「車体が軽量ステンレス構造であったことで被害が拡大した」とする主張と共に流布されている。だが、当該事故は本質的には曲線区間での極端な速度超過およびこれを許す貧弱な保安システムが原因であり、通常使用の範囲でボルスタレス台車を問題とするこれらの主張においては、客観性のある具体的な論拠は何ら提示されておらず、また専門家からの具体的なデータを伴った反証に対して充分な再反証を行い得ていない。このことから、この主張は一般的には充分な裏付けを伴わない、疑似科学的なデマゴギーの域を出ないものと見なされている。。それゆえ、この方式を採用することによる台車重量そのものの、あるいはばね下重量の軽量化阪急電鉄や京浜急行電鉄のようにこれを曲線通過時の車輪のせり上がり現象による脱線と結びつけて否定する会社も存在するが、軌道条件が良好でなおかつ超高速運転を行う新幹線やTGVではばね下重量減少のメリットの方が遙かに大きいことが確認されており、一概には断定できない。なお阪急および京浜急行の主張は「台車は軽量化すべきではない」であり、ボルスタレス構造そのものの否定ではない。事実、阪急は住友金属工業SS102、つまり日本初の量産ボルスタレス台車となった営団8000系用SS101の次に設計されたボルスタレス台車を導入するなどこの機構に早い時期から注目していたことで知られており、現在も一部の車両にボルスタレス台車を採用している。また、本線品川付近にボルスタレス台車装着車が通過可能な限界に近い半径100mの曲線区間(阪急では宝塚線三国駅の高架化まで半径100mの曲線が存在し、ここをボルスタレス台車装着の車両が走行していた)が、蒲田での空港線との分岐に至っては半径80mという極端な急曲線(これでも改良工事により緩和されており、かつては半径60mという路面電車並みの急曲線が存在し18m級車両の入線すら不可能であった)が、それぞれ今も存在する京浜急行電鉄では転向性能で不利なボルスタレス台車を導入したくとも出来ないというのが実情である。このため、乗り入れ相手となる東京都交通局(都営浅草線)・京成電鉄・北総鉄道の3社局でも乗り入れ車両については、空港線への乗り入れ運用が主体となっていることもあり、ボルスタレス台車が採用されていない。なお、現在の日本の私鉄でボルスタレス台車の導入に否定的な見解を示す各社は前述の京浜急行および阪急を含め、いずれも軌道条例あるいは軌道法に依拠する電気軌道として出発した古い歴史を持ち、本線上に軌道時代に由来する急曲線区間を抱え用地難等の事情から充分な線形改良工事を実施できないまま現在に至った、という背景事情があることには注意を要しよう。には非常に大きな効果があり、部品点数の減少による低コスト化や保守の容易化などの要因もあって、以後日本の鉄道ではこの方式が急速に普及している。
Brill 76E・77Eのレベルで長く留まっていた日本の路面電車の低床化への取り組みであるが、それを改善しようという動きが具体化したのは、1955年のことであった。
この年、東急車輛製造が親会社である東京急行電鉄の玉川線用として設計した、画期的な超軽量構造の新型車であるデハ200形で、最小時510mm径の超小型車輪を使用するTS-302・501TS-302は両端の動力台車で東横線デハ5000形用TS-301と同じノースイングハンガー、かつインサイドフレーム構造の2軸ボギー台車、TS-501は連接部の付随台車で双方の車体からのリンク機構により操舵される1軸台車、となっており、平行カルダン駆動を採用した東洋電機製造製主電動機の最大寸法は307mm、と当時の技術では極限に近いダウンサイジングを行っている。なお、これらの台車に使用する車輪は、その小直径故に既製品が存在しないため、タイヤ部を含めて一体の特殊鋳鋼製車輪を装着した。当時、東急車輛製造本社工場内にはその前身である海軍工廠時代から継承された、高度な技術力を誇る鋳物工場があり、国鉄技術研究所の指導を受けつつではあったが、自社でこの特殊車輪の量産を実施できた。言い換えれば、この車輪の量産の目処が立ったからこそ、デハ200形は日の目を見たのである。が採用され、これにより従来の一般的な低床車よりも50mmから60mm程度低い、床面高590mmを実現したのである。
この車両自体は技術的な未成熟や運用面の不都合などから、決して成功作とはいえない存在後の新玉川線の建設計画もあり、デハ200形に続いて玉川線に導入された新造車は、通常構造のデハ150形となった。であるが、当時日本へ紹介が始まったばかりの最新技術をどん欲に取り込んだその設計は、将来の超低床電車に多大なサジェスチョンを与えうる非常に斬新なものであった。
だが、このデハ200形が製造された1950年代後半以降、日本の路面電車は急速にモータリゼーションの渦の中に飲み込まれ、画期的な低床車の開発を行うばかりか、通常構造の新造車を投入することさえ困難な状況へと追い込まれていった。このため、以後の日本の路面電車でのバリアフリー施策は、東京都交通局荒川線で1977年に実施されたホーム高さ引き上げによる対応つまり、車両側はステップを撤去して対応しており、低床化策は講じられていない。が目立つ程度で、1997年の外国技術の導入による熊本市交通局9700形電車の竣工まで、超低床化に対する取り組みはほとんどなされないまま、実に40年以上もの長期にわたってそのまま推移する結果となった。
1997年に熊本市が導入したのはドイツのアドトランツ(ダイムラー・クライスラーレールシステムズ 現ボンバルディア)社がその前身であるMAN社およびキーペ社時代(1993年)に開発した、俗にブレーメン形と呼ばれる100%低床車で、これは左右の車輪間をつなぐ車軸を廃し、主電動機を車体装架として座席下に押し込むことで通路部分の100%低床化を実現するものなお、この台車の枕ばねは動軸寄りにシフトして配置されており、一種の偏心台車と見ることもできる。である。
ヨーロッパでの低床化への取り組みは、近代的な意味でのバリアフリー施策との連携という観点では、1984年にジュネーヴ市電が導入した60%低床車が皮切りであるとされる。だが、これに必要となる基礎研究はドイツが先行しており、ドイツ公共輸送事業者協会(VDV)が政府助成金により1982年に研究をスタートし、1991年に試作車が完成した「シュタットバーン2000」シリーズは、イタリアやフランスといった各国の車両メーカーにも重要な影響を及ぼし、以後現在に至るまで各国で設計製造されている超低床車技術の基礎となっている。
輸入技術で100%低床車を導入した日本であったが、遅ればせながら2000年5月に当時の運輸省が呼びかけを行い、これに呼応したメーカー8社アルナ車両・川崎重工業・近畿車輛・三菱重工業・東洋電機製造・東芝・日本車輛製造・ナブコの各社。が共同で「超低床エルアールブイ台車技術研究組合」を2001年に設立、日本の路面電車に多い、1067mm軌間線区での使用に適した超低床台車軌間の問題もさることながら、台車上部で800mmの通路幅確保も至上命題の一つであった。の開発を進め、2004年3月の同組合解散当初より存続期間を3年と区切っていた。までに3種の試作台車「2輪独立車輪方式ステアリング方式」のタイプA、「4輪独立車輪方式(ギア付きMM方式)」のタイプB、「4輪独立駆動方式(DDM方式)」のタイプCの3種。を完成した。
この内、もっとも通常台車に近い構造を備えていたタイプBを基本として、同組合に参加していた近畿車輛(車体)・三菱重工業(台車)・東洋電機製造(電装品)の3社がユーザーである広島電鉄を交えてU3プロジェクトとして実用車の開発に着手し、これは2004年冬に広島電鉄5100形電車として初号車を完成、翌年3月より就役を開始した。
5100形に採用された台車は前述の通り「超低床エルアールブイ台車技術研究組合」の開発したタイプBを量産化したもので、言わばかつてのモノモーター式2軸駆動台車を左右の車輪それぞれで分離独立させたような駆動システムを特徴とし、付随台車を専用設計とすることで付随車の通路幅は1120mmを確保することに成功している電動車は880mm。。
読み込み中...