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藤子・F・不二雄

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

藤子・F・不二雄(ふじこ・エフ・ふじお、本名:藤本 弘(ふじもと ひろし)、1933年12月1日 - 1996年9月23日)は日本の漫画家富山県高岡市出身、富山県立高岡工芸高等学校・電気科卒。血液型O型。安孫子素雄(藤子不二雄)と共に藤子不二雄としてコンビを組み作品を発表した。代表作は『ドラえもん』、『パーマン』、『キテレツ大百科』、『エスパー魔美』、『21エモン』等。

略歴

1951年、安孫子と共に『毎日小学生新聞』に投稿した「天使の玉ちゃん」が見事採用され、共に17歳にして漫画家デビューを果たした。2人は博学博識で、そこから生まれるユニークかつユーモア溢れるアイディアは数知れない。その後、『オバケのQ太郎』、『パーマン』、『ドラえもん』等の大ヒット作を生み出した。1987年にコンビを解消し、藤子不二雄Fとして活動を始めたが、約1年後、トキワ荘の仲間だった石ノ森章太郎の助言によって藤子・F・不二雄に改名した。詳しくは藤子不二雄の略歴を参照。

人物

本人によれば、おとなしくて体が弱かった藤本は小学校時代いじめに遭い、番長格の少年に似顔絵を評価されるまでずっと抜け出せなかったそうである。その時の気持ちがドラえもん、のび太に活かされている。また、藤子不二雄の作品『まんが道』にも、その時の描写がある。

野球好きで、近鉄バファローズファンであった(『小学四年生』1971年1月号で読者の質問に回答)。 鉄道ファンでもあり、鉄道模型が趣味の一つ。1983年にはテレビ番組『ドラえもんヨーロッパ鉄道の旅』にキャラクターと共演している。また鉄道鉄道模型SL等を題材にした作品も多数存在する事からも情熱の程が伺える(SF短編『四畳半SL旅行』、『ドラえもん』「SLえんとつ」「のび太の模型鉄道」「天の川鉄道乗車券」、『ポコニャン』「ダイナミックもけい鉄道」等)。

恐竜についての造詣の深さでも知られ、仕事机には始祖鳥の化石のレプリカやティラノサウルスプラモデル、果てには本物のディプロドクスの尾の骨までが飾られていたという(作品としてはドラえもん大長編第一作のび太の恐竜や本編の各所、SF短編とT・Pぼんなどでも恐竜が絡んだエピソードは数多い)。

西部劇ガンマンに関した話も少なくない。のび太には射撃の才能があるエピソードが多く描かれており、またドラミとタッグを組んだ後期の話(「ドリーム銃」)やT・PぼんやSF短編集(休日のガンマン)などで本格的なスタイルのガンマンたちを描いている(まんが道にも道雄と西部劇マンガを描いているシーンがある)。

戦争経験世代であるからか、兵器や軍事に関するものも多くある。(まんが道では戦艦の三面図を描いていたり飛行機の模型がある場面)作品としてはドラえもんでのスネ夫の戦艦「大和」乗っ取りから潜水艦攻撃までのシーン、大長編のび太の宇宙小戦争など。兵器に関しては子供が憧れるカッコいいものと描いている(スネ夫の台詞など)面があるが、戦争自体への考えは世代に関係なく一貫して虚しい物や恐るべきものとして描いている(のび太の海底鬼岩城でのポセイドンに関する描写、スネ吉の「戦争とは金ばかりかかって むなしいものだなあ」という台詞、SF短編ではマイシェルターある日…など)。また、ドラえもん初期には戦争関連のエピソードがいくつか見受けられる(疎開先での児童生活の辛さを描いた「白ゆりのような女の子」の話など)。

スターウォーズに関するネタも漫画中に時折見受けられる(パロディとして描いたアカンベーダーなどの話のほかにも、リザーブマシンで取った映画の席がスターウォーズであるなど。SF短編ではある日…裏町裏通り名画館にスターウォーズのパロディ劇中劇がある)。

初の専属アシスタントとして『まいっちんぐマチコ先生』で知られるえびはら武司がいる。むぎわらしんたろう(萩原伸一)もアシスタントとして晩年の藤本を支え、一緒に劇を見たり途中で蕎麦を食べるなどとかなり親密な関係だった。またむぎわらが描いた漫画に細かい部分まで指導を行ったり、『ドラえもん』単行本の表紙を任せるなど、後進としても目をかけていた。

いくつかの作品に登場するキャラクター小池さんと同様に、好きな食べ物は「インスタントラーメン(特にチキンラーメン)」であると語っていた。お湯をかけるだけで食べられる、という点が「魔法のよう」であると言い、旧スタジオ・ゼロの屋上でインスタントラーメンを食べているグラフが撮影されたこともある。

アニメ版の制作は畑違いという事もあり、細かいチェックや要望などは行わなかったとされている。ただしずかについてだけは特別な拘りがあったらしく、絵や性格などに注文を出す時があったという。また、最初の映画『のび太の恐竜』に客が入るのか不安で、公開前日に映画館の向かいのホテルに宿を取った。封切り同時に多くの子供が駆け付け満員になったのを見て安心したという。

藤子不二雄同様、手塚治虫を子供の頃から生涯を通じての最大の師と尊敬し続けた。作風の面においてはハッピーエンドが多い藤子の作品と、重いテーマをシリアスに描く事の多い手塚の作品は対照的な部分もあるが、藤子は漫画の書き方の本や自伝などで頻繁に手塚作品への特別な思いを述べており、「いつか手塚先生のような壮大な作風にも挑戦してみたい気持ちもある」とも語っていた。

三人の娘がおり、一人はテレビ東京に勤務している。娘によれば藤本は、平均睡眠時間4時間という忙しさの中でも、家族と一緒の時間をできるだけ取るように心がけた人だったという。

晩年、小学館の学生誌等に作品が掲載される際には、「マンガの王様」というクレジットがあった。

訃報

1996年9月20日、家族が夕飯の準備を告げるといつもの様に仕事部屋から返事があった。だが呼んでからいつまで経っても来なかったので娘が仕事場へ呼びにいくと、机に向かったまま意識を失っているところを発見される。『ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記』の最初の数ページ目を自宅の仕事場で描いている最中で、発見された時鉛筆を握ったままだったという。そのまま病院に搬送され、3日後の9月23日午前2時10分にその生涯を閉じた。享年62、死因は肝不全であった。

自身も以前から先が長くないことを自覚しており、『のび太のねじ巻き都市冒険記』の大筋を執筆前に芝山努に教えていたり、亡くなった後の自身の作品の行方や、藤子プロの活動などに対して心配を寄せている内容を書いた手紙を残していた。

藤子不二雄は仮通夜にて、「気持ちは混乱していまして、正直言って今朝からずっと足ががたがた震えてて、すごく残念でしょうがないんです。彼はたいへんな天才だったと思うんですね、僕なんか彼がいたから漫画家になれたようなものでね。すごくピュアな気持ちの男だったですね。」と語った。また、『愛…しりそめし頃に…』の連載中に亡くなった事を受け、読切作品『さらば友よ』を執筆した。 葬儀にはたくさんと人が参列され出棺の時には「ありがと〜弘さ〜ん」と大勢の人に見守られながら天国へ旅立っていった。

大山のぶ代は葬儀の時、「本当のお葬式の日、ドラえもん、のび太くん、しずかちゃん、ジャイアン、スネ夫、ママ、パパみんなで先生を送りたいと思います。」と涙をこぼしながら語っていた(このことについては大山のぶ代『ぼく、ドラえもんでした。』に詳しい記述がある)。

作品

小学館の児童向け学習雑誌や『コロコロコミック』で児童向け漫画を描く一方、『ビッグコミック』等で大人向けのSF短篇漫画も描いた。藤子・F・不二雄のいうSFとは「サイエンス・フィクション」ではなく、「すこし・不思議」という意味であり、日常の中に非日常が飛び込んでくる内容の作品が多い。その一方でハードなサイエンス・フィクションの流れを汲む作品も多く、バラエティに富む。以下の作品は設定された世界がリンクしていることも多々あり、ある作品のキャラクターが越境して他作品に登場したり、後日談や前史が語られることもある。その詳細は作品別のリンク先で記す。児童漫画で架空の主人公と相棒の少年、女の子1名、大きなガキ大将と子分という設定が多い。

など多数

SF短編

アシスタント

関連項目

外部リンク

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