読み込み中...藤田 俊哉(ふじた としや、1971年10月4日 - )は、静岡県清水市(現静岡市清水区)出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。Jリーグディビジョン2(J2)・ロアッソ熊本に所属。また、Jリーグ選手協会会長もつとめる。
10年に渡り日本代表にも選出。2001年にJリーグ最優秀選手賞を受賞。
清水商業高校では、2年次に高校選手権優勝を経験。筑波大学を経て1994年、この年にJリーグへ昇格するジュビロ磐田に入団。1年目からレギュラーを獲得し、中山雅史、名波浩らとともに、ステージ優勝6回、年間優勝3回、そしてアジアクラブ選手権優勝1回という磐田黄金時代を作り上げ、自身もJリーグ・ベストイレブンに3度選出された。2001年にはJリーグMVPも受賞するなど、リーグではその能力を数々の実績で証明している。
一方で日本代表においては、ファルカン、加茂周、トルシエ、ジーコと歴代の監督により招集されたが、いずれの監督下でもレギュラーではなくサブとしての登用であった事から、当時はインタビューなどで「頂点を極めたなんて思ったことは一度もありません」と語っている。海外クラブに所属する選手を重用する傾向があったジーコ監督時代の2003年には、代表定着を狙うためにオランダのFCユトレヒトに半年間の期限付き移籍。この時期は積極的に代表に呼ばれたが、やはりレギュラー定着はできなかった。ユトレヒトでは1ゴールを記録するなど上々の成績を残した。シーズン終了後には移籍期間延長の打診もあり、藤田自身もオランダでのプレーの続行を望んだが、ユトレヒトには完全移籍に移行する際の移籍金を支払う資金力が無く、加えて成績が下降傾向だった磐田からは移籍期限終了に伴う磐田への復帰を強く要請されたため、日本へ復帰した。
このような経緯で磐田に復帰したものの、2004年末より監督に就任した山本昌邦の方針で出場機会が激減。代表へのこだわりを持っていたことから、出場機会を求めて2005年のシーズン途中に名古屋グランパスエイトに移籍した。名古屋では足掛け4年にわたってチームの精神的支柱として活躍したが、2008年にはMF小川佳純の台頭もあり出場機会が減少。高年俸もネックとなりシーズン終了後に戦力外通告を受ける。J1クラブも含めて複数のオファーの中から、低い条件ながら最も熱心に誘われたJ2・ロアッソ熊本へと移籍した。
愛車は2001年Jリーグ最優秀選手副賞の賞品であったサーブ9-3http://www.yomiuri.co.jp/atcars/nichiyou/aisya/20080214ai_01.htm。
攻撃的ミッドフィールダーとして、トップ下や右サイド、左サイドをプレーエリアとし、高い得点能力、パス能力を持っている。また、マークをはずす動きや、こぼれだまへの寄せの早さ、スルーパスへの飛び出し、豊富な運動量なども優れている。中盤から飛び出して積極的に得点を狙いにいくスタイルは、同時代、中田や名波などが典型的な中盤の王様という型にはまっていったなかで異色と言える。
また試合を組み立てる能力にも長けていて、司令塔としても日本人選手で一・二を争う。磐田時代には名波浩とともに攻守の要としてプレーしていた。
藤田は「一瞬のひらめき」を使った「藤田にしか見えない場所」に出すスルーパスで、このパスを出されるとディフェンスは、一瞬止って動けなくなってしまう。「ディフェンスをあざ笑うかのようなスルーパス」という言葉が似合う選手である。
名古屋に移籍し2年目の2006年からは、中盤でボールの交通整理を行う役目としてのボランチでの起用が多くなった。
2007年6月9日の対川崎フロンターレ戦(豊田スタジアム)の前半1分にPKによる得点を挙げ、中山雅史に次いで史上2人目となる、J1のリーグ戦で14年連続ゴールという記録を達成した。
2007年6月30日の対ヴァンフォーレ甲府戦(瑞穂陸上競技場)で史上初のJリーグ出場通算400試合を達成した。
2007年8月25日の対大宮アルディージャ戦(瑞穂陸上競技場)において、Jリーグ史上4人目、フォワード(FW)以外の選手としては史上初のJリーグ通算100得点を達成。通算得点の上位はほとんどがFWが占める中、特筆すべき記録である。
これまでのA代表歴は、24試合出場、3得点。
| # | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 1995年2月23日 | 中華人民共和国 | ○2-1 | 親善試合 | |
| 2. | 1995年6月10日 | イングランド | △2-2 | 親善試合 | |
| 3. | 2004年3月31日 | シンガポール | ○2-1 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 |
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