読み込み中...本姓は当初藤原氏と、次いで源氏と名乗ったただし、これは自分の血筋をよりよく見せるための自称であり、実際には加茂氏、在原氏との説もあるが定かでない。。家系は三河国の国人土豪・松平氏。
永禄9年12月29日、勅許を得て徳川氏に改姓。徳川氏の祖。通称は次郎三郎。幼名は竹千代。
死の直前、太政大臣に叙せられている武家出身者としては、平清盛・足利義満・豊臣秀吉に次いで史上4人目。。
死後、江戸時代を通じて、御家人・旗本には「神君」、「東照宮」、一般には「権現(様)」(ごんげん-さま)と呼ばれていた。
※ 日付は、太陰暦による和暦。西暦の暦法は便宜上、ユリウス暦とする。応仁の乱以降100年以上続いた戦乱に終止符を打ち、織田信長、豊臣秀吉により統一された天下を更に磐石のものとし、264年間続いた江戸幕府を開府し、その礎を築いた。日光東照宮・久能山東照宮などで「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)として祀られている。
戦国時代に、三河国・岡崎に岡崎城主・松平広忠の子として出生。幼名は竹千代。当時の松平氏は弱小であり、広忠は臣従していた今川氏に竹千代を人質として差し出す事となった。一時、家臣の裏切りにより織田氏の人質となるが、最終的には当初の予定通り今川氏に送られた。
今川氏の元で人質として忍従の日々を過ごすが、桶狭間の戦いにおいて今川義元が討たれた後、今川氏の混乱に乗じて独立し、織田信長の盟友(事実上は客将)として版図を広げていく事となる。やがて、本能寺の変において信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じさらに勢力を広げた。
豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て豊臣氏に臣従。秀吉の元で、家康は最大の領地を得る事となり、豊臣政権の五大老筆頭となる。秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利し、天皇から征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府(江戸幕府・徳川幕府と呼ぶ)を開いた。
三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として、天文11年(1542年)12月26日の寅の刻(午前四時ごろ)、岡崎城 で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)と命名された。
2歳の時、水野忠政の没後水野氏の当主となった水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏に従属したため、敵対する今川氏の庇護を受けていた松平広忠は於大を離縁した。そのため竹千代は幼くして母と生き別れになった。
6歳の時、松平広忠は織田氏に対抗するため、駿河国の今川氏に臣従し、竹千代は今川氏の人質として駿河国・駿府へ送られることとなった。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田氏へ送られた。しかし松平広忠は今川氏への臣従を貫いたため、竹千代は見捨てられた形となり、そのまま人質として尾張国に留め置かれた。織田信長とはこの頃知り合った。
2年後に松平広忠は死去した。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広(前年の1549年、安祥城を 太原雪斎に城を攻められ生け捕りにされている)との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府(『東照宮御実紀』では少将宮町、武徳編年集成』では宮カ崎とされている)に移され、岡崎城は今川氏より派遣された城代により支配された。
墓参りのためと称し岡崎城に帰参した際には、本丸は今川氏の城代が置かれていたため本丸には入れず、二の丸に入った。この時、鳥居忠吉から松平氏の御家人が今川氏の先鋒、事実上の捨石とされている事情を聞く。また鳥居忠吉が今川氏に内密で備蓄していた武具・兵糧・金銭を見せられ、家康は感涙したという。古老の御家人は、祖父・松平清康によく似ていると感嘆したという。
駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜り松平次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶った。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって松平蔵人佐元康と改めている。永禄元年(1558年)には織田氏に寝返った寺部城主・鈴木日向守を松平重吉らとともに攻め、これが初陣となった。
従来、松平広忠の嫡男である竹千代を人質に取った処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説であった。しかし近年、むしろ今川義元の好意(もちろん義元の側の思惑もあるが)によるものだという説が唱えられている「義元は雪斎を岡崎に送って動揺する岡崎衆を掌握させ、信秀に奪われた唯一の家督継承者、竹千代の奪還を命じた。西三河最大の今川与党であり、十数年にわたって義元への忠節を貫いてきた岡崎松平家は、他の松平党から当主を迎えさせるには惜しい存在だったからである。(中略)竹千代の家督を保証した上で今川家の準一門として遇し、その自覚を持たせて送り返す事によって、松平党への統制を今川家の馬廻衆並みに強化しようと考えたのである。(中略)こうした義元の思惑から、人質として苦労したことになっている竹千代は、雪斎の庇護下で一門並の厚遇を受け、徹底した教育を受けて成長する。」歴史群像2002年8 月号 今川義元一代記。人質というよりも「政務見習い」として預けられたという説もあり、実際にも、太原雪斎の英才教育 を受けさせたとの説もある(財)静岡観光コンベンション協会『大御所四百年祭記念(事実でないとの異論あり小和田哲男『今川義元:自分の力量を以て国の法度を申付く』、ミネルヴァ書房、2004年9月)。姪である築山殿を嫁がせているのも、政略的な一面がある一方、一門として迎え入れる厚遇という見方もある。ただし松平氏の家臣にとっては上述の通り主君を人質に取られて走狗として酷使された印象を与え、竹千代が今川義元の家臣(孕石元泰)から個人的な虐めを受けるなど、忍従の日々であり、後述の通り今川義元死後に築山殿とも不和になり殺害している事から、その松平氏の主観が後世に伝わり従来の通説となった。
永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、今川軍本隊とは別働で、前線の尾張国・大高城を攻略中であった元康は、大高城から撤退。今川軍が放棄した岡崎城に入ると、祖父・松平清康の代で確立した三河国の支配権回復を志し、今川氏から独立する。藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略した。永禄5年(1562年)には、義元の後を継いだ今川氏真と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。
翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた家康の名は源義家に由来するとも伊東法師という人物が書経の中の句「家用平康」(家を用って平らかに康し)から命名したともいわれる。。
西三河を平定しかけた頃、三河一向一揆が勃発するも苦心の末にこれを鎮圧した。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。三河国への対応に遅れる今川氏との間で、宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。この改姓に伴い、新田氏系統の清和源氏であることも公認させた。
永禄11年(1568年)には氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結んだ。同年末からは、今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とした。遠江国で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れた氏真を匿う掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下においた。
永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。後年、足利義昭は天下の実権をめぐり信長との間に対立を深め、信長包囲網を形成した際、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。
元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬に移るとここを浜松と改名し、浜松城を築きこれを本城とした。
今川領分割に際して、大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んで、武田信玄とは友好関係を築いていた。しかし永禄11年(1569年)、信玄からは一方的に協定を破棄された上、信濃国から秋山信友に遠江国への侵攻を受けてしまう。徳川軍は北条氏康の協力を得て武田軍を退けたが、これを機に信玄と家康は敵対関係となった。
元亀3年(1572年)10月、信玄はついに上洛を開始し、徳川領である遠江国、三河国に侵攻してきた。これに対して家康は盟友・織田信長に援軍を要請するが、織田軍も当時は朝倉義景、浅井長政、石山本願寺と抗争状態にあり、さらには美濃国・岩村城までを武田軍に攻撃され援軍を送ることができず、徳川軍は単独で武田軍と戦うこととなる。
遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附にまで進出。二俣城を取られることを避けたい家康が、ひとまず武田軍の動向を探るために威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、一言坂で敗走する(一言坂の戦い)。
遠江国方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河国方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう。そして12月、浜松の北方を固める遠江国の要衝であった二俣城が落城した(二俣城の戦い)。
そのような中で、ようやく信長から佐久間信盛、平手汎秀率いる援軍が送られてきた。その間、別働隊との合流も果たし、浜松城へ近付く武田軍であったが、長期戦を嫌う信玄は浜松城を悠然と素通りして、三河国に侵攻するかのように転進した。これを聞いた家康は、織田軍の将・佐久間信盛らが籠城戦を唱えるのに反して武田軍を追撃。しかしその結果、鳥居忠広、成瀬正義や、二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした中根正照、青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死するなど徳川・織田連合軍は惨敗した。夏目吉信に代表される身代わりに助けられて、命からがら浜松城に逃げ帰った家康自身も、馬上で脱糞したとさえ言われている。このとき、浜松城まで追撃された家康は「空城計」を用いた。この計によって城の様子を怪しんだ武田軍は城内侵攻をためらい、撤退を決断したとされている。なお、この時の家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)が残っており、これは自身の戒めのために描かせたものと伝えられる(三方ヶ原の戦い)。
浜名湖北岸で越年したのち三河国への進軍を再開した武田軍によって、三河国設楽郡の野田城を2月には落とされ、城主・菅沼定盈が拘束された。ところがその後、信玄の発病によって長篠城まで退き、一ヶ月ほど沈黙する武田軍。信玄の回復を待ち、西上作戦の継続を望むも快方に向かわぬ容態のため、武田軍は作戦を断念し甲斐国へ帰還した。なお、信玄は帰還途中の信濃国で死去した。
武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。その生死を確認するため家康は武田領である駿河国の岡部に放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしている。そしてこれら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信した家康は、武田氏に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略し、再属させた。奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えさせた。
天正2年(1574年)5月、信玄の後を継いだ武田勝頼が率いる2万5,000人の大軍が、遠江国の高天神城へ侵攻した。これに対して家康は単独で迎撃せず、信長に援軍を要請したが、援軍の到着前に高天神城を失った。
天正3年(1575年)5月には、勝頼が率いる1万5,000人の大軍に三河国の長篠城を攻められた。これに対して長篠城主・奥平貞昌が率いる僅か500人の将兵は善戦。籠城軍の耐え抜きによって救援に間に合った織田・徳川連合軍は、設楽原での後詰決戦において武田軍に大勝。この戦いで山県昌景、馬場信春を初めとする多くの武将を討ち果たして、武田軍を壊滅させた徳川氏は、武田氏との優劣を逆転させた(長篠の戦い)。
なお、奥平貞昌(信長の偏諱を賜り信昌と改名)の戦功に対する褒美として家康は、名刀・大般若長光を授けて賞した。その上、翌年には長女・亀姫を正室とさせている。
なおこの年、家康は武田氏に奪われていた二俣城を奪還した。
天正7年(1579年)、信長から、正室・築山殿と嫡男・松平信康に対し、武田氏への内通疑惑がかけられた。家康は抗弁の使者を立てたが、信長からの要求は、信康の切腹であった。家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、正室を殺害し、嫡男に切腹させた。この事件は信長が自身の嫡男・織田信忠より優れた資質を持つ信康に危機感を覚えたため等、諸説あるが、近年では家康・信康父子が対立したためで、信長には了承を求めただけ(信康の正室が信長の娘であるため)、という説も強くなってきている。
天正9年(1581年)3月23日、武田氏によって奪われていた高天神城を奪回した。
天正10年(1582年)2月、信玄の娘婿である木曾義昌が織田氏に寝返ったことを機に、信長は武田氏領国へ侵攻を開始する。家康は織田軍に協力し、駿河口から武田領に向かって侵攻した。これに対して、すでに連年の戦争による財政難などで民心が離反していた武田軍には組織的な抵抗力がなく、木曽口から攻め込んだ織田軍はあっという間に伊那城、松尾城を落とした。徳川軍も駿河国に侵攻して蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城を成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、さらには勝頼の姉婿である穴山信君を調略によって離反させるなどして駿河国を占領した。これに対して勝頼に対抗する力はなく、最後は小山田信茂にまで裏切られ、3月11日に勝頼は甲斐国東部の天目山・田野において自刃、武田氏は滅亡した(武田征伐)。
家康はこの戦功により、信長から駿河国を与えられた。
天正10年(1582年)5月、駿河国拝領の礼のため、降伏した穴山信君とともに織田信長の居城・安土城を訪れた。
6月2日、堺で遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。
その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張国にまで進軍したが、このとき中国地方から帰還した羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって光秀が既に討たれたことを知った。
一方、信長の領土となっていた旧武田領・甲斐国と信濃国では一揆が起こった。さらに越後国の上杉氏、相模国の北条氏も侵攻の気配を見せたため、信濃国の森長可と毛利秀頼は領地を捨てて逃亡し、上野国の滝川一益は北条氏と戦って惨敗し、尾張国に撤退した。甲斐国の領主・河尻秀隆に至っては信長の死を契機として発生した一揆に殺されてしまった()。このため、甲斐国・信濃国・上野国は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃、甲斐国の辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて、甲斐国に攻め入った(天正壬午の乱)。
一方、甲斐国と信濃国が空白地帯となったのを見た相模国の北条氏直も、叔父・北条氏規や北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃国に侵攻した。北条軍は上杉軍と川中島で対峙した後に和睦し、南へ進軍した。徳川軍は、この北条軍と新府城、若神子で対陣。ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、依田信蕃の調略を受けて真田昌幸が徳川軍に寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐国・信濃国・駿河国・遠江国・三河国の5か国を領有する大大名へとのし上がった。
信長死後の天正11年(1583年)、織田氏筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った羽柴秀吉が台頭する。家康は信長の次男・織田信雄と手を結び、これに対抗した。そして徳川・織田連合軍は天正12年(1584年)3月、尾張小牧において羽柴軍と対峙した。このとき、羽柴軍の兵力は10万人、徳川・織田連合軍は5万人であった。家康は兵力的に不利であったが、秀吉が小牧に到着する前に羽柴軍の武将・森長可率いる軍勢を酒井忠次に命じて撃破させた(羽黒の戦い)。
秀吉率いる羽柴軍本隊は犬山城に入り徳川軍と対峙し、膠着状態に陥った。羽柴軍の武将・森長可とその義父・池田恒興が岡崎城を奇襲すべく、三好信吉(羽柴秀次)を総大将とする別動隊を率いて出陣した(中入り)。しかし家康は別働隊の動きを察知し、逆に自ら羽柴別働隊に奇襲をかけて殲滅し、三好信吉を敗走させ、恒興、長可、池田元助(恒興の嫡男)らを討ち取った(小牧・長久手の戦い)。
これを機に、秀吉は家康を正攻法で打ち破ることは困難と判断し、伊勢国の織田信雄を攻めた。織田軍には単独で羽柴軍と対抗できる力はなく、秀吉と単独講和してしまった。家康は小牧・長久手の戦いの大義名分を「信長の遺児である信雄を助けて、秀吉を討つ」としていたため、信雄が秀吉と講和したことで名分を失った家康は撤退を余儀なくされた。そして秀吉との講和条件として、次男の於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子とすることで大坂に送った。
天正13年(1585年)に入ると、紀伊国の雑賀衆や土佐国の長宗我部元親、越中国の佐々成政など、前年の小牧・長久手の戦いで家康に味方した勢力は、秀吉によってことごとく討伐された。このため秀吉との対立で不利になった家康は、相模国の北条氏との同盟関係を強化するため、上野国・沼田を割譲することを約束した。ところが、沼田を支配していた信濃国・上田城主・真田昌幸はこれに応じず、家康から離反して越後国の上杉氏に寝返った。これに対して家康は、大久保忠世や鳥居元忠を大将とした7,000人の軍勢を派遣し真田氏を攻めたが、真田軍の巧妙な戦術の前に大敗を喫し、さらに上杉氏の援軍が来たこともあって、撤兵を余儀なくされた(第一次上田合戦)。
また、この頃になると徳川家中は、酒井忠次・本多忠勝ら反秀吉の強硬派と、石川数正ら秀吉支持の穏健派が対立し、分裂の危機にあった。その結果、数正が徳川氏から出奔して豊臣氏に寝返り、家康は窮地に陥った。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を武田軍を見習ったものに改革していった『駿河土産』。
天正14年(1586年)4月23日、秀吉からの臣従要求を拒み続ける家康に対して、秀吉は実妹・朝日姫を正室として差し出した。当時、家康には正室がいなかったためである。5月14日、家康は朝日姫は結婚するが、なおも臣従しようとしなかった。しかし10月18日、秀吉が生母・大政所までも人質として岡崎城に送ってきたため、遂に秀吉に臣従することを決意する。10月20日に岡崎を出立し、10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いに来て、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城にて秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。
天正14年(1586年)11月1日、家康は京に赴き、11月5日に正三位に叙任される。11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉のもとへ送り返している。12月4日、家康は本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河国の駿府城へ移した。これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説がある。
天正15年(1587年)8月、家康は再び上洛し、8月8日に従二位、権大納言に叙任され、武蔵大納言と呼ばれた。この際、秀吉から羽柴姓も与えられた。その後、家康は北条氏と縁戚関係にあった経緯から、北条氏政の弟で旧友の北条氏規を上洛させるなど秀吉と北条氏との仲介役も務めたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年(1590年)、秀吉は北条氏討伐を開始する。家康も豊臣軍の一軍として参戦した(小田原の役)。
なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、軍事的に勝利を収めながらも最終的に屈服に追い込まれた対秀吉戦の教訓から、領内の徹底した実情把握を目指したものである。この検地は直後の関東移封によってその成果を生かすことはなかったが、新領地の関東統治に生かされることになった。
その後、家康は秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の五カ国から、北条氏の旧領である武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・下野国・上総国・下総国の七カ国に移封された。これは150万石から250万石への類を見ない大幅な加増ではあるが、徳川氏にとっては縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東が北条氏の残党などによる不穏な動きがあったことを考えると、家康にとっては苦難であったと思われる。しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げる訳にもいかず、石高の上昇の割には実収入の増加も見込めない状況であった。しかし家康はこの命令に従って関東に移り、江戸城を居城とした。
関東の統治に際して家康は有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら、有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。ちなみに四公六民という北条氏の定めた税率は、その後徳川吉宗の享保の改革で引き上げがなされるまで継承される事となる。
【家康によって配された有力家臣たち】文禄元年(1592年)より、秀吉の命により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣することだけで許された。『常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードを残している。渡海せずに済んだのは、小田原の役で先鋒を務めたための優遇措置との見方もある。「際限なき軍役」といって苦しんだ朝鮮出兵で渡海を免れたために、家康は兵力と財力の消耗を免れ、自国を固めることができた小和田哲男『駿府の大御所 徳川家康』(静新新書・2007年)。しかし、渡海を免除されたのは家康だけではなく、一部の例外を除くと東国の大名は名護屋残留であった。
文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が起きた。豊臣政権を揺るがす大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。家康も秀吉の命で上洛したが、これ以降は開発途上の居城・江戸城よりも、伏見城に滞在する期間が長くなった。豊臣政権における家康の立場が高まっていたのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより、中央政権の政治システムを直接学ぶことになった。
慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れると、後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にするため、7月に五大老・五奉行の制度を定め、五大老の一人に家康を任命した。そして8月、秀吉は死去した。
豊臣秀吉の死後、家康は「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という秀吉の遺言により専横の兆しを見せ始める。さらに秀吉の生前である文禄4年(1595年)8月に禁止されていた大名同士の婚儀なども行って、巧みに味方を増やし始めた。その婚儀の内容は次の通りである(ちなみに婚姻した娘は、全て家康の養女とした)。
さらに家康は、細川忠興や島津義弘、増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問して、多数派工作を行った。こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家や五奉行の石田三成らの反感を買い、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老の堀尾吉晴らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返したと言われている。しかし、利家らと対立する不利を悟って、2月2日には誓書を交わして和解したが、3月3日に利家は病死した。
その後、福島正則や加藤清正らが三成を襲撃する事件が発生し、正則ら武断派と、三成ら文治派による対立が表面化した。家康は武断派諸将を慰撫してその支持を集めるとともに、三成を奉行職から解任して、佐和山城で蟄居させた。
9月7日、家康は大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。そしてそのまま大坂に居座って、政務を執り続けた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執り続けた。
さらに家康はこの頃、豊臣政権における諸大名の切り崩し工作も行なった。9月9日に登城した際、前田利長(前田利家の嫡男)・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺計画を企んだとして、10月2日に長政を甲斐国・府中で隠居の上、蟄居させ、治長は下総国の結城秀康のもとに、雄久は常陸国・水戸の佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を強行しようとしたが、利長が生母・芳春院(まつ)を江戸に人質として差し出したことで出兵を取りやめた。しかし、これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれた。。
さらに家康は多数派工作も行なった。慶長5年(1600年)3月、越後国の堀秀治、出羽国の最上義光らから、会津の上杉景勝に軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。上杉氏の家臣で津川城城代を務め、家康とも懇意にあった藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠のもとへ「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起きた。
これに対して家康は伊奈昭綱を正使として景勝のもとへ問罪使を派遣した。ところが景勝の重臣・直江兼続が「直江状」と呼ばれる挑戦状を返書として送ったことから家康は激怒し、景勝に叛意があることは明確であるとして上杉氏討伐を宣言した。このとき、前田玄以・長束正家・増田長盛ら三奉行と堀尾吉晴・中村一氏・生駒親正らが征伐の中止を訴えたが聞き入れず、征伐を強行した。これに際して後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜され、豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石を下賜された。これにより、朝廷・豊臣氏から家康の上杉氏征伐は「豊臣氏の忠臣である家康が、謀反人の景勝を討つ」という義戦と認められた形となった。
6月16日、家康は大坂城・京橋口より軍勢を率いて上杉氏征伐に出征し、同日の夕刻には伏見城に入った。ところが6月23日に浜松、6月24日に島田、6月25日に駿府、6月26日に三島、6月27日に小田原、6月28日に藤沢、6月29日に鎌倉、7月1日に金沢、7月2日に江戸という、遅々たる進軍を行っている。
この出兵には、家康に反感を持つ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。実際、7月に三成は大谷吉継とともに挙兵すると、家康によって占領されていた大阪城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆を説得するとともに、毛利輝元を総大将として擁立し、家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。三成が挙兵すると、家康古参の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が4万人の軍勢で攻められ、元忠は戦死し伏見城は落城した(伏見城の戦い)。
さらに三成らは伊勢国、美濃国方面に侵攻した。家康は下野国・小山の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。家康は、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感を持つ武断派の大名らは家康に味方すると告げ、ここに家康の東軍が結成された(小山評定) 。
東軍は、家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢、合わせて10万人ほどで編成されていた。そのうち、一隊は徳川秀忠を総大将として宇都宮から中山道を、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かうこととなる。一方で家康は江戸城に一ヶ月ほど留まり、160通近い書状を諸大名に回送している。これは、三成が大坂城と秀頼を事実上擁立していることが伝わったため(小山評定の段階では三成の単独挙兵として伝わっていた)、彼らが三成のもとへ駆けつけることを恐れたためである。
正則ら東軍は清洲城に入ると、西軍の勢力下にあった美濃国に侵攻し、西軍の織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき、家康は信長の嫡孫であるとして、秀信の命を助けている。
9月、家康は江戸城から出陣し美濃国に着陣した。前哨戦として三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲をかけてきた。それに対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色頼母が戦死している(杭瀬川の戦い。なおこれに先立ち、伊尾川(現・揖斐川)で家康自身が銃撃されたという噂もある。詳しくは神戸町の項を参考のこと)。
9月15日午前8時、美濃国・関ヶ原において遂に東西両軍による決戦が繰り広げられた。当初は三成ら西軍が圧倒的に有利であったが、正午頃、予てより懐柔策をとっていた小早川秀秋の軍が西軍を裏切って東軍に味方することを決意し、西軍の大谷吉継隊に襲いかかったのを機に形成が逆転する。大谷軍も奮戦したが、さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が家康の本陣目前にまで猛攻して来るという非常に危険な局面もあったものの、家康率いる東軍の勝利に終わった(関ヶ原の戦い)。
家康は9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛し、10月1日には六条河原で処刑した。そして大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、それらから奪った所領により自分の領地を250万石から400万石に増やした。秀頼、淀殿に対しては「女、子供の預かり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、家康の論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣氏の直轄地)は西軍の大名領もろとも失われた。その結果として豊臣氏を摂津国・河内国・和泉国の三カ国65万石の一大名の身分に落とし、家康が実質上の天下人として君臨したのである。
関ヶ原の戦いの後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城・西の丸を豊臣氏に明け渡して、伏見城に入ってなおも政務を執った。そしていよいよ、征夷大将軍として幕府を開くために、徳川氏の系図の改姓も行なった。「将軍になれるのは清和源氏」という慣例があったため、家康は、神龍院梵舜に命じて徳川氏の系図を源氏の源義家に通じるように整備させた。
慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣した。そしてここで六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命した。征夷大将軍への任官に伴い、源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は、足利義満から始まった慣例である。
3月21日、家康は二条城で正式な将軍宣下を受け、3月25日には参内して将軍拝賀の礼を述べた。ただし、朝廷から正式な将軍宣下が行われたのは3月27日であり、この日をもって正式に江戸幕府が開かれたと見てよい。
豊臣政権の五大老であった家康が、秀吉の死から4年半で武家の棟梁としての地位を手に入れ、名実ともに豊臣氏を上回る地位を確立した。幕府開府に当たって武家諸法度や禁中並公家諸法度の制定、各制度の整備を行い、武家の統制及び朝廷の掌握に向けた法度を定めた。朝廷を掌握すれば豊臣氏が形勢挽回する道はなく、天下統一の後において政権の安泰を図る上で重要であった。
慶長10年(1605年)4月16日、家康は将軍職を辞するとともに朝廷に三男・徳川秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、淀殿がこれを拒絶する。結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで、事は収まった。
慶長12年(1607年)には駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けて幕府の制度作りに勤めた(大御所政治と呼ばれる)。
慶長16年(1611年)、二条城にて秀頼と会見したいと要望した。主筋を自任する豊臣氏はこれを拒絶する方向でいたが、将軍・秀忠は秀頼の義父である関係からあくまで「義父への挨拶」という名目で上洛を要請し、加藤清正等の説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に「家康が日本の武家の棟梁である事」を示したとするのが一般的な見解であるが、豊臣氏の権威や脅威が無視できないものであることを改めて家康が実感することになったとの見解もある。
最晩年を迎えていた家康にとって、豊臣氏は最大の脅威であり続けた。一大名の位置に転落したとは言え、なお特別の地位を保持しており、実質的には徳川氏の支配下には編入されておらず、西国に配置した東軍の大名はほとんど豊臣恩顧の大名であった。また、家康の将軍宣下時には、秀頼が同時に関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取られており、秀忠の将軍宣下時には、秀頼は秀忠(内大臣)を上回る右大臣に昇進している。
さらに徳川氏は内部に問題を抱えていた。将軍・秀忠とその弟・松平忠輝の仲は険悪であり、忠輝の義父でもある伊達政宗は、未だ天下取りの野望を捨ててはおらず、忠輝を擁立して反旗を翻すことも懸念された。また将軍家でも秀忠の子である徳川家光と徳川忠長のいずれが次の将軍になるかで対立していた。さらに禁教としたキリシタンの動向も無視できない存在であった。もしこれらが豊臣氏と結託して打倒家康で立ち上がれば、幕府は一瞬にして崩壊してしまう可能性があった。家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問している。
家康は当初、徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているようにも見せかけていた。諸寺仏閣の統制を豊臣氏に任せようとしていた兆候もある。また、(秀吉の遺言を受け)孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいる。しかし、豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。さらに豊臣氏は、徳川氏との決戦に備え、多くの浪人を雇い入れていたが、その多くは関ヶ原の戦いの敗残兵で家康に恨みを持つ者たちであった。
そのような中、慶長16年(1611年)に加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、慶長18年(1613年)には浅野幸長、池田輝政など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏は孤立を深めていった(あまりにも豊臣恩顧の大名の死が相次いだため、家康による毒殺説もある)。
そして慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけとして、家康は豊臣氏を完全に屈服させることを決意し、それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始した。
豊臣氏は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、8月3日に大仏殿の開眼供養を行なうことにした。ところが家康は、方広寺の梵鐘の銘文中に不吉な語があると供養を差し止めた。問題とされたのは「国家安康」・「君臣豊楽・子孫殷昌」・「右僕射源朝臣」の部分であった。「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむとした。更に「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難したのである。こちらは完全な言いがかりであり、「右僕射源朝臣」の本来の意味は、右僕射(右大臣の唐名)源家康という意味である。
さらに8月18日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行わせた結果、五山の僧侶たちは家康の影響力を恐れて、「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし。」(徳川実紀)と返答したという。
これに対して豊臣氏は家老・片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し、家康に弁明を試みた。ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、且元を大坂へ返した。且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。そして、豊臣氏が9月26日に且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告したのである。
この事件は、豊臣氏攻撃の口実とするため、家康が崇伝,林羅山らと画策して問題化させたものであるとの考え方が一般的であった。しかし、清韓自身が家康の諱を「かくし題」とした意識的な撰文であると弁明しており、上記のとおり、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視している。当時、基本的に諱で呼ぶ事が出来るのは両親、主君そして敵であり、通常は名字+官職名もしくは通名等で呼び諱で呼ぶことは非常に無礼なことであった事を考えると、家康側が全面的にこじつけたものではなく、豊臣側の軽率な行為が付け入る隙を与えたという性格の方が強い。
その後も鐘は鋳潰されることもなく方広寺境内に残されている(重要文化財)。
慶長19年(1614年)11月15日、家康は二条城を発して大坂城攻めの途についた。そして20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲させたが力攻めはせず、大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うにとどめた。徳川軍は木津川口の戦い・今福の戦い・鴫野の戦い・博労淵の戦いなどの局地戦で勝利を重ねたが、真田丸の戦いでは、真田信繁(幸村)の前に大敗を喫した。とはいえ戦局を揺るがすほどの敗戦ではなく、徳川軍は新たな作戦を始動した。午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲(石火矢・大筒)を放たせて城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとした。この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦することを申し出て、家康もそれを了承した。
和議の条件は、大坂城の外堀の埋め立てと二の丸、三の丸の破壊であったが、家康は本多正純に命じて条件になかった内堀までも埋め立てさせ、慶長20年(1615年)1月中旬までに、大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。
和睦の条件になかった内堀まで埋め立てられたため、豊臣氏はこれを掘り返そうとした。ところが家康は、それを「豊臣氏が戦準備を進めている」という大義名分にし、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の移封を要求。更に徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ、またも近畿方面に大軍を送り込み、豊臣氏に要求が拒否されるや侵攻を開始した。
これに対して豊臣氏は、大坂城からの出撃策をとったが兵力で圧倒的に不利であり、塙直之、後藤基次、木村重成、薄田兼相ら勇将を相次いで失ってしまう。徳川軍は大軍ゆえの油断や連携の拙さ、真田信繁や毛利勝永らの奮闘もあって、一時は本陣の馬印が倒れ、家康自身も自決を覚悟するほどの危機にも見舞われたが、やがて態勢を立て直した徳川軍により信繁は戦死、勝永は豊臣秀頼を守る為に退却し遂に大坂城は落城した。5月8日、秀頼と淀殿、そしてその側近らは勝永の介錯により自害、勝永自身も自害し、ここに豊臣氏は滅亡した。
「家康は秀頼の自害直前に保護しようとしたが間に合わず泣き伏したという」という説もあり、山岡荘八の著書「徳川家康」ではこの説をとっている。しかしこれは、。
その後大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川氏によって新たな大坂城が再建されて、秀吉へ死後授けられた豊国大明神の神号が廃され、豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟が閉鎖・放置されている。明治維新の後に豊国大明神号は復活し、東照宮にも信長や秀吉が祀られるようになっている。
元和元年(1615年)、家康は禁中並公家諸法度を制定して、朝幕関係の構築と将軍家と天皇家の君臣の別を明らかにした。また、諸大名統制のために武家諸法度・一国一城令が制定された。こうして、徳川氏による日本全域の支配を実現し、徳川氏264年の天下を安泰なものとした。
元和2年(1616年)1月、鷹狩に出た先で倒れた。3月21日に朝廷から太政大臣の位を贈られた。4月17日の巳の刻(午前10時ごろ)に駿府城において死去した。享年75。
死因は、鯛の天ぷらによる食中毒説が有力であった。しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日の夕食であり、亡くなったのは4月17日で(いずれも旧暦)、食中毒とするには日数がかかり過ぎている。諸症状から見て胃癌か梅毒と考えられている。なお、家康が問題の天ぷらを食べたのは田中城(現静岡県藤枝市田中)であった。
辞世の句として『東照宮御実記』に以下の二首を詠んだと伝わっている。江戸城内においては天ぷらを料理することは禁止されていた。これは家康の死因が天ぷらによる食中毒であるためという説明がなされる場合もあるが、実際には、大奥の侍女のひとりが天ぷらを料理していて、火事を出しかけたために禁止されたというのが事実である。
| 和暦 | 西暦1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦。日付は宣明暦長暦。 | 月日 | 内容 |
|---|---|---|---|
| 天文11年 | 1542年 | 12月26日 | 生誕 |
| 永禄3年 | 1560年 | 5月19日 | 桶狭間の戦い |
| 永禄5年 | 1562年 | 1月15日 | 清洲城を訪問、織田信長と同盟結ぶ。 |
| 永禄9年 | 1566年 | 12月29日 | 従五位下三河守 |
| 永禄11年 | 1568年 | 1月11日 | 左京大夫 |
| 元亀元年 | 1570年 | 6月28日 | 姉川の戦い |
| 元亀2年 | 1571年 | 1月5日 | 従五位上 |
| 1月11日 | 侍従 | ||
| 元亀3年 | 1572年 | 10月16日 | 二俣城の戦い |
| 元亀3年 | 1572年 | 12月22日 | 三方ヶ原の戦い |
| 天正2年 | 1574年 | 1月5日 | 正五位下 |
| 天正3年 | 1575年 | 5月 | 長篠の戦い |
| 天正5年 | 1577年 | 12月10日 | 従四位下 |
| 12月29日 | 右近衛権少将 | ||
| 天正8年 | 1580年 | 1月5日 | 従四位上 |
| 天正10年 | 1582年 | 6月2日 | 本能寺の変 |
| 天正11年 | 1583年 | 10月5日 | 正四位下 |
| 10月7日 | 左近衛権中将 | ||
| 天正12年 | 1584年 | 2月27日 | 従三位参議 |
| 3〜4月 | 小牧・長久手の戦い | ||
| 天正14年 | 1586年 | 10月4日 | 権中納言 |
| 10月27日 | 大坂城にて豊臣秀吉に臣従 | ||
| 11月5日 | 正三位 | ||
| 天正15年 | 1587年 | 8月8日 | 従二位権大納言 |
| 12月28日 | 左近衛大将・左馬寮御監両官職兼任 | ||
| 天正20年 | 1592年 | 9月16日 | 豊臣秀吉の執奏により清華家の家格勅許。 |
| 慶長元年 | 1596年 | 5月8日 | 正二位内大臣 |
| 慶長5年 | 1600年 | 9月15日 | 関ヶ原の戦い |
| 慶長7年 | 1602年 | 1月6日 | 従一位 |
| 慶長8年 | 1603年 | 2月12日 | 右大臣、征夷大将軍宣下・源氏長者宣下 |
| 10月16日 | 右大臣辞任 | ||
| 慶長10年 | 1605年 | 4月16日 | 征夷大将軍辞職・源氏長者は留任 |
| 慶長19年 | 1614年 | 11月〜12月 | 大坂冬の陣 |
| 元和元 | 1615年 | 5月 | 大坂夏の陣 |
| 7月7日 | 武家諸法度制定 | ||
| 7月17日 | 禁中並公家諸法度制定 | ||
| 元和2年 | 1616年 | 3月17日 | 太政大臣 |
| 4月17日 | 薨去 | ||
| 元和3年 | 1617年 | 3月9日 | 贈正一位 |
現在、日光東照宮所蔵の徳川家康の任官叙位の宣旨は、徳川家康の任官叙位の宣旨が遺失したため(徳川実紀正保2年5月8日条)、正保2年(1645年)、将軍・徳川家光の要請により、朝廷に対して再発行の手続きによる文書として伝わっており、再発行の段階で豊臣から源に変更した可能性がある。
家康の遺言により、始めは駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬された。神号は側近の天海と崇伝の間で、権現と明神の何れとするかが争われたが天海が勝ち、山王一実神道に則って薬師如来を本地とする権現とされ、元和3年(1617年)2月21日に東照大権現の神号、3月9日に神階正一位が贈られる。東照社は正保2年(1645年)11月3日に宮号宣下があり、東照宮となり、さらに東照宮に正一位の神階が贈られ、家康は江戸幕府の始祖として東照神君、権現様とも呼ばれ江戸時代を通して崇拝された。
現在も日光東照宮の奥社を墓所とし、他の霊廟としては松平氏の菩提寺である愛知県岡崎市の大樹寺、高野山にある徳川氏霊台の安国院殿霊廟、また各地の東照宮に祀られている。なお、徳川幕府将軍15人中寛永寺か増上寺のどちらにも墓所がないのは家康以外には徳川家光と徳川慶喜がいる。
その戦上手は「海道一の弓取」と称され新井白石の『藩翰譜』など。、江戸時代には家康は「神君家康公」と呼ばれ、公然と彼を批判対象とした評論を発表すれば処罰の対象となった。逆に明治から太平洋戦争後までは、朝廷を抑圧した「奸臣」として、賞賛することは慮られるようになった。戦後になって比較的自由な家康批評が行われるようになった。
家康が礎を築いた徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体系は極めて完成度の高いものである。江戸幕府は京、大坂、堺など全国の幕府直轄主要都市(天領)を含め約400万石、旗本知行地を含めれば全国の総石高の1/3に相当する約700万石を独占管理(親藩・譜代大名領を加えればさらに増加する)し、さらには佐渡金山など重要鉱山と貨幣を作る権利も独占して貨幣経済の根幹もおさえるなど、他の大名の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社、朝廷、そして天皇家までをもいくつもの法度で取り締まり支配した。これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名が改易(取り潰し)の憂き目にあっている。これは朝廷や天皇家でさえも例外ではなく、紫衣事件などはその象徴的事件であった。
幕府に従順な大名に対しても参勤交代などで常に財政を圧迫させ幕府に反抗する力を与えることを許さなかった。このように圧倒的な権力基盤を背景にして徳川将軍家を頂点に君臨させ、全国の諸大名・朝廷・天皇家を「生かさず殺さず。逆らえば(もしくはその危険があるならば)潰す」の姿勢で支配したのが家康の築いた江戸幕府であった。
このように徳川将軍家のみを絶対とする江戸幕府の絶対的な支配体系については「保守的・封建的」との見方もできる一方、これほどまでの強固な支配体系が確立されたからこそ、戦国時代を完全に終結させ、そして江戸幕府が250年以上に及ぶ世界史上類を見ない長期安定政権となったことは否定できない事実である。そのため、この江戸幕府の礎を築き上げた家康の手腕は今なお高く評価されている。また、この統治基盤が有ったからこそ、明治新政府へ移行が速やかに進められたとも言われる。
後の鎖国政策につながるような閉鎖的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、幕末まで海外諸国からの侵略を防げたと評価できる。なお、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたもので、彼に対する非難としては的を外している、また明が海禁策をとるなど、当時の世界的な趨勢であるとも言える。
徳川将軍家を絶対君主とする、全国の諸大名をはじめ寺社勢力、朝廷そして天皇家までも実質支配下に置き、さらには。また、これに関連して事やキリシタンに対する厳しい弾圧への。
、実際彼は朝廷を事実上支配下においていた。慶長11年(1606年)には幕府の推挙無しに大名の官位の授与を禁止し、禁中並公家諸法度を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に排除している。大坂冬の陣の最中である12月17日、朝廷は家康に勅命による和睦を斡旋したが、家康はこれを拒否した。さらに関ヶ原の戦いの後、家康が親豊臣的であった後陽成天皇に譲位を要求した。そして天皇がこれに応じて弟の八条宮智仁親王に皇位を譲ろうとすると、家康はかつて親王が秀吉の猶子になったことがあるとして反対し、慶長16年(1611年)には後陽成天皇を廃して、皇位を政仁親王(後水尾天皇)に譲らせている。家康は信長でさえ行なわなかった天皇の廃立を行ない、さらに後水尾天皇を自らの主導で即位させたのをいいことに、家康存命中から秀忠の5女・和子を入内させ、外祖父として天皇家まで操ろうとしたのである(入内の話は慶長17年(1612年)から始まっていたという。和子の入内が元和6年(1620年)まで長引いたのは、家康と後陽成天皇が死去したためである)。
家康は息子である結城秀康、松平忠輝や創業時の功臣に冷たく当たったなどと言われるが、功臣や秀康に対し、所領の面では十分報いており、本多忠勝に対しては、その子・本多忠政と孫・本多忠刻に自分の孫・熊姫と千姫(松平信康の娘)を嫁がせ、秀康の子・松平忠直には、秀忠の娘・勝姫を嫁がせるなど、一定の配慮は示している。忠輝に対しても、改易前には御三家並の所領が与えられていた(越後国・高田55万石)。大久保長安事件(あるいは本多正信との政争)で改易された大久保氏も大久保忠隣の孫・大久保忠職は大名として復権し、家康の死後は加増が行われ次代・大久保忠朝は旧領小田原への復帰と、11万石という有力譜代大名としての加増を受けている(ただし、忠職が家康の曾孫であるから、という見方もできるのも否めない)。更には、人材の環流は組織の活性化に必須であり、一連の行為はあくまで幕府の体制固めとして行われた政治的行為として解釈することもできる。
次男・秀康や六男・忠輝らを、出生の疑惑や容貌が醜いなどの理由で常に遠ざけていたとされている。(、秀康も忠輝も家康に終生疎まれたという)。また、長男・信康の切腹に関しても、信長の要求によるものではなく、家康自らの粛清説も近年唱えられている。さらには、徳川四天王である本多忠勝や榊原康政を関ヶ原の戦い後に中枢から隔離し、この2人に匹敵するほどの武功派であった大久保忠隣を大久保長安事件で改易・失脚させている。大久保長安事件の折には、すでに大久保長安は死去して埋葬されていたが、家康は長安の半ば腐敗した遺体を掘り起こして斬首し、さらにその首を安倍川の川原で晒し首にしている。これらの事から、息子や家臣に対しても冷酷非情な面を見せる人物だったとの評価もある。
とはいえ、家康はかつて敵対していた今川氏・武田氏・北条氏の家臣も多く登用し、彼らの戦法や政策も数多く取り入れている。『故老諸談』には家康が本多康重に語った言葉として「われ、素知らぬ体をし、能く使ひしかば、みな股肱となり。勇功を顕したり」と記されている。
家康は、自分に屈辱的な大敗を経験させた武田信玄を素直に尊敬し、武田氏の遺臣から信玄の戦術や思想を積極的に学んだ。 また源頼朝も尊敬し、頼朝の言動が記録された「吾妻鏡」を愛読していた。その反面、信長のように身分や序列を無視した徹底的な能力主義をとることはなく、秀吉のように自らのカリスマ性や金、領地を餌に釣って家臣を増やす事もなかった。とはいえ、後述のように信長に対しては複雑な感情を持っていたようであり、また秀吉・家康の天下人となった二人とも信長の元にいたことからその影響力が窺い知れる。
そのためか、彼らに天下を統一され遅れをとったが、代わりに自身は信頼できる部下だけで周囲を固め、豊臣政権の不備もあって天下人となった。とはいえ、その部下の中には今川氏・武田氏・北条氏等の自身が直接(主導)的には滅ぼしてはいない大名の家臣も含まれているため一種の漁夫の利(統一の際の汚れ役を信長・秀吉が被ってくれた)ともいえる。偉大な先人から学びとり、それを取捨選択しその時流や自分の状況にあう行動をとったことは十分に名君と呼ぶに値するともいえる。
家康の仇名として「狸親父」というものがある。江戸時代の歌舞伎作品において、家康を暗喩する悪玉の名前として用いられたものである。明治以降は公然と家康の渾名として用いられるようになった。これは、家康が謀略に長けていたことを表すものであるが、同時に卑劣な人物であったという印象も与えるものであり、近年の家康に対する評価を大変低くさせている一因となっている。
家康は常に冷静沈着な知将だったとされているが、短気で神経質な一面も持ち、関ヶ原の序盤戦で東軍が不利だったとき、門奈長三郎という小姓の指物の竿を一刀のもとに切り捨てたという。さらに家康は苛立ったり、自分が不利になったりすると、親指の爪を常に噛み、時には皮膚を破って血を流すこともあったという。。
情を排する冷徹な現実主義者との評価がある一方、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死した夏目吉信の子が規律違反を犯しても超法規的に赦し、本多忠勝の決死の嘆願で真田昌幸を助命するなど、感情に流されるケースもある。特に苦労を共にしてきた三河時代からの家臣たちとの信頼関係は厚く、三方ヶ原の戦いで三河武士が背を向けず死んで行ったという俗説をはじめ、吉信、鳥居元忠らの盲目的ともいえる三河武士たちの忠節ぶりは敵から『犬のように忠実』と言われたこと(『葉隠覚書』)から、少なくとも地元である三河武士が持つ家康への人望は非常に厚かったようだが、これは松平家全体にもいえることでありまた一揆を起こされたことも考慮する必要がある。無論、有能な人材も重視し、安祥・岡崎譜代だけでなく今川氏・武田氏・北条氏の旧臣を多く召抱え、大御所時代には武士のみならず僧・商人・学者、更には英国人・ウィリアム・アダムス(武士として知行を与えたのは家康のみ)と実力も考慮して登用し、江戸幕府の基礎を作り上げていった。
戦国時代最大の武装宗教勢力であった一向宗本願寺は第十一世門主・顕如の死後、顕如の長男・教如と三男・准如が対立し、教如が独立する形で東本願寺(真宗大谷派)を設立、後にこれに対して准如が西本願寺(浄土真宗本願寺派)を設立し、東西本願寺に分裂するが、この分裂劇に関与しているのも家康である。定説として、若き日に三河一向一揆に苦しめられた事のある家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如をそそのかして本願寺を分裂させたとされてきたが、近年になって真宗大谷派が「教如は家康にそそのかされて東本願寺を設立したのではなく、元々独立志向があった」とする見解を史学研究の結果として正式に表明しており、本願寺の東西分裂が通説のような家康の策謀によるものであったか否かは断定できない。
しかし、少なくともこの分裂劇に際し、教如を支持して東本願寺の土地を寄進したのが家康であることは確かである(真宗大谷派も教如の東本願寺の設立に家康の関与があったことは認めている)。そしてこの本願寺の東西分裂によって東西本願寺はお互いに対立関係に陥り、結果戦国時代に諸大名を脅かしたような強大な武装宗教勢力としての形を変えていった。かつて、信長は本願寺と交戦しその後和睦したが、実質的には長年猛威を振るってきた本願寺の権威を失墜させるなどの弱体化に成功し、秀吉は逆にこれを懐柔しようとしたが、家康の場合はその関与の度合いは不明とは言え、結果的に本願寺を内部分裂させ、彼らの自滅を誘う形でその勢力を更に弱めており、この事も家康の老獪さを表す事象として捉えられることがある。
ただし、三河一向一揆が起こった際、敵方の一向宗側には本多正信や夏目吉信など、家康の家来だった者もいた。だが家康は彼らを怨まず、逆に再び召抱えている。彼らは家康に恩を感じ、本多正信は家康の晩年までブレーンとして活躍し、夏目吉信は三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになって戦死した。
また、同様に町衆に対し強い影響力を有する日蓮宗に対しても、秀吉が命じた方広寺大仏殿の千僧供養時に他宗の布施を受ける事を容認した受布施派と、禁じた宗義に従った不受不施派の内、後者を家康は公儀に従わぬ者として日蓮宗が他宗への攻撃色が強い事も合わせて危険視した。その為、後の家康の出仕命令に従わぬ不受不施派の日奥を対馬国に配流したり、他宗への攻撃が激しい日経らを耳・鼻削ぎの上で追放した。家康死後も不受不施派は江戸幕府の布施供養を受けぬ事を理由として、江戸時代を通じて弾圧され続けた。
これら新興の宗教以外の古い天台宗・真言宗・法相宗にも独占した門跡を通じ[朝廷との深い繋がりを懸念し、新たに浄土宗知恩院を門跡に加え、更に天台宗・真言宗の頂点として輪王寺に門跡を設けて天台座主の座を独占した。これら知恩院・輪王寺は江戸幕府と強い繋がりを持ち、後の幕府による寺請制度等により幕府は宗教を完全に公儀の下に置くことに成功している。
これについてはそれぞれの立場(権力・宗教)によって、正反対の評価が下されるであろう。
明治維新後に家康の悪評が高まったのは、明治政府が江戸幕府を倒して建てられた政権であり、江戸時代を悪とするのが明治政府にとって都合が良いことであったからと言える。特に太平洋戦争前は、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が大日本帝国における、帝国主義的な領土拡大と合致し、「朝鮮征伐」と称されるほど是とされていたため、「秀吉は清君、それに背いた家康は奸君」と偏った評価をされることが多かった。この時期は家康らの尊敬の対象であった平将門や足利尊氏に対しても朝廷に刃向かった逆賊として批判的な評価がなされていた時期である(尊氏に対しては家康も批判的だったとする説もある)。
山岡荘八の小説『徳川家康』では、幼い頃から我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、平和を求める理想主義者として描かれている。この小説によって家康への再評価が始まり、それは現在も続いている。そのため、家康を苦労人・不屈の精神力の持ち主として高く評する者もある。 一方、司馬遼太郎は家康について記した小説「覇王の家」あとがきで、家康が築いた江戸時代については「功罪半ばする」とし、「(日本人の)民族的性格が矮小化され、奇形化された」といった論やその支配の閉鎖ないし保守性については極めて批判的である(但し、家康自身に対しては必ずしも否定的でない)。天下を平定したとはいえ、信長・秀吉に比べて守旧的な組織しか作らなかったとして、家康を名君・奸君とするのは過大評価であるとする説もある。家康は、独断で物事を決するよりは、専ら評定を開いては家臣だけで議論をさせ、家臣たちが結論を出したところで決断をするところから、あくまでその議論のまとめ役や政策実行の代表者に過ぎない(部下の使い方がうまいという見方もある)、たまたま長生きしたために天下を取ることができた凡人に過ぎないとする意見もある。武光誠の『凡将家康天下取りの謎』がこの説を採っており、池宮彰一郎の小説『遁げろ家康』もこの観点より書かれている。
家康研究においての基本資料。