読み込み中...那須 大亮(なす だいすけ、1981年10月10日 - )は、鹿児島県南さつま市出身のサッカー選手。Jリーグディヴィジョン1(J1)・ジュビロ磐田に所属、ポジションはDF、DH、SB。
以前所属した横浜F・マリノスでは主にボランチを務めていたが、五輪代表ではDFで起用されていた。東京ヴェルディでは本人の希望もありCBに固定されていた。
2002年、駒澤大学3年であった那須は、大学生Jリーガーとして横浜F・マリノスに入団。1年目は出場1試合にとどまった。
2003年、横浜FMに岡田武史監督が就任。中盤でのアンカー役となれる選手を求めていた同監督は、2002年に浦和レッズで現役引退したマリノスOB・井原正巳の推薦のもと、浦和から獲得した河合竜二を起用しようとした。しかし河合のコンディションが万全ではなく、苦肉の策としてDFの那須を起用することを決定。このコンバートが那須にとって重要な転機となった。
与えられたポジションは本職ではないボランチだったが、持ち味であるディフェンス力でチームに貢献。試合出場を重ねる中で、チームの中心選手へと成長を遂げた。当時の日本代表エースである久保竜彦を獲得し優勝を目指していたチームにおいて、J1完全制覇の立役者となっただけでなく、自身も新人王のタイトルを獲得した。また、同年8月にはしばらく遠ざかっていたU-22日本代表にも復帰。その存在感を徐々に増していった。
2004年初頭、アテネオリンピックを目指すU-23日本代表に招集。積極的にチームを引っ張り、新たに加入した田中マルクス闘莉王のお目付け役ともなった。3月に行われた、アテネオリンピック予選では、第4節のバーレーン戦で途中交代した鈴木啓太の代わりにキャプテンマークを巻き、第5節のレバノン戦では出場停止だったものの、最終節のUAE戦では先制点を挙げ、チームの予選突破に貢献。本大会直前には、山本昌邦監督からキャプテンを指名された。
しかし、現地ギリシャ入り後にコンディションを崩し、本大会初戦のパラグアイ戦で失点に直結する致命的なミスを犯し、前半のみで交代。第2節のイタリア戦では、2点ビハインドの前半18分、負傷した徳永悠平に替わり途中出場。駒野友一と入れ替わるかたちで左SBに入り獅子奮迅のプレーを見せるも、日本は2-3で敗れた。最終戦となったガーナ戦は起用されず、不完全燃焼に終わった。
同年、横浜FMは浦和とのチャンピオンシップ(CS)に出場。2試合合計1-1(PK4-2)で勝利し、Jリーグ2連覇を飾った。しかし、CS直前に負傷した那須はベンチでチームの優勝を見届ける形となった。これ以降は横浜FMにおいてプレーの幅を広げるなど成長を遂げ、中澤佑二、松田直樹、河合竜二、栗原勇蔵らJ屈指のDFを擁するチームにおいて厳しいポジション争いの中で切磋琢磨していた。
2007年は早野宏史監督の下で重用され、CB・SB・ボランチと多くのポジションで起用されたが、中でもSBとしての起用が多く、左SBが本職である小宮山尊信、田中裕介、右SBの田中隼磨らを差し置いての起用であった。だが本職のCBとして代表を目指したい那須は移籍を模索。このシーズン途中にFC東京からレンタル移籍のオファーが届いた際には、F・マリノスに残る決断をしたが、シーズン終了後の2008年1月11日に東京ヴェルディへの完全移籍が発表された。ヴェルディではキャプテンを任される試合もありレギュラーとして奮闘するも、自身初となるJ2降格を経験。
2009年1月17日にジュビロ磐田への完全移籍が発表された。
危機察知能力に優れ、カバーリングを得意とする。空中戦にも強く、セットプレー時に真っ直ぐジャンプしてヘディングでゴールを決める事もある。
判断が遅い事と時々ポカミスを犯してしまうのが欠点。自陣ペナルティエリア付近でボールを持った時に次の行動に迷ってしまい、気づいたらボールを相手選手に取られている…というケースが1試合に1回以上のペースで発生してしまう選手である。またスタミナも決してある方ではない。
ヴェルディ移籍当初、センターバックで起用されることに強いこだわりを見せた。移籍後は、センターバックのみで起用されているが、90分を通して集中力を切らすことなくプレーし、目立ったミスがないため、サポーターの間からも信頼を得ていた。
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