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日本

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

日本国(にっぽんこく、にほんこく)、通称日本は、ユーラシア大陸東端の日本列島を主な領土とする東アジア国家

概要

地理

日本は、東アジアの東方、太平洋の西部にある島国である。領土は、本州北海道九州四国などからなる日本列島を中心に、南に延びる伊豆諸島小笠原諸島、南西に延びる南西諸島、及び北東に延びる千島列島の一部を含み、全体として弧状列島を形成する。周囲を太平洋、日本海東シナ海フィリピン海オホーツク海などの海洋に囲まれる。ロシア連邦朝鮮民主主義人民共和国大韓民国中華人民共和国中華民国台湾)、フィリピン共和国と海を挟んで接している。

地勢

周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・漁業ともに盛んな海洋国家である。内海を含む領海排他的経済水域などの水域面積は約447万km²であり、これは国土面積の11.7倍にあたる

経済

工業国として、国内総生産 (GDP)で世界第2位(USドル時価換算)に位置する経済大国である。に経済協力開発機構 (OECD) に加盟し、主要国首脳会議にはの第1回(当時は先進国首脳会議)から参加するなど、世界経済へ強い影響力を持つ。

歴史

国家としての日本、または日本の文化・民族は、長い年月を経て段階的に形成されてきており、建国時期を示す明確な画期はない。建国記念の日(旧紀元節)は、記紀において神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年1月1日 (旧暦))である。

日本列島には約10万年前ないし約3万年前から人が住み始めた。約1万2千年前の前後にアジア大陸と分離すると、東アジア文化圏の影響下にありつつも、独自の文化・社会・政治体制を築いていった。国家としての「日本」が成立したのは7世紀後半から8世紀初頭にかけての時期である。「日本」は東アジアの中でも独特な国際的地位を保持し続け、13世紀元寇16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀の欧米列強の進出などの事態にも対応して独立を維持した。明治維新によって日本は近代国家として著しい発展を見せ、アジアで初めて憲法議会を持つ、近代的な立憲国家となった『歴史、未来をみつめて』教育出版。その後の大正デモクラシーを経て、政党政治普通選挙を実現したが、次第に軍部が台頭し始め、急速な拡大を志向するも太平洋戦争で敗北し、連合国(主に米国)の占領下に置かれることとなった(に国家の主権を回復)。戦後は戦禍からの復興と共に高度経済成長を遂げ、世界有数の経済大国となった。(→日本の歴史

民族・言語

古来から日本で暮らしてきた人々は日本民族(大和民族)と呼ばれ、現在も日本に住む人間のほとんどを占める。それ以外に外国人が約130万人、帰化人が数十万以上在住している人口統計 および帰化統計 日本国 総務省 統計局。全土で日本語が話されており、識字率は極めて高い。(民族言語の項も参照の事)

政治

政治は、第二次世界大戦後のに施行された日本国憲法を最高法規として行われる。統治機構は、立法権国会司法権裁判所行政権内閣に分配する三権分立制を採る。国民主権基本的人権の尊重、平和主義を憲法の三大原理とし、その根本にある個人の尊重個人の尊厳)を基調とする。また、憲法に元首の定めはないものの、世襲である天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(1条)として、元首またはそれに準じた地位に置く。

天皇

天皇は、初代から第125代の今上天皇(現在の天皇明仁)に至るまで、すべて男系で世襲されてきた(万世一系)。直接統治を行う事は稀で、豪族貴族幕府政府といった世俗の権力が代わって統治する事が多かった。天皇は主として、その政治権力の担い手の正当性を根拠づけ、権威を表象する役割を果たした。明治以降は立憲君主制の形をとり、第二次大戦後から現在は日本国憲法の定めるところにより「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第一条)と位置づけられている。

外交

日本は同盟国アメリカ合衆国国際連合との関係を最重視しつつ、世界中の国と友好関係を築いている。

イギリスBBCワールドサービスが2005年より毎年公表している、10前後の特定の国および地域が世界に与えている影響の印象を尋ねる世界規模の世論調査では、日本が質問対象国となった2006〜2008年の各年いずれも、「好影響を与えていると思う」との回答率がもっとも高い国の一つとなった。日本は、国際的に非常に高い評価を得ている共同通信「世界に「好影響」日本1位 ワーストはイラン、米国」2006年2月4日配信(この配信のインターネットソースとしてはTOKYO自民党ホームページなどを参照のこと、 http://www.tokyo-jimin.jp/kobo/goikenban/goikenban5.html)、「日本『世界に良い影響』、独と並びトップ…BBC・読売調査」『読売新聞』4月2日。調査の実施は調査専門機関である GlobeScan およびメリーランド大学国際政策観プログラム(PIPA)による。調査の詳細及びデータについては、GlobeScan, "Global (n.d.[2006年]、最終アクセス2008年4月2日)、同 "Israel" (2007年3月6日、最終アクセス2008年4月2日)、同 “Global” (2008年4月2日、最終アクセス2008年4月2日)(いずれも英語)。。2006年公表の調査では、33カ国、約39500人に調査し、日本は、ヨーロッパに次ぎ、国としてはもっとも「好影響を与えている」との回答率が高い結果となった。2007年の調査では、27カ国、28000人に調査し、日本はカナダ、ヨーロッパ連合、フランスと並び、もっとも高い評価を受けている国の一つにあげられた。2008年の調査は、34カ国、17457人に調査し、日本はドイツと並んでもっとも「好影響を与えている」との回答率が高い結果となった。

国号

国号には「日本国」が通常用いられる。日が昇る「ひのもと」の地であることに由来していると考えられている。

根本法令である憲法の表題には、「日本国憲法」「大日本帝国憲法」のように「日本」国号が明示されてはいるが、国号を日本国と直接かつ明確に規定した法令はない。

国号の成立

「日本」という国号が成立した時期は、7世紀後半から8世紀当初までの間と考えられている。具体的には、天武天皇治世において成立したとする説熊谷公男 『大王から天皇へ 日本の歴史03』(講談社、2001)、吉田孝 『日本誕生』(岩波新書、1997)、など。と、701年大宝元年)の大宝律令成立前後に成立したとする説神野志隆光『「日本」とは何か』(講談社現代新書、2005)など。が有力視されている。『日本書紀』大化元年七月条に高句麗百済からの使者への詔に「明神御宇日本天皇」とあるが、これは後に定められた大宝律令公式令を元にして『日本書紀』編者が、潤色を加えたものと今日では考えられている古田東朔「国号」節(「日本」項、『国史大辞典』第11巻、吉川弘文館、1990)

7世紀後半はが対外志向を強め、これに脅威をおぼえた唐周辺諸国が、国力増強のために国制整備を進めた時期だった。倭国もまた660年の百済復興戦争で唐・新羅に敗北し、国際的な孤立へと追い込まれ、以後、倭国は律令制の導入などにより精力的な国制整備に取り組んだ。この取り組みを大きく推進したのが天武天皇だった。天皇中心の国制整備を進める天武治世期において天皇号が生まれたと現在考えられているが、「日本」国号の成立を天皇号の成立と同時期と見るのが、前者説である(例えば吉田孝飛鳥浄御原令(689年)にて「日本」国号と天皇号が定められたと推測している吉田孝 『日本の誕生』(岩波新書、1997)。)。その後、天武が推し進めた国制整備は701年の大宝律令成立をもって一つの到達点に至ったが、大宝律令の成立を「日本」国号の成立と密接なものとする見方に立つのが、後者説である(例えば神野志隆光は具体的に、大宝令公式令詔書式において「日本」国号が定められたとしている神野志隆光『「日本」とは何か』(講談社現代新書、2005))。

8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」から遣使のあったことが記されている。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』にもこの時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(大周)へ伝えられたことが確認できる。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても、「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としている。国号変更の事情について、旧唐書が「小国だった日本が倭国を併合した」とするのに対し、新唐書は「倭が日本を併合し、国号を奪った」としており、混乱が見られるこれらの記述は、天武天皇が大友皇子の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表すとする説がある。。これらの記述により、702年に「日本」国号が唐によって承認されたと現在では考えられている。

旧唐書・新唐書が語るように、「日本」国号は日本を東方に見る国、すなわち中国大陸の国からの視点により生まれた網野善彦『「日本」とは何か』(講談社、2000)、神野志前掲書、など。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序において、日本国が中国に対して「日の本」すなわち東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度にわたって行なわれた日本書紀講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても、中国の視点により名付けられたとする説が採られている。神野志隆光は、日本の称が中国の世界観の中から生まれた可能性を指摘した上で、ゆえに日本の国号が唐に受け容れられたのではないかと考察している。また、『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出処」の天子と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もあるが、仏典『大智度論』に日出処は東方の別表現である旨の記述があり、現在、「日出ずる処」は単に文飾に過ぎず、「日本」国号の成立とは無関係であると考えられている東野治之『遣唐使と正倉院』(岩波書店、1992)や神野志前掲書など。

読み

日本政府は正式な読み方を明確に定めていない。「にっぽん」あるいは「にほん」と読まれる。

「日本」の国号が成立する以前、中国古代王朝からは「倭国」または「倭」と称されていたが、「やまと」の政治勢力が中心となって倭を統一したため、古代日本では漢字の流入とともに倭を借字として「ヤマト」と読むようになった。やがて古代日本が認識していた国号である「やまと」に当てた漢字を倭から「日本」に変更し、日本と記して「ヤマト」と読んだ。『日本書紀』巻之第一 神代上 第四段「日本、此云耶麻騰。下皆效此」(日本、これヤマトと言う。下は皆これにならえ)

同時に、「日本」国号は7世紀後半の国際関係から生じたものであるため、当時の国際的な読みである音読により、「ニッポン」(呉音)または「ジッポン」(漢音)と読まれただろうと推測されている岩崎小弥太 『日本の国号』(吉川弘文館、1970)、吉田孝 『前掲書』。。「ニホン」の読みがいつ始まったかは定かでない。平安時代の仮名表記では促音・濁音の区別がなかったため、「ニッポン」音も「にほん」と表記された。「ニホン」の読みはここから起こったと考えらている。しかしながら日本語においてハ行音はP音→F音→H音と変化したと考えられ小松英雄『日本語の音韻 (日本語の世界7)』(中央公論社、1981)、H音が定着するのは江戸時代以降であり、仮名で「にほん」と表記されたものを平安時代には「ニッポン」あるいは「ニポン」と読み、やがて「ニフォン」に変化し、江戸時代後期の頃に「ニホン」と読むようになったと考えられる。また平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。

室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』『日本語小文典』等には「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合では「ニッポン」が使われ、日常の場面では「ニホン」が使われていた吉田東朔「国号」節(「日本」項 『国史大辞典』、吉川弘文館、1990)。 Xipangu、Japan、Japon 等、ヨーロッパ語圏での日本を表す語は「ジッポン」に由来すると考えられているが、「ジッポン」音は現在伝わっていない。このことから小池清治は、中世日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用するのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていたのであり、日常的には「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのではないかと推測している小池清治 『日本語は悪魔の言語か? - ことばに関する十の話』 角川書店、2003。

その後、明治期に入っても「ニッポン」「ニホン」の統一がなされない状況の中、に文部省臨時国語調査会が、国号呼称を「にっぽん」に統一し、外国語表記もJapanを廃してNipponを使用すること、とする案を示した。しかし、完全な統一は果たされなかった。現在、通商や交流の点で海外と関連のある紙幣切手などには「NIPPON」と描かれている。「NIHON」と表記する例はあまり多くない一説によると、ラテン語圏ではH音が発音されないため「ニオン」と呼ばれてしまうからという理由であるという。また、英語の語感が"nip on"に通じ甚だ印象が悪いことから「NIHON」にすべしとの意見もあるが、外国語の事情にあわせて自称を変更することには賛否両論がある。なお「NIHON」と用いる団体は例として日本ビデオ倫理協会日本ファルコム日本ミライズなどがある。

別称・外国語呼称

日本の別称は古くから多様である。

自らを呼んだものには、まず「葦原中国」(『古事記』、『日本書紀』神代)、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」(『古事記』)、「豊葦原千五百秋瑞穂国」(『日本書紀』神代)等があり、これらに共通する「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われている。「大倭豊秋津島」(『古事記』)、「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)の「秋津島(洲)」は(とんぼの島)の意であるが、孝安天皇の都の名(室秋津島宮)に由来するとされている。同じく「師木島」(『古事記』)、「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)等の「しきしま」も、欽明天皇の都(磯城島金刺宮)に由来するとされる。「大八洲」(『養老令』)、「大八洲国」(『日本書紀』神代)は、多くの島からなる島国の美称と解されている。このほか、「磯輪上秀真国」「細矛千足国」「玉垣内国」(『神皇正統記』)、「浦安国」「藤根国」(『詞林采葉抄』)、「日出処」、「大和国」、「和州」等多くの別称があった。

中国からの呼び名には「倭」「倭国」「倭奴国」「倭人国」のほか、扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」 *寺島良安『和漢三才図会』、「蓬莱」をはじめとして、「東海姫氏国」、「東海女国」、「女子国」「君子国」、「若木国」、「日域」、「日東」、「日下」、「烏卯国」、「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。

「皇朝」はもともとは中原王朝の天子の王朝をさす漢語であるが、日本では天皇王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」または「すめらみかど」等と訓読した。「神国」、「皇国」、「神州」、「天朝」、「天子国」などは雅語(美称)としての「皇朝」の言い替えであって、国名・国号というようなものではない。「本朝」は「我が国」というような意味であってこれも国名ではない。江戸時代儒学者などは日本をさして「中華」、「中原」、「中朝」、「中域」、「中国」などと書くことがあったがこれも国名ではない。「大日本」と大とつけるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字をつけて天子の王朝であることを示す中国の習慣からきている(「有漢、皇魏、聖晋、大宋」等。「大元・大明・大清」は例外でこの3例のみは二文字で正式国名)。しかし、「おおやまと」と読む場合はそれとは関係ない古称の一つである。「帝国」は、もとは「神国、皇国、神州」と同義の語であったが、近代以後は"empire"の訳語として使われている。明治時代から第二次世界大戦後までの国号は、日本、日本國、日本帝國、大日本國、大日本帝國なども表記上は用いられたが、大日本帝国憲法成立後の正式国号は「大日本帝國」である。戦後は「日本」「日本国」である。ただし日本国の公印である「国璽」は明治時代に作製された「大日本國璽」が使用され続けている。

公式の英語表記は、(ジャパン)。略記としてはが用いられる。(ジャップ)は、アメリカ英語では侮蔑的な意味があるのでイギリスではこの傾向は薄い。、使用には注意が必要である(但しこの他の言語ではこの限りではない)。また、最近の外国語表記では(ニッポン)が用いられることが多い。具体的にはUPU等によるローマ字表記(以降)、郵便切手日本銀行券などで表記を用いている。なおの先頭三文字で略した(ニップ)は、よりも強い侮蔑・差別の意味合いがあるので、使用するべきではない。この場合の略称はとなる。

世界の多くの言語において日本を意味する固有名詞は、ジャパン()、チャパーン()、ヤーパン()、ジャポン()、ハポン()、ジャッポーネ()、ヤポニヤ()、ヤポーニヤ()、イープン()など、ある時期にある地域の中国語で「日本国」を発音したもの(ジーパングォ)を写し取ったジパング (Xipangu) あるいはジャパング (Japangu) を語源とするとするのが定説である。中国韓国などの漢字文化の影響の強い地域においては、リーベン()、イルボン()、ニャッバーン()ベトナムフランス植民地になるまで漢字を使用していた。その時代の名残である。ベトナム語大辞典などで実際の発音を確認できる。等、そのまま「日本」を自国の発音で読むというやり方をしている。

なお、「日出づる処」を各国語に訳した名詞句も「日本国」を示すものとして使用されている。例:(英語)"(the) land of (the) rising Sun"、(フランス語)"le pays du soleil levant"、(スペイン語)"El pais del sol naciente"。

歴史

  • アイヌ琉球王国については、日本の領域に含まれたのが近代以降であり、それ以前の歴史の詳細を各々の項目にて解説している。
    • ロシア占領下で帰属が微妙な千島列島占守島小泊崎(北緯50度・東経155度)を最東端とする意見もある。
    • 人の住む最南端としては、沖縄県波照間島(北緯24度2分25秒・東経123度47分16秒)
    • 上記の択捉島はロシアが実効支配しており、これら北方領土を除く最北端は、北海道稚内市弁天島宗谷岬;北緯45度31分13秒・東経141度56分27秒)
    • ロシア占領下で帰属が微妙な千島列島阿頼度島最北埼(北緯50度55分30秒・東経155度32分)を最北端とする意見もある。

概観

日本の歴史は通常、日本列島における歴史と同一視されているが、国号節で見たように、厳密には「日本」の成立は西暦700年前後の出来事であり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」を明確に区別してとらえるべきとする考えも出されている網野善彦『「日本」とは何か 日本の歴史00』(講談社、2000)など。。本節では国家としての日本がたどった歴史とその領域の変遷を中心に見ていくこととする。日本の歴史の詳細については日本の歴史および各時代の項目を参照されたい。

日本の歴史の時代区分は、考古学上のものと歴史学上のものがある。考古学上の時代区分は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代弥生時代古墳時代、歴史時代、とするのが一般的である。一方、歴史学上の時代区分としては、古代飛鳥時代およびそれ以前・奈良時代平安時代)、中世鎌倉時代室町時代戦国時代)、近世安土桃山時代江戸時代)、近代明治大正昭和およびそれ以降)の四分法が通説である。(→日本の歴史#時代区分節)

日本列島の人類の歴史は、約10万年前以前ないし約3万年前に始まったとされる。当時の日本列島はアジア大陸と陸続きであり、西方の華北・北方のシベリアとの文化交流も見られた。約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると、日本列島は大陸から分離した。この後も列島と大陸との間に活発な通交・交流が行なわれ、巨視的には日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあったが、東アジアの最東方に所在する島国、という地理的条件によって、日本は他の東アジア地域とは異質な要素を持つ文化・社会を発達させていった。

紀元前8世紀頃以降、大陸から稲作を中心とする文化様式が伝わると、各地に「ムラ」「クニ」と呼ばれる政治組織が徐々に形成され、1世紀2世紀前後には各クニの連合による倭国と呼ばれる大規模な政治組織が出現した。この連合的政治組織は3世紀4世紀頃に統一王権(ヤマト王権)へと発展すると、7世紀後半には中国の法体系・社会制度を急速に摂取して8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見るに至った。「日本」国号と天皇号は、この古代国家の建設・成立と軌を一にして登場したと考えられている。当時の日本はとの通交以来、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せており、中国を中心とする冊封体制からの独立を志向していた。他の東アジア諸国とは異質な外交姿勢であり、この外交姿勢は、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれていった。

成立当時の「日本」の支配地域は、日本列島全域に及ぶものではなく、九州南部以南および東北中部以北はまだ「日本」の領域外だった。九州南部は8世紀末に「日本」へ組み込まれたが(→隼人)、東北地方の抵抗は強く全域が「日本」の領域となったのは鎌倉時代に入ってからである(→蝦夷)。特に8・9世紀は、蝦夷征服活動が活発化するとともに、新羅遠征が計画されるなど、帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入るとこうした動きは沈静化した。

11世紀後半から12世紀にかけて、旧来の天皇を中心とする古代律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ中世国家へと移行した(→荘園公領制職の体系)。12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」「日本国」の表記が見られ始め、これは社会に「日本」「日本人」の意識が生まれたことの現われと考えられている。特に13世紀後半の元寇(蒙古襲来)は、「日本」「日本人」意識が社会各層に広く浸透する契機となり、あわせて「日本は神国」観念を定着させた。網野善彦は、このように「日本」「日本人」意識は、外国のみならず神仏なども含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている網野善彦 『前掲書』。。室町時代には「日本」の領域が北海道南部まで及んだ。

14世紀 - 15世紀の時期には、社会の中世的分権化が一層進展していったが、15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んでいった。この地域国家形成の動きは、中世社会の再統合へとつながり、16世紀末には日本の統一政権が樹立されるに至り、時代は近世へと移行した。「日本」の領域はこの時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太を含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は「日本」の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、いわば境界というべき地域だったが、18世紀シャクシャインの乱ロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、アイヌおよびロシアへの他者意識が「日本」「日本人」観となって庶民層にまで定着し、「日本」の領域も蝦夷が島(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、「日本」の西の境界は、中世を通じて鬼界島硫黄島までと意識されていた。17世紀初めに薩摩島津氏琉球王国を侵攻し、支配下におさめたが、その後も琉球王国は日本・中国への両属を続けた。

19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとして「日本」「日本人」意識がますます強まり、現代の「日本」「日本人」意識とほぼ一致するまでに至った。アジア各国が欧米列強の植民地とされていく中で「日本」が独立の歴史を長く保ったことは、国民国家意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の近代国家建設の基礎となったと考えられている。

明治維新を迎えた日本は、近代的な国民国家の建設を急速に進めていった。同時に近隣国と国境確定を行い、に樺太を放棄する代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(→樺太・千島交換条約)、南西諸島方面は琉球処分を通じて実効的な支配に成功し、ここに一旦、近代的国家としての日本国領域が確定した。

自由民権運動を経て日本はに、内閣制度を確立して、には大日本帝国憲法を制定し、に第1回衆議院議員総選挙を実施して帝国議会を設置した。こうして日本は、アジアで初めて憲法議会を持つ、近代的な立憲国家となった『歴史、未来をみつめて』教育出版

19世紀後半 - 20世紀初頭当時の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られた日本は、日清戦争日露戦争を経て勢力圏の確保を進めた。両戦争を通じて日本は、台湾澎湖諸島および南樺太を領土におさめ、関東州租借権を獲得した。その後日本は、に韓国併合を、に国際連盟からの委任を受けて南洋群島の領有権・統治権を獲得した。また、大正時代には大正デモクラシーが起こり、政党政治普通選挙が実現した。

1930年代には中国東北部への進出を強め、満州国を建国・傀儡化して一定の支配権を得るにいたり、国内では軍部が台頭した。こうした対外志向は、特にアメリカ合衆国をはじめとする欧米諸国との権益と真っ向から衝突し、最終的にはの大東亜戦争太平洋戦争)での敗北によって破局に至った。

敗北した日本は、連合国軍の占領体制下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領有権・統治権の総てを事実上失った。日本が他国の支配を受けるのは史上初の経験だった。連合国占領下において国制改革が進められ、憲法改正を行い、日本国憲法を制定した。のサンフランシスコ講和条約により占領が解除されると、その後の日本は1970年代半ばまでに目覚しい経済発展を遂げた(→高度経済成長#日本の高度経済成長)。またには小笠原諸島、には沖縄県の施政権がそれぞれアメリカ合衆国から返還された(→沖縄返還)。

1970年代後半以降の日本は、先進国の一員として数々の国際的役割を果たし、多くの発展途上国では成長モデルとして目標にされてきた。21世紀に至り、日本は社会の超高齢化とそれに伴う人口減少、経済の世界規模化への対応などの課題に直面している。

建国をめぐる議論

日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰1月1日)に即位したとの記述があり、戦前はこれが日本建国の画期と考えられていた。明治5年11月15日1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元西暦紀元前660年に始まると定められ、紀元前660年を元年とする紀年法「皇紀」が1月1日から使用された那珂通世は、『緯書』の鄭玄注に、1260年に一度(干支一運の60年(「1元」)×21元=「1蔀」)の辛酉年には大革命が起こるとあり、これをもって推古天皇9年(601年)の辛酉年から1260年前で当たる紀元前660年に神武天皇が即位したとされたとする説を唱えた。なお、神武天皇に殺された長髄彦の兄安日彦が津軽に亡命したことをもって日本の建国としている古文書・古文献(『中尊寺文書』、『平泉雑記』など)が東北地方に伝わっている。

公的には前述の神武天皇即位紀元をもとにして、、建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)によって2月11日が「建国記念の日」に定められた。(→建国記念の日) しかし、歴史学の立場からすると、神武天皇即位は歴史的事実とはされておらず、神話の反映と見られている。戦後になり皇国主義的な歴史観が排除されると、皇紀が使用されることはほとんどなくなったただし一部の現行法上においては現在も効力を有しており、法律文書などには記載されている(例:明治31年勅令第90号・閏年ニ関スル件)。

日本の建国時期として、このほか「日本」国号が定められた時期(飛鳥浄御原令または大宝律令の成立時期)、大政奉還がなされ近代国家建設が始まった明治維新の時期、ポツダム宣言を受諾して新たな日本建設が始まった時期、サンフランシスコ講和条約を結び主権を回復した時期、などが挙げられることがあるが、国家としての日本は長い歴史的経緯を経て形成されており、明確な建国の画期を見出すことは困難であり、建国をめぐる議論は主観的なものとなりがちである。

地理

Wikipedia画像へのリンク(宇宙から見た日本列島)
日本は、アジア(ユーラシア大陸)の東方、太平洋の西部にある島国であり、4つの弧状列島(日本列島千島列島南西諸島伊豆小笠原諸島)から成り立っている。台湾の東方にある与那国島から、樺太の南方にある北海道までを領土としている。

北にオホーツク海、北西に日本海、南西に東シナ海、南にフィリピン海、東に太平洋と周囲をすべて海に囲まれ、日本海を挟んで大韓民国朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ロシア連邦東シナ海を挟んで中華人民共和国中華民国台湾)、フィリピン海を挟んでフィリピン共和国と国境を接する。また、南方にパラオ共和国、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア連邦があり、太平洋を挟んでアメリカ大陸がある。

全体的に弓形状になっており、全6,852島からなる国土面積は約37.8万km²(北方四島以外の千島列島、南樺太を除く)。領土の約70%がであり、森林率は約67%である。周囲はすべて海であり、地上の国境線は実効支配領域においては無い。

本州と四国の間の海は特に瀬戸内海と呼ばれる。沖合を暖流黒潮対馬海流寒流親潮リマン海流が流れる。

現在、ロシアとの間に北方領土(南千島列島を主とする。北千島列島・南樺太も含む場合がある)、大韓民国との間に竹島領有問題がある。その他、近年になって尖閣諸島近海に地下資源が発見されて以来、中国が尖閣諸島の領有権を主張しており、台湾も中国に対抗して領有権を主張しているが、尖閣諸島発見以来日本が占有している。北方領土、竹島は現在不法に占拠されたままである。

日本列島の地形区分は地質構造を基準にして南西日本と東北日本に大別される。その境界線は本州中部を南北に縦断する糸魚川静岡構造線である。

列島付近ではユーラシアプレートフィリピン海プレート太平洋プレート北米プレートがせめぎ合い、環太平洋造山帯火山帯地震帯と呼ばれる帯の一環をなしている。そのため地震が頻発し、世界全体で放出される地震エネルギーのうち1割から2割が日本周辺に集中すると言われている。そのため、震度1クラスや2クラスくらいの地震は日本のどこかで毎日のように起きている。また、火山活動が活発な事から、火山性土壌が多く、これが日本列島の地味を豊かにした面もある。また温泉が多い事も火山の恵みと言える。

日本の範囲

最東端
東京都南鳥島(北緯24度16分59秒・東経153度59分11秒)
最西端
沖縄県与那国島西崎(北緯24度26分58秒・東経122度56分01秒)
正式な「日本の最○端」のなかで唯一、公共交通機関で誰でも自由に訪れることができる場所である。
最南端
東京都沖ノ鳥島(北緯20度25分31秒・東経136度04分11秒)
最北端
北海道択捉島カモイワッカ岬(北緯45度33分28秒・東経148度45分14秒)

気候

大半の地域は温帯に属する。南方の諸島は亜熱帯、北方は亜寒帯的気候を示す。海洋性気候だが、モンスーンの影響を受け、四季等寒暖の差は大きい。

冬季はシベリア高気圧が優勢となり北西の季節風が吹くが、その通り道である日本海では暖流の対馬海流から大量の水蒸気が蒸発するため、大量の雪を降らせる。そのため日本海側を中心に国土の約52%が豪雪地域であり、世界でも有数の豪雪地帯となる。逆に太平洋側では空気が乾燥した晴天の日が多い。

夏季は、太平洋高気圧の影響が強く、高温多湿の日が続く。また、台風も多い。ただし、北部を中心にオホーツク海高気圧の影響が強くなると低温となり、しばしば農業に悪影響を与える。

また日本は、比較的降水量の多い地域でもある。主な要因は日本海側での冬季の降雪、6・7月(沖縄・奄美は5・6月)に前線が停滞して起こる梅雨、夏季から秋季にかけて南方海上から接近・上陸する台風など。年間降水量は、約1,700mmとされる。

地域・広域行政区画

日本は都道府県(1都1道2府43県)という広域行政区画から構成される。ただし、地域区分(地方区分)には揺れが見られる。また、一部のなどは行政上は別途政令指定都市中核市特例市特別区に定められているほか、各都道府県を、さらに細かく分けた市町村という行政単位や、町村をいくつかまとめたがある。北海道には独立出先機関として14の支庁が置かれている(全国市町村一覧参照)。

以下に、日本の地域(地方)と47都道府県を示す。地域(地方)は一般的なものを示した。太字は都道府県名で、左の数字は下の図の数字と対応している。

Wikipedia画像へのリンク(日本の各都道府県の位置)

北海道

北海道地方
1.北海道

本州

東北地方
2.青森県 - 3.岩手県 - 4.宮城県 - 5.秋田県 - 6.山形県 - 7.福島県
関東地方
8.茨城県 - 9.栃木県 - 10.群馬県 - 11.埼玉県 - 12.千葉県 - 13.東京都 - 14.神奈川県(以上「一都六県」。「首都圏」はこれに山梨県を加える)
中部地方
北陸地方
: 16.富山県 - 17.石川県 - 18.福井県(新潟を加えて北陸地方 (広義)とする場合や福井県の全域、若しくは嶺南地方を近畿地方に含める場合がある。)
16.富山県 - 17.石川県 - 18.福井県(新潟を加えて北陸地方 (広義)とする場合や福井県の全域、若しくは嶺南地方を近畿地方に含める場合がある。)
甲信越地方
: 19.山梨県 - 20.長野県 - 15.新潟県
19.山梨県 - 20.長野県 - 15.新潟県
東海地方
: 21.岐阜県 - 22.静岡県 - 23.愛知県(普通、「東海3県」というと、静岡県ではなく三重県を含める事が多い。)
21.岐阜県 - 22.静岡県 - 23.愛知県(普通、「東海3県」というと、静岡県ではなく三重県を含める事が多い。)
近畿地方
24.三重県 - 25.滋賀県 - 26.京都府 - 27.大阪府 - 28.兵庫県 - 29.奈良県 - 30.和歌山県(三重県は東海地方に含まれる)
中国地方
31.鳥取県 - 32.島根県 - 33.岡山県 - 34.広島県 - 35.山口県

四国

四国地方
36.徳島県 - 37.香川県 - 38.愛媛県 - 39.高知県

九州

九州地方
40.福岡県 - 41.佐賀県 - 42.長崎県 - 43.熊本県 - 44.大分県 - 45.宮崎県 - 46.鹿児島県

沖縄

沖縄地方
47.沖縄県(九州地方に含む場合もある)

首都

日本の首都は事実上東京であり、世界最大の都市圏を有する。ただし、歴史的な事情により首都を東京と定めた明文法は現在に至るまで制定されていないため、旧都である京都が現在も都(首都)であると主張する説も一部に存在する。

東京都特別区人口は約860万人で、東京都を中心とする神奈川県千葉県埼玉県などを含む首都圏人口は約3300万人。東京には、皇居のほか、国会議事堂内閣最高裁判所、各省庁、各国大使館大企業本社日本銀行や主要銀行証券会社百貨店新聞社放送局があり、政治経済の中心地である。また都心部への機関、人口の集中が限界に達し、ターミナル駅を中心として新宿渋谷池袋が副都心としてかなり発展している。さらに副都心に準ずる地域で交通の要衝であり、多様な機能を備えた複合拠点として品川秋葉原の再開発が進められ、また東京近郊の新都心(新副都心)として、横浜みなとみらい21(横浜)、幕張新都心(千葉)、さいたま新都心(さいたま)の3箇所がある。ただし、汐留地区は複合都市とされている。

主要都市

下記の表の人口は、2008年7月1日時点の推計人口を元とする。なお、浜松市静岡市のみ2008年8月1日時点の人口である。上位20位のうち、東京23区横浜市川崎市さいたま市千葉市相模原市の6都市が首都圏に集中しており、東京への一極集中が著しいことがこのデータから判断できる。

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横浜市
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大阪市
都市 行政区分 人口 都市 行政区分 人口
1 東京23区 東京都 8,727,326 11 広島市 広島県 1,154,595
2 横浜市 神奈川県 3,579,133 12 仙台市 宮城県 1,024,947
3 大阪市 大阪府 2,628,776 13 北九州市 福岡県 993,483
4 名古屋市 愛知県 2,215,031 14 千葉市 千葉県 924,353
5 札幌市 北海道 1,880,875 15 堺市 大阪府 831,111
6 神戸市 兵庫県 1,525,389 16 浜松市 静岡県 804,067
7 京都市 京都府 1,474,764 17 新潟市 新潟県 813,847
8 福岡市 福岡県 1,400,621 18 静岡市 静岡県 713,716
9 川崎市 神奈川県 1,327,009 19 相模原市 神奈川県 701,568
10 さいたま市 埼玉県 1,176,269 20 岡山市 岡山県 696,172

主要都市圏

人口はの都市雇用圏のデータを元にしている。その他の定義による都市圏は都市圏 (総務省)を参照。 border
名古屋市
都市圏 中心都市 (DID) 都市圏人口 都市圏 中心都市 (DID) 都市圏人口
1 東京都市圏 東京23区 31,729,844 11 北九州都市圏 北九州市 1,425,920
2 大阪都市圏 大阪市 12,116,540 12 熊本都市圏 熊本市 1,020,488
3 名古屋都市圏 名古屋市 5,318,500 13 静岡都市圏 静岡市 999,360
4 京都都市圏 京都市 2,583,304 14 新潟都市圏 新潟市 947,310
5 福岡都市圏 福岡市 2,329,021 15 浜松都市圏 浜松市 919,933
6 神戸都市圏 神戸市 2,296,268 16 宇都宮都市圏 宇都宮市 888,005
7 札幌都市圏 札幌市 2,217,162 17 岐阜都市圏 岐阜市 820,848
8 広島都市圏 広島市 1,584,037 18 那覇都市圏 那覇市 746,762
9 仙台都市圏 仙台市 1,555,691 19 姫路都市圏 姫路市 741,759
10 岡山都市圏 岡山市 1,484,066 20 金沢都市圏 金沢市 732,467

人口

  • 127,767,944人(国勢調査 10月1日)
  • 約127,724,000人(総務省統計局「人口推計月報」3月1日確定値
  • 127,433,494人 (CIAワールドファクトブック、2007年7月
  • 約128,100,000人(6月現在)
  • 127,066,178(総務省による住民基本台帳に基づく人口の調査 2008年7月31日)
  • 日本国籍を持つ者の割合は98.9%(8月現在)
  • 年齢構成

    1970年代以降、急速な少子化高齢化が進行しつつある。それに加えて、戦後のベビーブームで誕生した年齢層で人口の多い団塊の世代が相次いで定年を迎えるため(2007年問題と呼ばれる)、被扶養人口の爆発的増加が危惧されている。

    地域別分布

    日本の各地方の人口は次の通りである。
    • 首都圏(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、茨城県、群馬県、栃木県、山梨県):約4024万人
    • 近畿圏(大阪府、京都府、兵庫県、奈良県、和歌山県、滋賀県、三重県、福井県):約2475万人
    • 東海地方(愛知県、岐阜県、三重県、静岡県):約1493万人
    • 九州・沖縄地方(福岡県、大分県、佐賀県、長崎県、熊本県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県):約1478万人
    • 東北地方(宮城県、青森県、岩手県、秋田県、山形県、福島県):約974万人
    • 中国地方(広島県、岡山県、山口県、鳥取県、島根県):約770万人
    • 北陸・信越地方(新潟県、長野県、富山県、石川県):約697万人
    • 北海道地方(北海道):約566万人
    • 四国地方(香川県、愛媛県、高知県、徳島県):約413万人

    日本には、100万人規模以上の人口を有する大都市が、各地方(四国地方を除く)に点在している。国民の多くはこれらの大都市、またはその周辺部で生活する。国土全体を対象とした人口密度調査においても領域国家としては世界有数の高さを示す(→人口密度)が、都市部では沿岸の平野部に集中しており、国土の1割に人口の9割が住む。また、日本海側に比べて太平洋側に人口が集中している。中でも特に、東京を中心とした首都圏の人口は、日本の人口の約3分の1を占め、世界最大の都市圏を構成している。そのため、都心部では土地の値段が高騰化し、ドーナツ化現象などの問題も起きている。

    人口の上位3都府県は次のとおり。 人口密度の政令指定都市上位3市は次のとおり。 その他の日本の政令指定都市の人口と人口密度は次のとおり。

    なお、4月1日より新潟市(新潟県)と浜松市(静岡県)も政令指定都市となった。また、相模原市熊本市の市長がまでに政令指令都市を目指すと表明している。

    一方で農漁村では、若い働き手が都市部へ移住してしまうため、過疎化高齢化が進行している。

    政治

    Wikipedia画像へのリンク(日本国憲法下の統治機構図)

    日本の政治は、日本国憲法に基づいて運営されている。

    日本国憲法

    11月3日公布5月3日施行

    日本国憲法は、憲法第13条個人の尊厳(個人の尊重)をその根本に置き、下記三つを三大原理としている。

    これらの理念を実現するため、統治機構は権力分立(三権分立)に基づいて配され、立法権国会に、行政権内閣に、司法権裁判所に属する。

    象徴天皇制

    天皇は、日本国憲法に「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(憲法1条)と定められ、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」ものとされる(同条)。天皇は、憲法の定める国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しない(憲法4条1項)。ただし、国事行為のほか、象徴たる地位に基づく公的行為を行う。

    日本内外にて天皇は元首として遇されることが多い。例えば、オリンピックの開会宣言は開催国の元首が行う慣例になっているが、日本で開催されたオリンピックでは天皇が開会宣言を行っている。また、CIA各国要覧の日本の項では、「chief of state: Emperor AKIHITO (since 7 January 1989)」と明記している。さらに、日本は「立憲君主制と言っても差し支えないであろう」というのが、日本国政府の公式見解である6月28日参議院内閣委員会、政府委員吉國一郎内閣法制局長官答弁。いずれにせよ、天皇が元首であるか君主であるかといった問題は、結局はそれぞれの定義によるものであることに留意を要する。

    国の政治

    国の政治は、国会と内閣を中心に行われる。国会(特に与党)と内閣は、分立しながら協働して国政を行う議院内閣制を採る。

    国会は、衆議院参議院の二院からなる二院制(両院制)議会である。国会は「国権の最高機関」であり、「国の唯一の立法機関」とされる(憲法41条)。衆議院・参議院は、いずれも全国民を代表する選挙された国会議員(衆議院議員、参議院議員)によって組織される。ただし、法律予算条約の議決、内閣総理大臣の指名、内閣不信任決議などにおいて、衆議院は参議院より強い権限が与えられている(衆議院の優越)。これは、衆議院には解散があり、任期も短い(衆議院は4年、参議院は6年)ため、衆議院の方がより民意を反映しているためと説明される。

    内閣は、首長たる内閣総理大臣と、その他の国務大臣からなる合議制の機関である。内閣総理大臣は、国会議員(衆議院議員、参議院議員のいずれでもよい)の中から国会の議決によって指名され、天皇に任命される。国務大臣は、内閣総理大臣が任命し、天皇が認証する。国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばなければならない。内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う。また、内閣は衆議院の解散権を持つ。

    国会で審議され、可決される法律案の大多数は、内閣が提出する政府提出法案(内閣提出法律案、閣法)であり、国会議員が発議する法案は少ない。政府提出法案は、内閣の下に置かれる行政機関(省庁)が、国会の多数を占める与党との調整を経て作成する。行政機関の幹部公務員(キャリア官僚)の国政に対する影響力は、とても強い。国会議員の給源は、キャリア官僚、弁護士地方議員などが多く、いわゆる世襲議員と並ぶ。

    裁判所は、司法権のほかに法令審査権(違憲立法審査権)を持つ。これは、法令行政行為などの合憲性を審査して、最終的に判断する権限である。もっとも、裁判所はいわゆる司法消極主義に基づき、国会や内閣など政治部門の判断への干渉は、控えることが多い。

    戦後政治の流れ

    国会では、に結党された自由民主党(自民党)が、一貫して最多の議席を占める。同年に結党された日本社会党(社会党)とともに、55年体制と呼ばれる政治体制を形作った。この体制は、自民党が与党として党の総裁を国会で内閣総理大臣に指名し、同党議員の中から国務大臣を任命して内閣を組み、社会党は野党として自民党と対立・協調しながら国政を運営するものである。新自由クラブ連立政権を組んだからまでの一時期を除き、までの約40年間は自民党単独政権が続いた。

    に自民党羽田派が離党して新生党を結党し、非自民・非共産の連立政権である細川内閣が成立したことで、55年体制は崩壊し、自民党は政権を離れた。翌6月に、自民党・社会党・新党さきがけ連立政権(自社さ連立)である村山内閣が成立したことで自民党は政権に復帰。次の橋本内閣以後、小渕内閣では自由党との連立(自自連立)、同じく小渕内閣で公明党を加えた連立(自自公連立)、森内閣小泉内閣で自由党が抜けて自由党の一部からなる保守党(保守新党)が残った連立(自公保連立、自公保新連立)、保守新党が解党した連立(自公連立)など、常に連立政権を組むことで、自民党の総裁が内閣総理大臣となっている。

    9月現在、内閣総理大臣は自民党総裁の麻生太郎で、自公連立政権である麻生太郎内閣が組まれている。

    地方制度

    日本国憲法は、地方自治の制度を定める。地方自治は、地方公共団体が担う。地方公共団体は、基礎的地方公共団体である市町村と広域的地方公共団体である都道府県の二段階の体制をとる。

    基礎的地方公共団体としての市町村は、が782、が827、が195の合計1804あり、このほか東京都の都心部に23の特別区がある(4月1日現在)。市町村には、執行機関である市町村長と、議決機関である市町村議会(または町村総会)が置かれる。市町村長と議会の議員は、いずれも住民から選挙される。市町村は、その財産を管理し、その地域の事務を取り扱い、行政を執行する。また、市町村は、法律の範囲内において条例を定める。特に規模が大きい市は、政令指定都市として、一部の権限が都道府県から委譲される。

    広域的地方公共団体としての都道府県は、が1、が1、が2、が43の合計47ある。都道府県には執行機関である都道府県知事と、議決機関である都道府県議会が置かれる。都道府県知事と議会の議員は、いずれも住民から選挙される。都道府県は、市町村を包括し、より広域的な行政を行う。都道府県も、法律の範囲内において条例を定めることができる。

    現在、東京一極集中を緩和して地方分権を進めるため、都道府県を解消してより広域的な道州を置く道州制の導入が検討されている(日本の道州制論議)。

    法律

    日本では、日本国憲法を最高法規とし、この下に、国会が制定する法律、内閣が制定する政令各省庁が制定する省令などの命令地方公共団体が制定する条例などの各種法令が定められる。裁判所は、すべての法令が憲法に適合するか否か判断する法令審査権(違憲立法審査権)を持ち、最高裁判所がその終審裁判所である。

    日本国憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義などの基本原則と、統治機構を定める成文憲法であり、硬性憲法に分類される。日本国憲法は、に公布され、翌に施行されて以来、一度も改正されていない。長らく、主に戦争の放棄と戦力の不保持を定めた9条を巡って、憲法改正論議が行われている。なお、一部には現行憲法の制定に法的瑕疵があったとして、無効を主張し、今も旧憲法(大日本帝国憲法)が有効であるとする者もいる。

    憲法と、民法商法刑法民事訴訟法刑事訴訟法の5つの法律を総称して六法という。この六法が日本の法令の基本を成し、日本の法律学の基本的な研究分野と考えられてきたことによる。民法は民事一般法であり、刑法は刑事一般法である。商法は商事一般法であるものの、企業に関する定めの多くは会社法に分けられた。民事訴訟法と刑事訴訟法は、それぞれ民事訴訟と刑事訴訟の手続法である。

    日本の刑法には、死刑懲役禁錮罰金拘留科料没収刑罰が定められている。死刑制度のあり方を巡っては、日本国憲法制定当時から議論がある。議論の詳細は、死刑存廃問題#日本での動きを参照のこと。廃止派は国会や社会で運動を続けてきたが、国会議員と国民の中で多数派を形成できていない。日本における死刑の判決数は〜、〜の10件未満と比較して・は10件台、・は20件台に増加した。死刑囚は1948年度末は39人、1953年度末は93人に増加、1960年度末は51人に減少、1968年度末は82人に増加、1977年度末は16人に減少、2007年度末は107人に増加した。執行数は度に以後では最多の9件に増加し、先進国で唯一、死刑執行数が増加傾向である(執行数が増加するか減少するかは法務大臣による差が大きいので増加傾向が続くか減少傾向になるかは未定である)。判決数・執行数・死刑囚はアメリカ合衆国より少ない。

    治安

    日本は法治国家であり警察権は法に従い行使される。日本の治安維持制度は内閣府の元に設置される国家公安委員会警察庁と各都道府県公安委員会警察本部による二層構造になっている。各委員会は予算などの決定や大綱などの方針策定であり、実務は警察庁・警察本部が執り行っている。また、警察庁自体は指揮監督を主としており、実際の捜査などの業務は警察本部やその下部組織(警察署など)が運営している。日本固有の制度として交番制度があり、地域治安の確保の役割を担っている。警察組織とは別に沿岸警備隊国境警備隊としての業務を目的に海上保安庁国土交通省外局に設置されている。

    日本は銃刀法により刀剣などの武器の所持を厳しく制限している。UNODC(United Nations Office on Drugs and Crime)の統計によると、国連加盟192国のうち犯罪と刑事司法の統計をUNODCに報告している国の中で、日本は殺人、誘拐、強姦、強盗などの暴力犯罪の発生率は著しく低く治安がよい国である(国の規模や質には大きな差があるので、国別の単純比較は比較対照として適切でない場合もあるが、日本は先進国である西欧・北欧諸国よりも暴力犯罪の発生率が低い。)。日本の暴力犯罪の発生率が世界の諸国と比較してなぜ著しく低いのかの原因は解明されていない(銃規制をしている国は日本以外にも多数ある。イギリスの銃規制は日本と同等、罰則を考えると日本以上に銃規制が進んでいる)。

    日本の犯罪に関する資料は、法務省は1960年度版以後の犯罪白書で1926年以後の犯罪統計を、警察庁は警察白書と警察統計で1946年以後の犯罪統計を公開している。人口10万人中の刑法犯罪(刑法以外の特別法に対する犯罪は含まない)総数の発生率は1926年は1,179.2件、昭和金融恐慌昭和恐慌世界恐慌時代の1926年〜1933年は増加傾向で、1933年は第二次世界大戦終結前の最多の2,301.6件、日中戦争が進行した1934年〜第二次世界大戦が終結した1945年は減少傾向で、1945年は1926年以後の最少の986.3件である。第二次世界大戦終結後の1946年〜1948年の期間は増加傾向で、1948年は2,004.0件である。1949〜1954は減少傾向で1954年は1,541.7件、1955〜1970年は増加傾向で1970年は1,846.2件、1971〜1975年は減少傾向で1975年は1,495.2件、1976〜2002年は増加傾向で2002年は1926年以後の最多の2,897.5件、2003〜2006年は減少傾向で2006年は2,251.7件である。

    1926〜2007年の全ての年度の刑法犯罪総数に対する罪種別の比率の1位は窃盗であり、2006年度の比率は53.3%である。1959〜2007年の全ての年度の刑法犯罪総数に対する罪種別の比率の2位は自動車事故による業務上過失致死傷(自動車事故以外の業務上過失致死傷は除く)であり、2006年度の比率は28.7%である。2006年度の刑法犯罪総数に対する窃盗と自動車事故による業務上過失致死傷の認知件数の合計の比率は92.0%である。日本の刑法犯罪総数の増減は、窃盗と自動車事故による業務上過失致死傷罪の増減が大きく影響している。

    暴力犯罪も非暴力犯罪も各罪種の発生率は、1920年代後半〜1930年代前半に第二次世界大戦終結前の最多、または、統計がある1926年以後の最多を記録(人口10万人中の発生率は、殺人は1926年は4.14件、誘拐は2.46件、強姦は1933年は2.53件、傷害は1935年は42.29件、強盗は1929年は3.80件、放火は1931年は3.99件。)した。暴力犯罪も非暴力犯罪も各罪種の発生率は、日中戦争が進行した1930年代中期〜第二次世界大戦終結前後の1940年代中期は減少傾向で、第二次世界大戦終結前の最少、または、統計がある1926年以後の最少を記録(人口10万人中の発生率は、殺人は1944年は1.25件、誘拐は1945年は0.03件、強姦は1946年は0.81件、傷害は1945年は6.23、強盗は1941年は1.59件、放火は1945年は0.77件。)した。暴力犯罪の各罪種の発生率は、第二次世界大戦終結後の1940年代後半〜1960年代前半は増加傾向で、第二次世界大戦終結後の最多、または、統計がある1926年以後の最多を記録(人口10万人中の発生率は、殺人は1954年は3.49件、誘拐は1951年は0.63件、強姦は1964年は7.06件、傷害は1958年は80.63、強盗は1948年は13.57件、放火は1950年は2.26件。)した。暴力犯罪の各罪種の発生率は、前記の第二次世界大戦後の最高値を記録した後は、単年度や短期的な増減はあっても長期的には減少傾向で、1980年代・1990年代・2000年代は第二次世界大戦終結後の最少、または、統計がある1926年以後の最少を記録(人口10万人中の発生率は、殺人は1996年は0.97件、2007年は0.94件、誘拐は1983年は0.06件、2007年は0.16件、強姦は1996年は1.19、2007年は1.38件、傷害は1995年は13.92件、2007年は24.25件、強盗は1989年は1.29件、2007年は3.53件、放火は1989年は1.18件、2007年は1.19件。)し、第二次世界大戦終結後の最少、または、統計がある1926年以後の最少に近接した数値で推移している。財産犯罪や特別法に対する犯罪の各財種の発生率は、第二次世界大戦終結後は暴力犯罪と比較して、1946〜2007年の期間に増加期間と減少期間を繰り返している

    安全保障

    日本国の安全保障自衛隊日米安全保障条約に基づく日米同盟とによって担保されている。

    自衛隊は専守防衛を原則とする事実上の軍事組織陸上自衛隊海上自衛隊航空自衛隊がそれぞれ陸軍海軍空軍に相当する。担当省庁は防衛省、最高指揮官は内閣総理大臣

    の防衛予算の国内総生産 (GDP) に占める割合は0.92%で、GDPに占める割合の順位は世界の140位前後であるイギリスの国際戦略研究所のミリタリーバランス、スウェーデンのストックホルム国際平和研究所、アメリカのCIA World Factbookなどの統計これは世界全体の平均値である2.0〜2.5%(統計の方法で異なる)よりもかなり低く、国力に比して低い予算しか与えられていない。また、自衛隊の兵員数や戦車数、作戦機<