読み込み中...帆船はマストの本数と帆の種類によって分類される。
「帆」には「横帆」と「縦帆」の二種類がある。「横帆」は追い風を捉える効率が高く、季節風を利用して長距離を移動するのに向いている。「縦帆」は追い風の利用効率は劣るが、より風に向かって間切る、つまりより前方から吹く風を利用することができ、操船がしやすいという利点がある(帆の種類、原理については項目「帆」を参照のこと)。
人類がいつ帆船を発明したかは良く分かっていない。エジプトのナイル渓谷の遺跡には、帆をもった舟らしき壁画が残されている。この壁画は約8000年前に描かれたと推定されている。
古代ギリシアと古代ローマでは、軍船は機動性能を重視するため、帆と多数の櫂を併用する平底のガレー船であったが、商船は純粋な帆船であった。これらの帆船は1本のマストに四角帆が船の前後方向に対し斜めに張られたものであったが、紀元元年前後のローマ帝国では、2本のマストを持つ帆船も現れだした。
アラブ人は、イスラムの共同体や信用制度を基礎として、インド洋を中心として、東アフリカから果ては中国にまで及ぶ、帆船による海上貿易ネットワークを構築し、インド洋は「イスラムの海」の様相を呈していた(勢力図が変化したのは16世紀にポルトガルなどヨーロッパ諸国が進出してからである)。アラブ人は独特な海図と航海術を発展させ、夜間の航海も可能にした。『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』の「船乗りシンドバッド」は、10世紀ごろのアラブ人船乗りの世界を描いている、と言われている。
また同海上貿易ネットワークは、インド化したアラブ人を出現させたように、アラブ化したインド人船乗りも出現させた。多くのインド商人が帆船でソファーラ(モザンビーク)周辺に行き、銑鉄を高額で買い付け回り、インドに輸出していた模様なども、アラブ人イブン・アル・ワルディの旅行記に記されている。三角帆を特徴としたアラブ独特の帆船は、今でもザンジバル島(アフリカ)、パキスタン、モルディブ、インドネシアなど広範囲で使用されており、「ドーニー」(ドーニィ)や「ダウ」などと呼ばれている。
オセアニアでは、逆三角帆(クラブクロウ・セイル)を用いた帆船が盛んに建造され、人や物の交流に使用されていた。これらを総称して「セイリング・カヌー(帆走カヌー)」と呼ぶ。セイリング・カヌーには単胴のもの(アウトリガーカヌー)と双胴のもの(ダブルカヌー)がある。特にミクロネシア文化人やポリネシア人は天測や生物相の観察、うねりの観察などを用いた独自の航法技術(スター・ナヴィゲーション)を発達させ、時に数千キロにも及ぶ大航海を行っていた。
ヴェネツィアの旅行家マルコ・ポーロ(Marco Polo,1254年 -1324年)は20年近く元朝のクビライ・ハーンに仕えた。そのときのことを口述した『東方見聞録』において、元朝の南方交易用の帆船は、4本のマストを持ち乗員は60名程度であること、竜骨(キール)によって船体は高い強度を保っていること、浸水しても沈没を免れる隔壁構造の船体を採用していること、羅針盤によって正確な遠洋航行が可能であることを報告している。また、中国や黄金の国「ジパング」など、東方に莫大な富が存在していることを紹介し、後の大航海時代において東方を目指す強力な推進力となった。
ヨーロッパの大航海時代に先立ち、中国の明朝では鄭和が1405年から1433年にかけて7回の大航海を行った。航海した範囲は東南アジア、インド、アラビア半島、アフリカ東岸にまでわたった。これらの航海には長さ173m、幅56mにも及ぶ巨大な帆船が用いられた(詳細は項目「鄭和」を参照のこと)。
ポルトガルのエンリケ航海王子(1395年 - 1460年)は、インド航路を開拓するために、船乗りの援助や帆船の改良に力を注いだ。
当時、東方との交易は、イスラム商人によって高い関税がかけられていたため、直接、中国やインドなどから香料、香辛料、絹、陶磁器などを入手するルートを開拓する必要があったのである。大型帆船には様々な改良が加えられた。それまでの帆船は1本マストであったが、この頃から3本マストの帆船が現れてきている。特にキャラベル船の誕生は、帆船の活動範囲を大幅に拡大した。キャラベル船は3本のマストに三角帆(ラテン帆)を採用することで、逆風でも前進できることが特徴である。
クリストファー・コロンブスの第一回目の航海におけるサンタ・マリア号の僚艦、ニーニャ号とピンタ号がキャラベル船である。15世紀、キャラベル船とほぼ同時期に開発されたキャラック船は遠洋航海による大量輸送を可能にし、それまで主にヨーロッパのみを活動域とし、量も小規模に完結しがちだった商取引を、大西洋やインド洋を越え、なおかつ大量の物品を扱うものとすることをも可能とした。
このような背景のもと、いわゆる大航海時代が幕開いた。バルトロメウ・ディアスによる喜望峰の発見、コロンブスによるアメリカ大陸の発見(1492年)、ヴァスコ・ダ・ガマによる喜望峰を経由するインド航路の発見(1498年)など、次々と帆船による偉業が達成された。
そして、ついに1519年から1522年にかけてフェルディナンド・マゼランによる世界一周航海がなされている。
16世紀に入ると帆船の主流はキャラベル船、キャラック船からガレオン船に代わっていった。軍船も同様に、ガレー船からガレオン船に代わっていった。ガレオン船は船首楼より高い船尾楼を持つことが特徴である。従来、竜骨の長さは船幅の2.5倍程度だったが、3倍まで船体の全長が長くなったことも特徴に挙げられる。ガレオン船は商船としても用いられたが、大量の大砲を搭載できたことから主に軍艦として用いられた。大航海時代の主役はポルトガルとスペインであったが、1588年、フランシス・ドレークらが率いるイギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を破り、状況は一変する。スペインは大西洋の制海権を失い、イギリスが一大海運国として台頭するきっかけとなった。
17世紀後半から18世紀にかけて、軍艦は艦隊を組み、大火力による艦隊決戦をしばしば行うようになる。この時期に行われた有名な海戦としてトラファルガーの海戦(1805年)が挙げられる。艦隊の主力は「戦列艦」と呼ばれる2〜3層の砲列甲板に合計50〜130門の大砲をもつ艦種であった。戦列艦は20世紀の軍艦における戦艦や巡洋艦に相当する。戦列艦に比べ軽快な、1〜2層の砲列甲板に合計20〜50門の大砲をもつ「フリゲート」と呼ばれる艦種も登場してきた。18世紀初頭には従来の「舵取り棒」に代わって操舵輪が用いられるようになり、より効率のよい操船が可能になった(詳細は帆船時代の海戦戦術も参照のこと)。
19世紀には紅茶を運ぶための快速船「ティークリッパー」が中国からイギリスまで新茶を届ける速さを競い合った。最初に届けられた新茶は高値で取引されるため、船主に莫大な利益をもたらしたのである。この競争は「ティーレース」と呼ばれ、「カティーサーク」、「サーモピレー」などのティークリッパーがしのぎを削りあった。ティークリッパーは外洋を高速で帆走できるよう、標準よりも長細い船型をしている。例えば「カティーサーク」では縦の長さは横幅の6倍に達している。微妙な操船が困難になる細長い船型が可能になった背景には、蒸気機関によるタグボートが普及し、曳航によって出入港が出来るようになったことがあげられる。
19世紀は帆船から蒸気船に主役が交代した時代でもあった。19世紀前半あたりでは、石炭の補給の問題から蒸気船は比較的短距離の航路での運用に限られていたが、給炭地が整備され、蒸気機関の性能が向上するにつれ蒸気船の優位性が明らかになってきた。蒸気船の優位を決定的にしたのは、1869年のスエズ運河の開通である。スエズ運河一帯はほとんど無風であるため、蒸気船の独擅場だったのである。帆船はその恩恵に与ることが出来ず、上述の「ティークリッパー」の多くは中国航路から、オーストラリアからの羊毛輸送に転向を余儀なくされ、やがて姿を消していった。
20世紀初頭にはアメリカの「トマス・W・ローソン」や、ヨーロッパ〜チリ間の硝石輸送で大規模な帆走商船隊を編成したドイツのF・ライツ社が所有した「プロイセン」など、鉄・鋼鉄製の船体で大型・多マストの帆船が建造されたが、もはや帆船は海運の主役ではなくなっていた。イギリスに於いては19世紀末から帆船の建造が行われなくなっていたが、フランスでは1881年より帆船に対する補助金制度があったため、帆船時代の末期においても多くのフランス籍の大型商用帆船が就航していた。当時、フランス帆船は空荷で世界一周をしても、補助金によって十分な利益を挙げることができると言われていた。
第一次世界大戦でドイツ潜水艦による商船無差別攻撃(無制限潜水艦作戦)などにより数多くの商用帆船が失われ、またフランスの補助金制度も打ち切られたため、所有していた英米仏の船会社は貨物運航を汽船に切り替えた。ドイツのライツ社は戦後賠償で失った船の一部を買い戻して再建を図ったが、結局1930年代前半迄に船員養成用の数隻を残して売却し汽船に置き換えた。両大戦間の時代はフィンランドの船主グスタフ・エリクソンが世界中で放棄された高性能の大型帆船を買い集めて大規模な帆走商船隊を編成し、ヨーロッパ〜オーストラリア間で穀物輸送に当たっていた。当時は汽船の時代になってもなお航海士の免許に帆船の乗船経験を必要とした国が少なくなかったため、エリクソンの船団にはそのような実習生が多数乗船し、人的な面での需要もまだ残っていた。
しかし、エリクソンの帆走商船隊も第二次世界大戦で大半の船を失い、1947年の彼の死と共に終わりを告げた。最後まで残っていたのは南米のチリ沿岸で運航されていた1隻と、西ドイツの船主が練習船兼穀物輸送の貨物船として使用していた2隻だったが、1957年9月22日に西ドイツの「パミール」が南大西洋上で台風の直撃を受けて遭難沈没し、大半の乗員と実習生が犠牲となる惨事が起き、姉妹船の「パサート」も運航継続を断念、翌1958年6月18日にチリ沖で肥料輸送に就いていた「オメガ」が沈没し、ここに大型商用帆船は海上から姿を消した。その後、大型帆船の活躍の場は海軍の士官や民間の船員養成の練習船など、限定されたものになってしまった。
それだけではなく、原油高騰のあおりを受けた2007年以降、コンピューターで制御する大きな凧を装備した、新型のタンカーが運行されるようになった。このような大きな凧によって推進力を得る手段は、1970年頃の石油危機の際に発明されていたが、現在の凧は正確にコンピューターで制御する機能によって、最大で燃費を15〜30%程度改善する効果があるとされる。
それだけにとどまらず、2008年にはフランスの海運業者Compagnie de Transport Maritime a la Voile社(CTMV)によって、ワインの商用輸送が再開された。CTMVは108隻の古い帆走船を所有しており、その速度は8ノット程度ではあるが、環境にも優しく、もちろん高騰し続ける燃料代も不要である。今後も燃料代が高騰を続けると思われ、帆走を推進力の一部とした、帆船と汽船のハイブリッド船や、帆船の復活が進むことも考えられる。