読み込み中...劉備簡体字での表記:、ピン音:.(りゅう び、161年 ? 223年6月10日四分暦(太陰太陽暦)では章武3年4月24日に当たる。、在位221年 ? 223年)は中国の後漢末から三国時代の武将。蜀(蜀漢)の初代皇帝。字は玄徳(げんとく、Xuándé)。 諡号は昭烈帝(しょうれつてい)。廟号は不詳『晋書』「巻百 列伝第七十 王彌伝」では、劉備を「烈祖」と称しているが、これが廟号なのかどうかは断定できない。。 家系は劉氏。
黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦。諸葛亮の天下三分の計に基付いて蜀の地を得て勢力を築き、魏・呉・蜀の鼎立の原因を作った。後漢の滅亡を受けて皇帝に即位し、蜀漢を建国した。
涿(たく)郡涿県現在の河北省保定市涿州。の人。前漢の中山靖王劉勝の末裔と称した。黄巾の乱に際して関羽・張飛らと義勇軍を結成し、鎮圧に功績を挙げる。功により一旦は公職に就くが、やがて職を捨て出奔。その後は各地を転戦し公孫瓚、袁紹らの下で戦う。その間、徐州刺史、豫州牧などの地位を得るが、一定の本拠を定めることはできなかった。官渡の戦いでは袁紹軍に参加するが、曹操に軍を向けられると劉表のもとに身を寄せた。劉表のもとで過ごす中で諸葛亮を参謀に迎え、天下三分の計を説かれる。劉表の没後は孫権と連合して曹操に対抗した。そののち、天下三分の計に基づき劉璋から蜀を奪って本拠を定め、漢中王を称して曹操と孫権に対抗。皇帝(献帝)の曹丕への禅譲を受けて劉備の元には皇帝(献帝)は殺害されたとの報が入ったため、後を継ぐ形で即位した。実際には皇帝の生命に別状は無かった。部下たちから皇帝に推戴され、蜀漢を建国した。
その後、孫権に対して親征を行うも夷陵の戦いで陸遜に大敗し、白帝城に逃げ延びそこで没した。享年63。後継は嫡子の劉禅と定め、その補佐を諸葛亮に託した。後に昭烈帝と諡された。
祖父は劉雄、父は劉弘。母の名は不詳。妻に穆皇后呉氏(呉懿の妹)、甘夫人、糜夫人(糜竺の妹)、孫夫人(孫権の異母妹)などがいる。子に後継者の劉禅の他、劉永と劉理がいる。養子に劉封。また、少なくとも2人の娘がいた事が分かっている『三国志』「魏書九 曹仁伝」には、曹純が劉備の娘二人を捕らえたとある。。曾孫に劉玄がいる。叔父に劉子敬、従父に劉元起、その子に劉徳然がいる。
劉備は前漢の景帝の第8子、中山靖王劉勝(生年不詳 - 紀元前113年没)の末裔と自称していた。劉勝は劉貞を初め、孫も含めて120人以上の子を残しており、劉備の直接の祖とされる劉貞は、紀元前117年に涿郡涿県の列侯として爵位を賜った。だが、紀元前112年の年始(正月)頃に、彼は列侯のみに課された漢朝への上納金を納めなかったために、侯国を除かれ、史書の系譜もそこで止まっている。
「先主伝」注に引く『典略』では劉備は臨邑侯『後漢書』には3人の臨邑侯の名が記録されている。一人は建武2年(西暦26年)に真定王劉楊と共に後漢への謀反を起こした劉譲であり、もう一人は建武30年(西暦54年)に臨邑侯に封じられた劉復、いま一人は劉復の子の劉??である。劉譲は劉楊の弟であり、劉楊は前漢の景帝の七代の孫である。劉復は北海靖王劉興の子であり、劉興は光武帝の兄の斉武王・劉縯(伯升)の子である。の庶流と記されている。
劉備は背丈が七尺五寸(172.5cm)、腕が膝に届くまであり、耳が非常に大きく自分の耳を見ることが出来たと言う渡辺精一『三国志人物鑑定辞典』では、「膝まで垂れる長い手」は「手を動かせる範囲が広い」≒「多才」と解釈でき、さらに「自分の耳を見ることもできる目」は「細かい所までよく見ることができる」という意味に取れるため、劉備の身体的特徴についての記録は「聡明である」という意味に解釈できる、との説明がされている。。
また、現在残されている肖像画には立派なひげを蓄えた容貌が描かれているが、「蜀書」周羣伝には張裕に「潞涿君」(ひげの薄い人の意潞は露(あらわ)と同音、涿は啄(くち)と同音で、口があらわな人という意味になる。)とあげつらわれたとある劉備はこのことを根に持ち、皇帝に即位すると過去の罪を挙げて張裕を処刑している。。
涿(たく)郡涿県の出身。祖父は劉雄、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり、最終的には兗州東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備がまだ幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生活していた。
幼い時に家の前に生えている大きな桑の木を見て劉備少年は「僕も大きくなったら、天子の乗っている馬車に乗るんだ」と言った(天子の馬車は桑の木で出来ている)。その際、叔父の劉子敬(劉弘の弟)が劉備の口を塞ぎ「滅多なことを言うでない、そんなことを口に出すだけで、わが一族は皆殺しの刑に遭うぞ」と叱責したという『漢晋春秋』より。。
15歳の時に母の言いつけで、従父(叔父)の劉元起(劉雄の甥)の援助を得て、その子の劉徳然(劉備のいとこ)と共に、同郷で儒学者として有名な廬植の下で学問を学ぶようになる。この時の同窓に遼西の豪族の庶子の公孫瓚がおり、劉備は公孫瓚に対して兄事しており大変仲が良かったという。
廬植門下の劉備はあまり真面目な生徒ではなく、勉学よりも乗馬や闘犬、音楽高島俊男は音楽は「くろうとの女」遊びの隠語としている。『三国志 きらめく群像』365ページを好み、仲間達の中でも見栄えがある服装で身を包んだ。男伊達を気取り豪侠と好んで交わりを結び、劉備の周囲には多くの若者が集まるようになった。馬を商って諸国を回っていた中山の豪商・張世平と蘇双は、劉備を見て只者ではないと思い、大金を与えた。劉備はこの金で人数を集めてその頭目となった。黄巾の乱が発生すると、関羽・張飛・簡雍らと共に義勇軍を結成し名を上げた。その功により安熹県の尉(警察)に任命された。しかし、郡の督郵が公務で安熹にやって来た際に面会を断られたのに腹を立ててそのまま押し入ると、縛りあげて杖で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した。
その後、公孫瓚の元へ身を寄せ、公孫瓚から別部司馬とされ、青州刺史の田楷を助けて袁紹軍と戦った。そこで戦功を立てたので、公孫瓚の推薦により平原県の仮の令という地位を得、そののち平原国の相となった。劉備は賊の侵入を防ぎ、民に経済的な恩恵を与え、身分の低い士人を差別しなかったので、大勢の人々に心を寄せられた。
公孫瓚は袁術と手を結んでおり、192年、袁術と袁紹が決裂すると、袁術の要請で劉備を高唐に、単経を平原に、徐州牧の陶謙を発干に駐屯させ、袁紹を圧迫した。だが、全て袁紹と、袁紹に味方していた曹操に撃退された。
この頃、平原の人劉平は劉備の配下になるのを不快に感じて、刺客を派遣した。そうとは知らずに劉備は刺客を手厚くもてなした。刺客は殺すのが忍びなくなり、自らの任務を劉備に告げて帰ってしまった。
193年、徐州の陶謙が曹操に攻められて田楷に救援を求めて来たので、田楷と劉備は陶謙の元へと向かい、劉備は田楷の元を離れて陶謙に身を寄せるようになった。
194年、曹操が退いた後、陶謙は劉備を豫州刺史に推挙して認められた。その後、陶謙は病が重くなり、徐州を劉備に託そうとした。劉備は初めは断ったものの、親交があった陳登・孔融らの説得を受けて徐州を領した。この時に鄭玄の推薦で、北海郡の人の孫乾を従事として迎えた。
曹操に敗北した呂布が徐州へやって来たので、迎え入れた。その後、かつての盟主であった袁術が攻めて来たのでこれと対峙し、一ヶ月が経過した頃、下邳の守将の曹豹が裏切って呂布を城内に迎え入れ、劉備の妻子は囚われてしまった。劉備は徐州へ帰って呂布と和睦し、自らは小沛へと移った。
劉備は兵を一万余り集めたが、劉備が多数の兵を集めたことを不快に思った呂布は劉備を攻め敗走させた。劉備は曹操の元へ身を寄せた。ここで、曹操は劉備の器量を評価して優遇した。しばらくして曹操が上奏し、劉備を豫州の牧に任命して、劉備を援助して再び小沛に入らせた。
197年、楊奉と韓暹は呂布と同盟を結び、袁術を大いに撃破し、徐州・揚州付近を荒らしていた。劉備は楊奉・韓暹を討伐し、楊奉・韓暹を討ち取った『英雄記』によれば、一計を案じた劉備は楊奉を誘って会見し、会見の席上で楊奉を謀殺した。韓暹は逃げ出したが、杼秋の守備隊長の張宣に討ち取られ、その首級は劉備に届けられたという。。
198年、呂布が攻めて来たので、劉備は曹操に援軍を要請した。曹操は夏侯惇を派遣したが、呂布の部下の高順に撃破され、小沛は陥落し、劉備の妻子は再び捕虜となった。曹操は自ら出陣して劉備軍を回収すると共同して呂布を攻めて、呂布を生け捕りにした。曹操は呂布が将軍として有能なので殺すのを少しためらったが、劉備は呂布がかつて丁原と董卓を殺したことを挙げて曹操を諌めた。これを聞いた呂布は激怒し、劉備に対して「こいつが一番信用できないのだぞ!」「劉備め!陣門で戟を射て助けてやった恩を忘れたか!」と罵詈雑言を浴びせたが、結局、処刑された。
劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許昌へ入り、左将軍に任命された。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出す時には常に同じ車を使い、席に座る時には席を同格にすると言う異例のものであった。曹操と歓談していた時に曹操から「天下に英雄といえば、おぬしと予だけだ。袁紹などでは不足よ」と評されている。
この頃、宮中では献帝よりの密詔を受けた董承による曹操討伐計画が練られており、劉備はその同志に引き込まれた。その後、討伐計画が実行に移される前に朱霊・路招らと共に袁術討伐に赴き、都から徐州に逃げ出す名分を得たという。やがて袁術が討伐途中で死去したため、そのまま徐州に居残った。
劉備は朱霊らが帰還した後に、徐州刺史の車冑を殺して、下邳の守備を関羽に任せて自らは小沛に移ると、多数の郡県が曹操に背いて劉備に味方した。曹操と敵対することになったので孫乾を派遣して袁紹と同盟し、曹操が派遣した劉岱・王忠の両将を破った。
だが、劉備の裏切りに激怒した曹操自身が攻めて来ると敵し得ず、袁紹の元へと逃げ、関羽は劉備の妻子と共に曹操に囚われた。『三国志』蜀書先主伝の注に引く『魏書』によれば、劉備は攻めて来た曹操の指揮の旗を見ると、戦わずして逃走したという。袁紹の長子袁譚をかつて劉備が茂才(郷挙里選の科目の一つ)に推挙していたので、その縁で袁紹の元へ身を寄せて大いに歓待された。
袁紹が曹操と官渡でにらみ合っている時に、汝南で元黄巾軍の劉辟が曹操に対して反旗を翻したので、劉備は袁紹の命を受けこれに合流して、数県を攻め取ると、多くの県が曹操に背いて劉備らに味方した。この時に関羽が曹操の元を去り、劉備のところへ帰ってきた。曹操は曹仁を派遣して、劉備を撃退した。
その後、劉備は袁紹の命を受け、再び汝南に侵攻し、賊の龔都らと手を結んだ。曹操は蔡陽を派遣し劉備らを攻撃させたが、蔡陽は敗北し討たれた。袁紹が敗北したあと、自ら兵を率いて劉備討伐の構えをみせてきた曹操に対して衆寡敵せずと判断し、袁紹の元から離れ荊州の劉表の元へと身を寄せた。
劉表から新野城現在の河南省南陽市新野県。を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇・于禁の軍を博望にて撃破した。劉備の元に集まる人が増えたことで、劉表は劉備を猜疑するようになった。また、劉表は外征に熱心ではなかった。そのため、曹操の烏丸討伐の隙をついて許昌を襲撃するようにという劉備の進言は、劉表に受け入れられなかった。
この時期のエピソードとして「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきた。どうしたのかと劉表が聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて、何の功業も挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた」という話がある(裴松之が注に引く『九州春秋』より)。このことから髀肉之嘆(ひにくのたん)という故事成語が生まれた。
この頃、諸葛亮を三顧の礼にて迎え入れ、既に強大な勢力を築いている曹操・孫権に対抗するためにはこの荊州と西の益州を手に入れて天下を三分割してその一つの主となるべしという天下三分の計を説かれた。
劉表が没し、劉表の後を継いだ劉琮が曹操に降伏した。諸葛亮は、劉琮を討って荊州を奪ってしまえと進言したが、劉備は「忍びない」と言って断り、逃亡した。劉備が逃亡すると、周辺の住民十数万が付いてきた。そのため、その歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。ある人が住民を捨てて早く行軍し江陵を確保するべきだと劉備に進言したが、再び「大事を成すには人をもって大本としなければならない。私についてきた人たちを捨てるのは忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。
しかし、曹操の軽騎兵隊に追いつかれると妻子・民衆達を置いて逃亡し、関羽の軍と合流することで態勢を立て直し、更に劉琦の軍と合流した。孫権陣営から様子見に派遣されてきた魯粛と面会し、諸葛亮を孫権の下に同盟の使者として派遣する。諸葛亮は、孫権の説得に成功して同盟を結び、赤壁の戦いにおいて、曹操軍を破った。
赤壁の戦いの後、劉備は荊州南部を占拠し、劉表の長子劉琦を上表して荊州刺史にたて、荊州の南の四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を併合した。その後程なくして劉琦が死去すると、家臣たちに推戴されて荊州牧となった。劉備の勢力拡大を憂慮した孫権は自らの妹(孫夫人)を劉備に娶わせた。さらに、共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきたが、劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと考えたためこれを断った。
211年、蜀の主である劉璋が五斗米道の張魯に対抗するために、劉備に対し兵を益州に入れて欲しいと要請してきた。ところが、要請の使者である法正と張松は既に劉璋を見限っており、劉備に対して蜀を獲ってしまうように勧めた。龐統もこの話に乗るように進言し、劉備はこれを受け入れた。
関羽・張飛・諸葛亮らを留守に残し、劉備は自ら龐統・黄忠・法正などを引き連れて蜀へ赴いた。蜀に入ると劉璋によって歓待を受け、宴が開かれた。龐統はこの機会に劉璋を捕らえて一気に蜀を手に入れるように進言したが、劉備は「今はその状況ではない」と述べて退けた。
その後、劉備は兵を率いて前線の葭萌へ駐屯し、この地で張魯を討伐するよりも住民たちの人心を収攬することに勤め、来たるべく蜀占領に向けて準備を整えた。212年、曹操が孫権を攻め、劉備に対して救援要請が来た。劉備たちはこれを兵力移動の隠れ蓑にして劉璋から付けられた監視役の高沛と楊懐の二将を謀殺して、蜀の首都成都へと向けて侵攻を始めた。諸葛亮・張飛・趙雲らも長江をさかのぼり、益州の郡県を攻略した。関羽は本拠地の押さえとして引き続き荊州に残った。
初めは順調に進んでいたものの雒城にて頑強な抵抗に合い、一年もの長い包囲戦を行なわざるを得なかった。この戦闘中に龐統が流れ矢に当たって死去している。そして、諸葛亮ら別働隊と合流した劉備はようやく雒を落とすことに成功し、さらに成都を包囲、劉璋は降伏した。こうして劉備の蜀の乗っ取りは功を成した。
これにより天下三分の形勢がほぼ定まった。
蜀を奪って安定した地盤を得た劉備であったが、孫権勢力からの警戒を買うこととなった。もともと赤壁の勝利は孫呉の力によるものであると考えていた孫権は、荊州はその戦果として当然帰属するべきものと考えていた。劉備の荊州統治を認めていたのは、曹操への防備に当たらせるためであり、劉備の勢力が伸長しすぎることは好ましいことではないと考えていたのである。
215年、劉備が蜀を手に入れたことで、孫権が荊州の諸郡(長沙・桂陽・零陵)『三国志』「呉書魯粛伝」を返すようにと言ってきたが、劉備は「涼州を手に入れたら荊州の全領地を返します」と答えた。涼州は益州(蜀)の遥か北であり、劉備がこれを奪うことはその時点で不可能に近く、返すつもりが無いと言ったも同然であった。これに怒った孫権は呂蒙を派遣して荊州を襲わせ、両者は戦闘状態に入った。
しかしその頃、張魯が曹操に降伏して益州と雍州を繋ぐ要害の地である漢中地方は曹操の手に入った。このことに危機感を抱いた劉備は荊州の長沙郡・桂陽郡を割譲することで孫権と和解して、漢中の攻略を目標とすることになった。
219年、自ら軍を率いて漢中の夏侯淵・張郃を攻め、黄権と法正の策に従い撃破し、夏侯淵・趙顒らを斬り殺した(定軍山の戦い)。その後、曹操自身が軍を率い漢中を奪還すべく攻めてきたが、劉備は防御に徹して、曹操軍に多くの損害を与え、曹操軍を撤退させた。
漢中を手に入れた劉備は曹操が216年に魏王になっていたことを受けて漢中王を自称した。前漢の高祖が漢中王を称した故事に倣ったものであった。
一方、東では荊州を奪還するべく孫権は呂蒙たちとともに策を練り、関羽が曹仁の守る樊城を攻めている間に、曹操と同盟を結び、荊州本拠を襲って、孤立した関羽らを捕らえ、これを処刑した。これにより荊州は完全に孫権勢力のものとなった。
220年に曹操の嫡子・曹丕が後漢の献帝から帝位の禅譲を受けた(実質的には簒奪)。これに対抗して蜀の群臣は、221年に劉備を漢の皇帝に推戴した。蜀に作られた漢王朝であるため、前漢(西漢)、後漢(東漢)と区別し、蜀漢とも言う。
蜀漢皇帝となった劉備は、221年孫権に対して親征(夷陵の戦い)を行なった。初めのうちは呉軍を軽快に撃ち破りながら進軍、呉は荊州の拠点であった江陵を背後に残すまでに追い詰められた。しかし翌222年夏、蜀漢軍は夷陵にて陸遜の火計策に嵌り大敗し、劉備自ら白帝城に逃げ込み、ここに永安宮を造営して逝去するまで滞在した。
ここで劉備は病を発し、病床に臥せってしまう。そこで劉備は丞相・諸葛亮と劉永・劉理ら諸子を呼び寄せた。諸葛亮には「君の才能は魏の曹丕に十倍する。わが子、劉禅が帝君としての素質を備えているようであれば、これを補佐してくれ。必ずや国に安定をもたらし、統一を果たしてくれると信じている。だが、もし劉禅が補佐するに足りない凡器だと思ったのなら、君が取って代わって皇帝として国家を統率してくれ」と言い遺し、子供達に対しては「悪事はどんな小さなことでも行なってはいけない。善事はどんな小さなことでもこれを行なえ。お前達の父は徳が薄く、これを見習ってはいけない。『漢書』・『礼記』・『六韜(呂尚の著と伝えられる兵法書)』・『商君書(商鞅の著と伝えられる法律論)』等々を読んでしっかり勉強せよ。これより丞相(諸葛亮)を父と思って仕えよ。いささかも怠ったらばそなたらは不孝の子であるぞ」と言い遺して間もなく崩じた。享年63。
陳寿の評:「度量が大きく強い意志を持ち、おおらかな心をもって礼儀正しく人に接し、人物を良く見極めて、ふさわしい待遇を与えた。それらは前漢の高祖(劉邦)に通じ、英雄の器を備えていたといえよう。国のその後を諸葛亮に全て託すのに際して、何らの疑念を抱かなかったことは、君臣の公正無私な関係を現すものとして、永遠に手本とすべき事例である。好機を得るための機知や、行動の根幹をなす戦略では、魏武(曹操)に及ばなかったため、勢力の基盤となる領土も、その才能の差に準じて狭かった。しかし、挫折して人に屈しても諦めることなく、最終的には誰の下にも居らず独立したのは、彼らの器量を考えた時、自分を何時までも許容し続けてくれるような人間だとは到底思えないがためにそうしたのである。単純に自分の利益だけを考えての事ではなく、自分にふりかかった災難を避け、殺されないようにするためだったと言えよう原文:「弘毅寛厚、知人侍士。蓋高祖之風、英雄之器焉。及其挙国託孤於諸葛亮、而心神無疑貳、誠君臣之至公、古今之盛軌也。機権幹略、不逮魏武、是以基宇亦狭。然折而不撓、終不為人下者、抑揆彼之量必不容己。非唯競利、且以避害云爾」」(『蜀書』「先主伝」)。
明末の学者・王夫之は劉備の遺言について、君主として出してはいけない「乱命」であるとしている。簒奪を警戒する劉備が、諸葛亮および他の臣下に対し釘を刺したのではないか、そしてその結果が、簒奪を警戒されないようにと北伐の際の諸葛亮の行動を縛る事になったという見解に基づくものである。
『三国志演義』は、黄巾の乱によって世が乱れる中、劉備が関羽、張飛と桃園の誓いを結び、義勇兵を起こす場面から始まる。
史書が伝える劉備が、その武勇と人気によって諸勢力に重んじられ、同時に警戒されたのに比べて、『三国志演義』の中の劉備は、武勇を関羽、張飛をはじめとする武臣達、知略を諸葛亮などの謀臣に預け、多様な個性を周囲に惹き付ける中心として位置している。その人を惹き付ける魅力となるのが、儒教の理想とする君子的高潔さであり、これによって奸雄・曹操と対立軸を構成している。演義の中の劉備は「雌雄一対の剣」と名馬「的盧」を愛用している『三国志』にはそのような剣があったという記録はない。的盧は『三国志』「先主伝」の注や『先主伝集解』にその名がある。。剣は先祖伝来のものであり、劉勝の末裔であることを示すものであった。なお、吉川英治の三国志では旅先で黄巾族に襲われているところを救ってくれた張飛に対し礼としてこの剣を渡したが、旅先から戻りこれを知った劉備の母がひどく悲しんだとされている。この剣は張飛と再会し義兄弟の契りを交わした際に劉備の手に戻った。的盧は千里を駆ける名馬であるが、凶相を持つため乗り手に祟りをなす馬である(詳しくは的盧の項を参照)。
呂布に追われている時に逃げ込んだ家の主人劉安は、劉備をもてなす食料がなかったので妻を殺害してその肉を差し出し、劉備をいたく悲しませた。
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