読み込み中...1909年に台湾の新竹に生まれる。子供の頃から身体が弱く、常に死を身近に感じていたという。子供心に台湾において支配者日本人を強く意識し、罪悪感を覚えていた。
代表作は、存在の秘密や大宇宙について語った思弁的な大長篇小説『死靈(しれい)』。世界文学史上未曾有の形而上小説であるが未完に終わった。
青年期に思想家マックス・シュティルナーの主著『唯一者とその所有』の影響を受け、個人主義的アナキズムに強いシンパシーを抱きつつ、ウラジーミル・レーニンの著作『国家と革命』に述べられた国家の消滅に一縷の望みを託し、マルクス主義に接近、日本共産党に入党し、もっぱら地下活動に従事。検挙後は未決囚として豊多摩刑務所に収監され、形式的な転向によって釈放された。獄中ではカント、ドストエフスキーから圧倒的な影響を受けたという。出獄後は経済雑誌の編集に携わり、敗戦を迎えた。元マルクス主義者と呼ばれることが多いが、シュティルナーの「創造的虚無」を自己の思考の根底に据えることは終生変わることがなかった。
武田泰淳、大岡昇平らと親しかった。晩年は吉本隆明と、コム・デ・ギャルソン論争で激しく対決した。
ドストエフスキーとカントに絶大な影響を受け、多くのドストエフスキー論を書いている。ロシア文学については早くから影響を受け思索を強めていたものの、検挙後はドストエフスキーを第一に挙げるようになった。
埴谷雄高研究者としては、立石伯、柘植光彦、白川正芳、川西政明、鹿島徹らが一般的に著名。
熱狂的野球ファン、しかもパ・リーグのファンであった。北杜夫は1960年代に埴谷の自宅を訪れた際、ラジオのチューンをさまざまに調整しては各球場の経過を聴いていた埴谷の姿をエッセイに書いている。
話をするときに手に持っているもので机やテーブルを叩く癖があり、メガネを200個以上も壊したという。
他の作家や編集者から「埴谷先生」と呼ばれると、「私は人にものを教えている訳ではありませんから、先生ではありません。『埴谷さん』でいいです」と常に答えていたという。
自分の作品は文庫化しないと公言していた。事実、生前には文庫本は一切出ることはなく、死後『死靈』と『埴谷雄高評論選』が文庫化された。
ハンガリー産のトカイワイン、特に「アスー3プットニョシュ」を愛飲していた。
武蔵野市吉祥寺の自宅の両隣と向かいに家作を持っていた。転向による釈放後、息子がまともに就職出来ないであろうと思った母親が購入したもので、戦前の埴谷は、一時経済新聞への勤務歴はあったものの、主にこの家作からの家賃や売却益で生活していた。大岡昇平との対談集『二つの同時代史』によると、結核が発覚した1950年までにこれらは全て売り払ったという。
腸結核が発覚した1950年から約4年間、生活のために自宅で賄い付き下宿を営んでいた。発覚時、埴谷は夫人の勧めにもかかわらず療養所への入院を拒み、自宅を売って転地療養すると主張していた。当時『近代文学』の編集を手伝っていた平田次三郎がそれを知り、埴谷に強く勧めたもので、下宿生には一橋大学の学生が多かったという。翻訳家の常盤新平も埴谷家に寄宿した一人である。
彼の没した日には、有志によって「アンドロメダ忌」という記念会が催されている。
哲学者の池田晶子は『最後からひとりめの読者による埴谷雄高論』(1987年河出書房)を発表している。
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