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岩屋城

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

岩屋城いわやじょう)は筑前国御笠郡福岡県太宰府市浦城)にあった山城戦国時代末期の天正14年(1586年)、島津忠長率いる島津軍大友軍高橋紹運との壮絶な攻防戦(岩屋城の戦い)で知られる。

歴史

築城は天文年間(1532年 - 1554年)に大友氏の武将・高橋鑑種と伝えられ、立花城と共に大友家の筑前支配の拠点であった。しかし、高橋鑑種は主君・大友宗麟の傲慢な振る舞いに憤り、反旗を翻したために城を逐われ、大友家の宿老吉弘鑑理の弟で吉弘鎮種が高橋氏の名跡を継いで「高橋鎮種」と名乗り宝満・岩屋の両城主となった。

天正13年(1585年)、立花城立花道雪の死去後、長男統虎が道雪の養子として城主となり、次男の統増が高橋家の本城である宝満城に入城し、一族三人で大友家の筑前での拠点防衛に就く。

天正14年(1586年)7月13日、筑前一帯を平定し、関白秀吉の九州襲来を阻まんとする島津氏が九州八カ国の兵を集めた総勢5万にも及ぶ大軍で攻め寄せた。紹運(高橋鎮種の出家後の名)は七百余名と共に篭城。2週間の間頑強に抵抗したものの、各出城や砦が次々と陥落、虚空蔵砦を守備する福田民部少輔も討死するに及んだ。また、城主紹運も自ら薙刀を取り敵中に入ったが力尽き、敵陣に矢止めを乞うたのち高櫓の上に登り自害。残された将兵もあとを追い玉砕、天正14年7月27日落城。

紹運が高櫓の扉に書き残したとされる辞世の歌は、「屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき」

紹運は次男の統増に宝満山城は開城させたものの、立花城に籠る長男統虎(のちの立花宗茂)の策略で島津勢に時間を浪費させ、豊臣秀吉の九州征伐先鋒である毛利軍豊前国に上陸する時間を稼いだことで、結果的に島津氏の撤退を余儀なくさせた。

城跡から道を隔てた南西側に高橋紹運の墓がある。

城の構造

四王寺山(標高410メートル)の中腹(標高291メートル)にある。現在は堀切土塁が残る。

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