読み込み中...日本人(にほんじん・にっぽんじん)とは一般に日本国の国籍を持つものであるが、人種的ないし民族的な範疇としても流通しており、学術的また政治的にも議論の争点となることがある。以下、各項目で詳細を記述する。
日本人は、大方以下のように分類される。
# 国家による分類:日本の国籍を有する者。日本国民。 #地理的分類:日本列島に居住する者。 # 人類学的分類:モンゴロイドの一つ。皮膚は黄色、虹彩は黒褐色、毛髪は黒色で直毛。言語は日本語。旧石器時代または縄文時代以来、現在の北海道から沖縄諸島(南西諸島)までの地域に住んだ集団を祖先に持つ。#民族的分類小熊英二『日本単一民族神話の起源』(1995)、『「日本人」の境界』(1998):日本国において98.5%の多数派を占める民族である大和民族(日本民族また和人ともいう)のことこの用法の場合は国家的分類と異なり、アイヌ民族等の他民族は含まない。また、国内外の日系人も含まない事が多い。。
以下、上記民族的分類による日本人について概説する。なお近年の科学的研究の進展により従来の見方は大きく見直しがすすんでいる。
先史時代の日本列島に住んでいたものを縄文人とよんでいる(なお佐原眞はこの語の原義である「縄紋土器を使用していた人間」ということを強調するために「縄紋人」という呼称を提唱している)。縄文時代末期・弥生時代に日本列島に移住したものを弥生人といい、その移動ルートについては諸説ある(下記「学説」参照)。弥生人と縄文人は他の地域(ユーラシア大陸やサフル大陸など)での混合よりもその度合いが高いことから比較的穏やかに交わっていったと推定されている(むろん部族間戦争は多数あったと推定される:時代は下るが例えば倭国大乱など)。ヤマト王権など倭(後年、大和と改名される)民族を中心とした社会が台頭するとともに、他の住民たちは征服されていった(東方の蝦夷、南方の熊襲と呼ばれた在来人と推定される部族は抵抗した)。後年には、白村江の戦い以後、倭国の同盟国百済からの亡命者も移住し、大和民族に溶け込んでいった。
このように縄文人も弥生人もそのルーツはユーラシア大陸や南方から移住・渡来した人々にあり、それぞれがハイブリッドとしての日本の民族集団を形成する一部となっていった。大和民族が朝廷権力とともに勢力を拡大した後に「日本」という枠組みの原型がつくられ、その後、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていくとされる。もっとも完全に同化されない少数民族は常に存在したし、「日本民族」というような認識(アイデンティティ)が多数者に浸透していくのは明治時代(近代国民国家の成立期)ともいわれる(小熊英二『日本単一民族神話の起源』『「日本人」の境界』)。なぜならば19世紀当時アメリカ・ヨーロッパ各国の白人を主体とする列強諸国が東南アジアを中心に植民地を広げている社会情勢から、国民の意識の統一を目指して列強諸国に対抗できる国にしてゆかなければならなかったのである。
旧琉球王国地域については、大和民族の一支族とする主張が伊波普猷などによって提起される一方、文化・歴史の違いなどを抽出して、独自の民族としての琉球民族とする考えもある。(沖縄学や琉球語など参照の事)日本が近代ネーションステート(国民/民族国家)として朝鮮半島、台湾島、南樺太などを領有していた時代には、日本人という語は公式には朝鮮人、台湾人などの日本国籍を付与された植民地の先住民族を含む国籍的概念であった。大日本帝国が多民族国家であることは強く意識され、現在の日本国民に相当する人々は内地人と呼ばれた。但し当該の先住民族の間では日本人が内地人と同義として使われることが多かった。
南樺太に住んでいたロシア人、ポーランド人、ウクライナ人、ドイツ人、朝鮮人、ウィルタやニヴフのなかには、日本国籍をもっていたものもいた。そのため、終戦後ソ連によって「日本人」として北海道に強制送還された朝鮮人、ウィルタ、ニヴフがいた。また反ソ分子として抑留された者もいた。ポーランド系日本国民の多くはポーランド国籍を取得しポーランドに移住した。
従来提唱された説として日本人の起源は南方系の縄文人と北方系の弥生人であるとする埴原和郎らの二重構造説があった。しかし近年の研究の発展により縄文人も弥生人も北方起源であるとする説や、長期にわたる地域間移動や複数回の大量移動などを示すデータが蓄積されるなか、すくなくとも従来の時代的概念としての縄文人/弥生人という単純な図式では説明できないとする説が台頭し、埴原の二重構造説には多くの批判がある。他方、日本人が重層構造であることは人類学者・考古学者の間では支持する意見が強く、また、分子人類学的なDNA解析(ハプログループによる地域的分布の解析)もあくまで生物学的データであり、文化的な交流や、実際の移動の実態および移動の理由などについては、今後も文化人類学、歴史学、考古学など周辺諸科学の総合的な調査が求められる,p.40.また国立科学博物館人類研究部によるプロジェクト研究「東アジアにおけるホモ・サピエンスの移動・拡散と変異に関する調査研究」及「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」を参照。。
尾本恵市の系統図では、日本人は朝鮮人、チベット人と同じ枝に位置づけられ、アイヌ人とは異なるとしており、ある種の二重構造論となっている。しかし、研究の結果、埴原の『二重構造説』、すなわち原日本人(縄文人)の南方起源説には賛成しかねると述べている要ページ表記。
篠田謙一は、現代日本人のハプログループ頻度は韓国や中国東北部に非常に近く(北東アジア集団)、これは縄文人も弥生人も大陸から渡来し広がったことを裏付けており、従来の縄文人を南方系とする説は否定している要ページ表記。
また、日本人(大和、アイヌ、沖縄人)は、遺伝学的には大差はなく、比較的均一性が高いとする説がある。根井正利は「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993 京都)にて日本人(アイヌ・沖縄人を含む)は約3万年前から北東アジアから渡来し、弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはほんのわずかな影響しか与えていない、という研究結果を出した宝来聰『DNA 人類進化学』(岩波書店、1997)』要ページ表記月刊誌「選択」2007年12月号。しかし宝来聰は、ミトコンドリアDNAだけでも65%は渡来系由来であると反論しており、またY染色体の研究とも両立せず、縄文人は弥生人より歯が小さいことから後者は前者の子孫ではあり得ないとするアメリカのブレイスらの研究とも両立しないと主張している宝来聰『DNA 人類進化学』(岩波書店、1997)』要ページ表記。松本秀雄もGm遺伝子の観点から根井とほぼ同じ研究結果を出している日本人バイカル湖畔起源説参照 。またヒト白血球型抗原の遺伝子分析により、現代日本人は均一性が高い民族であるとの報告もある。1980年代からのミトコンドリアDNA研究の進展により、ヒトの母系の先祖を推定できるようになった(ミトコンドリア・イブ参照)。これにより、アフリカ単一起源説がほぼ証明され、また民族集団の系統も推定できるようになった。ただし、ミトコンドリアDNAは形態の生成に関与しない遺伝子であり、DNAタイプ(ハプロタイプ)と形質的特徴(骨格、体格、顔、皮膚など)とは必ずしも対応しないとされている,p.32.。
| C | colspan="3" | DE | colspan="5" | FR | |||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| C1 | C3 | D1 | D2 | D3 | N | O1 | O2a | O2b | O3 | ||
| 日本 | アイヌ | 0 | 13 | 0 | 88 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 青森 | 8 | 0 | 0 | 39 | 0 | 8 | 0 | 0 | 31 | 15 | |
| 東京 | 1 | 2 | 1 | 40 | 0 | 0 | 3 | 1 | 26 | 14 | |
| 静岡 | 5 | 2 | 0 | 33 | 0 | 2 | 0 | 0 | 36 | 20 | |
| 徳島 | 10 | 3 | 0 | 26 | 0 | 7 | 0 | 0 | 33 | 21 | |
| 九州 | 4 | 8 | 0 | 28 | 0 | 4 | 2 | 0 | 36 | 26 | |
| 北琉球 | 4 | 0 | 0 | 39 | 0 | 0 | 0 | 0 | 30 | 16 | |
| 南琉球 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 67 | |||||
| 北アジア | オロチョン | 91 | 0 | 0 | 0 | ||||||
| エヴェンキ | 68 | 17 | |||||||||
| 満州 | 27 | 0 | 4 | 0 | 4 | 38 | |||||
| ブリヤート | 84 | 0 | 28 | 0 | 2 | 2 | |||||
| ハルハ(モンゴル) | 52 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 23 | ||||
| ユカギル | 50 | 25 | |||||||||
| コリャーク | 33 | 33 | |||||||||
| チュクチ | 25 | 25 | |||||||||
| ケット | 17 | ||||||||||
| ニヴフ | 38 | ||||||||||
| 東アジア北部 | 朝鮮 | 12 | 0 | 3 | 0 | 51 | 38 | ||||
| 漢(華北) | 5 | 0 | 2 | 0 | 66 | ||||||
| 回 | 0 | 6 | 0 | 0 | 28 | ||||||
| チベット | 3 | 16 | 0 | 33 | 0 | 0 | 33 | ||||
| 東アジア南部・ 東南アジア |
漢(華南) | 5 | 0 | 15 | 30 | 0 | 33 | ||||
| 漢(台湾) | 0 | 11 | 7 | 0 | 60 | ||||||
| イー | 16 | 0 | 9 | 0 | 33 | ||||||
| トゥチャ | 18 | 3 | 0 | 0 | 0 | 53 | |||||
| ミャオ | 4 | 7 | 0 | 7 | 11 | 0 | 71 | ||||
| ヤオ | 2 | 0 | 2 | 3 | 0 | 52 | |||||
| シェ | 0 | 2 | 35 | 0 | 63 | ||||||
| チワン | 0 | 11 | 68 | 0 | 16 | ||||||
| タイ | 0 | 47 | 6 | ||||||||
| ベトナム | 4 | 3 | 0 | 6 | 36 | 14 | 41 | ||||
| マレー | 11 | 3 | 0 | 9 | 28 | 0 | 31 | ||||
| ジャワ | 23 | 42 | |||||||||
| フィリピン | 41 | 1 |
日本人は、D2系統とO2b系統を中心に、多様な系統が混じり合っていることが分かる。
以下、前掲崎谷の分析に依拠して説明する。最初に日本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのは、シベリアの狩猟民であるC3系統である。バイカル湖周辺からアムール川流域およびサハリンを経由して、最終氷期の海面低下により地続きとなっていた北海道に達した。また一部は沿海州を南下し、朝鮮半島を経由して北部九州に達した。細石刃石器を用い、ナウマンゾウを狩っていたと考えられる。
その後、一万数千年前に、大陸からD2系統が入ってきた。これが縄文人である。D2は日本だけで見られる系統であり、アイヌ人88%、沖縄人56%、本土日本人42〜56%で、朝鮮半島では0%である。近縁のD1,D3がチベットで見られる。D系統は華北で東西に分かれ、東がD2、西がD1,D3になったと考えられる。
同じ頃、経路は不明であるがインドに起源を持つC1系統が南方から入ってきた。貝文土器を用い、縄文人とは異なる文化を南九州に築いた。
O1系統は台湾が起源であり、オーストロネシア語族との関連が想定されている。台湾と近いにも関わらず、日本列島ではO1はごく少数に過ぎない。
O2a/O2b系統は長江文明の担い手だと考えられている。O2b系統が移動を開始したのは 2800年前である。長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは南下し、百越と呼ばれた。残りのO2bは北上し、山東省、朝鮮半島、日本列島に達した。長江文明の稲作を持ち込んだと考えられる。
O3系統は黄河中上流を起源とし、漢民族に典型的に見られる他、周辺の諸民族にも広く見られる。歴史的にO3は一貫して拡大しており、このためにD系統およびO2系統が駆逐されたと考えられる。
日本列島の特異な点は、D2やO2bなど、大陸では敗者となった集団が、絶滅せずに混じり合って存在していることである。その他にもC1,O1,O3など多様な遺伝子集団を吸収し、保持し続けている。
一方ミトコンドリアのハプログループに注目すると、日本には世界で日本人にしか見られないM7aというグループがある。これは台湾付近で発生したと考えられ、沖縄・アイヌに多く本州で少ないという特徴的な分布をしている。
佐々木高明らによる照葉樹林文化論は稲作が中国雲南省などの長江文明から渡来したのではないかとする説を提出している。
従来稲作は、弥生時代に朝鮮半島経由で来たとされてきたが、2005年岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールが見つかっており2005年2月18日共同通信「岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、稲のプラントオパール大量発見」、縄文中期には稲作をしていたとする学説が多数出た2005年7月20日読売新聞、西谷正(九州大名誉教授;考古学)の論など「2005年02月19日読売新聞」稲のプラント・オパールが見つかったことは縄文前期の稲の栽培の証拠となるもの(高橋護・元ノートルダム清心女子大考古学教授)新聞「農民」2002.3.112005年7月17日朝日新聞プラントオパールの発見により少なくとも縄文中期には稲作があったことが確実となった(考古学者;山崎純男)。それに加え、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島で確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米の確認しか取れず日本より遡れないこと、極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないことなどの複数の証拠から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)による伝来である学説が見直され、逆に日本から朝鮮半島へ伝わった可能性を指摘する佐藤洋一郎の説もある佐藤洋一郎『稲のきた道』裳華房/『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会。一方、これらに対して農学者の池橋宏は、従来の「縄文稲作農耕」説は農学的に見ても疑わしく、日本の稲作は江南を起源とし、朝鮮半島南部を経由して最初から完成された形で北九州に持ち込まれた可能性が高いと主張している池橋宏『稲作の起源』講談社。
日本語の起源は、従来アルタイ諸語やオーストロネシア語族との関連が想定されてきたが、比較言語学的にはまだ証明されていない。長江文明の担い手のO2系統は、オーストロアジア語族だったと考えられ、南下したO2a系統では言語を保持しているが、北上したO2b系統では、朝鮮半島でも日本でも元の言語を失い、移住した土地の言語を受け入れたと考えられる。