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明治40年

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

明治40年の大水害(めいじよんじゅうねんのだいすいがい)は、1907年(明治40年)に山梨県で発生した水害

近代山梨県における水害と治水政策・林野行政

山梨県では甲府盆地笛吹川釜無川の両河川が流れ盆地南部で合流して富士川となり、この三大河川や支流河川により有史以来水害の耐えない地域で、中世後期から近世にかけても水害が多発しており、笛吹・釜無両河川を中心に大規模な治水工事が継続されていた。洪水被害は大雨などの自然的条件以外に山林の荒廃などによる社会的条件によっても発生しやすくなるが、山梨県では近世まで山林は山稼ぎや草木採取を共同利用地である小物成地(入会地)として入会慣行により管理されており、近世には峡東地方などで煮繭用の燃料として木材を必要とする養蚕が普及し、明治期には県令藤村紫朗の主導する殖産興業政策により製糸工業が奨励されたため蒸気機関の燃料に木材が必要とされたため、山林の荒廃が進んでいた。

このため藤村県政期にあたる明治前期には明治元年(1868年)、9年(1876年)、15年(1882年)水害などが発生し、山腹崩壊による土砂の堆積が堤防の破壊を引き起こし、砂防中心の修理工事が相次いで行われ、県財政への負担と民力の疲弊を招いていた。特に明治15年水害は最大規模で、翌明治16年にはオランダ人技術者ムルドルが現地調査を行い、本格的な富士川直轄改修が着手されるなど県の治水事業の契機にもなっている。復旧費用は国庫補助を受けているが政府では河川輸送から鉄道輸送を重視し河川行政が転換されたため1880年(明治13年)には国庫下渡金が廃止され、水害のたびに県では陳情を行い国庫補助の増額を求めている。このため根本的な河川改修は認識されていたものの相次ぐ水害の復旧工事で県財政は手一杯な状態で改修事業は進展せず、方針を巡っても舟運重視の政府が推進する西洋式工法により底水工事と県側が洪水防止のために望む高水工事との間で対立が生じていた。このため、明治後期に至っても明治18年、22年、25年、29年、31年水害などは多大な被害を出しており、水害復旧は山梨県の慢性的な懸案事項となっていた。

同時代のムルドルらをはじめ多発する水害の原因には山林荒廃が指摘されているが、現在ではその背景には御料林問題があると考えられている。1873年(明治6年)の地租改正に際して政府は当初、原野開拓による物産増収を図るため旧小物成地の払い下げを方針とし、山梨県でも県令藤村は参事富岡敬明とともに県北西部にあたる北巨摩の日野原開拓など林野や原野を官有地として開拓し払い下げを行う政策を行っていた。1881年(明治14年)には政府の方針が転換し、払い下げは差し止められ林野官民有区分が実施され、県林野の7割にあたる35万町歩の旧小物成地は官収され、明治22年には皇室御料に編入され入会慣行が制限された。これらの政策により県民の間では入会慣行との衝突や否定に至る不安が生じ、林野の乱伐や盗伐、放火や失火などが多発し、山林荒廃を押し進めていた。

明治40年・43年水害と北海道移住、御料林下戻

明治40年水害は同年8月21日夜半から26日にかけての台風の影響による記録的大雨により河川が乱流し、土砂崩れや堤防の決壊、橋脚の破壊などを引き起こし、家屋の全半壊や集落の孤立、耕地の流出や埋没、交通の寸断など甲府盆地東部の峡東地方中心に多大な被害を出し、死者は233人、流出家屋5000戸余りで、山梨県の近代における最大規模の災害となった。また、明治43年にも大規模な水害が発生している。

水害の様子は同年8月23日から10月10日まで被災地を視察した警察官の巡視日記である『明治四十年八月山梨県下水害地巡視日記』(古文書雑輯、山梨県立博物館所蔵、全文が『山梨県史』資料編14近現代1政治行政?に収録。)に詳述されており、同書は被災地や避難所の様子のほか行政の救援・医療体制、水害要因の考察などが記されており、県長官が災害時においても教育を重視して訓示を行っていることや、御真影を避難させた逸話など、同時代の社会状況を示す資料としても注目されている。

水害後には罹災者の北海道移住が計画され、羊蹄山(移住者により「蝦夷富士」と呼ばれる)の南麓や北東麓地域に3000人余りが移住し現在の倶知安町喜茂別町京極町などで「山梨村」が誕生したが、冷涼な気候への不適応から移住者の多くは離農し、大正期には第一次世界大戦後の不況を受け、移住者の結束を図るため娯楽として「山梨歌舞伎」の興業などが行われたが移住者の多くは離村し、現在では移住地は原野に還元しつつあり、移住者の子孫も少なく地名などにわずかな痕跡を残している。

明治40年水害を契機に県では三大河川の治水工事に国庫負担を求めているが、この頃には政府の方針も底水工事から洪水防止を重視した高水工事に転換しており淀川筑後川などでは国による直轄工事としての高水工事が実地されており、山梨県でも国庫補助による改修工事が開始された。水害の背景にある御料林の荒廃も認識され、1911年(明治44年)には御料は県に下賜され、恩賜県有財産(恩賜林)として県が管理することになった。明治40年水害をはじめ多発した水害の財政的疲弊は大正期の県政にも影響を及ぼし、財政緊縮により産業や交通政策、顕在化していた地方病への対策など県の新規事業も制約を受けることになった。

参考文献

  •  『山梨県議会史』
  • 有泉貞夫「地租改正・林野官民有区分」、「御料林下戻問題」『山梨県史通史編5近代1』
  • 岩見良太郎「水害と治水」、「大水害」『山梨県史通史編5近代1』
  • 小畑茂雄「調査ノート明治40年の大水害被災者の北海道移住について」『山梨県立博物館研究紀要2』

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