読み込み中...橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年(昭和12年)7月29日 - 2006年(平成18年)7月1日)は、日本の政治家。東京都渋谷区生まれ。政治活動開始後は岡山県総社市出身としている。明治天皇の姪の孫にあたる。
小沢一郎らと並んで、1990年代の日本政界を代表する政治家の一人である。端整なマスクと「ポマード頭」と呼ばれる整髪料で丹念に整えたヘアスタイルが特徴で、ニックネームは橋龍(はしりゅう)。
位階勲等は正二位大勲位。保有する段位・称号は、岡山県総社市名誉市民、剣道教士六段。財団法人全日本剣道道場連盟会長。
衆議院議員(14期)。内閣総理大臣(第82代・第83代)、特命担当大臣(行政改革・沖縄北方対策・規制改革)、沖縄開発庁長官(第42代)、国務大臣(副総理)、通商産業大臣(第59代(改造前)・第59代(改造後))、大蔵大臣(第86代)、運輸大臣(第60代)、厚生大臣(第61代)。自由民主党総裁(第17代)等を歴任。
東京渋谷区に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男として生まれた。母・春は中耳炎をこじらせ、龍太郎の生後5か月後に急死した。大蔵官僚として父龍伍には転勤がつきものだったため、祖母の真都に育てられた。田園調布小学校に入る前、7歳の時に、新しい母親・正を迎えた『橋本龍太郎・全人像』98-100頁。
麻布中学受験の際、橋本の受験番号は“1073番”だったが一番違いの“1074番”に作家の安部譲二がいた。それが縁で仲良しになる。中学3年間、ずっと一緒のクラスだった『橋本龍太郎・全人像』108頁。
麻布高校に進むと山岳部に所属した。高校時代は登山にあけくれてそれほど勉強をしなかったため成績は中位くらいだった『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』31、32頁。また、もう一つの趣味であった剣道にも力を入れた『橋本龍太郎・全人像』116頁。
1956年、慶應義塾大学法学部政治学科に入学。父・龍伍にとって龍太郎の慶應義塾合格は大きな喜びだったようで、「龍伍が慶應義塾を語るとき、その目は輝いていた」という『橋本龍太郎・全人像』118頁。大学でも剣道に力を入れた。とにかく前にでて攻めていたので“突貫剣士”というニックネームがつけられていた『橋本龍太郎・全人像』118頁。なお目の下には傷跡が残っていたが、大学時代軽井沢の別荘に行った時にチンピラと殴り合ってナイフで切られた名残であるという『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』35頁。
大学卒業後、呉羽紡績株式会社(現・東洋紡績)に入社した。
父・龍伍の意中の後継者は、弟・大二郎であり、本人も政界に進むつもりはなかった。橋本は「親父は僕を政治家にするつもりはなかったし、僕も全くやる気はなかった。腕白坊主だったから」と述べている『橋本龍太郎・全人像』123頁。ところが当時、大二郎は被選挙権を得ておらず、橋本の母・正に出馬を求める声も挙がったが、龍伍と親交の深かった佐藤栄作が龍太郎を後継者に指名、鶴の一声で龍太郎が出馬することに決まった『小説 角栄学校』83頁。
総選挙は1963年11月にやってきた。開票結果は江田三郎がトップ、橋本は選挙戦前の予測を上回る7万4564票を獲得して堂々の二位だった。初登院の時に継母・正が付き添ったことから、マスコミに「大学入試ばかりではなく、国会議員も保護者が付き添う時代になった」と揶揄された『橋本龍太郎・全人像』128頁。「マザコン代議士」と冷やかす報道もあった。本人は、秘書代わりに選挙で苦労した母に対して、ねぎらいの気持ちから出た行動であると説明している。
代議士当選を果たした後、結婚した。妻・久美子は遠縁に当たり結婚の媒酌人は佐藤栄作がつとめた。佐藤家と橋本家は軽井沢の別荘も隣同士ということで毎夏顔を合わせる仲だった。また、父・龍伍が亡くなった時、佐藤が葬儀委員長を務めた『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』30頁。
1978年12月7日、第1次大平内閣が発足した。組閣にあたって大平は厚相に初の昭和2ケタ生まれの橋本を起用した。41歳、父の橋本龍伍につづき、親子2代の厚相となった。当選5回目での初入閣である。
水俣病の患者らが厚生省に押しかけ、亡者補償が交通事故死の補償より安かったことについて、患者らが「人命軽視だ」と批判したことがあった。応対した橋本は「政府が人命を大事にしなかったことがあるか! 取り消せ!」と怒り、とりなした厚生省幹部にも「黙ってろ!」と怒鳴った『橋本龍太郎・全人像』148頁。
1986年、運輸大臣に就任して国鉄民営化を担当したのに続いて、翌1987年には竹下内閣で幹事長代理に就任、健康不安のある幹事長の安倍晋太郎を支え続けた。この経験が買われ、1989年には宇野内閣で幹事長に昇進。リクルート事件の影響に加え、宇野宗佑首相の女性スキャンダルが噴出し、同年7月の参院選ではかつてない逆風にさらされたが、不人気の宇野首相に代わって各地を遊説し、国民的人気を得るに至った『自民党幹事長室の30年』 pp.227-232。
参院選は惨敗し宇野首相が辞任すると、橋本は後継候補に浮上し本命視される。しかし、再登板を目論み世代交代を嫌った竹下登、橋本の突出を嫌った金丸信や小沢一郎らに動きを封じられ、結局、宇野の後継には海部俊樹が就任した。橋本は海部内閣で大蔵大臣に就任した『実録・橋本龍太郎』岩見隆夫著。当時、竹下派の最有力の後継会長候補と見られていた橋本と小沢は、この頃からたびたび対立を繰り返して、一龍戦争と呼ばれた。
なお、橋本は1993年にも、宮澤喜一首相の後継で後藤田正晴と並んで本命視されていたが、自民党分裂の原因である竹下派の内部分裂に責任があるとして辞退している。また、当時の自民党政治家で高い人気を誇った橋本、河野洋平、石原慎太郎は「三本の矢」と呼ばれ全国遊説で奮闘した『小説 角栄学校』 pp.209。
橋本は総裁に就任する1995年9月まで、総裁候補の筆頭であり続ける。
1989年8月10日第一次海部俊樹内閣で、大蔵大臣を務めた。一年後、第二次海部俊樹内閣でも留任するが、1991年10月、証券不祥事などで引責辞職、臨時代理で海部俊樹首相が兼任した。その後宮澤内閣が倒れ、1993年、細川連立政権が成立し自民党が下野、河野洋平が総裁になると政務調査会長、94年、連立政権が崩壊し、自民・社会党連立政権で村山富市が首相になると通商産業大臣に就任。
橋本は国民的人気を背景に、1995年9月に行われた自民党総裁選に出馬する。当初は現職総裁の河野洋平と橋本の一騎打ちと目され、早稲田大学出身の河野と慶大出身の橋本の「早慶戦」、ともに昭和12年生まれで50代の「ニューリーダー対決」などと評されたが、河野が所属する宮澤派の支持を得られずに「大変厳しい多数派工作で、党内に亀裂を生じるのを恐れる」として出馬を辞退。河野に代わって三塚派の小泉純一郎が出馬し、論客同士の「さわやかな政策論争」と評される総裁選が展開された『小説 池田学校』 pp263-265『』 pp41-42。
橋本は304票を獲得し、87票を獲得した小泉に圧勝『小説 角栄学校』 pp266-pp.227。第17代自民党総裁に就任した。幹事長に宮澤派の加藤紘一、総務会長に三塚派の塩川正十郎。政調会長に旧渡辺派の山崎拓を選任した。橋本は総裁就任に伴って、村山内閣改造内閣で副総理を兼務する。1997年9月には再選される。1998年7月に辞任までの在任期間は約2年10か月だった。
1996年1月11日、村山富市首相の辞任に伴い、第82代内閣総理大臣に指名され、自社さ連立による第1次橋本内閣が発足した。官房長官には、橋本らと共に「竹下派七奉行」と呼ばれた実力者である梶山静六が選任された。その後の施政方針演説では改革の必要性を主張し、「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4つを最重要課題として挙げた。
就任当初は、村山政権下で決定された住宅金融専門公社(住専)の不良債権に対する6800億円を超える財政支出問題で、新進党が「ピケ」と呼ばれる座り込み運動を展開するなど激しく抵抗し、メディアも否定的な論調を展開したことから、政権への批判が強まった。ただし、海外市場では好感する動きが見られた『劇録!総理への道』大下英治著 pp.665-666『新進党vs自民党』大下英治著 pp.412-442。
同年2月23日、アメリカのクリントン大統領との日米首脳会談で、橋本は普天間飛行場の返還を要求し、4月に全面返還で日米政府が合意した。この結果、住専問題で逓減していた支持率が60%に上昇した。
同年9月27日の臨時国会冒頭で、衆議院を解散。小選挙区比例代表並立制の下で初の衆議院総選挙が行われ、自民党は28議席増の239議席と復調した。選挙中は橋本に選挙応援の依頼が殺到し、全国で「橋龍人気」と言われる国民的人気を見せ付けている。
同年11月7日、社会党・新党さきがけが閣外協力に転じて、3年ぶりの自民党単独政権となった第2次橋本内閣が発足。橋本は「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保障構造改革」「教育改革」の六大改革を提唱した。
橋本は直ちに、首相直属の「行政改革会議」を設置。メンバーには武藤嘉文総務庁長官、水野清首相補佐官のほか、経団連会長の豊田章一郎、連合会長の芦田甚之助、東京大学名誉教授の有馬朗人、上智大学教授の猪口邦子ら、財界・学界などから有識者を迎え、官僚や官僚出身者を排除する体制とした。行革会議は翌1997年12月、などを最終報告として決定した『激録!総理への道』pp.670-671 pp.699-707。この最終報告は、1998年に成立した中央省庁等改革基本法に結実した。
1996年12月17日、ペルーのリマにある日本大使公邸を現地の左翼ゲリラが占拠し、多数が人質となるペルー日本大使公邸人質事件が発生。直ちに池田行彦外相と医療チームを現地に派遣した。池田外相の帰国を受け、24日にペルーのフジモリ大統領と会談、ペルー政府を支援する方針を表明した。フジモリ大統領が武力突入を示唆し始めると、29日にフジモリ大統領に親書を送って平和解決を要請。さらに1997年1月31日、橋本はカナダのトロントでフジモリ大統領と会談し、平和解決に努力することで一致した。同年4月22日、ペルーの特殊部隊が公邸に突入。人質となっていた日本人に犠牲者を出すことなく解決した。橋本は後に、人質事件で死亡したペルー人犠牲者の家族を日本に招待した『激録!総理への道』 pp671-687。
同年の通常国会で最大の焦点であった、沖縄のアメリカ軍軍用地収用への自治体介入を防ぐ「特措法」(沖縄の米軍軍用地強制使用をめぐる駐留軍用地特別措置法)問題で、同年4月、新進党党首の小沢一郎と党首会談を行った。橋本と小沢は特措法を成立させる事で合意し、同法は新進党の協力を得て成立した。新進党との協力が成功したことで、自民党と新進党による「保保連立」が浮上。自民党内は、加藤や野中広務らの「自社さ派」と梶山や亀井静香らの「保保派」に二分された『自民党ナンバー2の研究』pp.280-281『激録!総理への道』pp.687-695。橋本は自社さ派と評されるようになる『小沢一郎の日本をぶっ壊す』 pp389-390。
同年9月、党総裁に再選され、内閣改造を行い第2次橋本内閣改造内閣が発足。梶山に代わって村岡兼造を官房長官に指名したほか、ロッキード事件で有罪が確定している佐藤孝行を総務庁長官に起用した。これに非難が集中、佐藤は11日で辞任した。佐藤は歴代内閣に入閣を拒まれ、橋本も入閣させない意向だったが、中曽根康弘らの強硬な推薦に抗し切れず起用するに至ったと言う。この一件で、支持率は30%台に急落、橋本の責任を問う声が上がった『激録!総理への道』 pp695-699。
橋本は対露外交にも注力し、同年11月のロシアのエリツィン大統領と日露首脳会談では、2000年までに平和条約を締結する事や両国の経済協力を促進する事で合意した『激録!総理への道』 pp.707-723。
財政構造改革を六大改革の一つと位置づける橋本は、同年11月に財政構造改革法を成立させ、平成15年までの歳出削減を目指した。しかし、景気減速が顕著となり北海道拓殖銀行や山一證券などの破綻が起こると、党内やアメリカ政府から景気対策を求める声が上がるようになった。また、山一證券の破綻で、橋本の金融システム改革に伴う金融ビッグバンへの批判が相次いだ。これを受け同年12月、2兆円の特別減税を表明。加えて翌1998年4月、4兆円減税と財政構造改革法の改正を表明し、財政再建路線を転換した『激録!総理への道』 pp.723-730。また同年、金融監督庁を設置。大蔵省から金融業務を分離し、金融不安に対処する体制を整えた。
同年5月、離党議員の復党などにより自民党が衆議院で過半数を超えたことを受け、社民党・さきがけとの連立政権を完全に解消。
同年7月の参院選では、景気低迷や失業率の悪化、橋本や閣僚の恒久減税に関する発言の迷走などで、当初は70議席を獲得すると予想されていた自民党は44議席と惨敗。橋本内閣は総辞職した『激録!総理への道』 pp.723-740『小説 角栄学校』 pp.280-283。
首相退任後の1999年9月、橋本は小渕首相から厚生大臣への就任を打診された。2000年4月に介護保険制度導入を控えており、実力者でなければ職務に耐えられないと判断した小渕は、厚生族で重きを為す橋本に白羽の矢を立てたものだが、橋本は固辞。自分に代わって同じく厚生族の丹羽雄哉を推薦し、丹羽が厚生大臣に就任する『蠢く野中広務』 pp.316-319。
2000年7月、旧小渕派会長の綿貫民輔が衆議院議長に就任した事に伴って、派会長に就任。また同年12月、不人気に苦しんでいた森喜朗首相に請われ、行政改革担当大臣兼沖縄開発庁長官に就任。自身が進めた省庁再編を担当し、翌2001年、省庁再編で生まれた沖縄及び北方対策担当大臣に就任する。その仕事ぶりは政官ともに評価が高く、ポスト森(森の後継)に浮上した。同年4月の総裁選では、派内や公明党に待望論のあった野中広務を抑えて出馬。橋本擁立に当たっては派内若手から異論が出た。当初は橋本の勝利と橋本による本格政権が予想されたが、「小泉フィーバー」と呼ばれる絶大な人気を誇った小泉純一郎に敗北。小泉が298票を獲得したのに対し、橋本は155票で次点に終わった『小泉純一郎の「宣戦布告」』 pp.341-342。
2004年7月日歯連闇献金事件が発覚した。内容としては、橋本と青木幹雄・野中広務が日歯連会長、理事(当時)と料亭で会食し、その際に1億円の小切手を受け取り、旧橋本派の公認会計士が換金を行って旧橋本派の派閥金庫にしまわれ、この献金について旧橋本派や平成研究会が収支報告書に記載しなかったというものであった。東京地検が政治資金規正法違反で旧橋本派の公認会計士を、日歯連会長と理事を贈賄容疑で逮捕した。この事件により平成研究会の会長を辞任し、同派から離脱。次期総選挙での小選挙区岡山4区からの出馬を辞退する意向を示した。橋本と同席していた青木・野中も東京地検が捜査していたが同年9月に不起訴となった。のちに検察審査会で同事件での不起訴は不当であるとする議決を行った。政治家からの起訴は元平成研の元会計責任者である村岡兼造が収支報告書への不記載を首謀したとして在宅起訴された。
2006年7月1日 東京都新宿区の国立国際医療センターで腸管虚血を原因とする敗血症性ショックによる多臓器不全のため死去した。享年68。
死後、正二位大勲位菊花大綬章を追贈(死去した7月1日にさかのぼって贈られる)。
┏橋本宇一 ┃ ┣橋本宙二 ┃ ┣橋本乾三━┳橋本實 ┃ ┃ ┃ ┣橋本明 ┃ ┃ 橋本源三郎━橋本卯太郎━┫ ┗橋本宏 ┃ ┣橋本坤四郎 ┃ ┃ ┣橋本龍伍━┳橋本龍太郎━┳橋本龍 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗橋本大二郎 ┗橋本岳 ┃ ┗橋本虎六━━橋本敬太郎
橋本卯太郎 ┃ ┣━━━橋本龍伍 ┃ ┃ ┏真都 ┃ ┃ ┃ ┣石光真清 ┃ 石光真民━┫ ┣━━━橋本龍太郎 ┣石光真臣 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗石光真澄 ┃ ┃ ┃ ┃ 大野緑一郎━━━春 ┣━━━橋本岳 ┃ ┃ 加納久朗━━中村久次 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 中村雄次郎━━中村貫之 ┣━━━━久美子 ┃ ┃ ┃ ┃ 阪谷芳郎 ┣━━━妙子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━八重子 ┃ ┃ 渋沢栄一━━琴子
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