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橋本龍太郎

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年(昭和12年)7月29日 - 2006年(平成18年)7月1日)は、日本の政治家東京都渋谷区生まれ。政治活動開始後は岡山県総社市出身としている。明治天皇の姪の孫にあたる。

小沢一郎らと並んで、1990年代の日本政界を代表する政治家の一人である。端整なマスクと「ポマード頭」と呼ばれる整髪料で丹念に整えたヘアスタイルが特徴で、ニックネーム橋龍(はしりゅう)。

位階勲等は正二位大勲位。保有する段位称号は、岡山県総社市名誉市民剣道教士六段。財団法人全日本剣道道場連盟会長。

衆議院議員(14期)。内閣総理大臣第82代第83代)、特命担当大臣行政改革・沖縄北方対策・規制改革)、沖縄開発庁長官第42代)、国務大臣副総理)、通商産業大臣第59代(改造前)第59代(改造後))、大蔵大臣第86代)、運輸大臣第60代)、厚生大臣第61代)。自由民主党総裁(第17代)等を歴任。

生涯

生い立ち

東京渋谷区に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男として生まれた。母・春は中耳炎をこじらせ、龍太郎の生後5か月後に急死した。大蔵官僚として父龍伍には転勤がつきものだったため、祖母の真都に育てられた。田園調布小学校に入る前、7歳の時に、新しい母親・正を迎えた『橋本龍太郎・全人像』98-100頁

麻布中学受験の際、橋本の受験番号は“1073番”だったが一番違いの“1074番”に作家の安部譲二がいた。それが縁で仲良しになる。中学3年間、ずっと一緒のクラスだった『橋本龍太郎・全人像』108頁

麻布高校に進むと山岳部に所属した。高校時代は登山にあけくれてそれほど勉強をしなかったため成績は中位くらいだった仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』31、32頁。また、もう一つの趣味であった剣道にも力を入れた『橋本龍太郎・全人像』116頁

1956年慶應義塾大学法学部政治学科に入学。父・龍伍にとって龍太郎の慶應義塾合格は大きな喜びだったようで、「龍伍が慶應義塾を語るとき、その目は輝いていた」という『橋本龍太郎・全人像』118頁。大学でも剣道に力を入れた。とにかく前にでて攻めていたので“突貫剣士”というニックネームがつけられていた『橋本龍太郎・全人像』118頁

なお目の下には傷跡が残っていたが、大学時代軽井沢の別荘に行った時にチンピラと殴り合ってナイフで切られた名残であるという仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』35頁

大学卒業後、呉羽紡績株式会社(現・東洋紡績)に入社した。

初当選

龍太郎が社会人となって3年目の1962年、既に官僚から政治家に転身していた父・龍伍が死去した。会社に出勤してから2時間後、急死を聞いたという仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』39頁

父・龍伍の意中の後継者は、弟・大二郎であり、本人も政界に進むつもりはなかった。橋本は「親父は僕を政治家にするつもりはなかったし、僕も全くやる気はなかった。腕白坊主だったから」と述べている『橋本龍太郎・全人像』123頁。ところが当時、大二郎は被選挙権を得ておらず、橋本の母・正に出馬を求める声も挙がったが、龍伍と親交の深かった佐藤栄作が龍太郎を後継者に指名、鶴の一声で龍太郎が出馬することに決まった『小説 角栄学校』83頁

総選挙は1963年11月にやってきた。開票結果は江田三郎がトップ、橋本は選挙戦前の予測を上回る7万4564票を獲得して堂々の二位だった。

初登院の時に継母・正が付き添ったことから、マスコミに「大学入試ばかりではなく、国会議員も保護者が付き添う時代になった」と揶揄された『橋本龍太郎・全人像』128頁。「マザコン代議士」と冷やかす報道もあった。本人は、秘書代わりに選挙で苦労した母に対して、ねぎらいの気持ちから出た行動であると説明している。

代議士当選を果たした後、結婚した。妻・久美子は遠縁に当たり結婚の媒酌人は佐藤栄作がつとめた。佐藤家と橋本家は軽井沢の別荘も隣同士ということで毎夏顔を合わせる仲だった。また、父・龍伍が亡くなった時、佐藤が葬儀委員長を務めた仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』30頁

入閣

1978年12月7日、第1次大平内閣が発足した。組閣にあたって大平は厚相に初の昭和2ケタ生まれの橋本を起用した。41歳、父の橋本龍伍につづき、親子2代の厚相となった。当選5回目での初入閣である。

水俣病の患者らが厚生省に押しかけ、亡者補償が交通事故死の補償より安かったことについて、患者らが「人命軽視だ」と批判したことがあった。応対した橋本は「政府が人命を大事にしなかったことがあるか! 取り消せ!」と怒り、とりなした厚生省幹部にも「黙ってろ!」と怒鳴った『橋本龍太郎・全人像』148頁

総裁候補へ浮上

1986年運輸大臣に就任して国鉄民営化を担当したのに続いて、翌1987年には竹下内閣で幹事長代理に就任、健康不安のある幹事長安倍晋太郎を支え続けた。この経験が買われ、1989年には宇野内閣で幹事長に昇進。リクルート事件の影響に加え、宇野宗佑首相の女性スキャンダルが噴出し、同年7月の参院選ではかつてない逆風にさらされたが、不人気の宇野首相に代わって各地を遊説し、国民的人気を得るに至った『自民党幹事長室の30年』 pp.227-232

参院選は惨敗し宇野首相が辞任すると、橋本は後継候補に浮上し本命視される。しかし、再登板を目論み世代交代を嫌った竹下登、橋本の突出を嫌った金丸信小沢一郎らに動きを封じられ、結局、宇野の後継には海部俊樹が就任した。橋本は海部内閣で大蔵大臣に就任した『実録・橋本龍太郎』岩見隆夫著。当時、竹下派の最有力の後継会長候補と見られていた橋本と小沢は、この頃からたびたび対立を繰り返して、一龍戦争と呼ばれた。

なお、橋本は1993年にも、宮澤喜一首相の後継で後藤田正晴と並んで本命視されていたが、自民党分裂の原因である竹下派の内部分裂に責任があるとして辞退している。また、当時の自民党政治家で高い人気を誇った橋本、河野洋平石原慎太郎は「三本の矢」と呼ばれ全国遊説で奮闘した『小説 角栄学校』 pp.209

橋本は総裁に就任する1995年9月まで、総裁候補の筆頭であり続ける。

1989年8月10日第一次海部俊樹内閣で、大蔵大臣を務めた。一年後、第二次海部俊樹内閣でも留任するが、1991年10月、証券不祥事などで引責辞職、臨時代理で海部俊樹首相が兼任した。

その後宮澤内閣が倒れ、1993年、細川連立政権が成立し自民党が下野、河野洋平が総裁になると政務調査会長、94年、連立政権が崩壊し、自民・社会党連立政権で村山富市が首相になると通商産業大臣に就任。

第17代自民党総裁

橋本は国民的人気を背景に、1995年9月に行われた自民党総裁選に出馬する。当初は現職総裁の河野洋平と橋本の一騎打ちと目され、早稲田大学出身の河野と慶大出身の橋本の「早慶戦」、ともに昭和12年生まれで50代の「ニューリーダー対決」などと評されたが、河野が所属する宮澤派の支持を得られずに「大変厳しい多数派工作で、党内に亀裂を生じるのを恐れる」として出馬を辞退。河野に代わって三塚派小泉純一郎が出馬し、論客同士の「さわやかな政策論争」と評される総裁選が展開された『小説 池田学校』 pp263-265『』 pp41-42

橋本は304票を獲得し、87票を獲得した小泉に圧勝『小説 角栄学校』 pp266-pp.227。第17代自民党総裁に就任した。幹事長に宮澤派の加藤紘一、総務会長に三塚派の塩川正十郎。政調会長に旧渡辺派山崎拓を選任した。橋本は総裁就任に伴って、村山内閣改造内閣副総理を兼務する。

1997年9月には再選される。1998年7月に辞任までの在任期間は約2年10か月だった。

1996年1月11日村山富市首相の辞任に伴い、第82代内閣総理大臣に指名され、自社さ連立による第1次橋本内閣が発足した。官房長官には、橋本らと共に「竹下派七奉行」と呼ばれた実力者である梶山静六が選任された。

その後の施政方針演説では改革の必要性を主張し、「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4つを最重要課題として挙げた。

就任当初は、村山政権下で決定された住宅金融専門公社(住専)の不良債権に対する6800億円を超える財政支出問題で、新進党が「ピケ」と呼ばれる座り込み運動を展開するなど激しく抵抗し、メディアも否定的な論調を展開したことから、政権への批判が強まった。ただし、海外市場では好感する動きが見られた『劇録!総理への道』大下英治著 pp.665-666『新進党vs自民党』大下英治著 pp.412-442

同年2月23日、アメリカのクリントン大統領との日米首脳会談で、橋本は普天間飛行場の返還を要求し、4月に全面返還で日米政府が合意した。この結果、住専問題で逓減していた支持率が60%に上昇した。

同年7月29日には、靖国神社を私的参拝した。

同年9月27日の臨時国会冒頭で、衆議院を解散。小選挙区比例代表並立制の下で初の衆議院総選挙が行われ、自民党は28議席増の239議席と復調した。選挙中は橋本に選挙応援の依頼が殺到し、全国で「橋龍人気」と言われる国民的人気を見せ付けている。

第二次橋本内閣

同年11月7日、社会党・新党さきがけが閣外協力に転じて、3年ぶりの自民党単独政権となった第2次橋本内閣が発足。橋本は「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保障構造改革」「教育改革」の六大改革を提唱した。

橋本は直ちに、首相直属の「行政改革会議」を設置。メンバーには武藤嘉文総務庁長官、水野清首相補佐官のほか、経団連会長の豊田章一郎連合会長の芦田甚之助、東京大学名誉教授の有馬朗人、上智大学教授の猪口邦子ら、財界・学界などから有識者を迎え、官僚や官僚出身者を排除する体制とした。行革会議は翌1997年12月、
  • 22ある省庁を「1府12省庁」に半減させる省庁再編
  • 首相権限強化を伴う内閣機能の見直し
  • 郵政三事業の一体公社化
  • 公務員定数の一割削減

などを最終報告として決定した『激録!総理への道』pp.670-671 pp.699-707。この最終報告は、1998年に成立した中央省庁等改革基本法に結実した。

1996年12月17日、ペルーリマにある日本大使公邸を現地の左翼ゲリラが占拠し、多数が人質となるペルー日本大使公邸人質事件が発生。直ちに池田行彦外相と医療チームを現地に派遣した。池田外相の帰国を受け、24日にペルーのフジモリ大統領と会談、ペルー政府を支援する方針を表明した。フジモリ大統領が武力突入を示唆し始めると、29日にフジモリ大統領に親書を送って平和解決を要請。さらに1997年1月31日、橋本はカナダのトロントでフジモリ大統領と会談し、平和解決に努力することで一致した。同年4月22日、ペルーの特殊部隊が公邸に突入。人質となっていた日本人に犠牲者を出すことなく解決した。橋本は後に、人質事件で死亡したペルー人犠牲者の家族を日本に招待した『激録!総理への道』 pp671-687

同年の通常国会で最大の焦点であった、沖縄のアメリカ軍軍用地収用への自治体介入を防ぐ「特措法」(沖縄の米軍軍用地強制使用をめぐる駐留軍用地特別措置法)問題で、同年4月、新進党党首の小沢一郎と党首会談を行った。橋本と小沢は特措法を成立させる事で合意し、同法は新進党の協力を得て成立した。新進党との協力が成功したことで、自民党と新進党による「保保連立」が浮上。自民党内は、加藤や野中広務らの「自社さ派」と梶山や亀井静香らの「保保派」に二分された『自民党ナンバー2の研究』pp.280-281『激録!総理への道』pp.687-695。橋本は自社さ派と評されるようになる『小沢一郎の日本をぶっ壊す』 pp389-390

同年9月、党総裁に再選され、内閣改造を行い第2次橋本内閣改造内閣が発足。梶山に代わって村岡兼造を官房長官に指名したほか、ロッキード事件で有罪が確定している佐藤孝行を総務庁長官に起用した。これに非難が集中、佐藤は11日で辞任した。佐藤は歴代内閣に入閣を拒まれ、橋本も入閣させない意向だったが、中曽根康弘らの強硬な推薦に抗し切れず起用するに至ったと言う。この一件で、支持率は30%台に急落、橋本の責任を問う声が上がった『激録!総理への道』 pp695-699

橋本は対露外交にも注力し、同年11月のロシアエリツィン大統領と日露首脳会談では、2000年までに平和条約を締結する事や両国の経済協力を促進する事で合意した『激録!総理への道』 pp.707-723

財政構造改革を六大改革の一つと位置づける橋本は、同年11月に財政構造改革法を成立させ、平成15年までの歳出削減を目指した。しかし、景気減速が顕著となり北海道拓殖銀行山一證券などの破綻が起こると、党内やアメリカ政府から景気対策を求める声が上がるようになった。また、山一證券の破綻で、橋本の金融システム改革に伴う金融ビッグバンへの批判が相次いだ。これを受け同年12月、2兆円の特別減税を表明。加えて翌1998年4月、4兆円減税と財政構造改革法の改正を表明し、財政再建路線を転換した『激録!総理への道』 pp.723-730。また同年、金融監督庁を設置。大蔵省から金融業務を分離し、金融不安に対処する体制を整えた。

同年5月、離党議員の復党などにより自民党が衆議院で過半数を超えたことを受け、社民党・さきがけとの連立政権を完全に解消。

同年7月の参院選では、景気低迷や失業率の悪化、橋本や閣僚の恒久減税に関する発言の迷走などで、当初は70議席を獲得すると予想されていた自民党は44議席と惨敗。橋本内閣は総辞職した『激録!総理への道』 pp.723-740『小説 角栄学校』 pp.280-283

首相退任後

首相退任後の1999年9月、橋本は小渕首相から厚生大臣への就任を打診された。2000年4月に介護保険制度導入を控えており、実力者でなければ職務に耐えられないと判断した小渕は、厚生族で重きを為す橋本に白羽の矢を立てたものだが、橋本は固辞。自分に代わって同じく厚生族の丹羽雄哉を推薦し、丹羽が厚生大臣に就任する『蠢く野中広務』 pp.316-319

2000年7月、旧小渕派会長の綿貫民輔衆議院議長に就任した事に伴って、派会長に就任。また同年12月、不人気に苦しんでいた森喜朗首相に請われ、行政改革担当大臣沖縄開発庁長官に就任。自身が進めた省庁再編を担当し、翌2001年、省庁再編で生まれた沖縄及び北方対策担当大臣に就任する。その仕事ぶりは政官ともに評価が高く、ポスト森(森の後継)に浮上した。同年4月の総裁選では、派内や公明党に待望論のあった野中広務を抑えて出馬。橋本擁立に当たっては派内若手から異論が出た。当初は橋本の勝利と橋本による本格政権が予想されたが、「小泉フィーバー」と呼ばれる絶大な人気を誇った小泉純一郎に敗北。小泉が298票を獲得したのに対し、橋本は155票で次点に終わった『小泉純一郎の「宣戦布告」』 pp.341-342

晩年

2004年7月日歯連闇献金事件が発覚した。内容としては、橋本と青木幹雄野中広務が日歯連会長、理事(当時)と料亭で会食し、その際に1億円の小切手を受け取り、旧橋本派の公認会計士が換金を行って旧橋本派の派閥金庫にしまわれ、この献金について旧橋本派や平成研究会が収支報告書に記載しなかったというものであった。東京地検政治資金規正法違反で旧橋本派の公認会計士を、日歯連会長と理事を贈賄容疑で逮捕した。この事件により平成研究会の会長を辞任し、同派から離脱。次期総選挙での小選挙区岡山4区からの出馬を辞退する意向を示した。橋本と同席していた青木・野中も東京地検が捜査していたが同年9月に不起訴となった。のちに検察審査会で同事件での不起訴は不当であるとする議決を行った。政治家からの起訴は元平成研の元会計責任者である村岡兼造が収支報告書への不記載を首謀したとして在宅起訴された。

2006年7月1日 東京都新宿区の国立国際医療センターで腸管虚血を原因とする敗血症性ショックによる多臓器不全のため死去した。享年68。

年譜

人物評

  • 身長は約164?。
  • 橋本の兄貴分である竹下登が生前、「怒る、威張る、拗ねるが橋本になければ、とっくの昔にアイツは総理になっていた」と揶揄したように、自民党屈指の政策通でありながら、鼻っ柱の強い性格のため、党内に積極的な支持者は少なかった。
  • 「見識はあるが、人望はない」が党内での一般的な評価。何かわからないことを聞いたりすると「おや、そんなこともおわかりにならない?」、「あなたが知らないことを、どうして私が知っていると思うのです?」などと必ず嫌味な返答をしたとされる。花街で最も嫌われている政治家という不名誉な噂もあった。
  • 梶山静六は「橋龍というのは遠くで見ている富士山」と評したことがある。つまり近くに寄って接していくと理論に走りすぎたり、白黒をはっきりさせないと気のすまない性格で欠点ばかりが目立つというのである仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』138頁
  • 田中角栄は「橋龍は、こまっちゃくれた風切り小僧だ。備前長船の出身。切れそうだけど、あの手は人様に好かれない。親父の龍伍は切れ味抜群だったが、仲間がいなかった」と評した。
  • 橋本には親しい仲間や子分がいなかったと言われている。小沢一郎は「龍ちゃんは一人で遊ぶ。だから友達ができない」と述べている仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』93頁
  • 橋本は2000年に当時党内最大派閥の平成研究会の会長に就任したが、これは周囲が橋本を積極的に推したわけではなく、他に適当な人材が居なかった為である。実権は野中広務青木幹雄が握っており、橋本は会長とは名前ばかりの「雇われマダム」と揶揄するマスコミもあった。橋本自身、会長職を望んでいたわけではなかったが、放っておく事も出来ず、仕方無く引き受けたという。2004年に後継会長未定のまま辞任したが、本当は後継が見つかり次第、一刻も早く辞めたかったらしい。
  • その「橋本派」は、小泉純一郎が総理大臣を務めていた当時、小泉が明言する「抵抗勢力」の代名詞となった。これは橋本派内に小泉の政治方針に反対する議員が多かったため。
  • 党内に親しい仲間が居なかったと言われているが、唯一親しかったと言えるのは同期当選の小渕恵三である。お互い「龍ちゃん」「恵ちゃん」と呼び合う仲で「当選以来お互い騙し騙された事の無い仲だった」と語っている。
  • 久美子夫人はインタビューで「実はわりと涙もろい人なんです」と橋本を評している。橋本は、95年の総裁選で総裁に選出された際、うっすら涙を浮かべていた。
  • 「橋本総裁を実現する会」会長を務め、橋本内閣で通産大臣に就任した塚原俊平は、橋本に会の報告に行った際の様子について、「ただ『有難う』といって、『僕も疲れたよ』とそんな感じでした。でもその後聞いたら、我々が帰った後で涙を流して喜んだということでした。おかしな人ですね。それなら私たちの目の前で喜べばいいのに。それが彼のシャイなところというか、パフォーマンスが下手な人ですね。」と述べている小説 角栄学校 267-268頁

政策

  • 運輸大臣(中曽根内閣)として、国鉄分割民営化の総仕上げを行ったが、のち郵政解散をめぐって産経新聞の取材に応じた際の2005年12月、行政改革の話題で「分割民営化をほめてくれる方がいるが、JR西日本の福知山線脱線事故が起きてものすごく後悔している」と明言。新規投資にゆとりのないJR西日本のスタートに無理があり、信楽高原鉄道事故につながったとする見解をも示唆した産経新聞』2005年12月22日
  • 自民党幹事長代理(竹下内閣)として、消費税導入や昭和天皇の大葬の礼に対して党側の実務を担当した。リクルート事件で、実力者が逼塞を余儀なくされる中、首相候補として取りざたされるようになるが女性問題を理由に自派閥の支持が伸びずに断念した。
  • 大蔵大臣就任後(海部内閣)、政策通として海部内閣を実質副総理として支えた。この頃から、幹事長に就任した小沢一郎との間の「一龍戦争」が喧伝されはじめた。 湾岸戦争では90億ドルを拠出(しかし、諸外国からは全く評価されず)。 過熱気味の不動産価格をソフトランディングするべく、不動産関連融資の総量規制を行うもバブル崩壊を招き引責辞任。
  • 首相在任中は、「六大改革」を唱え、構造改革・行政改革を目指した。「たとえ、火だるまになっても行政改革を断行する」と決意を表明したことから、「火達磨の決意」「火達磨改革」とも呼ばれた。消費税率を5パーセントに上げるが(消費税の引き上げ幅と時期を決定したのは村山内閣)、これが消費を冷え込ませ、バブル景気崩壊後、緩やかに回復軌道に乗りつつあった日本経済の足を引っ張る結果になった。
  • 中央省庁の再編に取り組み、大蔵省の名称変更や金融業務の切り離し、官邸機能の強化において、一定の成果を挙げた。
  • アメリカ合衆国から沖縄県普天間基地移転についての同意を取り付けたが、代替の基地の場所や借用期限の問題でうまく進んでいない。対ロシア外交では、大統領・エリツィンとの間に個人的な信頼関係を結び、エリツィンの訪日を実現、川奈合意の実現を見た。
  • エリツィンは橋本を「友人リュウ」と呼んだ。フランスのシラク大統領も橋本を「リュウ」と呼んで、趣味を認め合う仲だった。フランスやロシア、韓国では、橋本の「普段着外交」「ノーネクタイ外交」による信頼関係構築で、知名度が高いと言う。
  • バブル崩壊後、日本政府は景気対策の名目で何度も財政出動を行なって景気を一時的に嵩上げしてきた。その結果国家財政は悪化の一途を辿っていた。橋本は消費税や社会保険料の引き上げを行なって財政健全化を目指した。バブル崩壊後、日本は不況に陥り国庫財政が不健全となる。橋本内閣はその為に消費税を増税して税収を増そうと試みるも、元々バブル崩壊後の不景気時に更に消費税増税を実施した結果、景気後退に拍車を掛け失われた10年と呼ばれる平成の約10年の長きに渡る大不況を招く事になってしまった。その結果、銀行貸出債権の焦付きが増加し不良債権処理は進まず、増税により消費の低迷からデフレを招きデフレが国民の平均所得を引き下げてしまい、結果的に税収は増税前よりも減るといった超悪循環を生じさせる事となり、日本の政治政策史上に残る失策を招く事となった。橋本は党内圧力に圧され、成立させたばかりの財政構造改革法を凍結し、過去の政権と同じような景気対策を取り始めたが、これも裏目に出て市場の信頼を損なうことになった。さらに98年の参議院選挙の際に出した恒久減税について橋本の発言が二転三転したことに国民の橋本不信が高まり、参議院選挙大敗により辞任に追い込まれることとなる。
  • 晩年の橋本は不正献金疑惑がクローズアップされ「会食で1億円の小切手を貰った記憶は無い」などと発言し、日歯連の不正献金疑惑が大きくメディアに取り上げられ、当時の自民党随一の政界影響力を誇り最大派閥であった橋本派閥の各種団体との癒着や政治と金の問題が浮き彫りになった。

その他

  • 父が佐藤栄作と吉田学校の仲間であった関係で佐藤派に所属した。1969年の総選挙では、選挙直前まで国会活動で多忙を極め、苦戦が予想されたが、自民党幹事長・田中角栄や佐藤派の中堅だった竹下登のてこ入れで3選を果たした。この事により、佐藤派内で田中、竹下に傾倒することになり、佐藤引退を受けての総裁選挙では、かねてより保利茂系であったことから、父代わりとも言うべき佐藤が福田赳夫を支持するように示唆するのを固辞、田中派に参加した。
  • 一般には整髪剤は「ポマードべったり」と受け取られているが、実際には水性のヘアクリームを使っていたと本人が語っている。学生時代から通していたという仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』199頁
  • 喫煙者で、「私は煙草をやめない」とコメントした事もある。チェリーを愛用していた。親友の安部譲二にピースを勧められても頑なにチェリーを吸い続けていたという。
  • 幹事長時代の1989年参議院選挙で開票の様子を見続けていたが、宇野総理の女性問題などによる自民党の大敗が決定的になると「ちくしょう…」と悔しさを口にする姿がテレビに映された。しかしその9年後には、今度は自身が総理総裁として参院選で大敗、辞職する事となった。
  • 首相時代の1997年6月23日、コロンビア大学での講演において聴衆から「日本が米国債を蓄積し続けることが長期的な利益」に関して質問が出た際、橋本は「大量の米国債を売却しようとする誘惑にかられたことは、幾度かあります。」と返した。そして、アメリカ経済が与える世界経済への影響などを理由にあげた上で「米国債を売却し、外貨準備を金に変えようとしたい誘惑に、屈服することはない」と続けた。しかし、大量の米国債を保有する日本の首相が「米国債を売却」への言及をしたことが大きく注目され、ニューヨーク証券市場が一時下落した。
  • 月刊誌「諸君!」に、「橋本首相『中国人女性』とODA二十六億円の闇」という記事が掲載され、スパイ疑惑が取りざたされた。
  • 文藝春秋」2008年9月特別号に、首相在任中に通訳を務めていた外務省職員の女性にホテルで関係をせまったことを、女性から聞き取りをした外務省職員佐藤優の記事が掲載された。ただし、橋本が鬼籍に入ってから報じられたので、橋本自身からの証言は得られていない。
  • 漫画「美味しんぼ」を愛読していたらしく、それが縁なのかどうか不明だが、橋本本人が登場したこともあった。
  • 橋本は首相在任中も高知県知事になって東京から離れた異母弟・大二郎に代わって、しばしば公務の合間に入院中だった義母を見舞っているが、橋本が病院に向かう度に首相官邸から病院に向かう道路に交通規制がかかったために一部からは批判があった。
  • 登山が趣味で、日本山岳会の会員でもあり、日本山岳ガイド協会の会長を務めた。多くの海外遠征登山隊の総隊長に就任したり、あるいは総指揮を担当した。その縁で、以下の経緯によって、登山家の野口健とも親しくなった。
2000年にエベレストの清掃登山を行なっていた野口は12年前に同じく登頂を果たした橋本総隊長の日本テレビ登山隊(日中ネパール合同隊)が置いていった酸素ボンベを発見。帰国後橋本の事務所を訪れて酸素ボンベを届けに行ったのがきっかけだという。それ以来親しくなり、野口は橋本を父親のように慕っていたという。
橋本が亡くなる前日の深夜、野口は富士山の清掃登山に向かう途中に胸騒ぎがして橋本が入院している病院へ行き、橋本の親族から危篤状態であることを告げられて愕然としたという。その後野口は富士山に向かったが、橋本が亡くなったのを聞いたのは奇しくも橋本と知り合うきっかけとなった「清掃登山」の最中だったという。また同年正月に野口は橋本から「自分はもう登山は無理だから、これを持って行け。」と橋本愛用のピッケルを渡されたという。
  • 上記のように山をこよなく愛した事から、青山墓地にある一家の墓とは別に、エベレストを望むネパールのタンポチェ村に墓がある。野口はヒマラヤ登山の度にこの墓に参るという。
  • 典型的な厚生族議員としてキャリアを積む。一方で、水俣病患者に対して対応が冷酷・傲岸であるとの批判を浴びたりしたが、厚生族のドンとも言うべき存在になる。
  • 自民党政調会長の就任祝いに対して「何がめでたいものか」と野党の政策責任者に落ちぶれたことをぼやく。
  • 運輸大臣在任中、橋本の似顔絵が描かれたオレンジカードをつくり、希望者(友人らを中心に、一般国民も大臣に手紙を書けば貰えたという)に無料で配布された。
  • 野党時代に小沢の「日本改造計画」に触発されて、「政権奪還論」を著す。
  • 趣味は、剣道登山写真など多彩。特に剣道は政界きっての腕前で、剣道教士六段である。
  • 1996年ペルー日本大使公邸占拠事件の際、外務省の対策本部に木村屋總本店アンパンを大量に差し入れ、「アンパン総理」と揶揄される。
  • 党内の反発が根強い「郵政改革」を唱える小泉純一郎を重用し、後の小泉内閣の改革路線に繋げた。
  • 自民党総裁時代には党本部に「龍ちゃんプリクラ」が設置された。
  • ある時鈴木宗男が橋本に隠れて「あのポマード野郎」と悪口を話していた所、偶然後ろに橋本がいたため鈴木は顔面蒼白になったが、当の本人は「鈴木君、これはムースだよ」と言って快活に笑ったと言う。橋本の人柄を表すエピソードとして鈴木本人がよく語っている。

栄典

死後、正二位大勲位菊花大綬章を追贈(死去した7月1日にさかのぼって贈られる)。

家族・親族

実家
自家
  • 妻 久美子(実業家中村久次長女、社団法人日本・ラテンアメリカ婦人協会会長)
  • 長男 龍〔りょう〕
  • 二男 (政治家)
  • 三女あり
他家

系譜

  • 橋本家:祖父・卯太郎岡山県吉備郡秦村(現・総社市)の農家に生まれ新聞配達をしながら苦学して東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。同郷の馬越恭平日本ビール社長に見込まれ入社する。当時専務だった石光真澄が「妹・真都を嫁に…」と望み二人は馬越の媒酌で結婚した。酵母を扱う技師から常務に出世した卯太郎は8人の子宝に恵まれた『戦後50年・年譜の裏面史 昭和抱擁 -天皇あっての平安-』 112頁。※橋本卯太郎の戸籍謄本によれば卯太郎の父は橋本長吉で卯太郎は橋本源三郎家の養子に入ったと書かれている。
             ┏橋本宇一
             ┃
             ┣橋本宙二
             ┃
             ┣橋本乾三━┳橋本實
             ┃     ┃
             ┃     ┣橋本明
             ┃     ┃
 橋本源三郎━橋本卯太郎━┫     ┗橋本宏
             ┃
             ┣橋本坤四郎
             ┃
             ┃  
             ┣橋本龍伍━┳橋本龍太郎━┳橋本龍
             ┃     ┃      ┃
             ┃     ┗橋本大二郎 ┗橋本岳
             ┃
             ┗橋本虎六━━橋本敬太郎
          橋本卯太郎 
            ┃
            ┣━━━橋本龍伍
            ┃     ┃
          ┏真都     ┃
          ┃       ┃
          ┣石光真清   ┃
     石光真民━┫       ┣━━━橋本龍太郎
          ┣石光真臣   ┃     ┃
          ┃       ┃     ┃
          ┗石光真澄   ┃     ┃
                  ┃     ┃
          大野緑一郎━━━春     ┣━━━橋本岳
                        ┃
                        ┃
           加納久朗━━中村久次   ┃
                  ┃     ┃
                  ┃     ┃
     中村雄次郎━━中村貫之  ┣━━━━久美子
             ┃    ┃
             ┃    ┃
      阪谷芳郎   ┣━━━妙子
        ┃    ┃
        ┃    ┃
        ┣━━━八重子
        ┃
        ┃
 渋沢栄一━━琴子

著書

  • 政権奪還論(講談社、1994年)

脚注

関連人物

関連項目

参考文献

  • 浅川博忠仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』(東洋経済新報社、1995年)
  • 岩見隆夫 『実録・橋本龍太郎』(朝日ソノラマ、1995年)
  • 仮野忠男 長田達治 『橋本龍太郎・全人像』 1996年
  • 俵孝太郎 『日本の政治家 父と子の肖像』(中央公論社、1997年、351-377頁)
  • 奥村茂 『橋本龍太郎孤独な戦い-「剣道総理」の意外な素顔』(並木書房、1998年)
  • 橋本明 『戦後50年・年譜の裏面史 昭和抱擁-天皇あっての平安-』(日本教育新聞社、1998年初版発行、2000年増補版発行、112-114頁)
  • 広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』(光文社、2000年、133、173、191、244、275、283、333頁)

外部リンク

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